時刻は、2018年11月8日、18時半。
山奥の温泉付き小屋で、
祈月が真人の胸を撫でていた、そのちょうど同じ頃。
──虎杖悠仁は、地獄の底にいた。
場所は、呪術高専の臨時療養所。
壁の色はくすみ、
空気には薬品と乾いた血の匂いが漂う、
寒々しいコンクリートの部屋。
虎杖の隣には、
まだ"無為転変"による傷の癒えない乙骨憂太。
そして伏黒恵。
その正面、無言で横たえられているのは——
脹相の遺体だった。
脹相。
かつては敵だったが、
突如、“兄”と名乗って味方してくれた存在。
渋谷事変後の絶望と混乱の中、
虎杖に寄り添うことで支えてくれた存在。
その遺体は、胴体から上下で真っ二つに裂けていた。
切断面はあまりに鋭く、僅かな肉片すら繋がっていない。
——祈月の切断バリアによる、即死の一撃。
虎杖の手は、震えていた。
それでも、目を逸らすことだけはしなかった。
脹相の顔を、兄の死を、まっすぐに見据えていた。
虎杖「……あの女呪霊が……脹相を……」
「俺が、真人に勝って……加勢できていれば……!」
低く、嗚咽のように漏れる声。
それは,叶わなかった“もしも”への執着。
追いつけなかった自分への怒り。
虎杖は,祈月の名を知らない。
誰も,脹相の死の瞬間は見ていない。
だが。
虎杖は,自分が真人と戦い出すのと同時に,
脹相が,祈月と戦い出したのを見ている。
そして,乙骨が戦闘の最中に耳にした,
祈月の,真人への発言。
——「言われた通り,アイツは始末したよ!!」
"真っ二つ"の遺体。
祈月の術式。
脹相を殺したのは,祈月。
疑いようがなかった。
乙骨「……真人と、あの女呪霊を取り逃したのは……
僕の責任だ」
「……虎杖君、君は悪くない」
静かに、だが確かに届く声。
乙骨の胸にも、重い悔いが残っていた。
乙骨が駆けつけたことにより,
真人による殺害から,ギリギリで虎杖は救えた。
だが——救えなかった者がいた。
伏黒「………………」
伏黒は何も言わない。
言葉を選べば選ぶほど、どれもが軽く感じた。
沈黙だけが、三人の間を埋める。
部屋には、鈍く湿った空気が立ち込めていた。
静寂の中——
「ガラッ」
唐突に、ドアが重たく開いた。
入ってきたのは、伊地知潔高。
顔は青ざめ、呼吸は乱れていた。
伊地知「伏黒君……っ」
「……津美紀さん──君の、お姉さんが……」
声が震える。
言葉の続きを、伊地知はなかなか絞り出せない。
重苦しく,次の言葉を紡ぐ。
伊地知「……何者かに、殺されています」
————
伊地知の報告を受けた虎杖・伏黒・乙骨の三人は、
すぐさま、伊地知の運転する車に乗り込み──
向かった先は、
津美紀が入院していた病院。
空はすでに闇が落ちかけ,
車内は,
誰もひと言も発さないまま時間だけが過ぎていた。
伏黒津美紀。
伏黒恵の義理の姉であり,
中学卒業後まもなく,
謎の"呪い"により寝たきりになってしまった人物。
だが。その真相は。
黒幕は——羂索。
羂索は,死滅回遊を開催すべく。
大勢の一般人に,呪物を取り込ませていた。
——-津美紀も,そのひとり。
そして,羂索によるマーキングを施されていた。
それは,羂索が真人を取り込んだ後。
マーキング済みの,
呪物を取り込ませた一般人に
一斉に"無為転変"を遠隔発動し,
受肉体として目覚めさせるために。
だが。羂索の呪力はあまりに強大。
そのため,マーキングの際に,
寝たきりになってしまった者は多くいたのだ。
———津美紀も,そのひとり。
そして,10月31日。
祈月の乱入により。
羂索が,真人吸収に失敗した。
無為転変がなければ,受肉体は覚醒できない。
死滅回遊は開催できない。
よって,羂索は。計画を変更すべく。
一度取り込ませた呪物を,
再利用のため,回収していたのだ。
だが。一度取り込ませた呪物を,
寝たきりの人間から回収するのは難しい。
彼らはまだ受肉体になっていない。
呪物の魂が目覚めていない以上,
丁寧に"吐かせる"こともできなくはないが——
その人数は数百人にも及ぶ。
全員を丁寧に“吐かせる”など非効率的すぎる。
ぶっちゃけ,めんどくさい。
よって,羂索が取った方法は。
呪霊操術によって従属呪霊を使役し、
対象者の病室を次々と襲撃させた。
そして,その腹を裂いて,
中から呪物だけを摘出していったのだ。
だが。
この真相は———誰も知らない。分からない。
伊地知も。伏黒も。虎杖も。乙骨も。
車は裏口へと到着し、伊地知が案内した。
伊地知「……こちらです」
導かれた先は、病院の地下。
白く冷たい蛍光灯が灯る、遺体安置室。
無機質な鉄製の台の上。
そこには、白布をかけられた人影。
伊地知は、シートの端に手をかけ、丁寧に捲る。
──そこには、津美紀の顔。
そして──
腹部には、深々と裂かれた傷。
明らかに外部からの攻撃によるもの。
内臓が摘出されたような痕。
伏黒達には,真相は何も分からないまま。
津美紀の惨殺死体だけが,ただ,突きつけられていた。
伊地知の言葉が、
遺体安置所の冷えた空気の中に、淡々と響く。
伊地知「……他の病院においても、同様の被害が確認されています。
状況はほとんど同じです」
伊地知「……意識のない患者の腹部を裂き、
内部の臓器を荒らすような手口。
何かが摘出されたような痕跡もあります」
伊地知「……現場の術師たちは、“呪霊による犯行”と断定しています」
「同一犯、またはそれに近い性質を持つ呪霊の仕業と……」
言葉を選ぶようにして話す伊地知。
だが、そのどれもが鋭利に三人を刺した。
虎杖「……………」
乙骨「……………」
伏黒「……………」
沈黙。
返せる言葉など、誰の胸にも浮かばなかった。
——無惨な死に様。
今もそこに、伏黒の姉の惨殺死体が,
静かに横たわっている。
にもかかわらず、彼女の死の理由も、犯人の正体も、
今なお何一つわからない。
ただ「呪霊の犯行」というあまりにも抽象的で
無力な説明だけが、虚空に投げられた。
伊地知の報告が終わり、またひとつ、沈黙が落ちる。
その中で──伏黒が、静かに口を開いた。
伏黒「………すまないが……」
「……ひとりに、させてくれ」
声は沈んでいた。
叫びも、嘆きもなかった。
ただ、魂を削り取られた者の、空洞から漏れ出るような声。
乙骨と虎杖は、それ以上、何も言えなかった。
伊地知も黙って頷き、三人は部屋を出る。
伏黒だけが、白布に覆われた津美紀の側に、取り残された。
遺体安置所の冷気が、伏黒の頬を薄く撫でていく。
伏黒は、ただ立ったまま、津美紀の遺体を見つめていた。
幼い頃から,自分の全てだった人。
典型的善人で。
呪術師として,一番守りたかった人。
それが今、無残な姿で、何も語らず、ただ沈黙している。
時が止まったような空間。
……だが。
その扉が、静かに開いた。
入ってきたのは──虎杖悠仁だった。
兄——脹相を失った虎杖。
姉——津美紀を失った伏黒。
虎杖は、少しばかり。
伏黒の心に,寄り添えるつもりだったのだ。
虎杖「……なぁ、伏黒」
その声に、伏黒はわずかに顔を上げた。
その瞬間。
虎杖の頬に──口が、現れた。
禍々しい、黒い口。
肉が裂けたように開かれたその“異物”が、
ゆっくりと動いた。
そして、低く、ねっとりと響く声が吐き出される。
それは、呪術界最悪の災厄——両面宿儺の声。
———-「契闊」