賢者の石と黒髪の騎士   作:krn

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第十章:クィディッチと胸のざらつき

 

「え?……私が?」

 

カリンは思わず聞き返した。

 

放課後の廊下。

人通りの途切れた石造りの通路で、マクゴナガル先生はいつもの厳格な顔のまま、静かに頷いた。

 

「アリシア・スピネットが練習中に腕を痛めましてね。明日の試合は厳しいでしょう」

 

淡々と告げられた言葉に、カリンは小さく息をついた。

 

まさか呼び出された理由が、クィディッチの代打の話だとは思わなかった。

 

「ですが、試合は待ってくれません。グリフィンドールはチェイサーを一人欠いたまま出るわけにもいかない」

 

「それは分かりますけど……」

 

カリンは眉を寄せる。

 

「私、チェイサーの練習なんてまともにしたことありませんよ」

 

「箒の扱いそのものに問題があるとは思えませんが。一年生どころか、上級生でもあれほどの制御はできません」

 

ぴしゃりと返される。

 

マクゴナガルの視線は鋭い。けれど、その奥には計算の済んだ確信があった。

 

「マダム・フーチより、あの時のあなたの飛び方……まるで風そのものと一体になったような、美しい技術だと伺ってます。彼女が生徒をあれほと褒めることはありませんでした」

 

ネビルを受け止めた、あの日のことだ。

 

考えるより先に飛んでいた。

ただ、落ちてくる影を見て、間に合う位置へ身体を滑り込ませただけ。

 

「チェイサーに必要なのは、まず空間把握と箒の制御です。そこは十分及第点でしょう」

 

「及第点で試合に出されるの、だいぶ怖いんですけど」

 

「怖がるくらいなら、無茶はしないことでしょう」

 

さらりと言われ、カリンは言葉に詰まった。

 

その反応を見て、マクゴナガルがほんの少しだけ目を細めて微笑む。

 

「それに、ポッターを傍で支えられるのでは?」

 

その言い方に、カリンはわずかに視線を落とした。

 

ハリーは時々、考えるより先に飛び込む。

見ていて危なっかしいと思うことがないわけではない。

 

「……先生にしては、珍しく情に訴えますね」

 

「教師は勝つために使えるものは使います」

 

きっぱりした返答だった。

 

カリンは少しだけ黙る。

 

断る理由はいくつも思いついた。

面倒だし、目立つし、試合そのものにそこまで情熱があるわけでもない。

 

けれど。

脳裏に、ひとつの顔がよぎる。

 

ハリーが思い出し玉を取り返したあの瞬間、空を見上げていたヘーゼルナッツの瞳。

 

驚きと安堵の入り混じった、あの強い視線。

 

その残像が、ふっと浮かぶ。

胸の奥が、わずかにざわついた。

 

カリンはその感覚を押し込めるように、息をひとつ吐いた。

 

「……分かりました」

 

「結構」

 

マクゴナガルは満足そうに頷く。

 

「今夜のうちにチームと最低限の確認をしておきなさい。試合は明日です」

 

「急ですね」

 

「怪我人は予定を見て出ませんからね」

 

もっともな返答だった。

カリンは肩をすくめ、小さく頭を下げる。

 

「やれるだけやってみます」

 

「その意気です、ツキヨミさん」

 

マクゴナガルはそこで踵を返したが、数歩進んだところで、ふと思い出したように立ち止まる。

 

「もっとも」

 

振り返らないまま、静かに続けた。

 

「明日は、無茶だけはしないことです。心配する者がいないわけでもないでしょうから」

 

その一言だけを残し、黒いローブの背は廊下の向こうへ消えていった。

 

一人残されたカリンは、しばらくその場で動かなかった。

 

(……余計なこと言うなよ)

 

そう思うのに、妙に耳に残る。

 

自分でも呆れるくらい、たったそれだけの言葉で落ち着かなくなるあたりが、少し面倒だった。

 

***

 

翌朝のグリフィンドール談話室は、試合前の熱気に満ちていた。

 

暖炉の火がぱちぱちと燃え、生徒たちの声があちこちで弾んでいる。

クィディッチの話題で朝から騒がしいのは、グリフィンドールでは珍しくもなかった。

 

そのなかで、カリンはソファの端に腰掛けながら、ぼんやりと手元のカップを見ていた。

 

眠い。

試合への緊張というより、昨夜遅くまで代打用の確認をさせられていたせいだ。

 

「カリン」

 

呼ばれて顔を上げる。

ハーマイオニーが、少しだけ強張った顔で立っていた。

 

「ほんとに出るの? 今日」

 

「らしいね」

 

「らしいね、じゃないわよ」

 

すぐさま返ってくる声音に、カリンはわずかに目を瞬いた。

ハーマイオニーはそのまま、躊躇いもなく距離を詰め、カリンの目の前で足を止める。

 

「急に試合なんて、本当に大丈夫なの? 相手はあのスリザリンよ。ラフプレーだって平気でするし……あなた、また、あんな無茶をするんじゃないかって――」

 

そこまで言って、彼女はふっと言葉を切った。

 

頬がうっすら赤い。

言いすぎた、とでも思ったのだろうか。

 

けれど、その前に出た言葉の方が、カリンの耳には残った。

 

また、無茶をするんじゃないか。

 

あの夜を思い出しているのだと、すぐに分かった。

 

「……ただの試合だよ」

 

できるだけ気軽な声で返す。

 

「地下牢にトロールが出るよりは平和でしょ」

 

「そういう冗談、今は聞きたくないわ」

 

ぴしゃりと言われ、カリンは口を閉じた。

 

本気で心配しているのだ。

見れば分かる。分かってしまう。

 

まっすぐ向けられるその視線が、少しだけ落ち着かない。

 

「大丈夫」

 

今度は、さっきより少しだけ真面目に言う。

 

「そこまで危ないことにはならないって」

 

「でも――」

 

なおも何か言いかけたハーマイオニーの声を、明るい別の声が割った。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫よ、ハーマイオニー」

 

パーバティ・パチルだった。

 

後ろからラベンダーもついてきていて、二人ともどこか面白そうな顔をしている。

 

「カリン、飛行授業の時からすごかったじゃない。ネビルを助けた時なんて、ほんとに格好よかったし」

 

「ええ、見てたわ。あの時の飛び方、すっごく綺麗だったもの」

 

口々に言われ、カリンは曖昧に笑って流しながら、なぜかハーマイオニーの方へ視線が戻った。

 

褒められた先を確かめたかったわけでもない。

ただ、気づいたら目が向いていた。

 

ハーマイオニーは口を一文字に結んで、どこか納得のいかない顔をしていた。

 

「べつに、大したことじゃ――」

 

「もう、すでに十分目立ってるわよ」

 

パーバティが笑う。

それから、ちらりとハーマイオニーを見た。

 

「そんなに心配してたら、まるで試合に出るのが自分のことみたいよ」

 

「そ、そんなことないわ」

 

ハーマイオニーが即座に返す。

だが、その声はわずかに裏返っていた。

 

ラベンダーがくすっと笑う。

 

「そうよ。さっきから、恋人を戦場に送り出すような真剣な顔をしてるのよ」

 

「と、友達だから心配してるだけよ!」

 

言い切ったあと、ハーマイオニーは少しだけ口を引き結んだ。

その言葉に、なぜかカリンの胸の内が小さくざらつく。

 

友達だから。

 

間違ってはいない。むしろ正しい。正しいのに――

 

カリンは無言でカップを持ち直した。

考えの続きを、意図的に手放す。

 

「……ありがと」

 

カリンは視線を逸らすように言った。

誰に向けた言葉だったのか、自分でも少し曖昧だった。

 

パーバティたちの励ましに対してでもあるし、ハーマイオニーの心配に対してでもある。

 

一瞬、ハーマイオニーの言葉が止まる。

それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「私、観客席から見てるから」

 

ハーマイオニーは静かに言った。

 

「だから……変な無茶だけは、ほんとにやめて」

 

その声音はさっきより低く、柔らかいのに妙に強かった。

 

カリンは一瞬だけ目を上げ、彼女を見る。

ヘーゼルナッツの瞳が、真っ直ぐこちらを見返していた。

 

「……善処します、優等生」

 

軽くそう返すと、ハーマイオニーは呆れたように息をついた。

 

「そこは“はい”って言うところでしょう」

 

「善処の方が嘘がなくて誠実だと思わない?」

 

「誠実じゃないから言ってるの」

 

リズミカルな応酬に、パーバティたちが揃って笑い声を上げる。

 

カリンもつられて少しだけ口元を緩めた。

けれど、その笑いの底で、まだ小さなざらつきが消えずに残っている。

 

それが何なのか。

 

考えかけて――やめた。

 

冷めかけたカップを、静かに置く。

 

***

 

更衣室には、革と芝と木製ロッカーの匂いが入り混じっていた。

 

赤いローブに袖を通しながら、カリンは深く息を吐く。

窓の向こうからは、すでに観客席のざわめきが波のように届いていた。

 

「急で悪いな」

 

オリバー・ウッドが真面目な顔で言う。

 

「でも、出るからには遠慮しなくていい。いつも通りやれ、って言っても難しいかもしれないけど」

 

「いつも通り箒で飛び回る生活してないからね」

 

「だろうな」

 

珍しく、オリバーが苦笑した。

 

少し離れた場所でハリーが箒を抱えながら、こちらを見ている。

どこか緊張した顔だった。

 

「カリン、大丈夫?」

 

「そっちこそ」

 

問い返すと、ハリーは肩をすくめる。

 

「僕はいつもの試合だから」

 

「いつもの試合でそんな顔してるなら、だいぶ危ないでしょ」

 

言うと、ハリーは小さく笑った。

その笑い方で、少しだけ空気がほぐれる。

 

「無理はしないでよ」

 

ハリーがぼそりと言う。

 

「君、飛ぶとき、時々考えるより先に動きそうだから」

 

その言葉に、カリンは一瞬だけ黙った。

今朝、似たようなことを別の声でも聞いた気がする。

 

「……そちらに言われたくないな。お互い慎重にいくよ」

 

そう答えながら箒を手に取る。

 

掌に伝わる木の感触。

深く息を吸うと、少しだけ頭が冴えた。

 

空へ上がる前のこの感覚は、嫌いじゃない。

風向きも、重心も、呼吸も、自分の身体に引き寄せていける感じがする。

 

「かますぞ、ハリー」

 

「ああ」

 

二人は顔を見合わせ、小さく頷く。

更衣室の扉の向こうでは、歓声がいっそう大きくなっていた。

 

その中に、きっと聞き慣れた声も混じっているのだろうと、ふとそんなことを思う。

 

思った瞬間、胸の奥で何かが静かに熱を持った。

 

(……まあ、やるからにはね)

 

心の中でだけそう呟いて、カリンは箒を抱えたまま、光の差す方へ歩き出した。

 

***

 

グラウンドに出た瞬間、風が頬を打った。

 

観客席のざわめきが、一気に押し寄せてくる。

赤と金の波の中に、緑の旗が混ざっていた。

 

箒にまたがり、地面を蹴る。

 

浮く。

 

ほんの一瞬で、身体が空に馴染む。

 

(……軽い)

 

地上にいたときの重さが嘘みたいに抜ける。

風の流れが、皮膚の上を滑っていく。

 

笛の音。

 

試合が始まった。

 

序盤から、スリザリンの動きは荒かった。

 

体当たり、進路妨害、わざとらしい接触。

観客席からブーイングが飛ぶ。

 

「前、詰めろ!」

 

オリバーの声。

カリンは小さく頷き、前へ出る。

 

視界が広がる。

 

三人のチェイサーの動き、クアッフルの軌道、風の流れ。

それらが一度に頭の中で組み合わさる。

 

(……こっち)

 

半歩早く、軌道に入る。

 

スリザリンのパスを横から掠め取る。

 

一瞬、周囲の動きが遅く見えた。

 

「ナイス!」

 

どこかで声が上がる。

カリンは振り向かない。

 

そのまま旋回し、進路を切り替える。

 

無理に攻めない。

ただ、流れを崩さない位置へ。

 

一度、味方に回す。

 

ボールが離れた瞬間、視線が自然と観客席へ流れた。

 

赤いマフラーの列。

その中に、見慣れた色がある。

 

一瞬だけ、目が合った気がした。

すぐに視線を戻す。

 

胸の奥が、わずかにざわつく。

 

(……集中)

 

その感覚を押し込めるように、再び動く。

 

***

 

試合は一進一退だった。

 

ハリーは高く上がり、スニッチを探している。

スリザリンのチェイサーが強引に押し込んでくるたび、オリバーが怒鳴る。

 

その中で、カリンは流れに乗るように動いていた。

 

派手な動きはしない。

ただ、わずかに早く位置を取る。

 

わずかに遅らせて相手のリズムを崩す。

風の隙間を抜けるように。

 

(……見える)

 

視界が開ける瞬間がある。

次にどこへ来るか、身体が先に理解する。

 

そのときだった。

 

ゴール前。

味方からのパスが、ほんのわずかにずれる。

 

スリザリンの選手が割り込む――

 

(……させるか)

 

スリザリンの選手が割り込むよりも一歩早く、カリンはその懐に滑り込んだ。

 

指先を伸ばし、クアッフルを奪う。

爆発的な歓声が上がるのを背に、その勢いのまま反転した。

 

正面にはゴールリング。

理屈が追いつく前に、身体がしなった。

 

投げる。

 

クアッフルが弧を描く。

 

一瞬の静止。

 

――通った。

 

歓声が弾けた。

地を揺らすようなどよめきが広がる。

 

「入った!」「カリンが決めたぞ!」

 

声が重なる。

カリンは一度だけ息を吐いた。

 

(……決まったか)

 

そのとき。

視線が、また観客席へ向いていた。

 

意識したわけじゃない。

試合中に余所見をするような余裕もない。

 

ただ、気づいたら、そっちを見ていた。

 

――ハーマイオニーが立ち上がっていた。

 

驚きに目を見開いた彼女と、真っ直ぐに視線がぶつかる。

 

次の瞬間、ぱっと表情が明るくなった。

冬の光の中で、その顔が一瞬だけ鮮やかに見えた。

 

距離があるはずなのに、彼女の瞳の輝きまでがやけにはっきり見える。

 

(……)

 

胸の奥で、何かが静かに揺れる。

ゴールが決まった瞬間より、少しだけ大きく。

 

言葉にはならない。

けれど、確かにそこにあった。

 

カリンはすぐに視線を戻す。

そのまま高度を取り直した。

 

――その時、空気が凍りついたように一変した。

 

「ハリーの箒が……!」

 

リー・ジョーダンの叫びが、グラウンドに響く。

 

上空で、ハリーの身体が激しく揺れていた。

箒が意志を持ったかのように暴れ、振り落とされそうになっている。

 

観客席がどよめく。

 

カリンは反射的に旋回しながら、周囲の流れを読む。

ハリーの周囲にまとわりつく、あのどろりとした黒い靄。

 

(……原因は、なんだ)

 

風の向き。

人の動き。

そして――

 

肌が、ぴり、と粟立った。

 

風ではない。

空気でもない。

 

もっと別の、“流れ”。

 

(……魔力?)

 

視線を上げる。

 

観客席。

 

ダンブルドアの方向――ではない。

その少し離れた場所。

 

黒いローブの男が、身を乗り出している。

 

(スネイプ……?)

 

そう思った次の瞬間。

 

違和感が、ずれた。

 

確かに呪文を唱えているように見える。

だが、悪い感じがしない。

 

さらに視線を滑らせる。

 

反対側。

 

ターバンを巻いた男。

 

(……あれはなんだ)

 

男の周りに、かすかな靄が渦巻いている。

見たことのない揺らぎ方だった。知っているものとも、違う。

 

だが、何かがそこに引っかかる。

 

視界の端で、ハリーの箒が大きく跳ねる。

 

(まずい)

 

その瞬間――

 

ブラッジャーが迫る。

 

カリンは反射的に箒をひねり、柄で叩き上げる。

 

鉄球が空高く弾かれ、弧を描く。

 

だが、風に乗って再び加速する。

 

その進路の先に、ハリーがいた。

 

「前!」

 

誰かの叫びが響く。だが、間に合わない。

思考を飛ばし、カリンは一直線に滑り込んだ。

 

「……しつこいッ!」

 

箒の柄で、鋼鉄の球を叩きつける。

 

腕に走る、全体が痺れるような衝撃。

 

ブラッジャーはわずかに逸れ、ハリーの横を掠めていった。

 

しかし、すぐに軌道を変え、再びハリーへ向かってくる。

 

ブラッジャーを跳ね除け続ける、極限の攻防。

試合を壊すわけにはいかない。だが、ハリーを死なせるわけにもいかない。

 

カリンが奥歯を噛み締めたその時、ふっと、ハリーの箒が自由を取り戻した。

 

そのまま体勢を立て直し、弾丸のような加速でハリーが飛ぶ。

 

歓声が爆発する。

 

スニッチを追う。

 

掴む。

 

勝利。

 

笛の音が鳴り響いた。

 

カリンは肩で息をしながら、ゆっくりと、再びあの観客席へ視線を戻した。

ターバンの男は、もう、何事もなかったかのような「無」の顔をしていた。

 

(……)

 

冷えた何かが、胸の奥に残ったまま消えなかった。

 

***

 

カリンは高度を落としながら、静かに着地した。

足が地面に触れた瞬間、身体に重さが戻ってくる。

 

風に溶けていた感覚が、ゆっくりと剥がれ落ちる。

 

歓声が遅れて押し寄せた。

名前を呼ぶ声、笑い声、背中を叩く音。

 

カリンは箒を持ったまま、ほんの一拍だけその場に立ち止まる。

 

(……終わったか)

 

さっきまでの張り詰めた感覚が、ゆっくりほどけていく。

 

そのとき。

 

「カリン!」

 

呼ばれて振り向く。

 

ハーマイオニーが駆けてきていた。

マフラーの端を揺らしながら、人をかき分けるようにまっすぐこちらへ。

 

息を切らしながら、目の前で止まる。

 

「大丈夫? 怪我、してない?」

 

開口一番、それだった。

 

カリンは一瞬だけ目を瞬く。

 

「……してないよ」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

短く返す。

 

それでもハーマイオニーは納得した様子を見せなかった。

 

「見せて」

 

「平気だよ、これくらい」

 

「見せて」

 

間を置かず、同じ言葉。

 

有無を言わせない声だった。

 

カリンは小さく息を吐き、観念したように右手を差し出す。

 

ハーマイオニーの指が、そっと手のひらを包んだ。

 

冷たい。

 

外気に晒されていたせいだろう。

それなのに、触れられたところだけ、じわりと温度が残る。

 

「赤くなってるじゃない」

 

「治癒魔法をかけるほどじゃないよ」

 

「……そうね」

 

そう言いながらも、すぐには離さない。

指先が、わずかに力を残している。

 

やがて、ゆっくりと手が離れた。

それでも視線は、腕や肩を確かめるように動いている。

 

落ち着かずに、少しだけ息が詰まる。

 

やがて、ハーマイオニーはほっとしたように、口を開いた。

 

「……さっきの動きも……その……ボールの取り方も」

 

少し言葉を選ぶように言い淀む。

それでも、視線は逸らさないまま。

 

「……すごく、かっこよかった。本当に、綺麗だったわ」

 

カリンの動きが、わずかに止まる。

 

言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。

 

視線がぶつかる。

 

「……そっか」

 

目を逸らし、それだけを返す。

 

頬が、じわりと熱い。

 

沈黙が落ちる。

ほんの短い、けれどやけに長く感じる間。

 

「カリン! ハーマイオニー!」

 

そこへ、声が割り込んだ。

 

ロンだった。

興奮冷めやらぬ顔で、こちらへ駆けてくる。

 

「見たか今の!? ハリーのあれ! あんな取り方あるかよ普通!」

 

勢いそのままに、ロンがハーマイオニーの隣に並ぶ。

 

「あれは確かにすごかったわね」

 

ハーマイオニーが答える。

ごく自然な調子で、身体をわずかにロンの方へと向けた。

 

「本当にやばかったな、今日!」

 

それからロンは、ハーマイオニーを見て、少し声のトーンが変わった。

 

「お前、あれ咄嗟によく気づいたな」

 

「ハグリッドが言っていたじゃない」

 

ハーマイオニーが返す。

 

「でも、まさか、スネイプのローブに火をつけるとは」

 

「仕方なかったのよ」

 

ロンが笑う。

ハーマイオニーも、小さく笑った。

 

言葉にしなくても通じているような、そんな空気だった。

 

カリンは、ブラッジャーの対処に追われていた間、観客席で何が起きていたのかを知らない。

 

ただ、いま目の前で交わされている二人の間に、

自分の入り込めない「何か」があることだけは分かった。

 

「ハリーを助けたのはカリンだけじゃなかったってことよ」

 

ハーマイオニーが、こちらを振り向いて言う。

その声には、かすかな誇らしさがあった。

 

「そっか」

 

カリンは短く返した。

 

それ以上、何も聞かなかった。

聞けばいい話だった。たぶん、大した話じゃない。

 

それなのに。

 

ロンが何か言って、ハーマイオニーが笑う。

二人の会話が、そのまま続く。

 

カリンは何も言わない。

 

ただ、視線だけを少し外した。

 

(……)

 

さっきまで、指先が触れ合うほど近くにいたはずの距離。

 

それが、ほんの少し、横にずれただけ。

 

それだけのことなのに。

 

(……なんだよ)

 

小さく息を吐く。

 

うまく言葉にならない。

 

ただ、落ち着かなかった。

 

それだけが、残った。

 

 


 

 

幕間:ハーマイオニー・サイド

 

 

試合前の談話室は、いつもよりずっと騒がしかった。

 

クィディッチの話題で盛り上がる声。

暖炉の火の音。

落ち着かない空気。

 

その中で、私はずっと同じ場所を見ていた。

 

――カリン。

 

ソファの端で、カップを持ったままぼんやりしている。

 

(……眠そう)

 

試合前だというのに、あまり緊張している様子がない。

 

それが、少しだけ気になった。

 

それから――

 

無理をしているんじゃないか、という考えが浮かぶ。

 

気づいたら、もう立っていた。

 

「カリン」

 

呼ぶ。

 

顔が上がる。

 

いつも通りの、少しだけ気の抜けた表情。

 

「ほんとに出るの? 今日」

 

「らしいね」

 

その答えに、思わず言葉が強くなる。

 

「らしいね、じゃないわよ」

 

距離を詰める。

 

止まらなかった。

 

「急に試合なんて、本当に大丈夫なの? 相手はスリザリンよ。ラフプレーだって平気でするし……あなた、また――」

 

そこまで言って、止まる。

 

言いすぎた。

 

自分でも分かった。

 

けれど、口に出てしまった言葉の方が、引っかかっていた。

 

――また、無茶をするんじゃないか。

 

あの夜のことが、頭をよぎる。

 

「……ただの試合だよ」

 

軽い声。

 

それが、余計に落ち着かない。

 

「そういう冗談、今は聞きたくないわ」

 

少し強く言ってしまう。

 

でも、引っ込められなかった。

 

「大丈夫」

 

今度は、少しだけ真面目な声。

 

それだけで、少しだけ安心してしまう自分がいた。

 

(……ほんとに?)

 

聞き返したくなる。

 

でも――

 

「そんなに心配しなくても大丈夫よ、ハーマイオニー」

 

横から声が入る。

 

パーバティとラベンダー。

 

そのまま会話に巻き込まれる。

 

カリンのことを褒める声。

 

飛行の話。

 

ネビルを助けたときのこと。

 

分かっている。

 

全部、事実だ。

 

それなのに。

 

「そんなに心配してたら、まるで試合に出るのが自分のことみたいよ」

 

その一言に、胸が跳ねた。

 

「そ、そんなことないわ」

 

思わず言い返す。

 

でも、声が少し裏返った。

 

「恋人みたい」

 

その言葉に、顔が熱くなる。

 

「と、友達だから心配してるだけよ!」

 

強く言い切る。

 

それが正しい。

 

そう思う。

 

そう思うのに。

 

(……なんで、こんなに)

 

言葉のあとに残るものが、消えない。

 

そのとき。

 

カリンが、こちらを見ていた。

 

一瞬だけ。

 

何も言わないまま。

 

その視線が、なぜか引っかかった。

 

「……ありがと」

 

短く落ちる声。

 

それが、どこに向けられたものなのか分からなくて――

 

少しだけ、息が詰まる。

 

「私、観客席から見てるから」

 

気づけば、そう言っていた。

 

「だから……変な無茶だけは、ほんとにやめて」

 

理由は、うまく言えない。

 

ただ、それだけは伝えたかった。

 

「……善処します、優等生」

 

その返しに、思わずため息が出る。

 

(ほんとに、この人は)

 

呆れる。

 

でも――

 

少しだけ、安心する。

 

***

 

グラウンドに出た瞬間、冷たい風が頬を打った。

 

観客席はすでに熱気に包まれていて、赤と金のマフラーや旗が揺れるたびにざわめきが波のように広がっていく。その中に、スリザリンの緑が毒みたいに混じって見えた。

 

私はマフラーを握りしめたまま、無意識に背筋を伸ばす。

 

試合が始まる前から、落ち着かなかった。

 

理由は分かっているようで、分かりたくなかった。

 

ハリーがシーカーとして出るのだから心配なのは当然だし、スリザリン相手ならなおさらだ。そう思っていれば、それで済むはずだった。

 

なのに、目が探してしまうのはハリーだけじゃない。

 

視線の先で、赤いローブに身を包んだカリンが箒にまたがる。

 

地面を蹴る。

 

ふわりと浮いたその瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。

 

まるで最初から空の方が彼女の居場所だったみたいに、なんの引っかかりもなく風に溶けていく。ほんの一息で高度を取り、黒髪が陽の光をかすめながら揺れた。

 

試合開始の笛が鳴る。

 

私は気づけば、手のひらに汗を滲ませていた。

 

***

 

序盤から、スリザリンの動きはひどかった。

 

体当たり、露骨な進路妨害、わざとらしい接触。観客席のあちこちからブーイングが飛び、私も思わず眉をひそめる。

 

その中で、カリンは妙に静かだった。

 

派手に目立とうとはしない。ただ、そこにいるだけで流れが変わる。

 

ほんの少し早く動く。

ほんの少しだけ、相手より先にそこへいる。

 

それだけなのに、なぜかスリザリンの動きが噛み合わなくなっていくのが分かった。

 

「今の見た?」

 

隣でパーバティが興奮した声を上げる。

 

「すごいわね、あの動き!」

 

私は返事もそこそこに、ただ目で追っていた。

 

ボールが移る。

選手がぶつかる。

歓声が上がる。

 

その喧騒の中でも、カリンの動きだけは不思議と見失わなかった。

 

まるで最初から、そこを見ていたみたいに。

 

一度、カリンがスリザリンのパスを横からさらうように奪ったとき、観客席がどっと沸いた。

 

そのまま彼女は振り返りもせず、するりと進路を変える。無理に攻めず、味方へ繋ぎ、また位置を取る。

 

無駄がない。

 

綺麗だった。

 

そう思ってしまってから、自分で少しだけ息を詰める。

 

(……何を見てるの、私)

 

試合を、だ。

ちゃんと、試合を見ているだけ。

 

そう言い聞かせるのに、目はまたカリンの方へ戻ってしまう。

 

その瞬間だった。

 

ほんの一瞬だけ、カリンの視線が観客席へ上がった。

 

目が合った――気がした。

 

本当に一瞬だった。

気のせいかもしれない。

 

けれど、その短さのせいで、かえって心臓が大きく跳ねた。

 

私は慌ててマフラーを握り直す。

 

(……落ち着いて)

 

そう思うのに、胸の奥は少しも静かにならなかった。

 

***

 

試合は、そのまま一進一退のまま続いた。

 

ハリーは高く上がってスニッチを探している。オリバーが怒鳴り、グリフィンドールのチェイサーたちが走るように空を駆ける。

 

その中で、カリンはやっぱり静かだった。

 

周囲に合わせて騒がしく動くのではなく、流れそのものに潜り込むみたいに位置を変えていく。

 

気づけば、そこにいる。

次の瞬間には、もう別の場所にいる。

 

見ていて、妙に息苦しかった。

 

目が離せないからだ。

 

そのとき、味方からのパスがわずかにずれた。

 

私は思わず身を乗り出す。

 

スリザリンの選手が割り込む――そう思った、その前に。

 

カリンが入っていた。

 

するり、と。

 

本当に滑り込むみたいに相手の懐へ入って、指先でクアッフルを奪う。

 

歓声が爆発した。

 

そのまま彼女は反転する。

 

赤いローブが翻る。

正面にゴールリング。

身体がしなる。

 

投げた。

 

クアッフルが高く弧を描く。

 

一瞬だけ、世界が止まったみたいに見えた。

 

――入った。

 

次の瞬間、観客席が揺れた。

 

「入った!」

「カリンが決めたぞ!」

 

耳に飛び込んでくる歓声より先に、私は立ち上がっていた。

 

自分でも気づかないうちに、身体が動いていた。

 

そして――また、目が合った。

 

今度は、確かだった。

 

驚いたように見開かれた灰色の瞳と、真正面からぶつかる。

 

その瞬間、胸の奥が熱くなる。

 

何か言いたいのに、もちろん届くはずもない。なのに、なぜか言葉の代わりみたいに、顔が勝手に明るくなったのが自分でも分かった。

 

嬉しかった。

 

ゴールが決まったから、だけじゃない。

 

今のを決めたのが、彼女だったからだ。

 

そのことに気づいた瞬間、胸の奥が妙にざわつく。

 

けれど、その正体を考える前に、カリンはもう視線を戻していた。

 

何事もなかったみたいに、高度を取り直していく。

 

私は立ったまま、しばらく動けなかった。

 

(……今の、何)

 

分からない。

 

分からないけれど、試合が始まる前よりずっと、落ち着かなくなっていた。

 

――そのとき、空気が凍りついた。

 

「ハリーの箒が……!」

 

リー・ジョーダンの叫びが、スタンドに突き刺さる。

 

私は反射的に立ち上がった。

 

上空で、ハリーの身体が大きく揺れている。

箒が激しく跳ね、まるで振り落とそうとしているみたいに暴れていた。

 

「……っ、どうして……!」

 

ただの事故じゃない。違う。

こんな動き、普通じゃない。

 

ハリーは、ついに片手でぶら下がるだけになった。

 

心臓が、ひどく速い。

 

さらにブラッジャーが、ハリーへ一直線に向かっていく。

 

「危ない――!」

 

叫びが重なる。

でも、その前に黒い影が鋭く空を切り裂いた。

 

カリン。

 

箒をひねり、柄で叩き上げる。

金属音が空に弾ける。

 

弾かれたはずのブラッジャーが、また戻る。

 

何度も、何度も。

そのたびにカリンは食らいつく。

 

叩く。逸らす。押し返す。

 

(……何あれ)

 

ありえない。

普通のチェイサーの動きじゃない。

 

――目が離せない。

 

胸の奥が、強く締めつけられる。

 

でも――

 

(違う。今は)

 

私は無理やり視線を引き剥がした。

 

ハリーの箒。あの動き。

原因を、見つけないと。

 

「フリントがぶつかったせいじゃないか?」って声がどこかで聞こえた。

 

でも、ハグリッドの震える声が、それを否定する。

 

「強力な闇の魔術以外、箒に悪さはできん」

 

その言葉が、頭の中で鋭く弾けた。

 

(闇の魔術……?)

 

考えるより先に、私は双眼鏡をひったくっていた。

 

観客席を、片っ端から探す。

 

そのとき――

黒いローブの男が目に入った。

 

スネイプ。

 

彼は身を乗り出して、じっとハリーを見つめている。

そして、唇が動いている。

 

絶え間なく。

途切れずに。

 

(……呪文?)

 

ぞっとした。

 

「何かしてる……箒に呪いをかけてる」

 

自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。

 

「なんだって!?」

 

ロンが双眼鏡をもぎ取る。

 

「うわ、あいつ。クィディッチに勝ちたいからってそこまで……!」

 

そのとき。

 

視界の端で、カリンがまたブラッジャーを弾いた。

 

息が詰まる。

 

(……持たない)

 

あのままじゃ、どちらかが先に限界になる。

 

カリンの方か、ハリーか。

 

思考が、一直線に収束する。

 

(止めるしかない)

 

でも、確信は――半分しかない。

 

それでも。

走り出していた。

 

人を押しのけて、階段を駆け上がる。

 

途中で誰かにぶつかった。ターバンが視界の端で揺れたけど、どうでもよかった。謝る余裕なんてない。

 

ただ、前へ。

スネイプの背後に回り込む。

 

しゃがみ込む。

 

杖を握る手が、震えている。

 

(お願い……間違ってないで)

 

「ラカーナム・インフラマレイ」

 

小さく、しかし確かに呪文を落とした。

 

次の瞬間、青い炎が、弾けた。

スネイプのマントの裾が、ぱっと炎を上げる。

 

「何だ!?」

 

周囲がざわめく。

 

スネイプがはっと振り返る。

 

その一瞬。

 

――視線が外れる。

 

(……!)

 

上を見る。

 

ハリーの箒が、ぴたりと揺れを止めた。

 

そのまま体勢を立て直す。

 

落ちない。

 

戻った。

 

そのすぐそばで。

カリンが、ぴたりと動きを止めた。

 

まるで、役目が終わったとでもいうみたいに。

 

胸の奥が、どくんと鳴る。

 

(……間に合った)

 

全身の力が一気に抜ける。

 

その直後、ハリーが急降下する。

 

誰もが息を呑む。

 

地面すれすれで――彼は何かを吐き出した。

 

金色。

スニッチ。

 

試合終了の笛。

 

歓声が、爆発する。

 

でも私は、立ち尽くしたまま、空を見ていた。

 

ハリーじゃない。

 

その少し横。

まだ空にいる、黒髪の少女を。

 

さっきまでブラッジャーと競り合っていた場所。

 

まだ肩で息をしているのが分かる。

 

あの子がブラッジャーを跳ね除け続けてくれたから、私は前へ進めた。

 

喉の奥で、言葉にならない熱がほどけていく。

 

助かった。ハリーも。

――そして、カリンをこれ以上、危ない目に遭わせなくて済んだ。

 

***

 

談話室に戻っても、祭りのような喧騒は止む気配がなかった。

 

ハリーの劇的な勝利について口々に語り合っていた。

スニッチを口で捕まえた話、スリザリンのキーパーが顔を真っ赤にしていた話、そして──補欠で出場した黒髪の少女が、鮮やかにゴールを決めた話。

 

「カリン、今日のプレイ最高だったわよ!」

 

パーバティ・パチルが目を輝かせて駆け寄る。

続いてディーンやシェーマスたちも賛辞を送る。

 

カリンは取り囲まれながらも、「ありがとう」と、どこか困ったように、けれど柔らかく微笑んでいた。

 

その光景を、私は少し離れた場所から見つめていた。

 

本当なら、真っ先に駆け寄って「無事でよかった」と伝えるべきなのに。

 

なぜか、足が地面に縫い付けられたように動かない。

 

(……)

 

ゆっくりと視線を下ろす。

 

胸の奥が、じわりと、出口のない熱を持っている。

 

瞼を閉じれば、空の上での光景が、網膜に焼き付いた残像のように繰り返される。

 

荒れ狂うブラッジャー。

その軌道を、力ずくでねじ曲げる細い腕。

迷いのない、風を裂くような疾走。

 

(……どうして、あんなに)

 

言葉が、思考の先で解けていく。

 

ただ――強烈に、目が離せなかった。

 

「ハーマイオニー?」

 

ロンの無遠慮な声で、意識が現実へと引き戻される。

 

「どうした? 行かないのか?」

 

カリンたちの輪を指差す彼に、私は一瞬だけ視線を向けた。

 

歓声の中心。光のなかにいる彼女。

 

「……あとで行くわ」

 

自分でも驚くほど、素っ気ない声が出ていた。

 

ロンが不思議そうに眉を寄せる。

 

「珍しいな。お前が真っ先に行かないなんて」

 

「ちょっと……考えたいことが、まとまらないのよ」

 

適当に言葉を濁し、彼がそれ以上追求しなかったのを幸いに、再び視線を戻した。

 

また、あの場所へ。吸い寄せられるように。

 

(……なんで、私)

 

理由を定義しようとして、すぐに諦めた。

 

分からない。理屈では、この胸のざわつきは説明できない。

 

さっきまで感じていた「親友を失うかもしれない恐怖」とは、決定的に何かが違っている。

 

もっと静かで、それでいて、じりじりと残る熱。

 

その時、カリンがふと顔を上げた。

 

一瞬だけ、視線が重なる。

 

今度は、逸らさなかった。逸らせなかった。

 

ほんの瞬きほどの時間。

 

それだけなのに、心臓が強く跳ねる。

 

(……なに、これ)

 

言葉にならない。

 

けれど――

 

何かが、変わってしまった気がした。

 

カリンはすぐに、何事もなかったかのように視線を外した。

 

それでも。

 

(……もう一度)

 

そう思ってしまった自分に、少し戸惑う。

 

ただの心配だった。放っておけないだけだった。

 

それで終わっていたはずなのに、もう同じ場所には戻れない気がした。

 

(……違う)

 

それ以上、考えたくなかった。

 

分からないまま。

 

私はその場に立ち尽くしていた。

 

 

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