マサラタウン。
カントー地方の南端に位置する、小さな、小さな町。
ただ空が広く、風が穏やかで、人の気配も少ない──それだけの場所。
国際警察所属の私、リラは──
その土を踏みしめながら、ゆるやかに深呼吸をした。
警戒は解かないまでも、どこか、張り詰めた感覚が薄らいでいるのが分かる。
……妙ね。
異世界の侵食を追い続けてきた私が、“何も起こらない”ことに安堵しているなんて。
カントー地方に来てから、すでに四日。
本部が検知したウルトラホール由来のエネルギーは、確かにこの地に集中していた。
それも約二十年前。
以来、カントーでは一度たりともウルトラビーストの兆候は現れていない。
私が“餌”として赴いても──反応は、ゼロ。
「……まるで、何もかも終わった後みたい」
私は呟きながら、舗装されていない細道を歩いていた。
ふと、視界の端に白いものが見える。
それは──墓だった。
古びた小さな十字の標。周囲には野花が手向けられ、綺麗に整えられている。
誰かが、今も手入れしているのだろう。
私は足を止め、しゃがみ込んだ。
墓標にはこう刻まれていた。
“ここに眠る はじめての ともだち”
ポケモンのお墓……。
それも──きっと、誰かにとって特別だった存在。
その瞬間。
背後から、土を踏む音が近づいてきた。
私は振り向かず、足音に耳を澄ます。
「……もう、八年じゃの」
聞き覚えのある声だった。
初老の男性の低く穏やかな声。
振り返ると、そこにいたのは──オーキド博士。
白衣の裾を風に揺らしながら、彼はゆっくりと墓前に歩み寄る。
手にした小さな花束を、墓にそっと手向けると、わずかに目を閉じた。
静かな祈りの仕草。
その間、私は一歩下がり、黙してそれを見守った。
やがて、博士はこちらに顔を向ける。
その瞳には懐かしさと、少しの戸惑いがあった。
「……わしになにか用かね?」
──私は深く頷く。
この町に、何があったのか。
そして、なぜ“何もない”のか。
答えは、この男の記憶に眠っている。
研究所の中は、懐かしさを覚える古き良き造りだった。
木の机に整頓された書類、壁に掛けられたポケモンの図鑑写真。
時がゆっくりと流れているような空間だった。
私は、差し出された湯呑を両手で受け取った。
湯気の立つ緑茶の香りが、鼻腔をくすぐる。
「なるほど、ウルトラビースト……話には聞いたことはあるが、カントー地方でそんなポケモンは見たことないのう」
オーキド博士はそう言って、湯をすする。
その表情は穏やかで、どこか牧歌的ですらあった。
「……そうですか。まぁ、二十年前の話ですから」
肩を落とすほどではない。
この反応は想定の範囲内。
それでも──彼ほどの人物がまったく関知していないというのは、やはりこの町が「それ以降」何かに蓋をしてきた証拠だろう。
ひとまず、調査は行き詰まりかけていた。
ならば。
私はふと、あの墓のことを思い出す。
「そういえば……あのお墓は?」
湯呑を置きながら問いかけると、オーキド博士はほんのわずかに視線を外した。
迷うように、少しだけ口元を引き結ぶ。
「……あぁ、あれか。無暗に話すことでもないんじゃが……まぁ、君にならいいじゃろう」
ぽつり、ぽつりと──彼は語りはじめた。
八年前。
この町に一人の少年がいた。
彼には、いつも傍にいたポケモンがいた。イーブイだった。
二人はまるで兄弟のようで、どこへ行くにも一緒だったという。
町の人々も、その仲睦まじさに自然と笑みを浮かべていたらしい。
「しかし、ある事故での……な。イーブイは、助からんかった」
それだけの話だ、と彼は付け足したが。
彼の表情は、どこか深い痛みを湛えていた。
「……悲しい話ですね」
私もそう応じる。
珍しくも、奇異でもない。けれど、確かに胸を締めつける物語。
ポケモンと人の“絆”とは、時に、命よりも重くなる。
そして、博士は続けた。
「そういえば、じゃが……不思議な話をひとつ、聞いたことがあるんじゃ」
「……不思議、ですか?」
「うむ。その少年の母親から聞いた話じゃ。──ある日、赤ん坊が寝室のベッドの上に現れたそうなんじゃよ」
私は、そこで湯呑を落としかけた。
その感覚──その異常性に、思い当たる節があった。
ウルトラホール。
“存在しなかったはずの存在が、ある日突然この世界に出現する”現象。
それは……転移か、あるいは…。
「……そ、その少年は今、どこにいるんですか!」
抑えきれなかった。
声を荒げてしまったことに、自分でも驚いたほどだった。
オーキド博士も少し目を丸くしていたが、やがて首をひねるように答えた。
「お、おう……なんじゃいきなり。たしか、ガラル地方に引っ越したと聞いたがのぉ」
──ガラル。
私の中で、点と点が繋がった。
調査対象の変更。
追うべき座標は、変わったのだ。
私は静かに席を立ち、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。博士。……必ず、確かめてみます」
次に向かうべきは、ガラル地方。
──“彼”が、本当にこの世界の住人なのかどうか。
それを知るために。