あれからどれくらい歩いたのだろう。俺たちは一つのほら穴の前に立っていた。
俺たちはその異様な雰囲気に言葉を無くしていた。ゴクリというモエカの固唾を飲み下す音もはっきりと聞こえるようだった。
そして俺は直感した。間違いなくここはネメアの獅子の住まう洞窟だとはっきりと分かった。後は中に入って獅子を討つのみだ。
「……行くか……」
そうして俺たちは、ほら穴の中へと入っていった。
暗い洞窟の中を足音を立てずに進んでいく。震えるわずかな息遣いもネメアの獅子を刺激してしまいそうで、生きた心地を感じなかった。
パキリ。
「ッ!!!」
モエカが何かを踏んだようだ。どうやら足元の骨に気付かず踏みぬいたらしい。
『バカ、何やってんのさ……!』
『ごめんなさ……!』
その時、洞窟の奥から何か言い合うような声が聞こえた。女一人と複数の男だろうか、それらが何か揉めているようだった。
「ほら、どうした?やってみろよ?」
「ぐっ……!ネメアの……獅子……!」
「ああ、そうさ。オレがお前らのいうネメアの人食い獅子だ。で、オレをどうすると言った?このオレを殺すと?言ってみろよ…?」
岩陰に隠れて様子を見る。三人ほどの男が、一つの巨影の前に剣を構えている様子が見える。
一方の巨影は、臆することなくその三つの影をただ見下ろしている。三つの影はじっとしたまま動かない。どうやら睨み合っているようだ。
いったい何が起きているのか。俺はその様子を探るためにも岩陰に隠れて様子を窺った。
「くそっ……!だああああああああああああああああっ!」
一人の男が巨影に襲い掛かる。しかし、あろうことか男が振り下ろした剣は獅子の肌を撫でるだけで傷の一つも付けれなかったのだ。
「ッ……!」
「フンっ……。ド阿呆が……」
嫌な音と共に巨影の腕が男の胸を貫いた。息を詰まらせ、少しもがいたかと思うと、あえなく男は絶命した。
ネメアの獅子はそれを確認すると、ゴミでも捨てるように男の亡骸を放り捨てた。
「ば、バケモノ……!」
「に、逃げるぞ……!」
「逃がすかよ……」
『ッ!!!』
突如、俺たちの近くで炎が炸裂した。あと少し位置がずれていたら消し炭になっていたかもしれない。
「ぐっ……!!」
「さて、どうする……?」
「こ……この……バケモノがァッ!!!」
男の一人がナイフを手にネメアの獅子に斬りかかる。獅子は微動だにすることなく黙ってそれを見ていると、男のナイフが獅子の身体をつるりと撫でた。
「な、なぜだ……。どうして……」
「学習しない奴らだな……」
冷めた声で獅子が呟く。獅子はナイフを……ナイフの刃を持つと、跪いた男の頭を取って見せつけた。
「ナイフ……。貴様ら人間には効くかもしれないが、オレにとっちゃあ、ナマクラも良い所よ……。こんなものじゃ、オレを、傷つけられん」
そう言って獅子はナイフを握り潰した。
歪に変形したナイフが獅子の足元に転がる。それは、男たちを絶望させるには十分だった。剣でもナイフでもネメアの獅子には傷一つ付けられない。ナイフを握り潰した獅子の手も、何事もないかのようだった。
背後には炎の壁が立ちふさがり、前方には絶対無敵の獅子がいる……。進退窮まった男たちは、もはや死を待つだけの哀れな子羊でしかなかった。
「た、頼む……。見逃してくれ……。何でもやるから命だけは……」
「ほう……?なんでもやるか……」
獅子の顔からフッと表情が消える。
「─────貴様たち人間は、いつもそうだ……。命の危機にある時は命乞いをし、助けを求める奴がいれば、弄び、辱める」
獅子の顔が怒りに歪み、エメラルドに光る瞳が人間を見下す。
……恐怖に身体が震えてくる。まるで俺に語りかけているみたいだ。男の恐怖が直に俺に伝わるような錯覚を覚える。
「あの時もそうだったなァ……。今も忘れやしない……。必死に命乞いをするオレの目の前で兄上を殺し、その目の前で辱められたんだったか……。何度も、何度も、何度も……」
獅子がぽつぽつと語る。この女は何を言ってるんだ……?まるで理解できない。
「オレは、何度も見てきた。この洞窟に来る奴らみんなそうだ。オレの命を奪いに来たかと思えば、オレに命乞いをする。何故だ?何故、静かにさせてくれない?オレは、お前らと同じ、ここで静かに暮らす一人の亜人だぞ……?」
「な、なにを……」
恐怖に男が声を詰まらせる。必死に言葉を搾りだそうとするも、うまく言葉にできないようだ。
「それで、どうするつもりだったんだ?オレを殺しに来たんだったか?」
「っ……!!」
「まあ、いいさ。お前たちがオレにしようとしたように……。オレも貴様らを殺してやるよ」
そう言って獅子は足元の男の背中を踏み潰した。そのままゆっくりと最後の男に近付くと、獅子は男に語りかけた。
「何か言い残すことはないか……?遺言ぐらいは聞いてやるよ」
「バ、バケモノ……!モンスター……っ!そ、そんなんだからてめェは迫害されんだよ!!!」
「チッ……!」
振り下ろした拳が男の頭に炸裂する。スイカみたいに弾けた男の頭が、ベチャリと嫌な音を立てて洞窟の壁に張り付いた。その光景を見て、俺たちの恐怖はピークに達しようとしていた。
「さて……」
ビクリと体が跳ねる。次の標的は自分たちだと本能的に察した。獅子は俺たちに気付いているのだろうか?恐怖と混乱で頭の中がぐちゃぐちゃになるようだ。
「そこでコソコソしてるお前たち。何をしている?」
「ッ……!!!」
身体中が硬直する。獅子は俺たちがここに来ていたのを分かっていたのだ。
「今日は珍しく来訪者が多いな。とうとう人間共もオレを討伐しに本腰を挙げたか?」
「っ……!」
圧倒的な存在を前に全身が硬直してしまう。意気揚々とネメアの獅子を討ちに来たのは良いが、いざこうして獅子を前にすると動けなくなるとは……。俺も随分と舐めていたものだと後悔する。
「ふゥん……。お前たちのその魂……。お前たちが噂に聞く転生者か……。それも暗黒神を打ち倒す勇者と来た……。その勇者サマがオレの縄張りに何の用だ……?」
不気味に輝くエメラルドの瞳が俺を見据える。
「お、俺は……」
剣を手にする事も忘れて、ただネメアの獅子を見上げる。もはや視線を外す事すらできなかった。蛇に睨まれた蛙とは、まさしく今の俺たちの事を言うのだろう。獅子に睨まれた俺たちは、どうすることもできなかった。
「くそっ……!」
ふと、アンリが小さく声を漏らした。瞬間、ボンッという音と共に辺り一面が濃い煙に覆われた。
「ぐっ……!?」
「逃げるよッ!!!」
グッと手を引っ張られて出口に引っ張られる。無理やり火の中を突っ切ったのか、一瞬だけだが肌が焼けるような感じがした。
外の明かりが近付いてくる。アンリに引っ張られて、俺たちは洞窟の外に出る事が出来た。腰が抜けている中無理やり連れ出されたせいか至る所を怪我しているが、そんな事を気にしている場合ではない。逃げなければ。戦うとか戦わないとか気にしている場合ではない。俺たちではアレには敵わない。逃げなくてはならない。
「アズマ!モエカ!走れるっ!?」
「ぅ……ぁぅ……」
モエカが完全に腰を抜かしている。これでは自力で立つのは不可能だろう。
「ぐっ…!俺がモエカを連れていくっ!アンリ、援護を頼む!!!」
「分かった……!しっかり付いて来なッ!!!」
震える体に鞭を打って無理やり立ち上がる。ちょっと押されればまた倒れてしまいそうではあるが、あの獅子とモエカを前では弱音など吐いていられなかった。
洞窟の出口が見える。希望の明かりともいえる出口に向かってひたすら走る。
「さあ、行くよ、アズ……」
洞窟から脱出してアンリがそう言いかけた時、突如俺たちの前で爆発が起きた。突然の出来事と、舞い上がる煙の中でたじろいでいると、背後から獅子の気配を感じた。
「逃がす訳ないだろ……?」
獅子が洞窟から姿を現した。絶体絶命の逃亡劇が始まる。