冷たい雨が降っていた。
空は分厚い雲に覆われ、昼間だというのに薄暗い。足元の地面はぬかるみ、濡れた草が服へ張りついてくる。それでもそんなことを気にしている余裕はなかった。
「イーブイ……」
腕の中で、小さな身体がぐったりとしている。
返事はない。
いつもなら名前を呼べばすぐに耳をぴくりと動かして、甘えるように鳴いてくれるのに、今はどれだけ揺すっても何の反応も返ってこなかった。
「ねえ、起きてよ」
雨で濡れた毛並みに触れる。
冷たい。
嫌な予感が胸の奥へじわじわと広がっていくのに、それを認めたくなくて、俺は何度もイーブイの身体を揺すった。
「冗談だよね?」
笑ってくれればよかった。
いつもの悪戯だよ、そういう顔をしてくれれば、それでよかった。
「ねえ……起きてよ」
少し前の光景が頭の中で何度も繰り返される。
空が光った。
耳をつんざくような轟音が響いた。
気づいたときには、イーブイが俺へ飛びついていた。
そして、次の瞬間――。
「なんで……」
自分を庇ったのだと、理解するのに時間はかからなかった。
雷に打たれそうになったのは俺の方だった。
イーブイが割って入らなければ、あそこで倒れていたのはきっと俺だ。
どうして。どうして庇ったんだ。
「こんなの、やだよ……」
声が震える。
この世界へ来てからずっと、どこかで現実感が薄かった。
ポケモンがいて、イーブイと一緒に笑って、まるでゲームの中へ入ったみたいだと思っていた。嫌なことがあっても、そのうち何とかなるんじゃないか、そんな甘い考えを、心のどこかでまだ持っていたのかもしれない。
でも、違った。ここは現実だ。
ポケモンは本当に生きていて、本当に傷ついて、本当に死ぬ。
そして一度失われた命は、もう戻ってこない。
「ごめん……ごめんね……」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
守れなかったことかもしれない。
庇わせてしまったことかもしれない。
ただ、謝ることしかできなかった。
雨は止まない。
視界が滲むのが雨のせいなのか涙のせいなのかも、もう分からなかった。
はっとして目を開ける。
硬い座席の感触が背中にあった。
「……ぁ」
呼吸が浅い。胸の奥が痛む。
窓の外には灰色の空が広がっていて、その向こうをアーマーガアが力強く羽ばたいている。揺れる客車の中で、少し遅れて自分がガラルタクシーに乗っていたことを思い出した。
「夢……」
久しぶりだった。
最近は見ていなかったのに、どうして今になって思い出したんだろう。
頬に触れると、指先が濡れた。
自然と流れていた涙を、慌てて拭う。
「……はぁ」
「ニュート」
向かいにいたラヴィが、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
起こしてしまったらしい。
「ごめん、なんでもないよ」
そう言ってみても、たぶん誤魔化せてはいない。ラヴィはしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて何も言わずに身体を寄せてきた。
その温かさに少しだけ救われる。
けれど、ずっとそうしているわけにもいかなかった。
窓の外を見ると、遠くにナックルシティの影が見えている。その上空には赤黒い雲のようなものが渦巻き、街全体を飲み込むように広がっていた。
「……ほんとに大変なことになってるな」
ホップのメッセージは大げさでも何でもなかったらしい。
しばらくしてガラルタクシーは高度を落とし、街から少し離れた場所へ降りていく。扉が開くと、ドライバーが申し訳なさそうに振り返った。
「悪いけど、ここまでだよ。これ以上は近づけない」
「うん、まあ仕方ないよね」
あの空の様子を見れば納得しかない。むしろ、ここまで連れてきてくれただけでも十分ありがたかった。
客車を降り、アーマーガアを見上げる。
「ここまでありがとう」
「ガァ」
アーマーガアが短く鳴く。
ドライバーも軽く手を振ってくれた。
「気をつけなよ、坊や」
「はい」
タクシーが再び浮かび上がり、そのまま来た方角へ飛び去っていく。
残された俺はラヴィと並んで、禍々しい雰囲気を放つナックルシティを見上げた。
「さて」
ここからは自力で向かうしかない。
「行くぞ、ラヴィ」
一歩踏み出した、そのときだった。
「K様」
背後から声がかかる。
振り返ると、黒ずくめの男が一人、いつの間にかそこに立っていた。
ダークトリニティごっこの人だ。
「こちらへ」
「お」
ちょうどいいところに来てくれた。
どうやって上まで行こうか少し困っていたところだったのだ。
「連れていってくれるの?」
男は無言のまま頭を下げる。
「助かる」
ラッキーだなと思いながら近づく。
すると次の瞬間、視界が白い煙に包まれた。
「うわ」
思わず目を閉じる。
ほんの一瞬、足元がふわりと浮いたような感覚がした。
やがて煙が晴れ、恐る恐る目を開く。
「……え?」
風が強い。
さっきまで地面に立っていたはずなのに、今いる場所は高い建物の屋上のようだった。しかも屋上というより、ほとんど空の上だ。少し離れた場所には見覚えのある姿がいくつもある。
ユウリにホップそれにダンデさん
さらに、どういうわけかリラまでいた。
「リラさんも?」
なんでだ。
意味が分からない。
けれど、それ以上に目を奪われるものが目の前にあった。
巨大な異形のポケモン。
空を覆うような赤黒いエネルギーを纏い、まるで世界そのものへ爪を立てているみたいに不気味な姿を晒している。
「ムゲンダイナ……」
ゲームで見た姿と同じだ。
いや、同じはずなのに、実物は比べものにならないほど禍々しい。あんなものが目の前にいたら、普通ならもっと恐怖を感じるはずだった。
なのに。
「……え?」
違和感に気づいた瞬間、心臓が跳ねた。
目を凝らす。
見間違いじゃないかと思って、もう一度見る。
それでも、やっぱり同じだった。
「うそ……」
色が違う。
ゲームで知っているムゲンダイナより、微妙に色味が違って見える。最初は空を覆う赤黒いエネルギーのせいかと思った。けれど違う。あれは光の加減なんかじゃない。
「いや……」
そんなはずない。
ゲームじゃあり得ないだろ。
ムゲンダイナの色違いなんて、たしか通常プレイでは――。
そこまで考えて、はっとする。
ゲームじゃあり得ない。
でも。
「ここ、ゲームじゃないもんな……」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
目の前にいるのは、間違いなく色違いのムゲンダイナだった。
胸がうるさい。
ラヴィと出会ってから、どれだけ草むらを探しても、新しい色違いはそう簡単には見つからなかった。ヨロイ島でも、ずっと探し回ったのに出会えなかった。
それが今、目の前にいる。
しかも伝説のポケモンで、ムゲンダイナで、色違い。
「やばい」
自然と足が前へ出た。
頭の中が一気に熱くなる。
怖いとか危ないとか、そんなものは全部吹き飛んでいた。
色違いだ。
あのムゲンダイナ、色違いなんだ。
「カケルさん!?」
誰かが何かを言っている。
たぶんユウリだ。
でも頭に入ってこない。
「おい、カケル兄ちゃん!」
今度はホップの声かもしれない。
それでも止まれない。
どんどん近づいていく。
目の前には色違いのムゲンダイナしか見えていなかった。
ラヴィが心配そうに後ろからついてくる気配がする。それすら今は遠い。
あと少し。もう少し近くで見たい。
そう思った瞬間だった。
目の前が、急に真っ暗になった。
ムゲンダイナは、もうほとんど力を残していないように見えた。
ザシアンとザマゼンタ、リザードン、インテレオン、バイウールー、そしてリラのエンテイ。次々と攻撃を受けたその巨体は大きく揺らぎ、先ほどまで周囲を圧倒していた禍々しいエネルギーも目に見えて弱まっている。
「あとは捕まえるだけだ!」
ダンデの声に、ユウリが頷く。
ここまで来れば終わる。
ムゲンダイナを捕獲できれば、ブラックナイトも止められる。プラズマ団の目的だって潰せるはずだ。
そう思った、そのときだった。
突然、少し離れた場所で白い煙が弾けた。
「え?」
誰もがそちらを見る。
煙の向こうから、二つの影が姿を現した。
一人の少年と、その隣に立つ白いエンニュート。
「……カケルさん?」
ユウリは一瞬、自分が見間違えたのかと思った。
ずっと探していた。
何度連絡しても返事がなく、何処へ行ったのかも分からなかった人物が、何の前触れもなく目の前に現れたのだ。
「カケル兄ちゃん!?」
ホップも目を見開く。
「なんでここにいるんだ!?」
「カケルさん!」
ユウリが呼ぶが、返事はない。
カケルはこちらを見てすらいなかった。
その視線は、ただ一点。
ムゲンダイナだけに向けられている。
「……え?」
何かを呟いた。
風に掻き消され、ユウリには聞き取れなかった。
けれど、その表情だけは見えた。
驚いている。
いや、それだけではない。
何か、とても珍しいものを見つけた子供のように目を輝かせていた。
「カケルさん、危ない!」
ムゲンダイナは弱っているとはいえ、まだ完全に動けなくなったわけではない。
それなのにカケルは、一歩、また一歩と近づいていく。
「おい! 止まれって!」
ホップも叫ぶ。
それでも止まらない。
まるで周囲の声など何も聞こえていないようだった。
「カケルさん!」
ユウリが駆け出す。
だが、その瞬間。
ムゲンダイナの身体から突風のようなエネルギーが放たれた。
「きゃっ!」
咄嗟に腕で顔を覆う。
足が止まった。
ザシアンがユウリの前へ立ち、風圧を受け止める。
「ザシアン……!」
顔を上げたときには、カケルはさらにムゲンダイナへ近づいていた。
「駄目!」
その足元で、空間が歪んだ。
「……なに?」
最初は小さな亀裂だった。
しかし、それは瞬く間に広がり、やがてカケルの目の前に巨大な黒い穴を形成する。
光すら吸い込んでしまいそうな、底の見えない空間。
「カケルさん!」
ユウリがもう一度走る。けれど間に合わない。
カケルの身体が黒い穴へ飲み込まれ、その姿が一瞬で消えた。
「カケル兄ちゃん!?」
ホップが叫ぶ。
その直前、ムゲンダイナが大きく身体を震わせる。
「まずい!」
ダンデが声を上げる。
弱り切っていたはずのムゲンダイナが、残った力を振り絞るように身体を捩り、そのまま巨大な穴へ向かって動き出した。
「逃げる気か!?」
リザードンが追おうとする。
しかしムゲンダイナの方が僅かに早い。
赤い身体が空間の亀裂へ滑り込み、その巨体が黒い穴の奥へ消えていく。
あとには、歪んだ空間だけが残された。
「……消えちゃったぞ」
ホップが呆然と呟く。
「カケル兄ちゃんも、ムゲンダイナも……」
「ムゲンダイナは逃げたのか……?」
ダンデは悔しそうに拳を握った。
あと一歩だった。
捕獲まで、本当にあと少しだったというのに。
一方、リラは二人とは違い、残された穴をじっと見つめていた。
「これは……」
「リラさん?」
「ウルトラホール……ではありませんね」
リラは慎重に近づく。
空間の揺らぎを観察しながら、僅かに眉を寄せた。
「似てはいます。ただ、性質が違う。ウルトラホールよりも不安定で、それに……このエネルギーは」
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「どうやら、間に合わなかったようですね」
「ローズ委員長!」
振り返ると、ローズが歩いてきていた。
服には所々傷がつき、先ほどまで戦っていたことが一目で分かる。
「プラズマ団は!?どうなったんだ?」
「まあ……引き分けですよ」
ローズは肩を竦めた。
「完全に止めることはできませんでしたが、こちらも十分時間は稼げました。もっとも――」
その視線が黒い穴へ移る。
「向こうにとっても、そうだったようですね」
「ローズ委員長、これが何か分かるんですか?」
ユウリが尋ねる。
ローズは穴の前まで歩き、少しの間その内部を観察した。
「ムゲンホール」
「ムゲン……ホール?」
「研究上、その存在だけは確認されていました」
ローズは静かに説明を続ける。
「無限エネルギーが一定以上の密度で集まった際、通常の空間とは異なる場所へ繋がる可能性がある。その仮説から、我々はこうした空間をムゲンホールと呼んでいました」
「じゃあ、この先には……」
「分かりません」
ローズは首を横に振る。
「異次元空間、と表現するのがもっとも近いでしょう。現実のどこかへ繋がっているのか、それとも完全に独立した空間なのか。それすら確かめられてはいません」
ップが穴を見る。
「そんなところにカケル兄ちゃん入っちゃったぞ……」
「正確には、入ったというより飲み込まれたように見えましたね」
リラの言葉に、ユウリが振り返る。
「リラさん?」
「先ほどのカケルさんです」
リラは険しい表情をしていた。
「様子がおかしかった」
「……」
「私たちの声にまったく反応していませんでした。それどころか、危険な状態のムゲンダイナへ自分から近づいていた」
ユウリの胸がざわつく。
「まるで……魅了されていたように見えました」
「そんな!」
反射的に声が出た。
リラがユウリを見る。
「カケルさんがムゲンダイナに操られてたっていうんですか?」
「断定はしていません。ただ、可能性としては考えるべきでしょう」
あれほど呼びかけても返事がなかった。
確かに、いつものカケルとは違って見えた。
それでも。
「だったら、なおさら助けに行かないと!」
ユウリはムゲンホールへ向き直る。
「ムゲンダイナも捕まえないといけない。でも、カケルさんも中にいるんです!」
「ユウリの言う通りだ」
ダンデが並ぶ。その顔には、すでに迷いがなかった。
「どっちにしろやることは同じだ。こいつを追いかけて、ムゲンダイナを捕まえる。それでカケルも助ける!」
「アニキ、俺も――」
ホップが前へ出ようとした。
しかし。
「そう簡単にはいきませんよ」
聞き覚えのある声が響く。
一同が振り返る。
そこには、ゲーチスが立っていた。
「……まだいたんですか」
ローズが露骨に嫌そうな顔をする。
ゲーチスの姿は、先ほどとは比べものにならないほど傷ついていた。服は裂け、片膝を引きずるように歩いている。それでも目だけは死んでおらず、ムゲンホールの前へ立ちはだかった。その後ろには、プラズマ団の団員たち
「ここは通しません」
「ずいぶんとしつこいですね」
ローズがため息を吐く。
「もう立っているのもやっとでしょうに」
「黙れ……!」
ゲーチスはローズを睨みつけた。
「ムゲンダイナは必要なのです。私の野望のために……!」
「まだそんなことを言っているんですか」
「黙れと言っている!」
ゲーチスはボールへ手を伸ばそうとする。
だが、そこで僅かに手が止まった。
先ほどの戦いで、手持ちはすでに戦える状態ではない。
代わりに腕を上げる。
「ダークトリニティ!」
三つの影が前へ出た。
それぞれがボールを投げ、ポケモンたちを展開していく。
「なるほど。本人はもう戦えないというわけですか」
「ローズ!」
「はいはい。元気ですね」
ローズも再びダイオウドウのボールを握る。
その隣ではダンデがリザードンを、ホップがバイウールーを構えた。
リラもエンテイの横へ並ぶ。
「ユウリ!」
ダンデが叫ぶ。
「ここは俺たちに任せろ!」
「でも!」
「今度こそ逃がすな!」
リザードンがプラズマ団のポケモンの前へ立ちはだかる。
「ムゲンダイナを捕まえて、カケルを連れ戻してこい!」
「ユウリさん」
リラも振り返らずに続ける。
「この場は私たちで抑えます。今ならまだムゲンホールも安定している。閉じる前に」
ホップが歯を食いしばる。
本当は自分も行きたい。
それでも、プラズマ団をこのままにしておけば、後ろから追ってくるかもしれない。
「ユウリ!」
ホップはザマゼンタを見る。
そして、頷いた。
「アニキと俺たちに任せろ! だからカケル兄ちゃんを頼んだ!」
ザマゼンタがユウリの隣へ歩み出る。
ザシアンもまた、ムゲンホールを見据えていた。
「ザシアン……ザマゼンタ……」
二匹とも、一緒に行くつもりらしい。
背後でポケモンたちの技がぶつかり合った。
もう時間はない。
ユウリは一度だけ振り返る。
ダンデが笑った。
「行ってこい、ユウリ!」
「はい!」
ユウリは前を向く。
ザシアンとザマゼンタが左右に並ぶ。
その先には、何が待っているのかも分からない暗闇。
それでも迷わなかった。
「カケルさん……今行くから」
三つの影が、ムゲンホールの中へ飛び込んだ。