10回目の君へ   作:ミャーミャー(みやぁ)

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不思議な子

「森川さん!付き合ってください!」

緊張した空気には似合わない木漏れ日が入る体育館の裏、駆は同級生の森川里奈に告白をした。

里奈は複雑な表情をしながら答えた。

「うーんと、楠木君、気持ちはうれしいし楠木君がいい人だっていうことはわかっているんだけど、楠木君は友達として好きだから...ごめんね。」

その言葉には駆を傷つけないように気を遣ってくれた親切心が感じ取れた。

 

(また失敗した...)

自分自身がなりふり構わない性格なのはわかっている。けれど連続で振られるというのは自分に対する自信を失いそうだ。失敗した時に手に滲んだ変な汗の感覚を思い出すと胸の奥が重くなる。

「俺って駄目なのかな。」

春休みが明けて高校2年生としての生活が始まった。緑川高校前に植えてある淡いピンク色の桜もヒラヒラと散り始めた季節、駆は今年も同じクラスになった親友の藤森隼人と話していた。教室はカバンを置く音や続々と登校する生徒たちの声でだんだんと活気づいてきた

「はぁ、そんなふうに誰にでも『好きです!』とか言ってたら付き合ってくれる人なんて現れるわけねえだろ。」

隼人はあきれて肩をすくめる。

「だけどさ、好きって気持ちが生まれたらすぐに伝えないと気が済まないんだよ。この気持ちが本気の内にって。せっかく芽生えた素敵な感情なんだしさ。」

「まあそれがお前のいいところでもあるんだけどな。諦めが悪いっていうかまっすぐっていうか。」

二人がそんな他愛のない話をしているとガラガラと音がして担任の佐藤先生が教室に入ってきた。

「はい、みんな座って、HR始めるよ。今日は転校生の紹介があるので少し長くなるぞ。」

クラス中が ”転校生が来るの?” ”どんな子だろう?” と期待や興奮でざわざわし始めた。

「入ってきて。」

先生がそう言うと黒髪でミディアムカットの女の子が静かに、しかし淀みない様子で入ってきた。カツカツと彼女が足を踏み出す音が響くたびに賑やかだったクラスはだんだんと静かになっていった。整った顔、透き通るような肌、見入ってしまうほどきれいな瞳、けれどそのような美しさの中にかわいさも残る子だ。

「千里琴音さんだ。新しい環境で緊張しているだろうから早くクラスに馴染めるようにみんなも助けてあげること。」

「千里琴音です。わからないことも多いですがこれからよろしくお願いします。」

彼女の話ぶりはフレンドリーさがありつつどこか感情の起伏が少なくミステリアスな雰囲気を纏っていた。

「紹介は以上だ。えーっと一限目は数学か。山田先生がくるまでに準備しておくように。以上。」

 

一限目が終わり琴音の周りには興味を持った人たちによる人だかりができていた。

「千里さんってどこ出身なの?」

「趣味とか何かあったりする?」

琴音の周りにできた人だかりを横目に駆は隼人、田中優斗、中村美咲、小林健太のいつものメンバーと顔を合わせた。

「千里さんすごい人気だね。」

美咲が話し始めた。

「あれだけ綺麗で人当たりもいいってなるとクラスのマドンナ一直線だな。」

優斗はそう言うと羨ましそうに人だかりを見た。

「綺麗っていうかヴィーナスって感じで引き付けられる感じだよな。」

優斗は改めて呟いた。

「駆、次は千里さんか?」

健太は駆をからかうようにニヤリと笑う。

「駆ってさ、この前里奈に告って振られたんでしょ?女子の間でもけっこう話題になってたよ。」

実咲は突然のカミングアウトをした。

「はあ?一体どこから広まったんだよ。」

このことは隼人にしか話していない。まさか隼人が。いや、森川さんが自分で広めたのかもしれない。それとも誰かが目撃して...様々な憶測が駆の頭の中を巡る。

「ひみつー。ま、私ならあんたと付き合ってあげることも考えてあげてもいいけどね。」

美咲はからかい口調で話しながら駆の脇腹を肘で軽く小突いた。

「誰がお前なんかと付き合うかよ、バーカ。昔から黙ってればかわいいのに。お前こそさっさと彼氏作れよ。」

「あんですとー!」

美咲がさらに言い返そうとしたところ、隼人が苦笑しながら二人をなだめた。

「まあまあ、そんな事でケンカすんなって。」

 

午前の授業三コマが終わり学食や弁当を片手に別のクラスに行く人たちで廊下は賑わっていた。駆は隼人や所属している野球部のメンバーたちと昼食を共に食べるために、中庭にある大きな木の下にあるベンチに向かおうと席を立とうとした。その時、誰かから声をかけられた。

「楠木さん、屋上にはどこから行けばいいのでしょうか。」

振り返ると声の主は琴音だった。彼女の綺麗な瞳がじっと駆を見つめていた。

「突き当たりにある非常階段を昇ると行けるよ。けどどうして屋上なんかに。」

駆は琴音からの突然の問いかけに恥ずかしくなり少しだけ顔をそらして答えた。

「森川さんが一緒にお昼ご飯たべましょうと誘ってくれたのですが、私が手を洗いに行っている間に先に行ってしまったようで。」

琴音は困ったように首を傾げる。そのような彼女の仕草すらどこか絵になる。

「そうなんだ。よかったら屋上まで案内するよ。」

駆は隼人に

「わりぃ、ちょっとだけ遅れる。」

とだけ告げて琴音と一緒に教室を出た。

 

賑やかな廊下を駆と琴音は並んで歩く。花壇で丁寧に育てられた花のような香りが微かにする。彼女をこんなに近くに感じると、なんだか緊張や楽しさといったものではない言葉に表せない気持ちになった。。

「楠木さんはいつも屋上で昼食を?」

少し小柄な琴音は駆と話すとき少しだけ視線が上を向く。自然と生み出された上目遣い、そんな彼女を見て駆は心臓が早くなっていくのを感じた。

「いや、いつもは野球部のやつらと一緒に中庭で。屋上に来るのは初めてだよ。なんだか誰かの秘密の場所って感じで入りづらくってさ。」

「そうですか。外で食事をとるのは開放感がありとても良いものですよね。」

彼女は窓から広く澄み渡った空を見た。

 

非常階段を昇り、重い扉を開けるとまぶしい光と春の優しい風が二人を包んだ。屋上にはほかの生徒の姿はない。空には薄く白い雲がゆっくりと流れている。遠くでは市街の活気づいた音が聞こえる。そんな日常を感じつつも駆にとってここは別の空間のように思えた。

「わぁ...」

琴音は屋上から見える景色にため息をつき、きらめく瞳で空を見上げた。そんな彼女の表情は教室で見せた表情よりも生き生きとしていた。

「森川さん、まだ来てないみたいだね。」

駆は周囲を見渡した。琴音は再び駆に視線を戻した。

「そうですね。もしかしたら私がなかなか来ないから学食に行ってしまったのかもしれません。」

彼女の声からは悲しみは感じ取れなかった。むしろこの状況を楽しんでいるようにも見える。

「これからどうするの?」

駆は琴音に尋ねた。

「ここで食べようと思います。こんなきれいな景色なかなか見れるものではありませんし。」

「そうか、じゃあ俺はこれで。」

駆は隼人たちの待つ中庭へ向かおうと扉へ歩いた。琴音は駆を呼び止める様子もなく木製のベンチに腰を下ろして弁当を食べ始めていた。

 

駆は屋上への扉を閉めて非常階段を下り始めた。中庭はすぐそこだが駆の歩みは遅くなった。駆の頭の中には一人で弁当を広げている琴音の姿が残っていた。

(あの言い方、全然気にしてないって感じだったな。)

約束をすっぽかされても悲しむそぶりもなく、ただ景色がきれいだからという理由だけで一人で屋上で弁当を食べる。そんな琴音の掴みどころのない反応が、駆には少しだけ引っかかっていた。普通の女の子だったら、約束をすっぽかされた時もっとがっかりするはずだ。

(俺には関係ないよな...)

自分に言い聞かせるように階段を数段降りたところで駆はぴたりと足を止めた。そして何かを考えるように頭を掻いた。

(やっぱり気になる、どこかほっとけない感じがする。)

駆は踵を返し再び非常階段を駆け上がった。そして琴音がいる屋上の重い扉を勢い良く開けた。琴音は扉を開ける音に驚き口に運ぼうとしていた玉子焼きを落としそうになった。彼女は少しびっくりした表情をしていた。

「楠木君、どうかしましたか?何か忘れ物でも?」

教室で見せた声色とはまた違っていた。まるで、誰にも見られていない、飾らない素の彼女の声、少しだけ幼い響きが、駆の心に妙に残った。

「いや、もう結構時間経ってるから俺もここで食べようかなって。」

駆はそういうとわずかに緊張しながら琴音の隣にどかっと座った。弁当を広げながら彼は琴音のほうをちらりと見た。彼女は空を見上げ、ほんの少し口元を緩めていた。

(楽しそうに食ってるな...)

駆の胸の中に、少しだけ安堵と、また別の好奇心が湧き上がってきた。

 

「楠木君は藤森君とどのような関係なのですか?」

琴音が、ふと静かに尋ねてきた。その声は、相変わらず感情の抑揚は少ないものの、隣にいる駆を気遣うような、わずかな温かさを感じさせた。

「いわゆる親友ってやつだね。小学生の時からで一緒で少年団とか部活で野球やってたから。」

駆は唐揚げを一つつまみながら答えた。

「そうなんですね。長い付き合いの友人がいるというのはいいものですね。」

琴音は羨ましそうに言葉を返した。

「野球部は毎日練習なのですか?」

琴音は再び問いかけた。

「いや、基本週五日だね。毎週火曜日から土曜日まで。大会が近くなるとまた増えてきつくなるけど好きなことが思い切りできるっていうのは楽しいよ。千里さんは何か部活動とかやる予定あるの?」

「今のところ考えてはいません。いままでいろんな場所に行きましたが、特定の活動に時間を費やすことはなかったものですから。」

「いろいろな場所?何回も転校してるの?」

「ええ、まあ。」

琴音は曖昧に微笑む。その笑顔は美しいのに、どこか感情が読み取れない。完璧なのに、どこか空虚さがある。

「そうなんだ。でも、ここにいる間は、色々やってみたらいいんじゃないか?面白いこととか、楽しいこととか、結構あるもんだよ。」

駆はなんとなく彼女にそう言った。言わなくてはいけない気がした。彼の言葉に琴音は再び空を見上げた。

「楽しいこと、ですか……。」

彼女の瞳が、きらりと光る。それはまるで、その言葉の意味を探し求めるかのような、純粋な好奇心に満ちた輝きだった。 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠くから響いてきた。

「やべっ!もうチャイムだ!早く戻らないと先生に怒られる!」

駆は急いで残りの弁当をかき込んだ。駆が慌てて立ち上がると、丁寧に包んだ食べ終わった弁当箱を手に、琴音は言った。

「楠木君は、面白いですね。」

琴音は、駆の慌てる姿を見て、微かに口元を緩めた。その笑みは今まで駆が感じたことのあるものではなく、どこか温かいものだった。駆はその一瞬の表情の変化に、思わずドキリとした。

「あ、あのさ、千里さん……!」

駆が何かを言いかけたが、琴音はすでに屋上への扉へと向かって歩き出していた。

 

「あぶねー間に合った。」

駆は教室に駆け込んだ。席に着くと同時に四限目を知らせるチャイムが鳴った。

「駆、どこ行ってたんだよ。」

授業開始の礼が終わった後隼人が後ろから小声で話しかけてきた。

「千里さんに校内を案内して回ってたんだよ。」

嘘のように聞こえたかもしれない。だけど校内を案内したのは事実だ。屋上だけだけれど。

「森川とは一緒じゃなかったのか?森川、千里さんのこと探してそうだったけど。」

「え?森川さんが?」

てっきり森川さんはいなくなった千里さんを置いて学食にでも行ってしまったとばかり思っていたのだ。楽しそうに千里さんと話していたのだから心配して探しに行くのも当然か、と駆は今更ながらに思い直した。

「っていうかお前千里さんと一緒にいたのかよ。早速次の恋を見つけるためか?それを優先して俺たちはお払い箱ってことかよ。全くひどい話だねぇ、駆は。」

隼人はふざけているような口調でニヤニヤしながら駆の背中をつついた。

「そんなんじゃないよ。第一まだ会ってから一日も経ってないんだぜ。ただ、本当に...なんていうか困ってそうだったから教えてあげただけだよ。」

駆は早口になりながらも弁明をした。

「ふぅん。」

隼人は若干の疑いの目を向けながらも既に黒板に書かれた用語を淡々とノートに写し始めた。

 

授業が終わり駆と隼人は部室へ駆け足で向かっていた。掃除が少し遅れてしまったのだ。土と汗のにおいが残る部室に入ると、メンバーたちは既に着替え終わってグローブやスパイク、ボールなどを持ってグラウンドへ向かおうとしていた。

「おっせーぞ、駆、隼人!」

先に着替えていたメンバーの一人、吉田大樹が二人をせかせるように言った。

「わりぃ、掃除がな。」

駆は息を切らしながら弁解しロッカーへ向かう。隼人も慣れた手つきでテキパキと着替え始める。

(そういえば千里さんってどこか見学に行ったりしてるのかな。)

駆の頭の片隅には、屋上で一人弁当を食べる琴音の姿がちらついていた。しかし、今は切り替えだ。野球の時間が始まれば、余計な思考は全てグラウンドの土埃の中に消え去るだろう。

 

駆は部室を出て練習しているほかの部活を横目にグラウンドへ向かう。既に集まった部員たちは軽くストレッチや練習の準備をしていた。

「集合!」

キャプテンの横地謙太の声が響く。

「今日の練習メニューは守備練習中心にやるぞ。練習試合も近いしそこに向けて内外野の連携とかの確認をしていこう。」

キャプテンの話が終わると、チームメイトは一列に並びグラウンドに礼をする。軽いランニングなどのウォーミングアップを終えると、キャッチボールが始まった。駆は大樹とペアを組み、ボールをしっかりと指にかけて投げる。グローブにボールがパシッと乾いた音を立てて収まる。この時が駆にとって野球が楽しいと思える瞬間だ。

「ナイスボール!」

ボールを投げると大樹から声が返ってくる。キャッチボールは会話だというのも納得できる。互いに信頼していなければ思い切り投げることなんて出来ない。

「今日はボールに力、伝わってるな。」

今度は大樹が投げる。強いボールが一直線に駆の元へ飛んでくる。

「よっと。そっちもいい球じゃん。ただもう少しコントロールよく投げてくれよ。」

駆は軽くジャンプをして返ってきたボールをキャッチする。センターである大樹は肩が強い。ただしコントロールはいまいちだ。

「はは、ごめんごめん。」

大樹は笑って軽く謝る。駆は再びボールを投げる。

「そういえば今日なんで昼来なかったんだ?」

大樹は今日の昼の件について尋ねた。

「ちょっと色々あってね。転校生が来たって話は聞いた?」

「ああ、聞いたよ。噂程度だけどね。」

「その子から学校案内してくれって言われてさ、それに付き合ってたってわけ。」

「そうだったんだ。駆ならほっとけないか。」

大樹は納得した感じで答えた。

「キャッチボール終わり!ありがとうございました!」

キャプテンの大きな声が響き渡った。

 

キャッチボールが終わった後はボール回しをする。ショートを守っている駆は2塁ベースへ向かう。2塁ベースには既に先輩であるセカンドの吉岡誠がいた。

「楠木、送球カバー忘れるなよ。そういう基本が守備では大事だからな。」

吉岡は駆とともに二遊間を守っているが派手なプレーを好む駆とは対照的に堅実なプレースタイルである。駆の派手なプレーはチーム全体の雰囲気を良くするがその一方で粗さが目立つ。吉岡はそんな駆の良さを認めつつプレーの雑さを減らしてほしいと思い基礎基本を口酸っぱく言っている。

「はいはい、分かってますよ。」

駆は耳にタコができるほど聞いた言葉を軽く受け流す。三塁ベースにいる横地からボールを受け取り、一塁ベースにいる垣内純也へ投げる。次は一塁ベースから受け取り3塁ベースへ。時計回り、反時計回り各2周を終えた。

 

「よーし、ノックいくぞー!」

バットを構えた監督の声がグラウンドに響く。選手たちはそれぞれのポジションにつき、緊張感が高まる。駆はショートの位置で低く構え、飛んでくる打球に神経を集中させた。 監督が放った最初の打球は、ショートの定位置を狙ったゴロ。駆は軽快なフットワークで前でボールをさばく。そのままファーストの垣内へ正確な送球を見せた。

「送球OK!」

垣内の声が飛ぶ。

(よし、今日は吉岡先輩に文句言わせねーぞ)

駆は内心で気合を入れ直す。だが、ノックは容赦なく続く。次々に飛んでくる打球を処理していくうちに、駆のプレーに少しずつ粗さが見え始めた。深い位置からの送球が大きく左へ逸れた。

「楠木!焦るな!基本に忠実に!」

吉岡の声が再び飛ぶ。駆は「くそっ」と小さく舌打ちをした。頭では分かっていても、体が反応してしまう。その瞬間、彼の脳裏に、琴音の、どこか掴みどころのない表情がよぎった。 (あの、不思議な空気感……楽しいって、どういうことなんだろうな) 一瞬、集中が途切れる。その隙を突くように、監督のバットが放った打球は、ショートとサードの間を抜けるかという鋭いライナーになった。

「やばい!」

駆は本能的に一歩横へ飛び出し、地面すれすれの低い体勢からグラブを伸ばした。ボールは、グラブの先端に鈍い音を立てて収まった。そのまま勢い良く立ち上がり、一塁へ正確な送球。「おおっ!」周囲からどよめきが上がる。 「ナイスプレー、駆!」隼人が声をかける。 吉岡は、眉間にわずかに皺を寄せながらも、小さく頷いた。「まあ、お前らしいな…。次はもっと基本に忠実に最初の動きを大事にな。」 呆れたような口調の中に、微かな信頼が感じられた。駆は汗を拭いながら、小さく息を吐いた。

 

練習がが終わり、駆は部室を後にした。駐輪場へ向かい赤い自転車を漕ぎ始める。赤い自転車は父の浩介から”自転車は目立つほうが盗まれにくい”と言われて高校進学の際に選んだものだ。初めは派手な色に抵抗感があったが今ではお気に入りだ。

学校を出て大通りへ向かう。大通りを右へ曲がると左手に図書館が見えてくる。たまに駆が勉強する場所だ。

(いつもなら少し勉強するんだけど、)

今日はなんだか勉強する気分ではない。まだ半日しかたっていないのに、琴音の姿が駆の頭の中に繰り返し浮かんでいた。あの完璧なのにどこか空虚な笑顔、そして『楽しいこと、ですか……』と呟いた時の、あの瞳。彼女にとって『楽しい』って、どんな意味なんだろうか?その答えの検討は全くつかなかった。ただその疑問だけが頭に残り、駆は図書館の隣を通り過ぎた。

 

「ただいまー。」

家に帰ると母の咲良が料理を作っているのかおいしそうな匂いがしてきた。

「おかえりー洗濯物とかお弁当出しておいて。」

「はーい」

駆は弁当箱を台所に置いた後風呂場へ向かいバケツに水を張り、その中に汚れた練習着とつけ置き用の洗剤を入れる。そして手慣れた手つきでグローブやスパイクを磨いた。

 

夕食時、食卓には父の浩介と母の咲良、そして一つ年下の妹の陽菜が揃っていた。温かい味噌汁の湯気が立ち上る。

「駆、今日の練習どうだった?」

浩介が新聞から顔を上げ、尋ねた。普段はカメラマンとしていろんな場所を飛び回っているが、今日は久しぶりに家に帰ってきていた。

「んー、まあまあかな。ノックで危ないところもあったけど、最後はなんとか切り抜けられた。」

駆は答えながら、どこか上の空だった。頭の片隅には、まだ琴音の

(楽しいこと、ですか……)という言葉が引っかかっていた。

「へえ、なんかすごいファインプレーでもしたの?」

陽菜が興味津々に箸を止める。

「まあな。でも、そういう派手なプレーより、地味でも堅実にこなすのが大事だって、吉岡先輩がうるさくってさ。」

駆は苦笑しながら、今日のノックでの出来事を話す。彼自身、野球が好きで、グラウンドに立てば集中できるはずなのに、今日の午後の琴音との時間が、妙に彼の意識の中に残っていた。

「そういえば転校生が来たんだ。」

駆は話題を変える。

「へぇ、どんな子が来たの?」

咲良が聞き返す。

「女の子なんだけど...不思議な子だったんだよね。」

「不思議な子、ねえ」

浩介は箸を進めながら反応する。

「学校を案内してあげたんだけど、その反応がなんというかミステリアスっていうか浮世離れしてるっていうか。感情をあまり外に出さないそんな感じの子。」

駆は今日琴音に対して感じたことを率直に話した。彼の言葉は、琴音の「空虚さ」への戸惑いと、それを知りたいという微かな欲求が入り混じっていた。

「確かに変な子だね。お兄ちゃんがそこまで言うなんて。」

陽菜はまだ箸を止めて話を聞いている。

「ふむ…。感情が薄いというのは、ある意味で純粋なのかもしれないな。被写体としては面白いかもしれないが、人間としては大変そうだな。」

浩介は腕を組み、考え込むように呟いた。

「そうねぇ、あまり深入りしない方がいいかもしれないわよ、駆。その子を知ることは仲良くなることに繋がるけど人には詮索されたくないこともあるだろうから。転校生は特にね。」

咲良が心配そうに駆の方を見た。

「たしかにそうだね。」

駆はそう答えたが琴音のことは頭から離れそうになかった。

 

その夜、駆はなかなか寝付けずにいた。今日の出来事が頭の中でぐるぐると巡る。琴音のあの言葉、あの瞳。練習での心の乱れ。彼の心の中で、野球への情熱と、琴音への新しい感情が、混じり合っていくのを感じた。

(あいつになんて声掛けたらいいのかな)

明日への淡い期待を胸に、駆は目を閉じた。

 




こんにちはミャーミャーです。この作品が私にとっての(ほぼ)処女作になります。気に入ってくれる方がいると私が勝手に喜びます。
これから一か月に一回程度の頻度で更新していこうと思います。
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