ローズタワーの屋上からは、ガラルの街並みが遠くまで見渡せた。
陽はすでに傾き始めており、建物の窓や遠くを走る列車が夕日を反射している。明日にはこの地方最大の興行であるチャンピオンカップ、その決勝戦が行われる。街を歩く人々の多くも、今頃はその話題で持ちきりなのだろう。
しかし、ローズの視線は眼下の賑わいではなく、もっと遠い未来へ向けられていた。
「もう百回は話しただろう」
隣に立つダンデへ向けて、ローズは困ったように笑う。
ダンデもまた、この話を初めて聞いたわけではない。
ガラル地方が遠い未来、深刻なエネルギー不足に陥ること。その問題を回避するため、ローズが長い時間をかけて研究を続けてきたことも理解しているつもりだった。
「もちろん、委員長の考えていることは分かっているつもりです」
ダンデはそう前置きしてから、しかし、と続けた。
「それでも、明日に実行することには賛成できません」
ローズの表情から、僅かに笑みが消える。
明日はチャンピオンカップの決勝戦だ。
ガラル地方中の人々が注目し、挑戦者が長い旅の末にようやく辿り着く舞台でもある。
その直前になって、予定されていた試合をすべて投げ出し、ローズの計画へ加わることはできない。
「明日の決勝が終われば、委員長を手伝います」
ダンデは真っ直ぐローズを見る。
「それでは駄目なんです」
返ってきた言葉は、思っていたよりも早かった。
「たった一日ですよ」
「その一日が、取り返しのつかないことになるかもしれない」
ローズはガラルの景色へ目を戻す。
「千年先の危機なのだから、一日くらい待てる。あなたはそう考えているのでしょう」
「違います。問題を軽く見ているつもりはありません」
「ですが、私は今まで何年も、この問題について調べてきました。その上で言っているんです」
穏やかな口調だった。
それでも、その声音には普段のローズにはない焦りが滲んでいる。
ダンデは眉を寄せた。
「何かあったんですか?」
ローズはすぐには答えなかった。
しばらく眼下の街を眺めたあと、小さく息を吐く。
「……まだ噂程度です」
「噂?」
「プラズマ団、という名前に聞き覚えは?」
ダンデの表情が変わった。
「プラズマ団? イッシュ地方で事件を起こした、あの?」
「同一の組織かどうかまでは分かっていません」
ローズは首を横に振る。
「ですが、最近になってマクロコスモスの研究施設や、ねがいぼしに関する情報へ探りを入れている者たちが確認されています。その中で出てきた名前が、プラズマ団でした」
「……目的は?」
「分かりません」
だからこそ不安なのだと、ローズは続ける。
「彼らが単にダイマックスへ興味を持っているだけなら、まだいい。しかし、もし我々が研究しているものの存在に気づいているのだとしたら……」
その先をローズは言わなかった。
ダンデにも、それが何を意味するのかは分かる。
ローズが長年研究を続け、ガラルの未来を救うための鍵としているもの。もしそれを目的の分からない組織に知られ、横から手を出されれば、どんな事態になるか予想もできない。
「だから、明日に?」
「ええ」
ローズはゆっくり頷いた。
「まだこちらが主導権を握っているうちに動きたいのです。何者かが先に手を出してからでは、遅いかもしれない」
その言葉を聞いても、ダンデの答えは変わらなかった。
「それでもです」
「ダンデ」
「明日の決勝は、挑戦者にとって一度しかない舞台です。ガラル中の人たちも楽しみにしている」
ダンデは腕を組み、ローズと向き合う。
「明日の試合が終わったら、俺も必ず協力します。プラズマ団についても、こちらで注意しておきます。もし何か動きがあれば、俺が止めます」
「……あなたなら、そう言うと思っていましたよ」
ローズは困ったような笑みを浮かべた。
「なら、決勝が終わるまで待ってください」
「それでは手遅れになるかもしれないと、私は言っているんです」
「俺は、明日までなら待てると言っています」
二人とも譲らなかった。
ダンデはローズの危機感を理解していないわけではない。
ローズもまた、ダンデがチャンピオンとして決勝戦を大切にしていることを理解している。
それでも、優先するものが違っていた。
ローズにとっては、未来のガラルを守るために一刻も早く行動すること。
ダンデにとっては、今この瞬間を生きる人々との約束を守ること。
どちらも、自分がガラルのために正しいと思っている。
だからこそ話は交わらなかった。
「……分かりました」
先に視線を逸らしたのはローズだった。
「今日はもう、この話は終わりにしましょう」
「委員長」
「ただし、プラズマ団については本当に注意してください。嫌な予感がするんですよ」
「約束します」
ダンデは迷わず頷く。
「何かあれば、すぐに俺が動きます」
「頼もしいですね、チャンピオン」
ローズはいつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
それ以上、二人の間で計画について語られることはなかった。
けれど、ローズの中から焦りが消えたわけでもない。
話が終わったからといって、どちらかが考えを変えたわけではない。ダンデは明日の決勝戦を終えてから協力するつもりであり、ローズもまた、一日待つことへの不安を拭い切れてはいなかった。
結局、二人の話は最後まで平行線のままだった。
そのとき、屋上へ続く扉が勢いよく開いた。
「アニキ!」
聞き慣れた声に、ダンデが振り返る。
飛び込んできたのはホップだった。その後ろにはユウリも続いており、二人ともここまで急いできたのか、少し息を切らしている。
「ホップ? それにユウリも」
「アニキ、何してたんだよ! 時間になっても来ないから、オレ心配したんだぞ!」
ホップはダンデの前まで駆け寄ると、責めるように眉を寄せた。
「ネズさんやマリィ、それにエール団のみんなにも手伝ってもらって、やっとここまで来たんだからな!」
「それは悪かったな、ホップ」
ダンデは申し訳なさそうに笑う。
「少し委員長と話をしていたんだ。思ったより長引いてしまってな」
「少しって……」
ホップはまだ言いたそうだったが、ダンデが無事だと分かって安心したのか、ひとまず胸を撫で下ろした。
一方でユウリは、ダンデではなくローズを見ていた。
「ローズ委員長」
「はい?」
「こんなところで、何を話してたんですか?」
問いかける声には、はっきりと警戒が混じっている。
ローズは少し意外そうに目を瞬かせた。
「おや、どうやら随分と警戒されているようですね」
「だって、ダンデさんが時間になっても来ないし、連絡もつかなかったから」
「ユウリ」
ダンデが窘めるように名前を呼んだが、ローズは気を悪くした様子もなく、むしろ困ったように笑った。
「不安にさせてしまったことについては謝りましょう。ですが、ご心配には及びませんよ」
「本当に?」
「ええ。ダンデとはガラルの未来について少し話をしていただけです。それも、ひとまず今日は終わりにしました」
嘘ではない。
ただ、すべてを話しているわけでもなかった。
ユウリはまだ完全には納得していない様子だったが、隣にいるダンデを見ると、少なくとも何か危険なことをされていたわけではなさそうだった。
「そういうことだ、ユウリ」
ダンデは二人の間に入るように笑う。
「心配させて悪かったな。ホップも、わざわざ探しに来てくれてありがとな」
「ほんとだぞ! 明日は大事な試合なんだから、ちゃんとしてくれよな!」
「ははは、まったくだ」
ダンデは豪快に笑うと、二人の肩へ手を置いた。
「よし! 心配をかけたお詫びだ。今日はホテルでご馳走を食べよう! もちろん俺のおごりだ!」
「ほんとか!?」
ホップの表情が一瞬で明るくなる。
「もちろんだ! 明日に備えて、しっかり食べてしっかり休まないとな!」
「やった!」
単純だな、とユウリは呆れたようにホップを見る。
それでも張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
ダンデは二人を連れて屋上を離れようとしたが、扉へ向かう途中で足を止める。
振り返った先には、ローズがいた。
「ローズ委員長」
「なんでしょう?」
「明日の試合を、ぜひご覧ください」
ダンデは自信に満ちた笑みを浮かべる。
「きっと、ガラルの歴史に残る試合になりますから!」
「……ええ」
ローズは微笑みながら頷いた。
「楽しみにしていますよ、チャンピオン」
「それじゃあ行くぞ、二人とも!」
「おう!」
「はい」
三人が部屋を後にする。
閉じた扉の向こうから、まだホップの楽しそうな声が微かに聞こえていた。
一人残されたローズは、しばらく何も言わずにその扉を眺めていた。
やがて再び、眼下に広がるガラルの街へ視線を向ける。
「ガラルの歴史に残る、ですか……」
先ほどまで浮かべていた柔らかな笑みは、もうない。
「甘いですね、チャンピオン」
明日の試合。
人々の期待。
たしかに、それも大切なのだろう。
だが、その一日を待った結果、取り返しのつかないことになったら誰が責任を取るというのか。
未来の危機を前にして、それでも今日と明日の予定を優先する。
ローズには、どうしてもそれが理解できなかった。
まして今は、プラズマ団という正体の知れない組織まで動き始めている。
何者かに先を越される可能性がある以上、悠長に構えている時間などない。
「やはり……」
ローズは静かに呟く。
「ガラルを救えるのは、私しかいないのでしょうね」
夕暮れの街を見下ろしながら、その目にはすでに決意の色が宿っていた。
どれくらい歩いただろう。
朝からラヴィと二人、草むらという草むらを覗き、見つけたポケモンを片っ端から確認していたけれど、結局今日も色違いには出会えなかった。
ヨロイ島に来れば見たことのないポケモンがたくさんいるし、その中に一匹くらい簡単に混ざっているのではないかと期待していたのだが、どうやらそんな都合のいい話はないらしい。
「……疲れた」
「ニュート……」
隣を歩いていたラヴィも同じ気持ちだったのか、いつもより少し力のない声で返事をした。
ちょうど目の前には広い原っぱが広がっている。天気もいいし、人の姿もない。
休憩するか。
そう決めた俺は草の上へそのまま倒れ込んだ。
「あー……気持ちいい」
柔らかい草が背中を受け止めてくれる。
空を見上げれば雲がゆっくり流れていて、風もほどよく涼しい。さっきまで次の草むら、次の草むらと歩き回っていたのが馬鹿らしくなるくらい気持ちよかった。
ラヴィも俺の隣まで来ると、そのまま身体を横たえる。
「今日はもう終わりでもいいかもな」
「ニュート」
「明日また探せばいいし」
「ニュート」
たぶん賛成している。
俺は横を向き、ラヴィの頭を軽く撫でた。
最近はこうして触っても特に嫌がらなくなった。それどころか、手を止めると少しだけ頭を寄せてくることすらある。
「もうちょっと?」
「ニュ」
「しょうがないな」
ラヴィが気持ちよさそうに目を細めるのを眺めながら、このまま昼寝してしまおうかと考えていた、そのときだった。
「おやおや?」
すぐ近くから声がした。
「こんなところでお昼寝とは、気持ちよさそうだねぇ」
誰だろう。
寝転んだまま顔だけを声の方へ向けると、一人の老人がこちらを覗き込んでいた。
白い髪に髭、丸いサングラス。
どこかのんびりした雰囲気を纏っていて、見覚えがある。
というより。
「あ、マスタード」
口から出た。
「お?」
思わず名前を呼んでしまった。
マスタードは少しだけ目を丸くしたあと、すぐに楽しそうな笑顔を浮かべた。
「ワシちゃんのこと知ってるんだねぇ」
「……うん」
まあ、有名人だから知っていても不自然ではないだろう。
元チャンピオンだし。
「君のお名前は?」
「カケル」
それから隣で寝転んでいるラヴィを指差す。
「ラヴィ」
「ニュート」
「ほほう。ラヴィちゃんねぇ」
マスタードは俺たちのそばへしゃがみ込むと、躊躇することなくラヴィの頭へ手を伸ばした。
知らない人に触られるのを嫌がるかと思ったけれど、ラヴィは逃げなかった。
マスタードの手が頭から首筋へと移り、身体を確かめるように優しく撫でていく。
「うんうん、いい身体してるねぇ。ちゃんと鍛えられてる」
「……そう?」
「そうそう。足腰もしっかりしてるし、動きもいい。大事に育ててもらってるのが分かるよん」
褒められた。
なんだか俺まで少し嬉しい。
ラヴィも気分がいいのか、尻尾をゆらゆら動かしている。
けれど、マスタードの手が止まった。
「でも」
さっきまでの軽い声が消える。
サングラスの奥から、ラヴィを真っ直ぐ見つめていた。
「牙が抜かれてるね」
「……?」
牙?
ラヴィにはちゃんと牙があるけど。
「惜しいなぁ」
呟くように言う。
今度は俺を見る。
さっきまでと同じ老人の顔なのに、その瞬間だけ空気が変わったような気がした。
「この子、もっと強いよ。」
俺は何も答えられなかった。
ラヴィが弱いと思ったことはない。
色違いのヤトウモリだった頃から一緒にいて、進化してからはさらに強くなった。それくらい俺にだって分かる。
ただ――。
「ま、いっか!」
突然、マスタードの声が元に戻った。
「カケルちん!」
「……ちん?」
「ワシちゃんとバトルしない?」
嫌だ。
今は完全に休憩モードだった。
ラヴィと一緒に寝転がって、もう少しゴロゴロしていたい。
「興味ないね」
「おお、即答!」
マスタードは楽しそうに笑う。
「ワシちゃん、けっこう強いよん?」
「今はいい」
「そっかそっかぁ」
諦めてくれたらしい。
よかった。俺はもう一度仰向けになる。
「それじゃあ――」
マスタードの声が続いた。
「コジョンド!」
何かが飛び出す音。
嫌な予感がした。
顔を上げる。
マスタードの前には、細身のポケモンが立っていた。
コジョンド。
長い腕をゆったりと垂らしながら、こちらを見ている。
なんで出したの。
「とびひざげり!」
「……?」
コジョンドが振り返った。
マスタードを見る。
それから寝転んでいる俺とラヴィを見る。
もう一度マスタードを見る。
本当に?という顔をしていた。
「いいのいいの、やっちゃって!」
よくないでしょ。
「ジョ……」
コジョンドは困ったように眉を下げたものの、トレーナーの指示には逆らえないらしい。
腰を落とす。
その瞬間、背筋に嫌なものが走った。
「ラヴィ!」
「ニュ!?」
咄嗟に身体を起こし、ラヴィを抱えるようにしてその場から転がる。
「ジョオオオッ!」
さっきまで俺が寝転んでいた場所へ、コジョンドの膝が突き刺さった。
鈍い音とともに地面が大きく抉れる。
「…………」
当たってたらどうなってたの。
考えたくもない。
そして攻撃を外したコジョンドは、その勢いのまま地面へ膝を強く打ちつけた。
「ジョッ!?」
痛そうな声を上げ、その場にしゃがみ込む。
涙目になりながら膝を押さえていた。
「…………」
かわいそう…。いや、違う。
そもそも誰のせいだ。
マスタードを見る。
「おっ」
俺が睨んでいることに気づいたらしい。
マスタードは嬉しそうに笑った。
「いい顔するじゃん」
文句を言いたかった。
いきなり何するんだとか、本当に当たったらどうするつもりだったんだとか、そもそもバトルしないって言っただろとか、言いたいことはいくらでもあった。
でも、言葉が出ない。
さっきまで普通に話していたはずなのに、感情が大きく動いた途端、頭の中にある言葉がまた喉のところで絡まった。
「……ラヴィ」
結局、出てきたのは名前だけだった。
「お願い」
「ニュート」
それだけで十分だったらしい。
ラヴィは俺の腕から離れると、ゆっくりマスタードの前へ歩いていった。
さっきまで寝転がっていたときの緩んだ雰囲気はもうない。
尻尾を持ち上げ、マスタードとコジョンドを真っ直ぐ見据える。
「おお?」
マスタードが嬉しそうに口元を緩めた。
「やる気になったみたいね?」
コジョンドもようやく膝の痛みが引いたらしく立ち上がり、目尻に残った涙を手の甲で拭ってから構えを取った。
「ジョンド!」
「ニュート!」
二匹の視線がぶつかる。
「ラヴィ」
もう一度名前を呼ぶ。
こちらを振り返ったラヴィと目が合う。
「……やろう」
「ニュート!」
ラヴィは嬉しそうに笑った。
その表情を見て、ほんの少しだけ胸の奥が引っかかった。
けれど、その正体を考えるより先に、マスタードが両手を叩く。
「それじゃあ、始めよっか!」
さっきまで俺たちが寝転がっていた静かな原っぱに、楽しそうな声が響いた。