始業のチャイムが校内に響く。
賑やかだった廊下や教室が、一斉に静まっていくのが分かる。
そよ風に乗った四月の陽気が、半分開いた窓から私の頬を撫で、吹き抜けていった。
思わず出た欠伸に目を細めながら、自分の呑気さに呆れそうになる。
今私が居るのは、本来授業を受けているはずの教室ではない。現在進行形でサボりの最中ということだ。
高校入学からまだ一週間弱。こんな時期から先生の内申点を下げてまで、何をしているかというと。
「ん……ぅ……」
ーー保健室で、ろくに話したこともないクラスメイトが起きるのを待っている。
二列あるベッドの一つに
女子の中では長身なその体をベッドに沈めたままの彼女の、少し苦しげな表情を見下ろしている。
成り行きとは言え、正直気まずい。このまま彼女が目を覚ました時、絡んだこともないクラスメイトが枕元に居たらどんなリアクションをされるのだろう。
……とはいえ、ここを離れる訳にもいかない。今は私たちしか居ないけれど、養護教諭の先生や他の生徒が来てしまったら。今の彼女を、見られてしまったら。それは私にとっても、不都合に繋がってしまうことだから。
結局、私が周りを見張っているしかない。気まずさを飲み込み、小さくため息を吐いた時。
横たわる彼女の瞼が、ゆっくりと開かれた。
「あ、れ……? わたし……」
数回の瞬きを経て、ぱっちりと開かれたその瞳が。
パーカーを被った私の、無愛想な顔を映し出す。
「気がついた? ーー紬さん」
彼女の名前は
ただ、まともに顔を合わせたのも、言葉を交わしたのもたぶんこれが初めてだ。接点らしい接点なんて、これまで一つも無かった。
……いやまあ、私は誰とでもそうなんだけど。
「あ、ごめんいきなり。私、一応同じクラスのーー」
「
予想外に呼び返された自分の名前に、横になったままにへ、と表情を綻ばせる紬さんに。
私は言葉を続けることも忘れぽかん、と口を開けたまま固まってしまう。
名前、覚えててくれたんだ。とか。
友達でもなんでもない私にも、そうやって笑ってくれるんだ。とか。
なんとなく、クラスで遠巻きに見ている時から、人懐っこい人だなとは思ってた。身長も相まって、勝手に大型犬のようなイメージがあったけど。
その笑顔が私に向けられる日が来るとは、思ってなくて。
急に熱くなったような頬をパーカーで隠す私の横で、ゆっくりと紬さんが体を起こす。
柔らかな色味の茶髪が揺れ、窓から吹く風に靡く。
「ここは……保健室?」
「そう。何があったか、覚えてる?」
「確か……自販機まで行こうとして、その途中で急に頭が痛くなって……あっ、それで二谷さんが運んでくれたの?」
「うん。階段下でうずくまってたのが、たまたま見えたから」
言葉を切ってから、ふと思う。
学校で誰かとこんなに話したの、久しぶりだ。
なんとなく、紬さん相手だと気負わずに話せる気がする。
さっきの笑顔のせいだろうか。日がな一日フードを被り続ける私のような日陰者にも、悪意も邪気もなく笑いかけてくれる彼女に、早くも心を許してる自分がいるんだろうか。
チョロい奴だな、私って。
「そっかぁ……ごめんね、迷惑かけちゃって」
「別に、紬さんが謝ることじゃないよ。……たぶん頭痛の原因って、"それ"でしょ?」
……ずっと、言うべきか迷っていたけど。
"それ"が隠れず見えてしまっている以上、さすがに触れない訳にもいかず、控えめに紬さんの頭の辺りを指差す。
たぶん、紬さんは気付いてなかったんだろう。
「あっ……!」
私の指先が指し示す場所に触れた瞬間、その顔色がさっと青ざめるのが分かった。
普通の人の頭には、無いはずのもの。
ふわふわ、もふもふ。そんな擬音が似合いそうな。
”それ”は紬さんの髪色と同じ、茶色の犬耳。
頭から直接、犬耳が生えているのだ。
「いや、これは……違うのっ! なんていうか、その……」
「あー……いいよ、隠さなくて。大体分かるから」
両手で犬耳を覆い、膝を折って小さくなってしまう紬さん。もう私にがっつり見てしまってるのだから、今さら隠す意味は無い気がするけど。動揺しているんだろう。
人の頭に犬耳が生えているという、あまりにも非現実的な光景。普通の人ならたぶん、付け耳か何かを使った冗談としか思わないだろうけど。
私はさほど驚くこともなく、目の前の非現実を現実として受け止めていた。
まず紬さんの慌てぶりは、とても冗談のそれには見えなかったし。
紬さんが目覚めるまでの間、悪いとは思いつつ間近で観察して、偽物の類いではないことは理解していた。
それに、何より……。
「私にもあるんだ、これ」
パーカーのフードを取る、久しぶりに視界が広くなる。
少しの気恥ずかしさを抱きながら、私は。
私の頭にも生えている、
「え…………」
今度は紬さんの表情が固まる番だった。
猫耳を捉えた瞳、塞がらないままの口。それらが徐々に、大きく開かれて。
「…………うえぇぇっ!?」
授業中であることも忘れて、仰天の声は保健室に響き渡った。
……うん、まあ。
それが普通のリアクション、だよね。
◇
「そろそろ、落ち着いた?」
「…………」
「……紬さん」
「へぁっ、はい!」
「見すぎ。……恥ずかしいから」
まじまじと猫耳に注がれる視線にむず痒さを感じ、思わずむすっとした目付きで紬さんを見てしまう。
「あっ、ご、ごめんね! つい見入っちゃって……わたしの他にも『耳』が生えてる人がいたなんて、びっくりだよ……」
紬さんの声を聞きながら、まだむず痒い感覚が残る猫耳を掻くように弄る。
そこに驚いたのは私もだ、と思いながら。
「今朝起きて、鏡を見たら
一度言葉を切り、枕元に手を伸ばす。そこに置かれていたのは、紬さんのカチューシャ。
朝は気にも留めなかったけど、そういえば昨日までの紬さんは着けていなかったものだ。
手にしたカチューシャを膝に乗せ、紬さんの言葉が続く。
「これでとりあえずは隠せそうだったから、犬耳の上からずっと着けてたんだ。……でも途中で、急に頭が痛くなっちゃって」
しゅんとしたように俯く紬さん、頭の犬耳も元気の無さを示すようにぺた、と力が抜けて倒れている。
紬さんの犬耳も、私の猫耳と同じく感情とリンクしているらしい。とはいえ、それで分かるのはおおまかな喜怒哀楽だけ。
今の紬さんの感情は、考察するしかないけれど。
……これはたぶん、不安。なんだと思う。
「……私も同じだよ。入学式の後ぐらいに、いきなり
どうしたらいいか分かんない。今しがた紬さんの言った言葉の、まさにその通りだ。
原因も理由も不明な獣耳が、突然自分の頭から生えてきた。そんな状況になったら、誰だって不安になるはずで。
「最初は私も、カチューシャで隠そうかと思ったんだけど……ずっと圧迫してるとしんどくなるでしょ。紬さんの頭痛が悪化したのも、たぶん同じ理由。だから最低でも休み時間の度に外した方がいいと思う。付けっぱなしよりはマシになるはずだからさ。私は面倒くさくてパーカーで隠すようになったけど」
力になりたいと思った。
俯く紬さんが、猫耳のことを誰にも相談出来なかった私自身と、重なる気がしたから。
せめて、先にこの獣耳症状が表れた私に、出来ることをしてあげたいと思って。
気がつけば返事も待たず、いつになく長々と喋ってしまった。
はっとして視線をやれば、向かい合わせで座る紬さんは何も言わず、ただぱっちりとした瞳でこちらを見つめていて。
「……ごめん、一人でべらべら喋りすぎた。外見張ってるから、暫く休んでていいよ」
ああ、ミスった。
引かれた。
後悔に似た感情が、一瞬で心臓の辺りを冷やしていく。
同じ境遇な気がして、距離感を間違えてしまった。紬さんにとって私は、今日まで一度も話したことのないクラスメイトでしかなかったのに。出しゃばってしまった。
嫌気が差した自分を包むように、再びフードを被る。
紬さんの視線に背を向け、ベッドから離れようとした。なのに。
「二谷さん」
紬さんの声に、引き留められた。
声だけじゃない。私の手も、繋ぎ止められていた。
握るよりも優しく触れられた、紬さんの手によって。
「ありがとう、色々教えてくれて」
「……!」
「二谷さんの優しさ、すっごく伝わってきたよ」
あまりにも真っ直ぐに、あまりにも眩しく。
素直な言葉が猫耳を震わせ、紬さんの温もりが手のひらから私に届く。
無駄に聴覚の優れたこの耳は、今日まで私に録な言葉を届けて来なかった。
悪目立ちばかりする日陰者に囁かれる陰口を、頼んでもいないのに拾ってくるばかりだった。
なのに、そんな私なのに。
「…………どう、いたしまして」
結局私は、顔を背けてしまった。
真っ直ぐすぎる、笑顔も言葉も。
今はまだ、正面から受け止め切れる自信が無かったから。
今、紬さんと向き合ったら、限界まで真っ赤になった頬に気付かれてしまう予感しかしなかったから。
だけど、それでも。
紬さん。紬 一子さん。
彼女の声が、『ありがとう』が。
その日から、ずっと私の中でこだまするようになった。