ワタクシは――敗北したのだ。
無様に、醜く。
名もなき少年少女たちの前に、理想も威厳も、跪かされた。
栄光の玉座は砕け散り、
正しき支配も、偉大なる計画も、崩れ去った。
世界を導く者などではなかった。
ワタクシはただの、独りの、敗者に過ぎなかった。
目標も、目的も、生きる意味すらも――
すべて、すべてが音を立てて崩れていく。
……真っ暗だった。
身動き一つ、取れぬほどの絶望が、内側から迫る。
そのときだった。
視界が真っ白に弾け飛んだ。
直後――猛烈な圧迫感と、冷たさが全身を襲った。
「がっ……!?」
息ができない。
眼を開けた瞬間、そこが水中であると知った。
上下もわからぬまま、泡と共に身体が沈んでいく。
視界の先、差し込む陽光が揺らめいている。
これは……湖か? いや、海か? 深さがわからん。
――なぜだ? どこだ?
先ほどまで、確かにワタクシは……どこにいた?
苦しさに思考がまとまらない。
だが、それでも理解する。
ワタクシは、生きている。
まだ――終わっていない。
とにかく、浮上せねば。
息が、続かん……!
もがき、手を伸ばし、視界の先の“光”を掴むようにして――
水面へ向かって、必死に泳いだ。
◆
……三時間は経っただろうか。
まったく、釣れない。
日差しはじりじりと照りつけ、波音は静かに寄せては返す。
ポケモンどころか、魚影すら見えやしない。
ゲームの中じゃバンバン釣れてたのに。なにこれ。
俺が下手くそなのか……。
もう引き上げようかと思ったその時――
ピクッと、竿先が揺れた。
「おっ」
来た。来たか!?
これは……もしや金のコイキング!!?
そんな期待を込めて勢いよく竿を引き上げると――
どばっ!!
水飛沫と共に飛び出してきたのは、
三方向に跳ねた黄緑の髪と、赤いバイザー。
そして……黒装束の、明らかにヤバいオッサンだった。
……え、ゲーチス?
思わず口が開いた。
いやいや、そんなわけない。なんでプラズマ団の元ボスが、
よりにもよってガラルの海で俺の釣り針にかかるんだよ。
……コスプレか? それにしたって、どちゃくそクオリティ高いな。
びちゃびちゃのまま気絶してる。
口も開いたままで、なんか……ちょっと死体みたいで怖い。
放っとくのもアレなので、俺は釣り上げたオッサンを砂浜に引きずりあげた。
「ラヴィ。温めてあげて」
頭の上から飛び降りた白いエンニュート――ラヴィが、
じっとオッサンの顔を見てから、
小さく「ふしゅぅ」と鼻を鳴らし、腹の下に温かい火を灯し始める。
すっかり濡れネズミになったゲーチス(仮)は、
ぐったりしたままピクリとも動かない。
……これ、どうすんだよ。
◆
ワタクシは今――とてつもなく熱い。
まるで、身体の芯から燃え上がるような、そんな感覚に包まれている。
「いや、あっつい! 熱っ! 熱い!!」
実際、少し燃えていた。コートの裾が焦げているのが目に入る。
慌てて立ち上がり、海水の名残が残る髪を払いながら、目の前の男を睨みつけた。
「あ、」
そこにいたのは――黒髪の青年と、信じがたい色をしたエンニュート。
白い。
この世の理から逸脱した、禍々しくも神聖な白。
その存在が視界に入った瞬間、ワタクシの鼓動は跳ね上がった。
「ワタクシを焼き尽くすつもりですか!? あなたは!?」
思わず声を荒げる。
この尊き器を、炙り焼きにするなどという蛮行を、あろうことか素面で為したとでも!?
しかし、男は悪びれる様子もなく、ただ柔らかく微笑みながら言った。
「ごめんね。濡れてたから……」
……濡れてたから焼いた?
思考が一瞬止まった。
常識の糸がぷつりと切れる音が、耳の奥で鳴ったような気がした。
この男、マジで何を言ってる?
だが、それ以上に――気になった。
彼の傍に寄り添う、白いエンニュート。
「そのポケモンは……」
「この子、ラヴィ。かわいいでしょ」
男はエンニュートを見つめ、まるで恋人を紹介するように言った。
その口調に一片の偽りもない。
これはただの愛着ではない。執着、崇拝、あるいは――“選定”。
「いえ、色が……」
その言葉に、男はただ一言。
「あぁ、特別なんだ」
あぁ……わかった。
この男、わかってる。
通常色ではない。
世間の基準では測れない“特別”を――彼は直感で選び取っている。
ゾクリとした。
背筋に、氷柱のような快感が走る。
……この男、ただ者ではない。
さっきまで敗北の泥沼に沈みきっていたはずのワタクシの内側で、何かが爆ぜた。
チリ、と乾いた音を立てて、サザンドラが入ったハイパーボールを取り出す。
「そのポケモン……ワタクシに渡してくださ……」
目が合った。
その瞬間、世界が反転した。
――深淵。
目の奥に、奈落が見えた。
これは、Nなどとは比べ物にならない。
神の器だ。
存在が“特別”を呼び寄せ、“運命”に選ばれた者。
4096の闇をくぐり抜けた、唯一無二の選定者。
ワタクシの手が、ぶるりと震え、ハイパーボールが指の間から転げ落ちた。
彼だ……彼を使えば、世界は変わる。
努力も、管理も、教育も、制御もいらない。
彼の存在こそが――すべてを変える“選別の炎”なのだ。
なるほど!なるほど!!
ですから、ワタクシはここに呼ばれたのですね!?
この男の物語を“導く者”として!!
「フハハハハハハ!!」
両腕を広げ、空を仰ぐ。
久しぶりに、魂が熱い。
「ワタクシは……まだ、負けていない!!」
革命は、ここからだ。
◆
うわ、変な人だ。
ゲーチス(仮)はさっきまでブツブツ独り言を言っていたと思ったら、
突然、両手を天に掲げて――
「フハハハハハァ!!!」
腹の底から大笑いし始めた。
……ダメだ、これはラヴィに見せちゃいけない。
「ラヴィ、見ちゃダメ」
エンニュートの小さな頭に手をかざして、俺はそそくさとその場を離れた。
教育によくない。本当に。視力に悪い。情操にも悪い。俺にも悪い。
気を取り直して、バウタウンの町中へと戻ってきた。
ちょうど昼時とあって、先ほどよりも人通りが増えている。
海風に乗って、焼きたてのパンの匂いや、香ばしい魚介の香りが漂ってきた。
「うわ……お腹すいた……」
思わず、腹の虫が主張してきたのが自分でも聞こえる。
横を見ると、ラヴィが小さな鼻をピクピクさせている。
「クゥン……」と鳴いて、しっぽをわずかに揺らして、期待に満ちた目でこちらを見てくる。
「……お昼、食べようか」
俺がそう言うと、ラヴィは弾かれたように小さく飛び跳ねた。
まったく、言葉通じてんのかお前は。可愛すぎるだろ。
とはいえ、港町の飲食店はどこも大混雑。
軒先に長蛇の列ができている店もあって、すぐに入れそうな場所は見当たらない。
最悪、パン屋で何か買って、テントで食べるか……と思いかけたとき。
ラヴィの表情が、目に入った。
きらきらと目を輝かせて、看板メニューを眺めている。
しっぽを小刻みに揺らしながら、まるで「ここ入りたい」と言わんばかりに扉の前でぴたりと足を止めていた。
……うぅ、ダメだ。
そんな顔されたら……断れないって。
「……よし。並ぶか」
腹は減ってるが、気長にいこう。旅ってのはそういうもんだ。
ラヴィは嬉しそうにぴょこんと俺の肩に乗ってきた。
重さなんて気にならない。むしろ温もりが心地よかった。