D.Uシラトリ区に聳え立つサンクトゥムタワー。
学園都市を一望するように佇むそこには、キヴォトスの代表を担う連邦生徒会の本部が存在する。
不知火カヤ(しらぬい カヤ)は連邦生徒会室からキヴォトスを見下ろす。
かつて市民で溢れ、商店街などが存在していたそこは、現在では市民の影は見当たらない。その様子を見たカヤは満足げに口角を吊り上げた。
失敗した連邦生徒会長とは異なり、このキヴォトスを完璧に管理してみせたことで、各地からの名声を獲得し、ついに連邦生徒会長の座を勝ち取るまでに至った。
今日の仕事を早々に終え、最高級のコーヒーを愉しむ。
超人の管理するキヴォトスが、そこには存在していた。
―――――
……最悪の目覚めだ。
シラトリ区から遠く離れた、矯正局の天井に、カヤは小さく舌打ちをする。
自分がこんな掃き溜めに追いやられることになったあの日から、カヤは時々夢を見るようになった。
理想と現実の乖離に頭がくらくらして、胃がせりあがってくるような感覚に陥る。
形容しがたい倦怠感に襲われていると、追い打ちのように起床の音楽が流れ始めるので、カヤはベットから這い出て朝の準備を始める。
名曲と呼ばれるクラシックも、『今日も元気に頑張りましょう』という啓発にもならないメッセージと一緒では大衆向けの俗物的な音楽に聞こえる。毎朝流れる自動音声に毒づきながら準備を進めた。
「本日もよろしくお願いします」
朝の準備を終え、点呼を取りに来た看守にカヤは慇懃にあいさつをする。
できるだけ明るい声を出し、看守からは顔が見えないほどに深々と頭を下げる。
矯正局に収監されて、これまでの行動をカヤは深く反省した。
そもそもほかの愚民に期待するのが間違いであったと気づいたからだ。
カヤの完璧な政策を理解できないどころか、現状の地位に固執し続けるゆえに、将来の連邦生徒会長に反旗を翻すような愚図を信頼するほうがばかげている。
そのことを一人監獄で悟ったカヤの心境は穏やかであったうえ、己ながらこの器の広さと、決断力には驚きを禁じ得なかった。
彼女たちを導くために再び立ち上がろうと考えたのが、一週間前のこと。
それからは模範的であるように努めた。
本来、管理するはずの者から管理されている事実に、はらわたが煮えくり返る思いだったが、気持ちを殺し、淡々と従い続ける。
頻発する脱走騒ぎもカヤの優等さを相対的に押上げ、遠くないうちに模範囚になるであろうと肌で感じていた。
―――――
朝食を終え、カヤは作業場へと向かう。
鉄製の扉を開けると、消毒液と錆びた鉄の臭いが鼻をつく。部屋にはまるで夜明けを迎え損ねたような暗がりが広がっていた。
外から聞こえる雨音が、静まり返った空間にじんわりと染み入る。
暗闇の中でも迷うことなくスイッチを押すと、乾いた音とともに蛍光灯が灯り、降り注ぐ無機質な光に、カヤは細い目をさらに狭めた。
白い光に目が慣れたころ、最奥のテーブルでうずくまっていた物体が動き出した。
「おはようございます。古舘さん」
カヤが声をかけると、古舘と呼ばれた生徒はのそりと顔を上げる。
「あ、どうも、不知火さん。もうそろそろ始まりますかぁ?」
「いえいえ、まだ時間はありますよ」
「それはよかったです。またどやされるところでした」
その言葉を聞いて、古舘は深くかぶった帽子の奥で安堵の表情を見せた。
そして、大きなあくびをしながら立ち上がり、カーテンを開けた。
カヤは古舘にそっと近づき、上着から取り出したプリンを差し出した。
古舘のような責任感の欠如した人間は、本来ならばカヤの最も忌避する人種なのだが、不便な監獄生活では協力者は欠かせない。
彼女にはたまに出てくるデザ-トを"差し入れ"ることでいろいろと融通を図らせている。
「ここの監視カメラ、昨日から故障中なんですよ」と堂々とプリンを食べ始めた古舘を横目に、カヤは顎に手を当てる。
ここ最近は素行が改善した影響で、コーヒーや新聞などは彼女に手配せずとも入手できるようになっている。
この女から得られるリターンよりもリスクが大きくなってきているのが現状だ。
この女を矯正局に告発して、矯正局に借りでもつくろうか。
窓に付く水滴を眺めながらのカヤの思考は、扉が開く音に遮られた。
音の方を振り返ると、カヤの張り付いたような笑みがわずかに崩れた。
少し紫がかったグレーの髪に、長い狐耳を携えた少女を視界にとらえる。
「おはようございます。ユキノさん」
「おはよう。ぼうえいしつちょ…、カヤ」
すみません、まだ慣れていなくて、と頭を下げるユキノ。
カヤはゆっくりと息を吐き、無理やり口角を押し上げる。
FOX小隊のリーダー、七度ユキノ。
私に絶対的な忠誠を誓っていた優秀な道具。
だが、自身の劣化であるRabbit小隊に敗北した挙句、そのウサギと共謀して私を失脚させた反逆者。
彼女たちと矯正局で再会したときは目を疑ったが、大方、あの大人にでも切り捨てられたのだろう。やはり、彼女たちを適切に使ってやれるのは私だけだ。
彼女たちとは班が異なるせいで、今まで接触することは叶わなかったが、これは千載一遇の機会になる。
「そういえば、先日、囚人同士のトラブルを仲裁したと聞きました。……同時に、許可されていない行動をとったことで、罰を食らったとも。
はぁ、自分たちの管理能力を棚に上げ、責任を押し付けるとは。まったく、残念な話です」
カヤが視線を古舘に向けると、ユキノもそちらを見やる。
古舘はいつの間にか椅子の上で舟をこいでいて、テーブルの上に空のプリンの容器を放置している。
ユキノは緋色の瞳を大きく見開き、その表情は言葉を失っているように見えた。
「……でも、これは私が選択したことだから。後悔はないし、処罰にも受け入れるよ」
直後、頭上で何かが弾けるように切れ、光が一気に失われた。古舘が椅子から転げ落ち、鈍い音が響き渡る。
ユキノの声と足音が聞こえる中、カヤは細長い瞳孔を見開いたまま、ただ立ち尽くしていた。
おかしい。
以前は、『私の選択だから。後悔はない』などという言葉は彼女から出てくることはあり得なかった。
こちらを見ているはずのあの目、それはどこか遠くを見ているようで。
まるで、あの大人のような……。
「おい! 囚人番号13967! 不知火カヤ! 聞いているのか!」
看守に全身を揺さぶられ、急に現実に返る。
見渡すと、胸に忌々しいカイザーのロゴを携えた業者が蛍光灯をいじり、古舘と話し合っている。
ユキノの姿はなかった。
「ここは今週いっぱい点検をすることになった。なので、ほかの囚人同様、お前もA棟で作業するように」
「その、すみません。実は体調がすぐれなくて……」
今日は刑務作業をやるような気にはなれない上に、ユキノの顔を見たくないというのが本音だった。
「……たしかに、彼女、今日は体調が悪そうでした。この天気というのも関係があるのかもしれませんね」
業者と話し終えた古舘が割って入る。
彼女の言葉で、こちらに向けられていた訝しむような視線が消える。
「そうか。では今日はもう休め。古舘、私も持ち場に戻る。任せたぞ」
「はい、お任せください」
―――――
「では、お大事にどうぞ。何かあったら呼んでくださいね」
「……えぇ、ありがとうございました」
ぎこちないウィンクをする古舘にカヤは頭を下げる。
先ほどの古舘の機転は役立った。他の看守からの信頼も厚いようで、まだ利用価値はありそうだと、彼女への評価を訂正する。
トイレに向かい、去り際に古舘から受け取った新聞を広げる。
かつては気にしていなかったが、想定している以上にキヴォトスの治安は悪化していた。それを受け、カヤはクロノス社が発行している新聞を読むようになった。
いつも通り、社会や経済が載っているページを開こうとすると、とある記事が目に飛び込んでくる。
『月影祭、一般開放 シャーレの先生も参加』
内容は山海経が祭りを一般に開放したというもの。
たしかに伝統を重んじ、閉鎖的な傾向にある山海経が一般の参加を許可したというのは意外だが、シャーレの先生という単語を見て、新聞を持つ手に力が入る。
シャーレ。
突如失踪した連邦生徒会長が用意した超法規的機関。
連邦生徒会の一部門という立ち位置ではあるものの、その権力は各学園を超越し、あらゆる生徒間の問題に介入することが可能。
実際に三大校を中心に様々な学園と交流を持っており、シャーレには多くの生徒が出入りしているということも耳に入っていた。
そのシャーレの唯一の構成員である先生は、全ての生徒の味方を宣言していて、様々な生徒の困りごとや学園間のトラブルを解決しており、この矯正局内でも活躍の話が絶えない。
……だが、そんな権力を手に入れて、人は正気でいられるだろうか?
噂の中には、生徒の足を舐めただとか、全裸で走り回っただとか、そんなものもある。
いくら生徒会長が用意したといっても、突然来た大人に巨大な権力を与え、それに従うなど正気の沙汰とは思えない。
今も腹の下ではキヴォトスを掌握するための計画を実行しているに違いない。
だからこそ、その権力に首輪をつけ、制御しようとしたが、逆にこんなところに追いやられる羽目になった。
Fox小隊に妙な入れ知恵をしたのもあの大人だろう。味方だといい、甘い言葉で生徒を操ろうとする、卑劣な大人の策。
体の底が煮立つのを感じ、奥歯をかみしめる。
必ず、必ずここを出て、私をこんな目に合わせた責任を取らせてやる。
キヴォトスを奴から救うのはこの私だ……!
大きく息を吐き、トイレから出ると、刑務作業を終えたほかの囚人が食堂に向かっていく姿が見えた。
鉄格子越しの空からも宵の明星が顔をのぞかせている。
くしゃくしゃになった新聞をベットの下に隠し、自分の番が来るまで、監獄の前でじっと待った。
―――――
「そういえば、聞いた? あの話」
「うん、聞いた聞いた。あれでしょ? 七囚人が捕まったっていう」
夜中、話し声で目が覚めた。
看守の中には夜中の見回りで時々雑談をしている者がおり、その内容もくだらないものばかりだ。
心の中で舌打ちをし、再び意識を鎮めようとした時、七囚人というワードに宙にあった意識が覚醒する。
「五塵の獼猴が明日ここに移送されるみたい。玄隆門が捕まえたんだって」
「え? わたしはシャーレが捕まえたって聞いたよ?」
仕事の多くを部下に任せていたので、防衛局時代にも何度か手配書を見た程度だが、五塵の獼猴は七囚人の中でも凶悪な犯罪を犯していたと記憶している。
七囚人は私が連邦生徒会長になったのちに対処しようと考えていたが、何者かが捕まえたようだ。それがたとえシャーレであっても、檻から逃げた獣が、善良な市民を襲うことに比べれば些細なことだ。
「なんにせよ、トラブルが起こらないといいけど」
「分かる。暴れだしたら私らだけじゃどうしようもないもんね」
かつての立場ならともかく、受刑者になっている現在では、関わるなんて百害はあれども一利もない。相手も受刑者となるならばなおさらだ。
耳を澄ませれば、看守の話題も移り変わっていた。薄目を開ければ、月明かりが部屋を薄く照らしている。
カヤは再び目を閉じ、暗闇に意識を投げ出した。
―――――
あくびを噛み殺しながら食堂に向かっていると、廊下で話し合っている二人組がいた。
なにやらもめているようで、片方は声を荒げ、今にもつかみかかりそうな勢いだ。
こういった騒ぎは珍しくもなく、普段なら迂回か素通りを選択する。
しかし、食堂に通じる道はこの道しかない上に、無視をするわけにもいかない。
面倒だが、仲裁しなければ、先に進めなさそうだ。
「すみません。道を開けていただけますか?」
「あ?」
二人組の、怒っている方に話しかける。
彼女は顔だけをこちらを向け、低い声で威圧してくる。
不機嫌を隠そうともしない態度にため息をつきたくなるが、ぐっとこらえ、努めて笑顔で対応する。
「もう朝食の時間ですから、そこを通りたいのですが」
「知るか。アタシはこいつに用があるんだ」
「だから何度も言っているじゃあないか。あれはもう終わった事だ。私にも君にも関係がない、彼女自身の問題さね」
詰め寄られていた方が、あきれた様子で反論する。
白と黒の髪を二つに束ねており、スタイルの良さが囚人服越しでも伝わる。
見慣れない顔だが、初めて会った気はしない。
「はあ? お前の薬のせいでアタシの友達はあんな目に合って……。アタシもその治療費のために法外な仕事をする羽目になったんだぞ!!」
ポニーテールの生徒が肩で息をしながら真っ赤な顔でまくしたてるが、片方の生徒は表情を一切変えずにその様子を見守る。
「いい加減にしてくれ。何度も言うが、それが私に何の関係がある? これ以上邪魔をするなら……」
「まぁまぁ、それくらいで。あなた方の間に何があったのかは測りかねますが……、これ以上騒ぎを起こしては看守が様子を見に来てしまうかもしれません。また今度にしてみては?」
ポニーテールの生徒が無言でこちらを睨みつける。
廊下に静かな緊張が走り、暫しの時間が経った後、彼女は舌打ちして足早に食堂に向かっていった。
私はその姿を見送り、ツインテールの彼女の方に向きなおす。
「感謝するよ。妙な言いがかりをつけられて辟易していたところだったのさ」
「災難でしたね。まぁ、こんなこともありますから。あまりお気になさらず」
では、と会釈をして別れようとすると、彼女に呼び止められる。
振り向けば彼女の手がこちらに差し伸べられており、その手をおずおずと握ると、彼女の顔がにこりと緩む。
「私の名は申谷カイ。よろしく頼むよ」
その言葉の意味を、カヤの脳が理解する。
瞬間、全身の毛が逆立った。
握っていたはずの手は、柔らかな人の肌であるはずなのに、これは、得体の知れない、冷たい何かだ。
思考より先に体が動き、カヤは半ば突き飛ばすようにその手を振り払っていた。
再び彼女の顔を見つめると、遠い記憶の中の手配書と、現在、目の前にある妖しい笑顔が重なる。
「おや、もしかして私のことを知っているのかな? ククッ……喜ばしいことだねぇ。いや、むしろここだからこそ、なのかな?」
カイが喉を鳴らし、楽しげに笑う。
狂気をはらんだ笑みにひるみそうになるが、震える喉を開くため、いつもより大きな声を出す。
「えぇ、矯正局で少し話題になっていたものですから。……ですが、以前に何をしていても、ここで再びやり直せばいいのです。ここはそういう場所ですから」
「申し遅れました。私、不知火カヤと申します」
再び差し出した手をカイがとることはなく、ただ、その瞳を細めるだけであった。
―――――
食事を終え、作業の間もカヤは今朝のことを思い出していた。
朝食の時間ギリギリになった上に、事故とはいえ、カイと接触してしまった。
来て早々に問題を起こしているあたり、彼女の厄介さがうかがえる。
とにかく、これ以上の接触は避けなければならない。
仕事をこなしながらそんなことを考えていると、終わり間際に古舘がやってきた。
彼女のいつもとは違う雰囲気をまとっていて、超人の勘が警戒を告げている。
「どうもこんにちは、不知火さん。今日も労働お疲れ様です。真面目に働いて、仕事も丁寧だと看守の間でももっぱらの評判ですよ」
「ありがとうございます。私としては当たり前の事を行っているだけなのですがね」
単純作業は手を動かすだけでいいので、好きではないが楽ではある。運動の時間などに比べると、どちらかと言えば好きに分類されるかもしれない。
「それで、本日窺ったのはですね、本日新しい囚人が入ってきまして、彼女、少しだけ問題がある生徒なんです。ですから部屋の選定に困ってまして。……それでお願いというか、報告なのですが」
不穏な妄想の足音が大きくなる。
今日入ってきた囚人とはつまり――。
「おや、こんなに早く再開することになるとは」
牢屋の中の女は、こちらの姿を認めると目をわずかに見開く。
私が牢屋の中に入っても、彼女はそこからいなくなったりはしなかった。
今朝とは異なる風景に居心地の悪さを覚える。
「すみません。私の意見は聞き受けられず……。真面目で、優秀な不知火さんにしか頼めないとのことで、このような決定になってしまいました」
固まっている私をよそに、古舘は一連の説明を終えるや否や足早に立ち去っていった。
その後ろ姿に恨めしい視線を注ぐが、彼女の小さな背中に溶けるのみで、深く吐いた息も虚空に吸い込まれるだけであった。
先ほどの古舘の言葉を思い出す。
『真面目で、優秀な不知火さん』。
今のところは狙い通りの印象を抱かせることができているようだ。
だが、私がここから出ることはいまだ叶わない。
納得はいかないが、それが事実であることを認識するには十分な時間が過ぎた。
作業も同じ班になるだろうと頭を悩ませていると、申谷カイの姿が目に入る。
彼女は静かに檻の先を眺めており、とても凶悪な囚人には見えない。
「申谷、カイ」
漏れ出した声が自分の耳に入り、とっさに口を押えるがもう遅かった。
カイがゆっくりとこちらに視線を向ける。
「……不知火カヤ、といったかな? 私に何か用でも?」
「あぁ、すみません。少し今朝のことを考えていまして」
口を開くとこわばっていた表情が幾分かほどけた気がした。
目の前の生徒はいくらかの逡巡の様子を見せ、今思い出したと言わんばかりに手を叩いた。
「ん? ……あぁ、そんなこともあったねぇ。まったく、優秀な者は孤立するのが世の常ではあるが……。その責任をこちらに押し付けないで欲しいものだ」
カイの視線は床に注がれ、その表情をうかがい知ることは叶わないが、きっと、今朝のような無機質な顔をしているのだろう。
失念していたが、彼女は一度矯正局を脱獄している。
時折向けられる牢屋外からの視線が、彼女の立場を物語っている。そこには囚人からの怨嗟の視線だけでなく看守の恐怖や警戒の視線も少なからず混じっていた。
……もし、もし仮に。
矯正局内で持て余している彼女を御してみせたら? 不真面目看守を告発するよりもはるかに大きな貸しを作ることができるのではないか?
とはいえ、このままおとなしくしていれば、そう遠くないうちにここを出られる可能性は高い。
彼女と関わって、逆に機を逸する可能性すらある。
利口な策とはいえないだろう。
……と凡人ならば考える。
真に有能なものはリスクよりリターンを取る勇気がある。
一刻も早く矯正局を出るには多少のリスクは背負うべきだ。
「ふむ。どうやら、いろいろな人から恨みを持たれている様で……。ああ、いえ、別にそれ自体を責めているわけではありませんよ。
残念ですが、世の中にはどうしてもこちらの話を聞かない人間もおりますので」
一息つき、カイの方をちらりと見る。
彼女は私を隅々まで見ており、彼女のこちらを探っているのを隠しもしない態度に、どこか懐かしさすら感じる。
問題ない。腹のうちならば散々探りあってきた。
「そこで、ちょっとした提案なのですが、同じ部屋になった同志ということで、協力しませんか?」
「協力?」
「ええ。自慢ではありませんが、私はここの看守と仲が良く、また、彼女たちからの信頼も篤いです。たとえほかの囚人に何かされても私がいれば、誤解だとすぐ気づいてもらえるでしょう」
「なるほど。……確かに私にとって益になる提案ではあるねぇ。だが、それを行う君のメリットは何かな?」
「メリット、ですか。そうですね、特に考えてはいなかったのですが……。では、私の話し相手になってはいただけませんか? 広い牢屋にひとりきりではどうにも退屈で」
出来るだけ明るいトーンで、あらかじめ考えておいた提案を言い放つが、カイは何も言わずにこちらを見続ける。
牢の中には静寂が広がり、固唾をのむ音すら聞こえる。口の中は乾き、呼吸をするのもはばかられる。
緩やかな静寂は次第に張り詰め、緊張を帯びて空間を満たす。
無限にも感じられる時間が過ぎたころ、カイの口が弧を描くように伸びた。
「残念だが、そこまで興味のあるものではない。……だが、君には今朝の恩もある。クククッ、いいだろう。君の提案に乗ろうじゃあないか」
「そうですか。いやあ、良かった。では、お近づきのしるしといっては何ですが、ボードゲームでもいかがです? カイさん、チェスの心得は?」
「知人と何度か対戦したことはあるが……、まぁ素人の範疇を出ないとも。ククッ、お手柔らかに頼むよ」
手のひらにうっすら滲んでいた汗を拭い、ベットの下からチェス盤を取り出す。
チェスは防衛局時代前からの趣味だが、今まで連邦生徒会長以外には負けたことはない。
想定していた返答とは異なるが、結果的に交渉は成功と言えるだろう。
ゆくゆくは彼女を私の話術で懐柔し、有効的に活用してみせよう。
カイを見れば、その視線は盤上に向けられ、白魚のような手にはポーンが握られている。
彼女にとって自分はクイーンか、あるいはキングか。
だが、どちらでもいいことだ。
結局のところ、私はプレイヤーなのだから。
駒はそろい、盤面は着々と整っている。
あとはチェックメイトに向けて動かすのみである。
カヤは手早く駒をそろえると、相手のいない対局に勝利するための策を練り始めた。
―――――
月光が差し込み、明かりのない牢屋に二つの影が照らし出される。
カイが来る前もこんな満月の夜であったと、カヤは横に結ばれた瞼の奥の、その静な瞳を月光のもとにさらす。
視線を戻せば、チェス盤の上で悩まし気に揺れ動くポーンの駒と、目を細めた一人の少女。彼女は夜風に白と黒の髪を遊ばせている。
私の予想通り、最初のころはカイに対して嫌がらせや直接的な攻撃を行ってくる輩が多かったが、それも数日の事。
それらを軽くいなしているうちに、いつの間にか陰口や陰湿な嫌がらせにシフトしていた。
ただ、予想外だったのは彼女の錬丹術や薬学に対する知識量だった。
五塵の獼猴は薬に関係する犯罪が多いと聞いていたが、薬品倉庫の整理の時に、一目見ただけで容器の中身を全て言い当てたときは、白衣をたなびかせる彼女が目に浮かんだ。
「カイ。貴方はどこでその知識を?」
「ふむ、大した話ではないんだがねぇ。……昔、ある場所で不老長寿の研究をしていたのさ。
あぁ、あの研究室が懐かしい。フラスコの数も、萬年参の色つやも、燃えるような仙丹の力も。すべて昨日の事のように思い出せる」
「不老長寿ですか。確かに夢のある話です。どんなに優秀な人間であってもいずれは朽ち果てる。古くから研究され、未だにその軌跡をなぞる人がいるのも理解できます」
「そうだ。だが、仮に死への恐怖を克服したのであれば、それはもはやかつての人間と異なる存在と定義される。そうなって初めて、我々はさらなる存在へと昇華できるのさ」
カイの声は次第に大きくなり、表情は興奮を帯びる。
チェス盤に身を乗り出し、前傾姿勢の形になる。駒のいくつかが床に落ちるが、彼女の口は止まらない。
「人間はみな欲を持っている。そこに大小もなければ善も悪もない。それが人の本質なのだからね。夢、という言葉に婉曲され、社会において一定以上の指示を得ているのがその証拠ともいえるだろう」
牢屋からはいつの間にか声のみが聞こえるようになっていた。
カイの視線は今までになく熱を帯び、紡ぐ言葉は、彼女以上に雄弁だ。
「だからこそ、凡夫の願いを叶え、我々の究極的な目標をかなえるために、私は仙丹を完成させなければならない」
カイは一通り話し終えると、手に持っていた駒を置き、壁を見つめる。
「……とはいえ、かつてとは状況が変わった。今は生徒として身の振り方を考えているところさ」
カヤは口を開くことができなかった。全身に鳥肌が立ち、一つの壮大な映画の予告を見たような高揚感が立ち上る。
彼女の知識量と技術が組み合わされば、不老長寿も不可能ではないのかもしれない。
だが、重要なのはそこではなく、自分の力の使い方を理解し、必要な行動を起こしていたという点だ。申谷カイがキヴォトス屈指の犯罪者? そんなだからここの治安は悪いのだ。
「すまないねぇ、ゲームの途中だったというのに」
「いえいえ、むしろ感動しました。自分の力の使い方を分かっている、貴女のような存在が排斥されることに疑問を持ちましたよ」
世辞やおだてるための言葉ではなく、これは心の底からの賛辞であった。
落ちた駒を拾おうとするが、手の震えが止まらない。
ふいにカイと手が触れ合うが、そこにかつての気味の悪さはなく、それはまさに、偉大な研究者のような、十分すぎるほどの熱を持った手であった。