ワイワイ、ガヤガヤ。
パーカーのフード越しでも、猫耳に絶え間なく流れ込んでくる賑わいの声の多さに思わずため息が出る。
夕方のスーパーマーケット、仕事帰りの客足が最も伸びる時間帯にぶつかってしまっている以上、仕方ないことだとは思うけれど。
無数の雑踏と話し声、店内放送に呼び込みのBGM……これでもかという音の洪水は猫耳の聴覚には少し堪える。
猫耳が生えたことによる一番の弊害は、と聞かれたら、こうして日課の買い物にも一苦労していることと答えるかもしれない。
「お、アスパラ安い」
二人分の夕飯の献立、明日の朝食にお弁当。この時間も考えなければいけないことは幾つもある。喧騒を鬱陶しく思いながら、思考と足は止めることなく買い物を続けていく。
猫耳が拾い続ける雑音にも、なんだかんだ言って慣れるものだ。
自炊、買い物、洗濯、掃除……ほんの少し前までは、どれもこれも任せていればよかったんだよな。
料理は前から好きでよくやってたけど、あの頃は必要に迫られていた訳じゃなかったから。
ふと振り返った数ヶ月前までの日常は、不思議なほど遠い過去のように感じられた。
結局は、自分で決めたことではあるのだけど。
「う~~~ん……むむむ……」
ぴた、と不意に足が止まった。
無数に飛び交う雑音の中に、聞き慣れた声を猫耳が拾ったからだ。
声を追いかけて足が向いた先は、お菓子コーナー。
何人かの子どもたちがお菓子を選ぶ姿に混じって、やはり見覚えのある人影がそこにいた。
私と同じ高校の制服姿。遠巻きでも目立つ長身を屈め、カチューシャを纏った長い茶髪が床に着きそうなのも気にせず、何やら首を捻っている。
「やっぱり両方買っちゃおうかなぁ……」
「……わんこ、何してんの」
「ひゃわぁっ!? って、にゃーちゃん!?」
素っ頓狂な声と顔でこちらを振り返ったのは、やはりわんこだった。
私と目が合うやいなや、両手に抱えていたお菓子の袋で何故か顔を隠そうとする。僅かに覗く頬がいつもより赤いのが分かった。
「うぅ、欲張っていっぱい買おうとしてるの見られたぁ……」
「いや、そんな恥ずかしがらんでも……」
言葉を返しつつ、ちら、とわんこの周囲を確認してしまう。わんこのことだから
わんこも私と同じく、部活動や委員会に所属していないとは聞いていたけど。
私と違い、大抵ホームルーム後には仲の良いクラスメイトに囲まれているのがお約束の光景となっているから、いつもその人らと一緒に下校してるのだろうと勝手に想像していたから。
今日は、たまたま一人なんだろうか。
「あれ、にゃーちゃんも買い物してたとこ? ……ってすごい大荷物じゃん!」
顔を上げたわんこが、目を丸くして私の持つ買い物カゴを見つめているのに気づく。
大荷物、は大げさな気がするが、わんこに比べたら多いのは確かだ。客観的に見れば学生というより主婦の買い物量と思われるだろう。
「……ああ、うん。晩ご飯の分とか、色々買わなきゃだから」
「お使いかぁ、偉いねぇにゃーちゃん」
お使い。
まあそう思うよな、普通。
多くの高校生にとって、夕飯の買い物なんて自分でやる必要のないものだから。
私の家庭の事情なんてわんこは知る由もない。私から、何も話したことが無いのだから。
別に、わんこに隠しておきたいという訳ではないのだけど。ただ明かしたところでリアクションに困る話題なのは明白だし、気まずくなると分かってて話すことでもないだろう。
「じゃあ先に、にゃーちゃんの買い物済ませちゃお! わたしも手伝うよ!」
ふにゃっと笑う、いつも通りの笑顔。
溌剌と響く、いつも通りの明るい声。
いつもと違う時間と場所でも、何も変わらないで居てくれるわんこを見ると。
このままで良い、このままが良い。
今日も、やっぱりそう思ってしまうんだ。
◇
わんこと並んでスーパーの自動ドアをくぐり、オレンジに染まった夕空の下へ。
春先に比べ夕方でもいくらか和らいできた肌寒さが、近づく五月を予感させる。
「いっぱい買ったねぇ」
「悪いね、手伝ってもらっちゃって」
「ぜんぜんっ! お役に立てたなら何よりだよ!」
やけに誇らしげなわんこのテンションがよく分からず、苦笑を返す。
私が買い物メモを読み上げる度にわんこが品物を探して持ってくる、という連携は、確かに一人で店内を回るより効率的ではあった。
……どことなく飼い主が投げたフリスビーを取りに走る飼い犬、という構図に似てる気がした。口には出さないけど。
「さてさて、じゃあわたしは早速……」
言うが早いが、手にしていたお菓子の封を開けるわんこ。
私と会った時から迷っていた二つから、結局いちご味のチョコを選んで購入したらしい。ちなみにもう一つは抹茶味のチョコだった。
「え、それ帰ってから食べるんじゃないの」
「いやいや、買い食いは歩きながら食べるから美味しいんだよ!」
妙な持論を展開しつつ、早速チョコを含んだわんこの口元に、見る間にふにゃふにゃと緩んだ笑みが浮かんで。
「ん~!」とか「んふふ~」と合間合間に漏れる声に、感想を聞く間でもないほど幸せそうな感情が溢れ出していた。
きっとカチューシャが外れていれば、犬耳も千切れんばかりにぱたぱたしていただろう。見ているこっちの口元も緩みそうになる。
「にしても、お菓子のためにわざわざスーパーまで来たの? そういうのってコンビニとかにも売ってそうだけど」
「そうなんだけど、最近金欠だからさぁ……ちょっとでも節約したくって」
「……買い食いを我慢するって選択肢は無いん?」
「いやぁ、放課後のこの癒しは捨てがたいよ~」
「そういうもんかね」
普通に家で食べるのと何が違うのか、買い食いに縁の無い私にはよく分からないが、隣のわんこが楽しそうなのは確かに伝わってくる。
私が毎日、ただ通り過ぎるだけの帰り道を。明日の献立を考えている内に、いつの間にか終わっている下校の時間さえも。
楽しく過ごす術を持っているわんこが、少しだけ羨ましく思えた。
「にゃーちゃん、手出して」
「手?」
不意に私の前に躍り出たわんこが、そんなことを言ってきた。
言われるがまま、パーカーのポケットに突っ込んだままだった手をわんこに向けて開くと、間を置かずわんこが手のひらを重ねてきた。
私より、少しだけ大きい手。微かに触れただけの指先に、簡単に私の心臓は跳ねてしまって。
唐突な行動に固まる私の前で、わんこの手のひらがぱっと開かれる。
「美味しかったから、お裾分け!」
無邪気な声と共にわんこの手が離れ、私の手のひらにはちょこんと、包みに入ったお菓子が一つ乗せられていた。
すぐにピンとくる。わんこが食べてるチョコと同じものだ。
「え、いいの……?」
「もちろん!」
あれほど美味しそうに食べてたわんこから一つ貰うのも、なんだか悪い気がしたけれど。
食べて食べて、と言わんばかりに目を輝かせてるわんこの視線に押され、まあわんこが良いなら、と口に運ぶ。
パキッと噛んだ瞬間、口に広がるチョコの甘さ。その後からいちごの甘酸っぱさに包まれる。
爽やかな後味が確かに、美味しい。
「ふふっ、にゃーちゃん『美味しい』って顔してる」
覗き込むようにこちらを見ていたわんこが、満足そうに笑う。
……私も、顔に出てたみたいだ。
人のことを言えない分かりやすさだと、妙に気恥ずかしくなって。赤くなりそうな顔を目深に被ったフードで隠したくなる。
「やっぱり、美味しかったらすぐにシェアも出来るのが、買い食いならではだよね! ……久しぶりだなぁ、こういうの」
どこかしみじみと、わんこの呟く言葉が夕空に吸い込まれゆく。
けれどその言葉に、私はあれ、と首を傾げた。
「いつもはしないの? 一緒に帰ってる人たちとかと……」
「? わたし、帰りはいつも一人だよ?」
「え……」
「こっちの方向に帰る子、あんまりいないんだよね。みんな駅の方なんだって。わたしがそっちに寄り道してもいいんだけど、結局最後は一人になっちゃうし」
わんこの言葉を聞きながら、呆気にとられていた。
放課後も、下校の時間も、いつだってわんこは誰かに囲まれているのだと。勝手にそう、決めつけてた。
一人で帰っていたなんて、知らなかった。茜色の空に消えてしまいそうなほど、寂しげに細められたわんこの目なんて、想像もしていなかった。
わんこに教えていない、私がまだいるように。
私の知らないわんこの姿も、まだたくさんあるのだろう。
「にゃーちゃんのことも誘いたかったんだけど、いつも気付くと先に帰っちゃってたから……放課後は忙しいのかなって、声かけれなかったんだ」
「私は、別に……そんな忙しい訳じゃないけど」
帰ってからしなければならない家事はあるし、今日みたく買い物をする日もあるけど。急いで帰らなきゃいけないほど、忙しくはない。
それでも、いつも足早に立ち去っていたのは事実だ。
学校に残る理由なんて何も無かったから。
私以外と仲睦まじいわんこの姿を、なるべく見ないでいたかったから。
「わんこは、最初から一緒に帰る友達がいるんだろうって、勝手に思ってたから……ごめん、なんか。ちゃんと聞きもしないで、決めつけてた」
「ううん、わたしこそ。誘うなら誘うで、もっと早く声かければよかったのにね」
眉を下げ、ふにゃっと笑うわんこを見上げる。
「じゃあ、改めて。私、またにゃーちゃんと一緒に帰りたいな。今度は、ちゃんと学校出るとこからさ」
「……うん。また帰ろ、一緒に」
改まった約束というのは、なんだか気恥ずかしくて。
一瞬変な間を置いて私の頬は熱くなり、わんこは「ふへへ……」と照れ笑いを浮かべていたけど。
それでもやっぱり、嬉しいのは本心で。
「あー……でも、その時は下駄箱で待っててもいい? クラスで声かけるのは、やっぱちょっと恥ずかしいっていうか……」
「ふふっ、いいよ。じゃあ待ち合わせだね!」
急に現実的なことを口走ってしまう私だけど、わんこはそれすらも嬉しそうに。
包むように柔らかな笑顔を、返してくれるのだった。
◇
「あ……私ここで曲がらなきゃ」
いつの間にか、見知った曲がり角に辿り着いていた。
この先を少し歩けば、もう家だ。
隣を歩くわんこの足は、自然と真っ直ぐの方向へと踏み出していて。帰路がここで分かれることを察するように、二人で顔を見合わせる。
「なんか……いつもよりあっという間だったかも」
わんこの言葉に、静かに頷く。
明日には、また学校で会えるのに。
それでもなんとなく、胸の中に冷たい風が吹いたような錯覚を覚えてしまう。
……いつもなら、何の感慨も湧かない曲がり角なのにな。
「そうだ。チョコ、美味しかった。……ありがと」
「えへへ、どういたしまして!」
「……次は、私も買い食いしたい。かも」
「おーっ! じゃあ今度は交換こ出来るね!」
名残惜しげに続けてしまう、会話のキャッチボール。
それでもそろそろだと、気付いたのだろう。
最後に、とびきりの笑顔を作ってわんこが言う。
「じゃあにゃーちゃん、また明日!」
「! ……うん、また明日」
ぶんぶんと頭の上で手を振るわんこにつられ、胸の辺りで小さく手のひらを振り返して。
私たちは、それぞれの家路につく。
二人から一人へ。言ってしまえばいつもの帰り道に戻っただけ。それでもやけに、世界が静かになってしまった気がしてしまうけど。
「また明日」と言い合えたことが、胸に微かな安心を灯してくれたから。
舌に残る、いちごチョコの甘酸っぱさを思い出しながら。
見上げた空は、いつもより夜に近づいていた。