「はよ~っす、一子」
「あ、おはよー!」
朝の教室。
朝らしい気だるげな誰かの挨拶に、朝だというのに元気な返事が返される。
元気な声の主は
教卓に近い前側の座席に座ったまま、既に数名の女子に囲まれ談笑していた彼女の元に、また一人が加わって。
笑い声が、一段と大きくなる。
漏れ聞こえる内容は、流行りのドラマだか、アイドルだか。
私の『耳』は確かにその声を拾うけれど、所詮興味の湧かない内容。脳もただの雑音として処理していく。
わんこの周りは、いつも賑やかだ。
立ち上がるだけで目立つ高身長。ふわりと揺れる茶髪。そして人懐っこい笑顔。
そのどれもが不思議と人を惹き付ける。
誰と話していても愛想が良いし、よく笑う。
それが話す側にも心地良いのだろう。周囲の誰かがとっかえひっかえに話題を提供し、皆で笑う。それが繰り返されていく。
そんな同性グループで形成された輪の外側には、もう一つの見えない輪。
彼女に話しかけるでもなく、ただその一挙手一投足に追いかける、男子たちの熱っぽい視線。
同性から見ても、容姿が整った方だとは思うし、わんこの人気は男子の間でも高いのだろう。……そういうものに疎い当の本人は、気づいていないのだろうけど。
わんこを中心に形成される、二重の輪。
その輪のすみっこ。あるいはさらに外側から。
私ーー
教室の最後列、廊下と窓のちょうど真ん中。
離れた席から、輪の中心で屈託なく笑うわんこを見つめる。
なんで、と聞かれても、理由らしい理由は無いのだけれど。
また新しい誰かが教室に着いて、笑い合いながらわんこと挨拶を交わす。
……私が教室に着いた時には、既にわんこを囲む輪が出来ていたせいで。
私が言いそびれた「おはよう」を。
「……言いに行けばいいじゃん」
ぼそっと。誰にも聞こえない声で。
自分で自分に、ツッコまずにはいられない。
分かってる。分かりきってる。
ただ、私にあの輪の中へ入る勇気がないだけだということも。
そんな自分を棚に上げて、みっともない嫉妬を抱いてしまってることも。
いつもなら私だけに、もっと間近で見せてくれる笑顔。今わんこがそれを私以外にも向けているというだけで、もやもやした気持ちを抱いてしまう。
わんこの周りに誰かが居るだけで、この小さな距離すら詰められない臆病者のくせに。
元からじゃんか。わんこが人気者なのは。
私が知り合う前から、今と同じ光景だったんだから。
小さく吐いたため息と共に、無気力に机に突っ伏す。
今日は最初の授業、なんだっけ。
……ああ、数学か。
退屈なやつだな、よりによって。
だるい、全然やる気出ない。
なんか、眠くなってきたし。
◇
「ん…………ふぁ……」
いつの間にか閉じられていた視界を、ゆっくりと開く。ぽかぽかと上昇した体温と全身の気だるさで、本当に眠っていたのだと実感する。
寝そべっていた机の上には、教科書もノートも広げていないまま。とんだ不良生徒だ。最後列じゃなかったら大目玉だっただろう。
「あ、にゃーちゃん起きた?」
少しずつ覚醒してきたタイミングで、パーカーのフード内に潜ったままの猫耳が馴染みのある声を聞きつけ、ぴくぴくと動く。
ぼやけていた視界がクリアになると、見知った茶色の犬耳が目の前にあった。
視線を少し下に滑らせれば、丸く大きな瞳が覗き込むように、少し首を傾げてこちらを見つめていて。
「……わんこ」
お馴染みのあだ名を呼ぶ。それだけで。
私の机に顔を乗せ、しゃがんだままの
「おはよう、にゃーちゃんっ!」
「……うん、おはよ。…………ん?」
「えへへ」
挨拶を返すと、やけに綻んだ表情のままわんこの犬耳がぴょこぴょこと賑やかに動いていた。
これ、嬉しいことがあった時の動き方じゃなかったっけ。
まだ挨拶しか交わしてないのに、何をそんなに喜んでるんだろう。
私が不思議そうに彼女の犬耳をじっと見つめていると、わんこは無邪気な笑顔を返してきて。
「朝にゃーちゃんとお話できなかったから、『おはよう』って言えたの嬉しくって」
……そんなことを、恥ずかしげもなく言ってくる。
当然というか、不意打ちを食らった私は情けなく言葉を失い、表情と勝手に動く猫耳を見られないよう苦し紛れにフードを深く被り直すことしか出来ない有り様で。
「……大げさだって」
なんて、素直じゃない言葉を返しながら。
ようやく交わせた挨拶が、正直嬉しくて。
同時にどこか、安心もしていた。
わんこの笑顔が他の誰かに向いているだけで簡単にもやもやしてしまう私の心は、わんこの笑顔が自分に向いただけで、これまた簡単に満たされてしまう。
わんこの笑顔もコミュ力も、本当は誰にも分け隔てなく返しているものなんだろうけど。
今目の前にあるふにゃふにゃの笑顔と、セットで動く犬耳。
これは、私だけが知る秘密で。
私だけが見れる光景、なんだよな。
「あっ、忘れてた! 次移動教室だよ、にゃーちゃん!」
「……やっば」
今さらになって思い出した事実に、二人して途端に忙しない準備に追われ出す。
言われてみれば、教室に私たちしかいないような気はしてた。だからこそ、わんこもカチューシャを外していたんだろうけど。
……だから、私を待っててくれたのかな。
「わんこ急ご、走んなきゃギリだわ」
「わっ、ほんとだ!」
教材と筆箱を抱え、揃って廊下へと駆け出す。
身長差のせいで少し後を走る形になる私に振り返り、わんこがペースを合わせてくれる。
別にいいのに、と思いながらも、隣を見上げればやっぱりわんこは嬉しそうで。
さっきも、今も。
この少しの距離をなんてことないように、わんこが簡単に縮めてくれることが、私にとっても嬉しいんだって。
もうちょっと、素直に言えたらいいんだろうな。