「カケルさん!バトルしよう!」
その声で、まぶたが微かに揺れた。
まだ早朝。朝露の残る芝生の上で、俺はヤトウモリと共に寝転がっていた。
んあ……?
まどろみの中で顔を上げると、
目の前には、目を輝かせたユウリが立っていた。
「ねえ、バトルしよう!」
……元気だな、主人公。
どこぞの決闘者か?
「うーん」
寝起きのまま声を漏らし、体を起こす。
膝の上で目を細めているヤトウモリが、欠伸のように口を開けた。
バトル、か。
だが――ユウリは“主人公”だ。
この世界の流れが、彼女に勝たせるようにできているのは、転生者の俺にはわかる。
そして、俺の手持ちは色違いのヤトウモリ一匹。まだ進化もしていない。
……無駄じゃない?
今、戦ったところで何も得られない。
「また今度ね」
それでも、伝え方には気をつけた。
きっぱり断るより、優しく、余白を残すように。
ユウリは、少し不満そうに唇をとがらせたが、
やがて、俺の隣にちょこんと腰を下ろした。
「……」
芝生が少しだけしなる。
二人の間には、柔らかな沈黙が流れる。
お、こういう時は――
俺はポーチの中から、ひとつの小袋を取り出した。
「これ、ユウリのポケモンにあげて」
袋には、昨日ヤトウモリ用に焼いたばかりのポケマメ。
優しい甘さの木の実と、少しだけ混ぜたミントの香りがする。
旅立ち前にアイテムをくれる“NPC”。
そういうポジションも悪くない。
ユウリは驚いた顔をしたあと、ぱっと笑顔になった。
「……ありがとう、カケルさん」
その笑顔に、俺は少しだけ目を伏せる。
そして今日。
ユウリとホップは、推薦状を手にジムチャレンジの旅へと出発する。
ガラルの島々を巡り、仲間と出会い、戦い、強くなっていく。
――ああ、主人公たちの物語が、動き始めるんだな。
「そういえば、カケルさんはジムチャレンジの旅……しないの?」
ユウリの問いかけに、俺は空を見上げた。
流れる雲。遠くに飛ぶアーマーガアの影。
そうだなぁ。してもいいけど――
その気にならない。
バトルと同じ、この世界は“物語”だ。
主人公が勝つようにできている。努力や情熱は、そこに補正がかかる。
俺はその傍観者でしかない。
転生者である自分には、それが見えてしまう。
だから、頑張ろうって気が起きないんだ。
「……」
何も答えない俺に、ユウリは一歩、近づいてくる。
手をぎゅっと握る仕草が視界に入った。
「あの、よかったら……私と――」
その言葉が言い切られる前に。
「おーい!ユウリー!カケル兄ちゃーん!」
元気いっぱいの声が、風を割って響いてきた。
振り返れば、ホップが両手を振って駆けてくる。
「博士がさー、出発前に顔出しなさいって!」
――ああ。あったな、そんなイベント。
ゲーム内でそんな進行フラグがあったような、なかったような……正直もう覚えてない。
そして、ホップの視線が俺の肩に移る。
「わ! もう仲良しになってない!? カケル兄ちゃん、流石だぞ!」
お、いただきました。“流石だぞ”。
そういうの、助かる。
でも――
「ほら、二人とも。行くぞ」
俺は軽く笑って、二人の背を軽く押す。
ユウリは言葉を飲み込んだまま、でも笑顔でうなずいた。
三人並んで歩くその道は、今のところまっすぐだ。
だが、彼女たちの物語が“主役”の旅路だとしたら――
俺の役割はあくまで、“道しるべ”の一つにすぎない。
俺は“できる兄貴分NPC”。
そんな自覚くらいは、もう持ってる。
肩の上のヤトウモリが、小さく尻尾を揺らした。
◇
朝焼けの光が、草原を柔らかく染めていた。
空気はひんやりと澄み、どこまでも続く草の海が、風に揺れて波のようにうねる。
ポケモン研究所の前――
ユウリとホップが並んで立っていた。
ユウリの緑のベレー帽が、そよ風に揺れ、
ホップのボアジャケットの裾がふわりとはためく。
「よーし、準備万端っと!」
「兄貴に負けないくらい、強くなるぞーっ!」
ホップが拳を突き上げ、ユウリが笑顔でそれに応える。
足元では、ヒバニーとメッソンが元気よく跳ね回っていた。
――青春してるなぁ。と、少し思う。
「じゃあ、行ってくるね。カケルさん」
俺は研究所の塀に、背を預けるようにもたれていた。
肩には、プレミアムボールから出した白いヤトウモリがちょこんと乗っている。
ユウリのメッソンをじっと見つめて、尾をぴくりと動かした。
「……うん」
それだけ返すと、ユウリは一瞬だけ表情を曇らせた。
「ほんとに来ないの? せっかくポケモンゲットしたのに」
「興味ないね」
――どこぞのソルジャーかってくらい、そっけない返答だ。
でも、そう言うしかないんだ。
ホップがそれを察してか、苦笑しながら言った。
「カケル兄ちゃんは、あれだもんな。“旅の目的が違う”ってやつだ」
ああ。そう。
俺の目的は、強くなることじゃない。
誰かに勝つことでも、名を刻むことでもない。
――ただ、“出会う”ためだ。
運命のように現れる、たった一匹の光と。
その確率は、4096分の1。
夢みたいな話だろう。でも俺にとっては、それだけが本当なんだ。
「次に会う時は、俺、チャンピオンになってるかもな!」
ホップが胸を張って言う。
その声は、希望に満ちていた。
「……頑張れ」
静かにそう返すと、ホップは駆け出した。
ユウリも、数歩遅れてその後を追う。
けれど、草むらへ入る寸前――彼女は、ふと立ち止まり振り返った。
「バトル、また今度しようね?」
その笑顔は、少しだけ寂しげだった。
「……考えとく」
心のどこかが、少しだけ揺れる。
でも、俺は追わない。
ユウリが見えなくなったあと、
俺は肩の上のヤトウモリの頭を、そっと撫でた。
「さて、行こうか」
ヤトウモリは喉を小さく鳴らし、誇らしげに胸を張る。
まるで、「この旅は私たちのもの」と言わんばかりに。
俺たちは、二人とは逆の方向へと歩き出す。
目指すのは、バッジでも名声でもない。
ただ、“光る出会い”との偶然。
――色違いを探す旅は、ここから始まる。
◇
出発の準備はできた。
だけど、まだ“本番”とは言えない。
――この日のために、少しずつ集めておいたアイテムがある。
部屋の棚を開ける。
ガラス瓶のラベルがずらりと並ぶその光景に、思わずにんまりした。
インドメタシン×26本。
リゾチウム×26本。
ブロムヘキシン×1本。
「……高かったんだぞ、ほんと」
俺の財布がすっからかんになった理由、それがこれだ。
どれも“色違い”の育成のために必要な、命より重い栄養ドリンクたち。
でも――
「これ一気に飲ませるの? 無理じゃない?」
我に返る。いくらなんでも胃袋が死ぬ。
仕方ない、分けて与えよう。
まずはインドメタシンからだ。
白いヤトウモリは、テーブルの上にちょこんと座って俺を見ている。
目が合うと、しっぽをぴこぴこと動かした。
その頭をぽんと撫で、インドメタシンの一本の蓋を開けて、皿に注ぐ。
無色透明の液体が、淡い香りとともに広がる。
「飲んでみて?」
ヤトウモリは皿の縁に顔を寄せ、不思議そうに中身を見つめる。
「……これ、飲んでいいの?」
そんな顔だ。
だが――
一口、ごく。
二口、ごくごく。
三口、ごくごくごく。
……勢いよく飲み干した。
え、いけるの!? 味、平気なん!?
俺が驚く横で、ヤトウモリは涼しい顔。
「おかわりは?」とでも言いたげに、尻尾をくねらせている。
――強い。色違い個体、強い。
これは将来有望。
ただ、今はまだ育成段階。
努力値がズレたら台無しだ。
「しばらくバトル禁止、努力値事故るから」
ヤトウモリは、ぽかんとした顔でこちらを見る。
「努力値ってなに?」みたいな顔。いや、そりゃ知らんか。
「あっ、そうだ」
思い出したように、棚の奥からもう一つ取り出す。
かじられた跡の残る、古びた赤いリンゴ――
“たべのこし”。
正真正銘のレアアイテム。何気に、これが一番苦労した。
「ほら、これもプレゼント」
そう言って差し出すと、ヤトウモリは嬉しそうに目を細め――
――がぶっ。
「あっ、食べちゃダメ」
慌てて止める。
「なんでよ!?」とばかりに驚いた顔で俺を見上げるヤトウモリ。
「持ってるだけで効果あるから」
ヤトウモリは口をもぐもぐさせながら、首を傾げる。
“食べものなのに食べちゃダメ”…という矛盾に納得がいかないらしい。
それでも、大人しくそれを咥えて、大事そうに自分の前足で抱えた。
……なんか、可愛すぎるな。
「うん、よしよし。お利口さん」
撫でると、ヤトウモリは小さく喉を鳴らした。