ロンドン、キングス・クロス駅。九月一日。
赤レンガの柱の間に吸い込まれるように消える人影を、マグルたちは目にも留めず、ただ自分たちの現実に没頭している。
誰も気づかない。
彼らのすぐ傍に、もうひとつの世界がひっそりと口を開けていることを。
「では、カリンさん。何か困ったことがあれば、いつでも私に連絡してください」
マクゴナガル先生の厳格だが温かい声が、周囲の雑音に紛れて聞こえる。カリンは小さく会釈した。
「ありがとうございます、マクゴナガル先生。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて。あなたのご両親とは古い友人ですから。それに——」
眼鏡の奥の目が、やや柔らかく細められる。
「月詠家の方をホグワーツにお迎えできるのは、私たちにとって光栄です」
またか、とカリンは心の中で小さく息を吐いた。
確かに自分の家は、日本でも古くから魔法を使う家系だ。
陰陽道の技術を今に受け継ぎ、西洋とは異なる理を紡ぐ、ある意味で“異邦の魔法使い”。
イギリスでも名を知られているらしいが、そんな由緒などカリン自身にはどうでもよかった。
ただ一つ、確かなのは。
(魔法が、好き)
それだけだった。
「それでは、お気をつけて」
カリンは黙ってうなずいた。
小柄な身体に無骨なトランク、そして腰に仕込んだ細身の杖。
日本から渡英したばかりの十一歳は、自分の“居場所”を試すように一歩を踏み出す。
「……9と3/4番線。ぶつかればいいんだっけ……」
覚悟を決めて歩き出し、レンガの壁に一歩踏み込む。
──瞬間、世界がすうっと揺らぎ、目の前に鮮やかな赤の機関車が現れた。
白い蒸気が空に昇り、鈍く光る車体が“魔法界の時間”を静かに語っていた。
「……やれやれ」
気圧されそうな空気を払うように肩を回し、カリンは足早にホームを進む。
視線が、自然と人の流れをなぞる。
泣きながら抱きつく子供。
それをなだめる母親。
笑いながら背中を叩く父親。
——ほんの一瞬だけ、足が緩む。
が、すぐに歩幅を戻した。
その輪に近づくでもなく、意識して避けるでもなく。
ただ少しだけ外れるように、歩く。
人の流れから、半歩だけずれた位置。
誰かの肩が触れそうになると、無意識に体がわずかに引く。
ぶつからないように。触れないように。
ぶつからない距離。
けれど、離れすぎてもいない距離。
その中途半端な場所が、一番落ち着いた。
周囲では見送りの家族たちが泣き笑いを浮かべ、幼い弟妹たちが走り回っている。
誰かの名前を呼ぶ声が、あちこちで弾んでいた。
カリンの名前を呼ぶ声は、ない。
——だから振り返る理由もなかった。
視線を前に戻し、そのまま列車へと乗り込んだ。
***
コンパートメントを探しながら歩く。
人の気配が多すぎて、肩がぶつかるたびに神経が疲弊する。
カリンは無意識に呼吸を整え、扉が閉じられたままの静かな車両を選んだ。
「……ここでいいか」
誰もいない席にトランクを置いたあと、カバンに手をやり、本を取りだす。
本を開いたものの、窓の外のざわめきがどうしても気になってしまう。
マフラーの端を踏んで転びかける子。
泣きそうな顔で親の手を振り切る子。
すべてが“最初の一日”にふさわしい混沌だった。
「あー……賑やかすぎるってのも、疲れるな」
額の前髪を掻き上げ、深く座り直す。
(ま、今日から“学生”だしな)
そう呟いた瞬間──
「失礼します。ええと……カエルを見かけませんでした?」
突然の声に顔を上げる。
コンパートメントの扉の前に、ふわりとした栗色の髪の少女が立っていた。
「……カエル?」
「ええ、ネビルっていう子のペットなんだけど、逃げちゃって。トレバーっていうの」
言葉が早い。焦りがそのまま形になったようだった。
それでも、まっすぐこちらを見る視線。
一瞬、言葉が途切れる。
カリンはそのまま数秒、少女を見ていた。
——それから、視線を外す。
「……見てない」
短く答えて、本に目を落とす。
「そう……」
引き下がる気配が、一歩。
けれど。
「でも、まだこの辺にいると思うの。さっきまで近くで——」
言いながら、扉の縁に手をかけたまま動かない。
そのまま、残る。
カリンはページをめくる手を止めた。
小さく、息を吐く。
「……特徴は?」
顔は上げないまま、そう聞いた。
「えっ?」
「カエル。どんなの」
ぱっと表情が明るくなる。
「丸くて、ちょっと変な色なの。ネビルがずっと大事にしてるけど、すぐにいなくなっちゃうらしいの」
(……大事に、ね)
本を閉じる。
「……多分、この近くだよ」
ぶっきらぼうに言いつつ立ち上がり、扉に手をかける。
開けた先の廊下は、さっきと同じように人の気配で満ちていた。
「えっ、分かるの?」
「確証はないけど」
そのまま廊下に出る。
ハーマイオニーも慌てて続いた。
「ありがとう……! 私、ハーマイオニー・グレンジャー」
「カリン・ツキヨミ」
歩きながら、短く返す。
少し前を歩くカリンの背中を、ハーマイオニーが追う形になる。
床の隅、座席の影、荷物の隙間。
カリンの視線だけが滑るように動く。
「それ、観察力? それとも魔法?」
横から声が飛んでくる。視線だけをそちらに向ける。
「どっちでもいいでしょ」
「でも、さっき“近く”って——」
ため息をつく。
「……動物は“氣”の流れがちょっとだけ違うから。なんとなく、分かる」
「“氣”って?」
それ以上は言わない。
ハーマイオニーは口を閉じた。
その代わり、視線がカリンの横顔に向く。
黒髪。整った輪郭。
無駄のない動き。
「……あなた、日本から来たのね」
「まあね」
「やっぱり。名前もそうだし、さっき言ってた“氣”っていうのも東洋の魔法理論よね?」
「よく知ってるね」
「当然よ。それくらいは」
少しだけ、距離が詰まる。
気がついたら、隣に並んでいた。
「私、魔法の勉強はかなりしてきたの。だから——」
「あー、話は後でいい?」
カリンが視線を前に向けたまま言う。
「いた」
座席の下を軽く指す。
覗き込むと、小さなカエルが身を縮めていた。
「あっ……トレバー!」
ハーマイオニーがしゃがみ込み、そっと抱き上げる。
その顔が、ふっと緩む。
——その表情に、ほんの一瞬だけ視線が止まる。
「よかった……カリン、本当にありがとう」
「いや、礼を言うのはそのネビルって子でしょ。…それに」
「それに?」
カリンは一瞬だけ言葉を探すように黙り、
「……まあ、見つかってよかったじゃん」
とだけ言った。
「……?」
わずかに首をかしげる。
「ほら、返しにいくよ」
カリンは先に歩き出す。
「あ、待って——」
慌てて追いかける。
ほんの一瞬、ハーマイオニーの指先が彼女の袖に触れかけて——
けれど、そのまま手を引っ込めた。
代わりに無言で、その背を追う。
***
ネビルのもとへ向かう途中、向こうから三人組が歩いてくるのが見えた。
金髪の少年と、その後ろを無言でついてくる二人の少年。
金髪の少年が、ハーマイオニーの手の中で身じろぎするカエルにちらと視線を落とした。
「まだそれを抱えてうろうろしてるのか。ご苦労なことだ」
「失礼ね。声を掛けなければ良かったわ」
ハーマイオニーが眉を寄せる。
「あいにく汚いものを探す趣味はなくてね」
どこか鼻にかかった声で、明らかに侮るような口ぶり。
だが彼の視線は、すぐにカリンのほうへ向けられた。
「……で、そちらは? 見ない顔だけど」
「カリン・ツキヨミ。留学生」
「……ツキヨミ?」
少年の態度が、わずかに変わった。
「……ああ、あの月詠家か。僕はドラコ・マルフォイ」
さきほどハーマイオニーに向けたものとは、明らかに違う声だった。
家格を知っている者が、自然と整える距離感。
「君のような家の人がホグワーツに来るとは思わなかった。スリザリンに来るといい。話が合うと思うよ」
「寮は迷ってるところ。ま、いいとこに入れたらいいけどね」
カリンの声は平坦だった。愛想もないが、刺もない。
マルフォイはそれを不快とは取らなかったらしい。
むしろ、ふっと口角を上げた。
「期待しているよ、ツキヨミ」
その張り詰めた空気を感じ取ったのか、ハーマイオニーの指先がそっとカリンの袖口に触れる。
ほんの一瞬、布越しに引き止めるような力。
カリンの視線がわずかに横へ流れた。
「行きましょ」
小さな声。
カリンは一瞬だけ視線を落とす。
「……そうだね」
そのまま、並んで歩き出す。
マルフォイが背後で何か言ったが、もう聞こえなかった。
***
角を曲がったところで、向こうから二人の少年が駆けてきた。
「ハーマイオニー、トレバー見つかったの?」
黒髪に丸眼鏡の少年が、心配そうに声をかけた。
「ええ、カリンが見つけてくれたの。すごいのよ、彼女、“氣”を感じる力が――」
「トレバーっ!」
声をかける間もなく、丸顔の少年が転がるように走ってくる。
「ネビル!見つかったわよ、トレバー!」
ネビルは、息を切らしながらハーマイオニーからカエルを受け取ると、
そのまま小さく肩をすぼめるようにしてカリンに頭を下げた。
「あ、ありがとう……ほんとに……」
「どーも。トレバー、次からは首に鈴つけといた方がいいかもね」
「それ、いいアイデアかも……!」
ネビルは頷きながら、トレバーを胸元でそっと抱きしめた。
安心と恥ずかしさが混じったような表情に、緊張の余韻がにじんでいる。
カリンが軽く会釈して立ち去ろうとしたその時、赤毛の少年が口を開いた。
「僕はロン・ウィーズリー。こっちはハリー・ポッター。すぐに見つけてくれて助かったよ」
額に走る稲妻の傷。
——なるほど、これが"生き残った男の子"か。
だが、それよりも目についたのは、名前を出されたときにわずかに強張ったハリーの肩だった。
有名であることに、慣れていない——というより、居心地が悪そうだった。
(……ふうん)
その感覚には、少しだけ覚えがあった。
「月詠家」と言われるたびに、自分の輪郭が別の何かに塗り替えられるような。名前が、自分より先に歩いていくような。
もちろん、ハリー・ポッターの背負っているものと自分のそれでは重さが違う。
比べるつもりはなかった。
ただ——居心地の悪さの形が、少しだけ似ている気がした。
「ハリー・ポッター、ね。もっと派手な感じかと思ったけど。なんか……普通だね」
「よく言われるよ」
ハリーの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
ふたりの視線が一瞬だけ交差する。どちらからともなく、わずかに目を細めた。
だが、それも束の間——
ネビルがカエルを抱きしめながら何度も頭を下げ、ロンが「今度はリードつけとけよ」なんて笑いながら言う頃には、空気もほんの少しだけ和らいでいた。
***
それから数分。
カリンは未だ自分の席に戻れていない。
話題は次々と移り変わるなか、気がついたらハリーとロンの席へ移動していた。
ロンが軽口を叩き、ハーマイオニーが勢いよく説明し、ハリーがそれに苦笑する。
そんななか、カリンはその輪の端にいた。
会話の中心には入らず、ただ静かに聞いている。
ときどき、ロンの言葉に小さく息を吐いたり、ハリーの返しに短く「へぇ」と返す程度。
自分から話すことはない。
(……騒がしいな)
そう思いながらも、席は立たなかった。
「ねえ、カリン」
ふいに、横から声が落ちてくる。
視線を向けると、ハーマイオニーがこちらを見ていた。
「……なに」
「あなたって、不思議な人ね」
「よく言われる」
間を置かずに返す。
それでもハーマイオニーは、少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「でも……話してると安心するわ」
その言葉に、カリンはわずかにまばたきをした。
視線が、一瞬だけ止まる。
「……ふうん」
それだけ返して、窓の外へ視線を逃がす。
(……安心する、か)
異国に来て、右も左も分からないまま、どこかで肩に力が入っていた。
だが、そのひと言で、なぜか少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「カリン?」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
「……なに」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
短く返す。
ほんの少しだけ、声が遅れた。
ハーマイオニーは一瞬だけ首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
その代わり——
少しだけ、距離が近づく。
肩が触れそうで、触れない距離。
カリンは、そのことに気づいていなかった。