カケルさん。
彼は近所の――ちょっと変わったお兄さんだ。
ガラルでは、大きくなると誰もがポケモンを一匹もらって、旅に出るのが普通。
でもカケルさんは違った。
ポケモンを持たない。旅にも出ない。
だからといって、ずっと家にいるわけでもない。
よく森や草むらにふらりと出かけては、何かを見つけてくる。
あるときはキレイな石、あるときは誰も気づかない珍しい実。
そして――ものすごく詳しいポケモンの知識を、ぽつりぽつりと話してくれる。
あのソニアさんですら、びっくりしてたのを覚えてる。
「この人、実は博士志望なんじゃない?」なんて、冗談まじりに言ってたっけ。
でもカケルさんは、首を横にふるだけだった。
――不思議な人。
だから、街ではいろんな噂が流れた。
「ポケモンが嫌いらしいよ」
「昔、相棒を失ったんだって」
「ほら、旅に出ないのもそれが理由かもね」――と。
私は、噂なんて信じなかった。
でも、ある日ふと気づいた。
カケルさんは、ポケモンの話をしているとき――どこか遠くを見ている。
笑っていても、目の奥だけが……少しだけ、曇っていた。
それに気づいてから、私は考えるようになった。
――もしかして、あれは本当なのかもしれない。
大人たちは、カケルさんを“傷ついた人”として見ている。
だから、そっと距離をとるようになった。
でも、私とホップには、いつも優しかった。
不器用だけど、真っ直ぐで――まるで、壊れたオルゴールの音みたいにどこか寂しさを抱えた優しさだった。
私は思う。
あの優しさの奥に、誰かがいたんだろうなって。
その誰かを、大切にしてたんだろうなって。
だからこそ――
心から、願ってしまう。
「カケルさんが、ポケモンを嫌っていませんように」って。
だって、ポケモンって……優しい気持ちを繋げるものだから。
あの人の優しさにも、きっと――届くはずだから。
ある時、私とホップは、ダンデさんからポケモンを貰った。
ワクワクしながら旅立つ準備をして、
ジムチャレンジへの推薦状まで――私たちは、ちゃんと「トレーナー」として認めてもらえた。
でもその頃、カケルさんは――ハロンタウンにいなかった。
相談しようと思ってた。
旅立つ前に、あの人に何か言ってもらいたかった。
「頑張れ」でも「気をつけて」でも、なんでもよかった。
でも……その姿は三日間、どこにもなかった。
そして――三日後。
カケルさんは、戻ってきた。
その肩には、見たことのないポケモンが乗っていた。
白くて、小さくて、鋭くて……でも、どこか寂しげな瞳のヤトウモリ。
「ええ!? カケル兄ちゃんがポケモン!?」
ホップが叫んだとき、私は何も言えなかった。
驚きすぎて、声が出なかった。
――まさか、本当に。
ずっと前から言われてた、あの噂。
「カケルさんはポケモンが嫌いらしい」
でもそれが、違うと分かった瞬間だった。
カケルさんは、ぽつりと言った。
「こいつが、一人でいたから」
その一言で、なんとなく分かってしまった。
ああ――
やっぱり、カケルさんはポケモンを嫌ってなんかいなかったんだ、って。
ただ、あのとき――
私にはどうしても、見逃せなかった。
その言葉のあとに、ふと見せた表情。
一瞬だけ、目の奥が曇ったように見えた。
まるで、何か思い出したみたいに。
まるで、まだ――消えていない痛みがあるみたいに。
私は、少しだけ寂しくなった。
そして、思った。
……カケルさんが、もっと笑える日が来るといいなって。
私もホップも、これから旅に出る。
どんなに離れても――ずっと、見てるから。
だから、いつか。
そのヤトウモリと一緒に、ちゃんと笑える日が来たら――
また、話してほしいな。私たちにも。
そのときは、ちゃんと返せる気がする。
「やっぱり、カケルさんは優しい人だね」って。
◆
誰もいない家、それでも
「……ただいま」
癖みたいなもんだ。返事が返ってくるわけでもないのに、つい、口をついて出る。
ヤトウモリを連れて、俺は自分の部屋へ入った。
空気は少しひんやりしている。誰もいない家の匂い。
それでも――不思議と、寂しくなかった。
「さて、まずは……」
ふと視線を落とすと、ヤトウモリが部屋の中をきょろきょろと見回していた。
警戒というよりは、好奇心。くんくんと鼻を動かしながら、足元をうろついている。
「腹、減ってる?」
問いかけながら、棚から用意していたポケモンフードを取り出す。
この日のために、いろんな種類を用意しておいた。好みが分からないから、手探りだ。
ポケマメのパックを開けて、皿に盛る。ほんのり甘くて、栄養もあるやつ。
「食べていいよ」
床にしゃがんで皿を差し出すと、ヤトウモリはくん、と一度匂いを嗅ぎ、すぐに――ぱく、ぱく、と食べ始めた。
……よかった。
少し、安心した。
見ているだけで、こっちの腹も減ってくる。
冷蔵庫の中をのぞき、手早くサンドイッチをこしらえた。
トマトとチーズ、それからゆでたまごとハムを挟んだ簡単なやつ。
皿に載せてテーブルに運び、椅子に腰を下ろす。
さて、俺も――
と思った矢先、ヤトウモリがぴょいっと膝の上に飛び乗ってきた。
「……お前、まだ食うのか?」
小さな体のくせに、なかなかの食欲だ。
そう言いつつも、サンドイッチの端を少しちぎり、指先でつまんで口元に差し出してみる。
ヤトウモリはちょん、と鼻先を寄せ――ぱく、と一口で食べた。
うまそうに噛んでいる。
目を細めて、尻尾をぴんと伸ばして、また「ちょうだい」とでも言いたげにこっちを見る。
「……かわいいな、お前」
思わず口から漏れた言葉に、自分でも驚く。
言葉が出るって、こんな自然だったっけ。
窓の外では、夕暮れの空にアーマーガアの影が遠ざかっていた。
暖かい部屋の中で、小さな命が、膝の上ですっかりくつろいでいる。
――ああ、本当に。
今日は、いい日だった。
◆
私は、生まれつき“色”が違った。
他の皆が黒に包まれる中、私だけが――白かった。
それが理由だった。
何の罪もなく、生まれたばかりの私を、群れは拒絶した。
仲間たちは、私を“仲間”として見なかった。
オスたちは目もくれず、メスたちは爪を立ててきた。
まだ何の力もない私は、ただ蹴られ、引っかかれ、押しのけられた。
食事をすることすら困難だった。
誰かが残した腐った実。誰も近づかない毒の草。
それでも――生きるため、私はそれを食べた。
夜になれば、森の奥から牙を剥いた者たちが現れた。
私は逃げた。傷を負ってでも、必死で逃げた。
擦りむいた鱗。ひび割れた爪。それでも、私は生き残った。
……けれど、ある日。
私は限界だった。
三日間、何も口にできず。
足は震え、意識も霞み、視界は砂の色と同じだった。
このまま、朽ちていくのだろう――そう思っていた。
そんなとき、あれは現れた。
音もなく、ふいに。
その影は私の前に“何か”を置いた。
――甘い香り。
鼻孔をくすぐるそれは、今まで嗅いだことのない匂いだった。
……罠?
……毒?
でも、私は毒に耐性がある。
それに、もうどうでもよかった。生きることすら、どうでも。
だから私は、それに口をつけた。
一口目。
その瞬間、私の世界は変わった。
……おいしい。
涙が出そうになるのを、私は知らないふりをした。
夢中で食べた。噛んで、飲み込んで、また次を。
その隙に、彼は――ボールを投げた。
抵抗はできなかった。
でも、不思議と、怖くなかった。
ボールの中は、静かで、暖かかった。
あれが、“出会い”だった。
私を拾ったのは、人間の男だった。
無口で、感情の見えにくい人。けれどその目は、優しかった。
“色が違う”私を見て――喜んでくれた。
私は、その時、知った。
世界に“白”を好いてくれる存在がいると。
私は、彼に拾われた。
それは“敗北”ではない。“救い”。
そして、私は彼のポケモンに
相棒に、なれた――。