10回目の君へ   作:ミャーミャー(みやぁ)

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楽しいこと

翌朝、駆はいつもより少しだけ早く家を出た。特別な理由があるわけではない。ただ、なんとなく。

駆は自転車を漕ぎながら、まだ朝早い時間だからいるはずもない、と分かっていても、無意識に彼女の姿を探している自分がいた。

学校前の交差点で停まっていると

「おはよー、駆。」

背後から実咲の声が聞こえ、駆はびくりと肩を震わせた。

「うわっ、実咲かよ。びっくりさせんなよ。」

「なによ、ぼーっとして。もしかして、千里さんのことで何かあったの?」

実咲はニヤニヤしながら駆の顔を覗き込む。

「違うって!そんなんじゃねえよ。」

駆は慌てて否定するが、実咲はけらけら笑っていた。

「ふぅーん、図星みたいだね。じゃ、私朝練あるから先行ってるね。」

実咲はそう言うと青に変わった交差点を渡って先に行ってしまった。駆は実咲の背中を見送りながら、小さくため息をついた。

(ばれてんのかな、やっぱり……)

心の中でそう呟きながら、駆は校門をくぐり、自分の教室へと向かった。今日の授業中、琴音の姿を目で追ってしまう自分がいるような気がして、少しだけ不安になった。

 

駆が教室のドアを開けると、既に何人かの生徒が席に着いていた。いつもの自分の席に座り、教科書とノートを広げる。ふと、琴音の席に視線を向ける。琴音は既に席に着いており、窓の外をぼんやりと眺めていた。琴音の横顔は相変わらず整っていて、どこか絵画のようだった。 転校生といっても一日経ちその話題性も薄くなり生徒たちは今まで通りの生活をしている。

(今日も、いつも通りに見えるな……)

だが、駆にはもう、彼女の「普通」が、どこか普通ではないように感じられていた。

 

一限目の国語の授業が始まった。しかし、駆は教科書の文字が頭に入ってこない。視界の端で、琴音の姿を捉えていた。彼女はまっすぐ前を向いて、時折、静かにノートに何かを書き込んでいる。その様子は真面目そのものだが、彼女の周りだけ、まるで別の時間の流れがあるかのように感じられた。

「おい、駆。寝るなよ。」

小声で隼人が囁き、駆の脇腹を肘で軽く突いた。

「寝てねえよ。」

駆は慌てて姿勢を正したが、隼人は呆れたように肩をすくめた。

(やべ、全然集中できねえ……)

駆は内心で焦るが、一度琴音の姿を意識してしまうと、なかなかその思考を断ち切ることができなかった。

 

二限目は歴史だった。担任の佐藤先生が教壇に立ち、プロジェクターで資料を映し出す。今日のテーマは、遥か昔、メソポタミアで栄えた古代文明についてだった。

「……シュメール人が築いたウルクの都市国家は、人類最古の文明の一つとされ、文字や法、そして壮大な神殿を創り出しました。しかし、数千年という時を経て、それらの文明も、やがては歴史の彼方へと消えていくことになります。」

先生の説明が続く中、駆はぼんやりと教科書に目を落としていた。歴史はそれほど苦手ではないが、特に興味があるわけでもない。彼の視線は、無意識のうちにまた琴音の背中に吸い寄せられていた。 その時だった。静かに授業を聞いていた琴音が、すっと手を挙げた。クラス中が「?」という顔で彼女に注目する。普段、積極的に発言する生徒ではないからだ。

「千里さん、何か質問かな?」

佐藤先生が優しく促す。 琴音は、まっすぐ先生を見据え、その透き通るような声で静かに、しかしはっきりと尋ねた。

「先生。栄華を極めたと仰るその文明は、なぜ、滅び去ったのでしょうか。その原因は、果たして単純な天災や、他民族の侵略だけだったと、断言できるのでしょうか。」

「うーん、千里さん、なかなか難しい質問だね。歴史の解釈は多岐にわたるし、滅亡の原因も複雑だ。多くの研究者が様々な説を唱えているが、一つだけ言えるのは、どんな強大な文明も、永遠ではないということだろうね。」

琴音は、先生の答えに満足したのか、小さく頷き、再び静かに視線を手元のノートに戻した。彼女の表情は相変わらず感情の起伏に乏しく、その言葉の真意は誰にも読み取れない。 駆は、その言葉に昨日感じた「不思議さ」が、確かな「異質性」として再燃した。琴音の背中が、さらに遠い存在になったような気がして、彼はごくりと唾を飲み込んだ。

 

午前の授業三コマが終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。教室は一斉に賑やかになり、生徒たちがそれぞれの友人たちと昼食の準備を始める。駆は、ちらりと琴音の方を見た。彼女はゆっくりと立ち上がり、弁当箱を手に、窓際の方へ向かっている。

(今日はどうするんだろ……)

駆の心臓が、少しだけ早くなる。 隼人が駆の隣に立ち、ポンと肩を叩いた。

「駆、飯どうする?」

「特に予定ないし一緒に食べるか。」

駆は隼人に返事をしながらも、もう一度、琴音の方に視線を向けた。彼女は窓の外を眺めながら、また一人で弁当を食べ始めるのだろうか。その背中が、どこか寂しげに見えて、駆の胸の奥が、再びチクリと痛んだ。

その時だった。駆と隼人の間をすり抜けるように、美咲が琴音の元へ向かっていった。 「千里さん!よかったら私たちと一緒に食べない?中庭、気持ちいいよ!」

美咲は屈託のない笑顔で、琴音に話しかけた。琴音は、少しだけ目を丸くして美咲を見つめた。その表情は、驚きと、ほんのわずかな戸惑いが入り混じっているようだった。

「……私と、ですか?」

琴音の声からは、微かな興味が感じられた。

「うん!ほら、あそこにいる駆と隼人も一緒だよ!それに、優斗と健太もいるし!」

美咲は駆たちの方を指差しながら、明るく言った。駆は、まさか美咲が琴音に話しかけるとは思わず、思わず固まってしまっていた。

「え?俺らもかよ。」

優斗は驚いた。

「委員会の仕事あるんだけどなあ。」

健太は困ったように言った。

「いいじゃん、他の委員もいるんだし一人くらいいなくたって仕事は回るよ。」

実咲はそういうと二人を引っ張って連れてきた。隼人は面白そうにその様子を見ている。 琴音は、駆たちの方に視線を向けた。駆と目が合うと、彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。それは、屋上で駆が見た、あの温かい微笑みに似ていた。

「……そうですね。では、ご一緒させていただけますか。」

琴音は静かに頷いた。

「やった!じゃあ行こ行こ!」

美咲は嬉しそうに琴音の手を軽く引き、駆たちの方へ向かって歩き出した。駆は、美咲の行動力に驚きながらも、琴音が自分たちと一緒に昼食をとることに、胸の奥で小さな喜びを感じていた。駆は隼人と顔を見合わせ、小さく笑い合った。

 

こうして、琴音は駆たちいつものメンバーと一緒に中庭で昼食をとることになった。最初は静かに話を聞いているだけだった琴音も、美咲や優斗、健太の気兼ねない会話に、時折小さく頷いたり、微笑んだりするようになった。駆は、彼女が少しずつクラスに馴染んでいく姿を、隣で嬉しく見守っていた。

 

放課後、練習に向かおうと部室へ行くと、いつもと違う賑やかな声が聞こえてきた。部室のドアを開けると、見慣れない顔ぶれが数人、緊張した面持ちで顧問の監督やキャプテンの横地、そして副キャプテンの吉岡の話を聞いている。今日から本格的に部活見学に来る一年生の面々だった。

「お、来たな、駆、隼人!」

三年生の垣内純也が笑顔で二人に声をかける。

「お疲れさまです。」

隼人が返事をすると、監督が新入生たちに視線を向けた。

「この二人は、今のレギュラーだ。藤森は正捕手、楠木はショートだ。色々と教えてもらうといい。」

新入生たちは一斉に頭を下げた。駆は彼らを見渡す。その中に、ひときわ目を引く長身の一年生がいた。佐々木涼、投手希望だと聞いている。その隣には、捕手の野村大地。そして、外野希望の鈴木陸と土屋遼もいた。

「楠木です。よろしく。」

駆はいつもの調子で軽く声をかけると、新入生の一人、佐々木涼が少し緊張した面持ちで駆を見上げた。

「佐々木涼です。よろしくお願いします。」

彼の声はハキハキとしていて、真っ直ぐな瞳からは野球への熱意が伝わってきた。

「佐々木はピッチャー志望だっけ?いい球投げるの?」

隼人が佐々木の肩をポンと叩く。

「中学の時は県大会でベスト8まで行きました。」

「おぉ、すごいな。」

駆は、一年生たちの初々しい姿を見て、去年の自分たちを思い出した。期待と不安が入り混じった、あの独特の感覚。そして、彼らがこの野球部で、どんな「楽しい」を見つけるのだろうかと、ふと思った。その時、ふと頭の片隅に、琴音のどこか寂しげな「楽しいこと、ですか……」という言葉がよぎった。

「よし、じゃあ早速、グラウンドに出るぞ!一年生はまず先輩たちの練習に混じりながら、練習の流れを覚えてくれ。」

監督の声が響き、部員たちは一斉にグラウンドへ向かい始めた。新入生たちは緊張しながらも、先輩たちの後を追う。駆も野球部の活気に包まれながら、グラウンドの土を踏みしめた。彼にとって、ここは「楽しい」が詰まった場所。そして、彼は知っていた。この場所で、きっと新たな「楽しい」が生まれていくことを。

 

部室を出ると、グラウンドからはすでに活気ある声が聞こえていた。新入生たちは少し緊張した面持ちで、先輩たちの後についてグラウンドへ向かう。広大な土のグラウンドには、すでにいくつかのグループが分かれて準備運動を始めていた。

「よし、集合!」

キャプテンの横地謙太の声が響き渡る。全員が整列すると、横地はまっすぐな目で新入生たちを見渡した。

「一年生、入部おめでとう。緑川高校野球部は、チームワークを最も大切にする。厳しい練習もあるが、必ずお前たちを強くする。三年生は最後の夏に向けて、二年生は来年を見据えて、そして一年生は一日も早くチームの一員として貢献できるように、今日の練習も全力で取り組むぞ!行くぞ、おー!」

「おー!」という力強い返事がグラウンドに響き渡り、練習が始まった。

最初は軽めのランニングとストレッチ。駆は隼人と並んでグラウンドを周回する。

「佐々木、なかなかやる気ありそうだな。」 隼人がちらりと佐々木涼の方を見ながら言った。佐々木は誰よりも大きな声で返事をし、先輩たちの動きを真剣に追っている。 「ああ、あのストレート、どんなもんか見てみたいな。」 駆は、佐々木の投球を早く見たい気持ちで胸が高鳴った。

ウォーミングアップが終わると、ポジションごとに分かれての基礎練習が始まった。投手陣はブルペンで軽く肩を作り、野手陣はノックと送球練習に移る。

駆はショートの位置に就き、吉岡誠と二遊間を組む。監督のバットから放たれる打球を、俊敏な動きで捕球し、正確にファーストの垣内へと送球していく。隣では、セカンドの中島拓海が軽やかなフットワークで打球をさばいていた。中島はまだ一年生ながら、その守備は堅実で、駆との連携もスムーズだ。

「ナイス、中島!」 駆が声をかけると、中島は少しはにかんだように頷いた。

一方、ブルペンからは力強いミットの音が響いてくる。エースの上原竜也が、一年生の野村大地を相手に軽めの投球練習をしているようだ。上原の球は、球速こそ驚くほどではないが、伸びとキレがあり、吸い込まれるように野村のミットに収まる。野村は真面目な顔で上原の球を受け止め、時折、隼人のリードを真剣な表情で観察している。

しばらくすると、監督がマウンドに指示を出した。 「佐々木!ちょっと投げ込んでみろ!」

佐々木涼がマウンドに上がる。その長身から投げ下ろされる一球は、隼人のミットに重い音を立てて吸い込まれた。

「おおっ!」

その球威に、駆だけでなく、周りで練習していた選手からも感嘆の声が漏れる。

「なかなかやるな、佐々木。」

隼人はミットを構えながら、佐々木に笑顔を見せた。 佐々木は少し照れたように表情を緩めたが、その瞳の奥には、確かな自信が宿っていた。

駆は、グラウンドの活気と、新入生たちの熱意を感じながら、改めて胸が高鳴るのを感じた。野球ができることの「楽しい」。そして、このチームで新しい仲間たちと高みを目指せる「楽しい」。それは、昨日、琴音に話した「楽しい」と、どこかで繋がっているような気がした。

練習が終わり、駆は部室を後にした。駐輪場へ向かい、赤い自転車を漕ぎ始める。全身からじんわりと汗が噴き出すが、心地よい疲労感だった。今日も野球部の仲間たちと汗を流し、充実した時間を過ごした。

 

学校を出て大通りへ向かう。図書館の隣を通り過ぎる時、駆はふとブレーキをかけた。図書館の前のベンチに、見慣れた後ろ姿が座っていたからだ。黒髪の少女。その整った横顔は、紛れもなく千里琴音だった。

(こんな時間まで、何してるんだ?)

図書館はすでに閉館時間を過ぎている。駆は迷った末、自転車を停めて彼女に近づいた。

「千里さん、こんなところで何してるんだ?」

駆の声に、琴音はゆっくりと振り返った。彼女の瞳は、夕暮れの淡い光を反射して、いつもより少しだけ潤んでいるように見えた。

「あ、楠木くん。練習、終わったんですね。」

「うん。もしかして、図書館で勉強してたのか?」

琴音は小さく首を振った。

「はい。ただ、思っていたより遅くまで勉強していたみたいです。」

「へえすごいね。俺なんて練習でクタクタで勉強する気なんて起きないのに。」

駆が感心したように言うと、琴音は小さく微笑んだ。その表情はいつもと変わらない穏やかさだったが、駆はなぜか、彼女の周りの空気が少しだけ温かくなったような気がした。

「楠木くんは、毎日、楽しそうですね。」

琴音が、夕焼けに染まる空を見上げながら呟いた。その言葉には、羨望のような、しかしどこか遠い場所から見ているような響きがあった。

「楽しいよ。好きなことに思いっきり打ち込めるんだから。それに、仲間と一緒だから、つらい練習も乗り越えられる。千里さんも、何か好きなこととか、打ち込めること、見つけられたらいいのに。」

駆は、昨日屋上で交わした会話を思い出し、少し熱を込めて話した。琴音の「楽しいこと、ですか……」という言葉が、ずっと心に残っていたからだ。

琴音は駆の言葉を静かに聞いていたが、ふと、彼の視線から顔を逸らした。

「……そうですね。でも、どうやって見つけたらいいのか、私にはわかりません。」

「大丈夫だよ、そのうち見つかるからさ。」

駆は、そう言って琴音に笑顔を向けた。その言葉は、彼の口から自然とこぼれ落ちたものだった。もう彼女を放っておけない、という強い思いが、彼を行動させていた。

琴音は、再び駆に視線を戻した。

「……ありがとうございます。楠木くん。」

彼女はそう言うと、昨日屋上で見せた、あの温かい微笑みを再び浮かべた。夕焼けの光の中で、その笑顔は一層美しく、駆の心に深く刻み込まれた。

「じゃあ、そろそろ、帰りませんか。日が暮れて、真っ暗になる前に。」

駆は少し照れながら、琴音に声をかけた。琴音は小さく頷き、駆の少し前を歩き始めた。駆は、自分の自転車を押しながら、彼女の後ろをゆっくりとついていった。二人の間に特別な会話はなかったが、駆は、この静かな時間が、とても愛おしく感じられた。

 

「私はここで。」

「じゃあまた明日ね。」

琴音が駆と別れようとしたとき、塾帰りの陽菜とばったり会ってしまった。

「お兄ちゃん...彼女できたの?」

陽菜は駆をおちょくるように話しかけてきた。

「ちげーよ。たまたま帰り道で会ったから一緒に帰ってきただけだよ。」

駆は慌てて否定したが、陽菜は「ふーん」と意味ありげに笑うだけだった。陽菜の視線は、駆の隣に立つ琴音へと向けられる。

「もしかして、お兄ちゃんのクラスの転校生の子?」

陽菜は屈託のない笑顔で、琴音に話しかけた。

「千里琴音です。楠君の妹さん?」

「陽菜です。お兄ちゃんが帰ってきてすぐに転校生がどうのこうのって。もしかして千里さんって、お兄ちゃんが言ってたミステリアスな子?」

陽菜は面白そうに駆と琴音を交互に見る。駆は顔を真っ赤にして、陽菜の口を慌てて塞いだ。

「ちょっと!お前、余計なこと言うんじゃねえ!」

「だって事実じゃん!」

陽菜は駆の手を払い、にっこりと琴音に向き直った。

「うちのお兄ちゃん、単純で馬鹿みたいにまっすぐだから、千里さんが困ったことになったらいつでも私に言ってね。こいつはほっとくとどこまでも突っ走るから。」

その言葉に、琴音はくすりと小さく笑った。それは、駆がこれまで見た中で、一番無邪気で、感情のこもった笑顔だった。

「ありがとうございます。陽菜さん。楠木くんには、いつも助けてもらってばかりで。」

「ほらね、やっぱり助けてもらってるんだ、って逆にお兄ちゃんが助けてるの!?」

陽菜は驚いて駆を見た。

「陽菜、そんなことどうでもいいから母さんの手伝いしてきな。」

「また明日ね、千里さん!お兄ちゃんも早く洗濯物とか出してよ。」

陽菜は家の中へと入っていった。

「…ごめん、妹がうるさくて。」

駆は恥ずかしさで俯きながら言った。

「いいえ。とても、楽しそうでしたね。」

琴音はそう言って、再び駆に微笑んだ。その温かい笑顔に、駆の胸はまた、締め付けられるように熱くなった。

「じゃあ、私はここで。」

琴音はそう言って、駆に軽く頭を下げると、ゆっくりと歩き出した。駆は、彼女の背中が小さくなるまで見送っていた。陽菜の言葉で、少し戸惑った琴音の表情と、その後の無邪気な笑顔が頭から離れなかった。

(俺のこと、そんなふうに思ってたのか…)

駆は自分の自転車を車庫へと押しながら、陽菜の言葉を思い返していた。そして、琴音の笑顔の理由を、もう一度、深く考えていた。

 

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