昼休み。
校舎の最上階、立ち入り禁止の屋上へと続く階段。
殆どの生徒や先生にとってわざわざ来る理由も無いこの場所に、私は毎日のように一人で通っている。
教室内のように暖房がついていないこともあり、四月ではまだ肌寒い気もするけど、仕方ない。
一日中猫耳という秘密を抱え、人目を気にしなければならない私にとって、誰の目も届かないこの場所は唯一の落ち着ける空間だ。お弁当を食べている間くらい、気を休めたい。
パーカーのフードを脱ぎ、黒髪と共に生えた猫耳を露にして、小さく息をつく。
秘密、といえば。
不意に、あの笑顔が脳裏に浮かぶ。
ふにゃっとした、無邪気なほど柔らかい笑顔。年中仏頂面の私からしたら、眩しいくらい自然に笑っていた。
……
◇
結局あれから、二人で教室に戻ることになって。
呆れを含んだ先生のため息も、私を茶化す内容の囁き声も、予想通りに飛んできて。
だけど。
『先生すみませんっ! 廊下でいきなり体調悪くなっちゃって、二谷さんに保健室まで付き添ってもらってました!』
紬さんの言葉は、それらを掻き消すように教室に響いた。
先生も、クラスメイトも、私すらも驚きの表情を向ける中で、やっぱり紬さんは笑っていた。
クラスで腫れ物扱いの私と一緒にいたなんて、それが事実だとしても隠したがる人の方が多いだろうに。
面食らう私も、結局それ以上のお咎めなく席に着くことを許された。
着席するやいなや、隣席の女子数名から声をかけられ瞬時にその輪に溶け込んでいく紬さん。
その隣を横切る時にはもう、私たちは別の世界の人間になっていて。
もう、保健室でのように話すことは無いんだろうな。そんな分かりきった事実を頭でなぞる、その一方で。
あの時の会話を、紬さんの表情を、感情に併せて動く犬耳を。
何より、『ありがとう』の言葉を。
忘れられないのも、また事実だった。
◇
「あっ、二谷さん見つけた!」
柄にもなく物思いに耽っていたせいで、階下から近づいてくる足音に、私はまるで気付いていなかった。
「つ、むぎっ……さん」
慌てて被りかけたパーカー、素っ頓狂な表情のまま固まった顔。
もう話すことは無いのだろう、などと追想していたばかりの相手を、私はあまりにも間の抜けた格好で出迎えるはめになった。
「なんで、ここに……?」
発した声は、ばくばくとうるさい心臓の鼓動を写したかのように、微かに震えてしまって。
照れ隠しのように咳き込みつつ、紬さんの長身の後ろを覗き込む。
……一瞬嫌な予感がしてしまったけど、他に誰かと連れ立っていた訳では無いみたいで、内心胸を撫で下ろす。
ここだけは、あまり誰かにバレてほしい場所じゃないから。
「二谷さんのこと、探してたんだ。教えてくれた通り、ちゃんと休み時間はこの耳を休ませてあげたくって。でもその間一人ぼっちなのは寂しいなー、って思ったから。二谷さんにだったら、もう犬耳のことも隠さなくていいもんね!」
言いながらカチューシャを外せば、紬さんの頭にふわっとした薄茶色の犬耳が現れる。
確かに、私たちは獣耳という秘密を共有したけど。
それ意外のことは、何も変わっていないはずなのに。
元の距離に戻るのだと思っていた。紬さんはまたクラスの真ん中へ、私はその隅っこへ。元通りの居場所に戻り、元通りの交わらない日々を過ごすのだろうと。
そう、思っていたのに。
「ね、休み時間が終わるまで、わたしもここに居ていい?」
未だにぎこちなくしか喋れない私と正反対の、近すぎる距離感で。
元通りになったはずの距離さえ飛び越えて、紬さんはまた私に笑いかけている。
……私と居ても、別に楽しいとは思えないけど。
胸に過ったその言葉は、偽らざる私自身の自己評価。
そんな私の傍に居ることを、好き好んで望む紬さんは、正直不思議に思えて仕方なかったけど。
それでも、純真な瞳を輝かせて私の返事を待つ紬さんを見ていたら。
随分長いこと、他人に対して抱かなかった感情が、私の中で生まれている気がして。
「……好きにすれば」
気付けばそう、答えていた。
紬さんほど真っ直ぐな言葉なんて、私には使えない。
どうしたって答えはぶっきらぼうになってしまう。
「えへへ、やったぁ」
それでも紬さんは心底嬉しそうに犬耳をぱたぱたさせて、私の隣に腰を下ろした。
「二谷さんが教室でお弁当食べてる姿、そういえば見かけたことなかったなー、って思ってたんだけど、いつもここに居たんだね」
「まあ、基本的に人が来ないから。……まさか、ここがバレるとは思わなかったよ」
「ふふん、わたしけっこう鼻が利くんだ! 美味しそうなお弁当の香りを追いかけてみたの!」
「……ほんとに犬みたいじゃん」
自信満々に胸を張る紬さん。嘘を言う人には見えないが、さすがに突拍子もない捜索方法すぎて唖然としてしまう。
人懐っこい性格といい、裏表なく感情が表れる犬耳や表情といい、何かと犬らしさに溢れた人だとは思っていたけど……。
「でも、二谷さんもけっこう猫ちゃんっぽいよね?」
「えっ、そう……かな」
「うん、ちょっとツンってした雰囲気とか、皆で居るより一人で居たいタイプなんだろうなーって感じとか。群れないで生きてるって感じがあったから……ほんとは、ちょっと話しかけづらいかなって思っちゃってた」
紬さんから見えていた私。客観視されたその姿も、別に意外なものではなかった。
猫耳が生えていたから、バレたくなかったから。……それが後付けの言い訳にしかならないことは、私自身が一番分かっている。
無愛想なのも、他人と距離を作りがちなのも。
猫耳が無くとも変わらない、元からの私。
逆立ちしたって、紬さんのようにはなれやしない。
「だから今日、優しい二谷さんが知れてすごく嬉しかったんだ。きっかけをくれた
なのに紬さんは。犬耳を撫でるように触りながら、またふにゃっと顔を綻ばせるこのクラスメイトは。
そんな私との距離が縮まったことを、私について知れたことを、こんなにも喜んでいて。
劇的なイベントがあった訳じゃない。
今日初めて話しただけ、保健室に連れて行っただけの関係性。
それでも、たぶん紬さんは私に心を許してくれている。
人と関わり慣れていない私でも分かりやすいくらい、分かってしまう。
私に向けられる興味の視線が、他のクラスメイトのような好奇の感情とは違う、もっと純粋でポジティブなものだということ。
……本当に、人懐っこく尻尾を振る犬みたいだな、と思う。
紬さんの瞳が、表情が、犬耳が。隠すつもりのない感情を、目を逸らせないほど伝えてくるから。
私もそれを、認めるほかに無くなってしまうんだ。
「二谷さん」
「……わっ、えっ、呼んだ?」
上の空にあった意識が、引き戻された。
突然紬さんに呼ばれた名前。咄嗟に反応したせいで変な声が出てしまった気がするけど、紬さんは特にリアクションもせず、むしろ彼女も何かを考え込んでいる様子だった。
「いや、う~ん……ちょっと待ってね……二谷さん、にやさん、にゃーさん……」
「……何、どうしたの急に」
私の怪訝な声をよそに、ぶつぶつと何かを呟いている紬さん。
時折、私の名前が聞こえてくる気がするけど。
何をしているのか見当も付かず、見守る
しかない時間がしばらく続いて。
やがて何かを閃いたように紬さんが顔を上げると、同時に犬耳もぴーんっ、と縦に起き上がっていた。
「あっ、『にゃーちゃん』はどうかな?」
「どうって、何が……??」
ますます首を傾げるしかない私。
一方の紬さんは、何故だか晴れやかなほどの笑顔で、言葉を続ける。
「あだ名、だよ! せっかく仲良くなれたんだし、ずっと『二谷さん』じゃなんか寂しいもん。二谷さんだから、にゃーちゃん! 響きも猫っぽくて可愛いし!」
ぽかん、としたままの私を置いて、紬さんの犬耳はそのテンションを示すかのようにぱたぱたと忙しく動いていた。
彼女の距離感に少しは慣れてきたかと思ってたけど、甘かったみたいだ。
私の想像なんて軽く飛び越えて、今日だけで紬さんから何歩こちらに近づいてくれたのだろう。
……あだ名とか、初めて付けられたかもしれない。
今度は、妙に胸の辺りがくすぐったい。下の名前で呼ばれるのとも何か違う、慣れないむず痒さがあった。
「いや、私にはちょっと可愛すぎるでしょ……」
「え~、にゃーちゃん可愛いのも似合うと思うよ?」
「んなっ……!」
不意打ちにも程がある一言。パーカーのフードも脱いでいたから、赤くなる頬を隠すことも出来ずに紬さんと目が合ってしまう。
っていうか、もうあだ名呼びを始めてるし……。
ああ、もう。
「だったら……」
「?」
羞恥と共に、対抗意識のようなものがふつふつと沸いてくるのを感じる。
……私ばかり紬さんに赤面させられ、その距離感にどぎまぎさせられ続けて、不公平だ。
だったら。
同じことを返したら、少しは紬さんの違う一面を見れるだろうか。例えば、あだ名とか。
紬……はなんか崩しづらいな。
後は下の名前、『一子』だっけ。
いちこ、いち、ワン……。
「…………わんこ」
「えっ?」
「だったら私も、『わんこ』って呼ぶよ。一子だから、わんこ」
珍しく呆気にとられた表情の紬さんに少しの優越感を感じて、口元が綻ぶ。……はずが、それも一瞬のことで。
直後に、むしろ私の方が強烈な恥ずかしさに襲われた。
これ、どう考えても言った方が恥ずいやつじゃん。
っていうか、まだ苗字でしか呼んだことないのに、下の名前由来のあだ名って……距離感ミスってるの、むしろ私の方じゃんか。
盛大な自爆をかまして一人頭を抱える私。
その横で、やけに静かになっていた紬さんに恐る恐る視線を向けるーー。
「~~っ、それ良いっ! すっごいかわいい!! ちゃんとワンちゃんっぽいし、にゃーちゃん天才だよ!」
飛んできたのは、私の心配など軽く吹き飛ばすほどの、興奮ぎみな声。
輝かせた瞳に私を映しながら、大げさとも言えるほど紬さんは嬉しそうで。
けれど同時に、彼女の頭で勝手に揺れる犬耳が、その喜びが本心なのだと告げてきて。
「えへへ……じゃあ改めて、よろしくね! にゃーちゃんっ!」
相変わらず、そう呼ばれるのはむず痒い。
でも、嫌じゃない。
「…………分かったよ」
それは今更ながらの、あだ名呼びを許可する意味での言葉でもあった。だからこそ、紬さんはうれしそうではあったけど。
まるでそれでは足りない、とでも言うかのように目を輝かせて、何かを待っているのも伝わってきて。
……分かりやすいなぁ、ほんと。
「……よろしく、わんこ」
そのあだ名で、呼んでやれば。
喜びを爆発させたような
結局また、赤面させられてしまう。
獣耳という秘密の共有。それだけでは説明し切れないほど一日で詰められた距離に、私は振り回されてばかりだ。
だけどその度に、じんわりと。
肌寒さを忘れるほどの何かが、自分の中に広がってゆく気がして。
手のひらを、そっと胸に当てれば。
わんこが教えてくれた温度と、いつもより少しだけ早い鼓動が、そこに灯っていた。