冷え込む石造りの廊下を、冬の湿った風が吹き抜けていく。
十一月の終わりからホグワーツを包み始めた寒波は、十二月に入るといよいよその牙を剥き始めていた。
「……寒い」
廊下に出るたびに石造りの壁から冷気が滲み出てくるこの城で、カリンの防寒に対する意志はとうに尽きていた。
マントを二枚重ねにしても、手袋をはめても、スコットランドの冬というのはどこかしら隙間を見つけて入り込んでくる。
日本の冬とは根本的に種類が違う、とカリンは思っていた。骨まで染みる、というのはこういうことか、と。
だから自然と、ハーマイオニーの隣に陣取るようになった。
理屈は単純だった。ハーマイオニーはよく勉強する。
勉強する人間は長時間同じ場所に留まる。
つまり暖炉の前という好条件の席を、安定して確保できる。
カリンの中ではそういう整理がついていた。少なくとも、そういうことにしていた。
***
――クリスマス休暇前
ぱちり、と薪が弾ける音。
そのすぐそばのソファで、ハーマイオニーは膝の上に本を広げていた。羽根ペンを持つ手は迷いがなく、細かな文字の横に整然と書き込みを重ねていく。
静かだ。
静かで、整っていて――少しだけ近寄りがたい。
カリンは暖炉の向かいの席でその様子を眺めていたが、しばらくしてから小さく息を吐いた。
「……寒い」
呟いて、立ち上がる。
特に考えたわけでもなく、足は自然と暖炉の方へ向いていた。
そのまま、ハーマイオニーの隣へ腰を下ろす。
クッションが沈む。
一拍遅れて、ハーマイオニーのペン先が止まった。
「……さっきまで、向こうにいたでしょう」
「暖炉から遠い」
カリンは何でもない顔で言う。
「こっちの方が暖かいし」
それだけの理由だった。
マフラーを少し引き寄せ、背もたれに身体を預ける。
暖炉の熱がじわりと伝わってきて、ようやく指先の冷えがほどけていく。
隣からは、紙をめくる音。
視線を落とすと、ハーマイオニーはもう本へ戻っていた。
(……ほんと真面目だな)
そう思いながら、ぼんやりとその横顔を見ていると、
「……なに」
顔を上げないまま、短く返された。
「見てた?」
「見てない」
間髪入れずに返す。
「嘘よ」
「嘘じゃない」
軽く肩をすくめる。
ハーマイオニーは小さく息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、カリンは少しだけ身を乗り出す。
「それ、なに読んでるの」
「呪文学の補足資料」
「ふーん」
興味があるのかないのか分からない返事をしながら、カリンはそのまま覗き込む。
距離が、自然と縮まる。
肩越しに、紙面を追う。
「……ちょっと」
「ん?」
「近いわよ」
「寒いんだって」
それだけ言う。
謝るでもなく、離れるでもなく、そのまま。
ハーマイオニーは一瞬だけ言葉を失ったようだったが、やがて小さく息を吐いて、再び本へ視線を戻した。
けれど、さっきより少しだけ、動きがぎこちない。
カリンはページの一部を指でなぞる。
「この辺、効率悪くない?」
「え?」
「ここ、一回流れ止まってる」
言いながら、紙の上を滑らせる。
「連続してるように見えるけど、ここで溜め直してる。だから遅れる」
ハーマイオニーが目を凝らす。
「……ほんとだわ」
「でしょ」
「でも、教科書では――」
「教科書は教科書で正しいけど」
言葉を被せる。
「別の見方もあるってだけ」
しばらく沈黙が落ちた。
ハーマイオニーは本を見たまま、何か考えている。
その横で、カリンは少しだけ違和感を覚えた。
(……静かだな)
いつもなら、ここでもう少し言い返してくるはずだ。
なのに今日は、反応が遅い。
ちらりと横を見る。
ハーマイオニーは本を見ているふりをしているようで、わずかに肩が強張っていた。
「……なに?」
視線に気づいたのか、今度は少し遅れて返ってくる。
「いや」
カリンは目を逸らした。
「別に」
(さっきから妙に静かだな)
そう思う。
けれど、それ以上は追わなかった。
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
その音に紛れて、ハーマイオニーが小さく息を吐いた。
少しだけ間があってから、
「……ありがとう」
「なにが」
「さっきの」
「別に」
短く返し、カリンは体勢を変える。
横に座っているハーマイオニーを背もたれにするように、少しだけ身体を預ける。
その後、何食わぬ顔でローブから本を取り出す。
「……ねえ、カリン。重いし邪魔よ。書きにくいわ」
「無理。寒すぎ」
あっさりと言う。
ハーマイオニーは「もう、仕方ないわね」とため息をついた。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
離れようともしない。
ページをめくる音だけがして、また静かになった。
炎の揺れる音。
羽根ペンが羊皮紙を引っ掻く音。
ときどき、ハーマイオニーが小さく息を整える気配。
カリンはそれらを聞きながら、手元の本を開いた。
視線は文字の上を滑る。
けれど――
読んでいるはずの内容は、なぜかほとんど残らなかった。
暖炉の熱と、隣から伝わるわずかな体温だけが、鮮明に残り続けていた。
***
次の日の朝。
大広間は、冬の光を薄く溶かしたような明るさに満ちていた。
高い天井には白い雲が低く垂れこめ、その向こうで雪が静かに降っている。魔法の天井越しですら寒そうに見えるのだから、本物の外気がどれほど厳しいかは考えるまでもなかった。
カリンは両手でカップを包み込み、しばらくその熱だけを頼りにしていた。
眠い。寒い。動きたくない。
できることなら、このまま暖炉の前のソファごとここへ運び込みたかったが、さすがにそうもいかない。
仕方なく朝食の席についてはいるものの、意識の半分はまだ毛布の中に置き去りのままだった。
隣では、ハーマイオニーがいつものようにきちんと姿勢を正している。
トーストを小さく千切りながら、何か考えごとでもしているのか、視線はときおり宙を滑った。
その横顔をぼんやり見ているうちに、カリンはようやくパンケーキへ手を伸ばした。
そのときだった。
ばさり、と大きな羽音が頭上で弾けた。
「きゃっ」
ハーマイオニーが小さく肩を跳ねさせる。
次の瞬間、白い影がまっすぐ降りてきて、カリンの目の前へ音もなく着地した。
銀に近い白の羽。 鋭く澄んだ目。 しなやかな脚線。
シロハヤブサだった。
周囲の何人かが、おっ、という顔でこちらを見る。
「……珍し」
カリンは小さく呟いた。
ハヤブサは一度だけ首を傾けると、脚を軽く持ち上げて見せる。
そこに結ばれている細い手紙を見て、カリンは億劫そうに手を伸ばした。
「まあ……綺麗」
隣でハーマイオニーが、感嘆したように息をつく。
「フクロウじゃないのね」
「ハヤブサ」
短く言いながら、封を切る。
手紙は祖母からだった。
相変わらず、必要最低限の文しかない。
休暇はどうする。戻るなら準備をする。
それだけ。
けれど行間に、戻っておいで、という意味が込められているのは分かった。
カリンはしばらくその紙を眺めたまま、天井を見上げる。
魔法の空には、細かな雪が絶え間なく降っていた。
祖母の家の庭も、今ごろは白くなっているのだろうか。 縁側から見える松の枝に、雪が静かに積もっているかもしれない。
その光景を思い浮かべると、胸のどこかがほんの少しだけ緩む。
けれど同時に、遠いな、とも思った。
移動そのものも面倒だし、戻れば戻ったで、年の瀬の慌ただしさに巻き込まれる。着替えだの挨拶だの、いろいろ考え始めるだけで、もう気が重い。
それに――
カリンは無意識に視線を横へ流した。
ハーマイオニーは手紙そのものを見ないようにしているくせに、気配だけはきちんと追っていた。
その不器用さが、なんとなく可笑しかった。
「……お家から?」
案の定、少し控えめな声が落ちてきた。
「まあね」
カリンは曖昧に返す。
「休暇、どうするかって」
「戻るの?」
重なる問いは、思ったより早かった。
カリンは手紙を指先で折り直しながら、肩をすくめる。
「帰らないよ」
答えは、自分でも驚くくらいあっさり出た。
「移動、面倒だし。向こう戻るといろいろあるし」
「そう……」
ハーマイオニーの声が、ほんの少しだけ緩む。
その変化に、カリンの指先がわずかに止まった。
「そんなに意外?」
「え?」
「いや。なんか、安心したみたいな声してたから」
言ってから、余計なことを拾ったかもしれないと思う。
けれどハーマイオニーは、すぐには言い返さなかった。
一拍遅れて、視線が揺れる。
「……別に、そういうわけじゃないわ」
「ふーん」
軽く流しつつ、カリンは羽根ペンを取った。
返事を書く。
今年はホグワーツに残ります。よいお年を。
それだけ。
インクが乾くのを待つあいだ、窓の外では白い雪がゆっくりと流れていた。
ハヤブサに手紙を結び直す。 白い翼は返事を受け取ると、迷いなく飛び立った。雪明かりの中へ溶けるように、小さくなっていく。
「ハーマイオニーは?」
不意にカリンが訊く。
「家、戻るんでしょ」
問いかけられたハーマイオニーは、一瞬だけ目を伏せた。
「……まだ、決めてないわ」
「珍しいね」
「そう?」
「君、そういうのは早そうだし」
そう言うと、ハーマイオニーは小さく息を吐いた。
トーストの端を指でちぎりながら、少しだけ間を置く。
「まだ図書館で調べたいこともあるし……」
ぽつり、と落ちる声。
「休暇中のほうが、静かで勉強しやすいでしょう?」
「たしかに」
カリンは頷いた。
それは本当だ。 人の少ない城は、案外嫌いじゃない。
「それに、ニコラス・フラメルのことも、まだ何も分かっていないし」
「まだやってたんだ、あれ」
「まだやってるのよ」
すぐに返ってくる声は、いつもの調子に近かった。
けれどそのあと、ほんの少しだけ言葉が止まる。
「……それに」
「それに?」
カリンが聞き返すと、ハーマイオニーは一度だけこちらを見た。
まっすぐ見返してきたのはほんの短い時間で、すぐに視線は逸れる。
「あなた、放っておくと、ほんとうに暖炉の前から動かなくなりそうだもの」
その返答に、カリンは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、じわじわと可笑しさがこみ上げてくる。
「なにそれ」
「事実でしょ」
「否定はしないけど」
「だったら、誰かが見ていないと駄目じゃない」
言い切ったあとで、ハーマイオニーは自分でも少し言いすぎたと思ったのか、口元を引き結んだ。
けれど、その横顔はどこかむきになっていて、妙に真剣で。
カリンはそれを見て、小さく笑う。
「……そっか」
短く返す。
それだけのはずなのに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。
どうしてそうなるのかまでは、考えなかった。
考えたところで、たぶんろくな答えにはならない。
「じゃあ、残るんだ」
「ええ」
ハーマイオニーはまだ視線を逸らしたまま頷く。
「そのつもりよ」
「ふうん」
カリンはカップを持ち直した。
じんわりとした熱が、冷えた指先へ戻ってくる。
さっきまであんなに寒かったはずなのに、今は少しだけましだった。
そのことを不思議に思いはしたが、深くは考えない。
代わりに、いつもの調子で肩をすくめた。
「……じゃあ、休暇中も暖炉の席、譲ってもらおうかな。優等生さん」
ハーマイオニーはようやくこちらを向いた。
「勝手に決めないで」
「だって、君の隣が一番暖かいし」
口をついて出てから、しまった、と思った。
けれど、もう遅い。
ハーマイオニーの動きが、ぴたりと止まる。
ヘーゼルナッツの瞳が、驚いたみたいにこちらを見る。
その沈黙の意味を測りかねて、カリンは視線を逸らした。
「……暖炉に近いから、って意味」
「……分かってるわよ」
返事は、少し遅れた。
それきり、二人とも何も言わなかった。
大広間のざわめきはいつも通りなのに、その一角だけ妙に静かだった。
カリンはナイフとフォークを持ち直す。
パンケーキを切る。 口に運ぶ。
甘いはずなのに、味はあまりよく分からなかった。
ただ、さっきの一言だけが、妙に耳に残っている。
隣ではハーマイオニーが紅茶に手を伸ばしていた。
けれど、その指先がほんのわずかに落ち着かないのを、カリンは見てしまう。
(……やっぱり、なんか変だな)
そう思う。
けれど追及するほどのことでもない気がして、結局そのままにした。
窓の外では雪が降り続いている。
その白さを横目に見ながら、カリンは湯気の立つカップへ口をつけた。
いつもより少しだけ、休暇が遠く感じなかった。
***
クリスマスまで、片手で数えられるほどになった頃。
カリンは、どうにも落ち着かなかった。
休暇に入って城が静かになったせいかもしれない。
特訓の合間に手が空く時間が増えたせいかもしれない。
ただ、ふとした拍子に、同じことを考えるようになっていた。
――何か、渡せるものがあるだろうか。
きっかけは、小さなものだった。
図書館で調べ物をしていたときのことだ。
ハーマイオニーが、棚の間を一つ一つ確かめるように歩いていた。
目当ての本が見つからなかったのか、司書に何か尋ね、それでも駄目だったらしい。ほんのわずかに、表情が曇る。
その様子をカリンは目で追っていた。
その日の夜。
カリンは、自分の鞄から古い手記を取り出していた。
日本語で書かれた術式のメモ。
陰陽道の原理をまとめた走り書き。
自分で試した応用魔法の断片。
ぱら、とページをめくる。
ページによっては図が入っていて、欄外にインクが滲んだ修正の跡がある。
試しては消し、書き直した跡がそのまま残っていた。
(……)
しばらく見て、それから閉じる。
そのまま、机の引き出しを開けた。
中から、新しいノートを一冊取り出した。
***
翌日。
談話室の隅で、ケイティ・ベルとアリシア・スピネットがチェスをしていた。
ケイティの表情は明らかに苦く、対するアリシアは余裕のある笑みを浮かべている。
「ちょっと、いいですか」
カリンが声をかけると、二人が同時に顔を上げた。
「どうした?」
「珍しいね」
カリンは少しだけ言葉を探してから、続けた。
「クリスマスプレゼントのことなんですけど」
「へえ」
アリシアがチェスの駒から手を離した。
ケイティも顔つきが変わる。
「誰かに渡すの?」
「まあ……一応」
「誰」
「友達です」
答えながら、カリンは少しだけ言葉を選んだ。
「本って、重いですかね。贈り物として」
「本?」
「手作りの、ノートみたいなやつ」
ケイティとアリシアが顔を見合わせた。
「ノート?」
「はい」
二人はまた顔を見合わせた。今度は少し長かった。
「……それ、市販の本じゃなくて、自分で書くってこと?」
「そうです」
「何を書くの?」
「自分の研究とか、術式の基礎とか。その人が興味ありそうなこと」
アリシアが頬杖をついた。
「それ、かなり手間じゃない? 自分の研究をまとめて書くって」
「まあ」
「しかも相手の興味に合わせて」
「一応、そのつもりです」
少しだけ間が空く。
カリンは指先で机を軽く叩いた。
「後半、白紙にしようかと思って」
「白紙?」
「書き足せるように」
「へえ」
ケイティの口元がゆっくりと緩む。
「共同で使う前提なんだ」
「……まあ」
沈黙。
アリシアが、ゆっくりと笑みを深めた。
「ツキヨミ」
「なんですか」
「その贈る相手って」
一拍置く。
「かなり特別な子でしょ」
カリンは、答えようとした。
言葉が、出なかった。
頭の中に反論の形はあった。
友達だから、とか、ただ喜ばれそうだと思っただけ、とか。
そういう整理は、ちゃんとついていたはずだった。
なのに、口が開かなかった。
その一瞬の間を、二人は見逃さなかった。
「……そういうんじゃないです」
ようやく出てきた声は、自分でも分かるくらい雑だった。
「別に、ただ」
「ただ?」
「喜んでくれそうだったから」
「それが特別ってことじゃないの」
アリシアが静かに言う。
「他の友達にも、同じもの作る?」
カリンは黙った。
作らない、と答えるのも、おかしい気がした。
作る、と答えるのも、嘘になる。
結局、どちらも言えなかった。
「……うるさいですよ」
絞り出した言葉は、やはり雑だった。
ケイティが笑いを堪えるように口元を押さえる。
アリシアは隠しもせずに笑っていた。
「可愛いじゃない、ツキヨミ」
「可愛くないです」
「今、耳まで赤いわよ」
「寒いんです」
「暖炉の前にいるのに?」
カリンは何も言わなかった。
それが余計に面白かったのか、二人はしばらく笑っていた。
やがてチェスに戻る。
カリンはその場を離れた。
***
その夜。
部屋で一人、机に向かう。
新しいノートを開く。
表紙は厚めの紙で、中は罫線なしにした。
ハーマイオニーは書き込みをするとき、欄外まで使う。
罫線があると窮屈そうだ、と思ったから。
最初のページから、書き始める。
陰陽道の基礎。
五行の概念。
魔力の流れの捉え方。
書きながら、自然と構成が整っていく。
どこで引っかかるか。
どこで疑問を持つか。
――そこを、先回りするように書き足す。
気づけば、手は止まらなかった。
西洋魔法との比較が必要そうなところには、
カリンなりの解釈を添えた。難しい概念には、図を描いた。
少しでも分かりやすくなるように。
(……こういうとこ、気にしそうだし)
無意識に、そう考えていた。
手記を開いて照らし合わせる。
これまで試してきた応用魔法の断片、うまくいった術式とそうでなかった術式のメモ。
できるだけ丁寧に書き直しながら、ところどころカリン自身の考察を足していった。
窓の外では、雪がまた降り始めていた。
後半のページまで来たとき、カリンはペンを止めた。
白紙が続いている。
このまま何も書かないことに、少しだけ迷った。
未完成に見えるかもしれない、とは思った。
それでも、埋めなかった。
しおりを挟んで、最後のページの裏に小さなメモを挟む。
――気づいたことを書き足せるように、後ろは空けておいた。
――君の考えも入った方が、たぶん面白くなる。
書いてから、一度だけ読み返した。
余計なことが書かれていないか確認した。
問題はなさそうだった。
カリンはメモを折って、ページの間に挟んだ。
表紙を閉じる。
窓の外の雪が、静かに降り続けていた。
その白さを、カリンはしばらく眺めていた。
***
それから、いくつか夜が過ぎて。
クリスマス休暇に入ると、ホグワーツはあっという間に静かになった。
いつもなら複数の寝息や寝返りの気配がある寝室が、休暇中は違う。
カーテンを閉めたベッドが並んでいるのに、そこにいるのは二人だけ。
音が、ほとんどなかった。
カリンはカーテンの隙間から差し込む薄明かりに気づき、ゆっくりと上体を起こす。
覗いた外は――白かった。
雪だ。
しかも、ただ降っただけじゃない。
庭も、通路も、屋根の縁も、夜のあいだにすっかり覆われている。
(……積もったの、初めてか)
ぼんやりとそう思う。
この冬に入ってから雪自体は何度か見た。
けれど、ここまできちんと“積もる”のは初めてだった。
足跡ひとつない白い面が、朝の光をやわらかく反射している。
(……いいな)
そう思った瞬間、眠気がすっと引いた。
布団を跳ねのけて窓へ近づく。
冷たい床に足をつけても、今は気にならなかった。
外を見ると、中庭の石畳がうっすらと白くなり始めていた。
まだ積もりかけで、草の葉先にだけ雪が乗っている。
空からは、細かな粒がひっきりなしに落ちてきていた。
日本でも雪は降る。けれどこの白さは、どこか違う種類に見えた。
カリンは数秒それを眺めてから、振り返った。
マントを引っつかむ。
ベッドを出る前に、少し考えた。
それから、まだ眠りの中にいたハーマイオニーを揺り起こす。
「……ハーマイオニー」
返事がない。
「起きてる?」
やはり返事がない。
もう一度、今度は少しだけ強く揺する。
「……なに」
くぐもった声が返ってきた。まだ半分眠っている。
「雪、降ってる」
沈黙。
「だから?」
「見に行こう」
また沈黙。今度は長かった。
「……今、何時だと思ってるの」
「早い時間」
「それは分かってるわよ」
「早起きは三文の得って言うし」
「あなたが言える立場じゃないわ」
ハーマイオニーはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……寒いわよ」
「知ってる」
「あなた、寒いの苦手でしょう」
「苦手だけど、これは別」
言い切る。
その言い方が妙に真っ直ぐで、ハーマイオニーは一瞬言葉に詰まった。
「……子供みたい」
それでも、ベッドの中ででごそごそと動く気配がした。
「着替えるから、待ってて」
カリンはそこで、自分も着替えてなかったことに気づく。
マントだけじゃ、寒さを凌げない。しっかりと防寒対策をすることにした。
しばらくして、ハーマイオニーが談話室にやってきた。
ハーマイオニーは髪を緩く結んで、コートの上にマントを重ねていた。まだ眠そうな目をしているのに、ちゃんと防寒をして出てきたのが、なんとなくおかしかった。
「起こされた身にもなって」
言いながら、口元はそう怒っていない。
「ありがとう」
カリンは笑う。
「行こう」
***
外へ出た瞬間、空気が鋭く肌を刺した。
「……っ」
思わず肩をすくめる。
肺に入ってくる冷たさが、城の中とは比べものにならない。
吐く息が白く固まって、すぐに消えた。
足元の石畳は薄く白くなっていて、踏むたびにわずかに軋む感触があった。空からはまだ雪が降り続いていて、二人の肩や髪にもすぐに積もり始めた。
「……寒っ」
言いながら、足を踏み出す。
きゅ、と小さな音が鳴る。
その感触に、カリンの口元がわずかに緩んだ。
「……いいね」
小さく呟く。
まだ誰も踏んでいない雪が、均一に広がっている。
その中へ、迷いなく入っていく。
「カリン、足元——」
「大丈夫」
芝生に出る。靴の下で雪が潰れる。
カリンはその感触を確かめるように、もう一歩、また一歩と踏みしめた。足跡が、白い上に並んでいく。振り向くと、後ろにも足跡が続いていた。
「……見て」
「何を」
「足跡」
ハーマイオニーが呆れたように息を吐いた。
けれど、隣に並んで同じように足を踏み出す。
二つ分の足跡が、横に並んだ。
カリンはそれを見て、何も言わずに笑った。
しばらく中庭を歩き回るうちに、カリンは雪そのものに夢中になっていた。
枯れ草の上に積もった雪の厚みを手で測ってみる。
空を向いて、雪が落ちてくる軌道を目で追う。
「……本当に子どもみたい」
ハーマイオニーが傍らで言った。
「雪、珍しいの?」
「珍しくはないけど」
カリンは答えながら、足元の雪を手でひとすくいした。
「質が違う」
「質?」
「もっとべちゃっとしてる、日本の」
「そうなの」
「こっちは、さらさらしてる」
言いながら、手のひらの雪を空に向かって払う。
白い粒が散らばって、消えた。
ハーマイオニーはその様子をじっと見ていた。
何かを言いかけたが、言わなかった。
ただ、小さく息を吐いて、また前を向いた。
木の根元まで来たとき、カリンは上を見上げた。
枝に積もった雪が、今にも落ちそうになっている。
少し考えてから、枝に手を伸ばす。
「あっ——」
ハーマイオニーが声を上げる前に、雪の塊が降ってきた。
白い粉が肩から袖にかけて降り積もる。
「……うわっ」
カリンは一瞬だけ目を細めた後、それをぱっと払った。
手袋越しでも冷たさが伝わってくる。
「もぅ、はしゃぎすぎ」
ハーマイオニーが近づいてきて、袖の雪を払ってくれる。
コートの肩にも積もっていたのを、丁寧に手で払う。
「ありがとう」
「もう」
言いながら、ハーマイオニーの手はまだ袖のあたりを叩いていた。
カリンはその手元を、一拍だけ見た。
それから、また空へ目を向けた。
***
歩き続けると、じわじわと冷えが戻ってきた。
「寒い」
「だから言ったでしょう」
「分かってたけど、それ以上に雪の方が気になった」
「……子どもみたいな理屈ね」
「そう?」
カリンはそう言いながら、自然に距離を詰める。
ハーマイオニーの隣、肩が触れるかどうかくらいの位置に収まる。
「また始まった」
「寒いんだって」
「毎回それね」
「毎回寒いから」
ハーマイオニーは何か言いたそうにしたが、結局何も言わなかった。
ただ、少しだけ歩幅を合わせた。
中庭の端まで来て、二人は立ち止まった。
空が、白かった。
雪はまだ降り続けていて、中庭の石畳はすっかり覆われていた。
遠くに見える森も、木の梢が白く縁取られている。
城の塔の先端にも、薄く雪が積もり始めていた。
「……きれいだな」
カリンが呟いた。
「ええ」
短く、ハーマイオニーが応える。
しばらく二人とも黙っていた。
その沈黙は、苦じゃなかった。
帰り際、カリンは足元の雪をもう一度すくい上げた。
手袋を外して、素手で触れる。
「……冷た」
思ったより強く、声が漏れた。
それから、何を思ったのか、
冷えた指先を、そのままハーマイオニーの手首へ触れさせた。
「——っ、冷たいでしょう!」
「冷たかった」
「だから言ったじゃない!」
「確かめたかった」
「何を確かめてるのよ!」
ハーマイオニーは慌てて手を引っ込め、コートの裾で押さえるように温める。
頬が赤い。
寒さのせいかどうかは、カリンにはよく分からなかった。
カリンはその様子を見て、少しだけ笑う。
「怒った?」
「当たり前でしょう」
「ごめん」
謝りながら、全く悪びれていない。
ハーマイオニーは呆れた顔をしたまま、それでも口元が完全には引き結ばれなかった。
「……もう、行くわよ」
「うん」
先に歩き出したハーマイオニーの後を、カリンはついていく。
石畳の上に、二つ分の足跡が続く。
少し進んでは、カリンは振り返る。
振り返るたびに雪景色があって、その中に自分たちの足跡が残っていた。
それがなんとなく、良かった。
***
談話室へ戻ると、暖炉がいつも通り燃えていた。
ハーマイオニーは手を温めながら、まだ少し口をとがらせている。
カリンはその隣へ、いつもの場所に腰を下ろした。
「ありがとう、付き合ってくれて」
ハーマイオニーは一瞬だけ動きを止めた。
それから、ふいと顔を逸らす。
「……次は自分一人で行って」
「やだ。一人じゃ面白くない」
その返事に、ハーマイオニーは何も言わなかった。
暖炉の光が、静かに揺れている。
カリンはその温かさに目を細めながら、窓の外を見た。
雪はまだ降り続いていた。
「そろそろ朝食の時間よ。行きましょう」
隣でハーマイオニーが促す。
カリンは視線を窓から戻して、大広間へ歩き出す。
隣を歩く気配が、当たり前みたいについてくる。
それだけで、なんとなく、いい朝だと思った。
***
朝食を済ませたあとの談話室は、休暇らしい静けさに包まれていた。
暖炉の火がゆっくりと揺れている。
窓の外では雪が降り続いていて、その白さが部屋の光をやわらかくしていた。
ハーマイオニーは膝の上に課題を広げて、羽根ペンを走らせていた。
その隣に、カリンがいる。
正確には――
隣のソファに座っていたはずだった。
「……眠い」
ぽつりと呟く。
暖炉は近く、薪の爆ぜる音も心地よい。
カリンは一度だけ息を吐いた。
それから、何を考えるでもなく、体を横に倒した。
そのまま、クッションへ――
のはずだった。
「……っ、ちょっと、カリン」
ハーマイオニーの声が、すぐ近くで弾けた。
視界が低い。
柔らかい感触が、頭の下にある。
一瞬だけ間があってから、カリンは状況を理解した。
(……あー)
クッションではなく、ハーマイオニーの膝だった。
「……動かないで」
すぐに言われる。
声が、少し硬い。
「いや、どくけど」
「待って、動かないでってば」
間髪入れずに返ってきたその言い方に、カリンは動きを止めた。
「……なに」
「今動くと、インクが」
視線だけ上げる。
ハーマイオニーの手元。 確かに、ペン先が紙の上に止まっている。
「……ああ」
納得して、そのまま動かない。
沈黙。
暖炉の音だけが、静かに弾ける。
(……暖かいな)
頭の下から、じんわりと体温が伝わる。
クッションより柔らかくて、少しだけ不安定で。
けれど、悪くなかった。
「……カリン」
「ん?」
「課題、進めるんじゃなかったの」
「進めてる」
そう言いながら、本を持ち上げる。
少し無理な体勢だが、読めないことはない。
「……暗い。もう少しピンとしてて。ハーマイオニー」
「注文が多いわね。……そもそも、人の膝をソファにするのが間違ってるわ」
「ソファだと思って使ったこと、一度もないけど」
「じゃあ、何だと思ってそんなにくつろいでるのよ」
「……枕。……ちょうどいい高さの」
一瞬、ペン先が止まった。
羊皮紙の上に、小さくインクが滲む。
沈黙。
ハーマイオニーの呼吸が、わずかに乱れる。
「……余計に駄目よ」
そう言いながらも、どかそうとはしなかった。
ペンがまた動き出す。
紙を擦る音。
暖炉の火。
その中で、カリンは目を細めた。
ハーマイオニーの書く振動が心地よい。
こんな状況なのに、妙に落ち着く。
どうしてなのか、考えかけて――やめた。
たぶん、ろくな答えにならない。
そのまま数分。
やがてハーマイオニーが、ふっと息を吐いた。
「……終わったわ」
その声と同時に、カリンは体を起こした。
すっと距離が離れる。
ほんの少しだけ、名残みたいな熱が残る。
ハーマイオニーは何も言わなかった。
ただ、ペンを置いて、ページをめくる。
カリンも何も言わなかった。
そのまま、また隣に座り直す。
さっきと同じ距離。
けれど、ほんのわずかだけ違う気がした。
その空気を、無遠慮に壊すように、ハリーとロンがやってきた。
「カリン、ハーマイオニー、一緒に来ない?」
ハリーが声をひそめて言う。
「図書館で調べたいことがあって」
「ニコラス・フラメル?」
ハーマイオニーがすぐに反応する。
「そう」
ハリーたちは、ハグリッドが口を滑らせてからずっと、どんな人物かを調べていた。
「私は、いい。パス」
「え、なんでさ」
「課題、終わってないし」
半分は本当だった。だが、スネイプを悪者と決めつけて疑わない二人の熱狂に付き合うのは、今のカリンには酷く疲れる作業だった。
「ハーマイオニー、頼むよ。君がいないと、あの書庫の迷宮から抜け出せなくなる」
ハリーの切実な訴えに、ハーマイオニーは一瞬だけ迷うようにカリンを振り返った。
「行きなよ。私は……課題の件で、少し先生のところに行かなきゃいけないし」
その言葉に、ハーマイオニーはようやく小さく首を縦に振った。
三人が図書館へと消えていくのを見届け、カリンはふらりと逆方向へ歩き出す。
向かうのは、華やかなクリスマスの装飾が一切届かない、冷気が淀む地下牢。
スネイプとの、秘密の特訓。
「遅い」
挨拶代わりの低音とともに、容赦のない呪文が飛来する。
反射的に身体をひねり、床を蹴る。
瞬時に結界を張るが、それはスネイプの鋭い魔力に無慈悲に引き裂かれた。
「もう一度だ」
「……はい」
時間の感覚が曖昧になる。
繰り返される回避と防御、そして反撃。
ようやく解放されたとき、カリンの指先は感覚を失うほどに疲れ果てていた。
***
談話室へ戻ると、そこには暖炉の火に照らされたハーマイオニーがいた。
膝の上に課題の束を広げたまま、一冊の本を熱心に追っている。
窓の向こう、闇に紛れて降る雪が、淡く白く光っていた。
カリンの気配に、彼女が顔を上げる。
「遅かったわね」
何気ない声だった。
咎めているわけでも、心配していたわけでもない、ただそう言っただけの声。
「ちょっと、いろいろ」
カリンは曖昧に濁し、重いコートを脱ぎ捨てる。
「ハリーたちは?」
「さっき戻って、もう食堂に行ったわ。あなたがいないから、先に行くって」
「そっか」
カリンはいつものように、彼女の隣へ腰を下ろした。
ハーマイオニーは再び本へと視線を落とす。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、二人の間に流れていた。
遅かったわね、という声が、頭の中でもう一度響く。
待っていた、とは言っていない。
ただ、そこにいた。
それだけのことのはずだった。
なのに、胸の奥だけがじわりと温かい。
どうしてかは、考えないことにした。
***
クリスマスの朝は、静かに来た。
カーテンが閉まってるベッドは2つだけ。
そのベッドの足下に置かれた小さなプレゼントの山が目に入る。
鞄からノートを取り出して、膝の上に置く。
昨夜も確認した。
それでも、もう一度だけ表紙を開いて、最初のページを見た。
書いた字が並んでいる。図が入っている。問題ない。
表紙を閉じる。
隣のベッドのカーテンが、まだ閉まっていた。
カリンはそれを眺めながら、膝を抱えた。
急かすつもりはなかった。ただ、なんとなく、早く起きてこないかと思っていた。
思ってから、少しだけ妙な気がした。
咳払いをひとつする。
しばらくして、隣のカーテンが揺れた。
するりと開いて、ハーマイオニーが身を起こす。
髪が少し乱れていた。目がまだ眠そうだった。
カリンを見て、少し驚いた顔をした。
「……もう起きてたの」
「うん」
「珍しいわね」
「クリスマスだし」
その答えに、ハーマイオニーは一拍だけ間を置いた。
それから小さく笑った。寝起きの、柔らかい笑い方だった。
「そうね」
ハーマイオニーがベッドの裾にある自分の包みを確認している横で、カリンは膝の上のノートを持ち直した。
「これ」
差し出す。
ハーマイオニーが振り返った。
薄い本を見て、それからカリンの顔を見た。
「……私に?」
「他にいないでしょ」
即答だった。
ためらいもなく。
ハーマイオニーは、そっとそれを受け取る。
表紙を見た。飾り気のない、灰緑の表紙。金糸の細かな模様。
「開けていい?」
「どうぞ」
最初のページをめくる。
日本語と英語が混在した文字が、丁寧に並んでいた。
図が入っている。欄外に注釈がある。
ハーマイオニーの目が、ゆっくりと動いた。
次のページ。また次のページ。
手が止まった。
見覚えのある内容。
授業のあとで詰まったところ。
議論した箇所。
納得しきれなかった式。
それが全部、整理されている。
「……これ、カリンの術式の——」
「うん」
「全部、書き直したの?」
「君が読める形に」
また一枚めくる。応用魔法の断片。実験の記録。
ハーマイオニーは何も言わなかった。
ただ、ページをめくる手が、少し遅くなっていた。
中盤を過ぎたところで、白いページが現れた。
何も書かれていない。罫線もない。
ただ白い紙だけが、残りのページ分続いていた。
ハーマイオニーの手が、止まった。
最後のページの裏に、折られた紙があった。
開く。
――気づいたことを書き足せるように、後ろは空けておいた。
――君の考えも入った方が、たぶん面白くなる。
ハーマイオニーはメモを持ったまま、しばらく動かなかった。
カリンは何も言わずに、その様子を見つめる。
「……これ」
ハーマイオニーの声が、静かに落ちてきた。
「私が持っていていいの?」
「当たり前でしょ」
間髪入れずに返す。
「他に誰が使うの」
「……そうじゃなくて」
ハーマイオニーは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
視線が、ほんの少しだけ揺れる。
ハーマイオニーはもう一度、白いページを見た。
それから本を閉じて、表紙を指先でそっとなぞった。
「……こんなの」
声が、少しだけ揺れた。
「嬉しくないわけ、ないじゃない」
やっと、それだけ言う。
カリンは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、軽く肩をすくめる。
「ならよかった」
短く返す。
少しの間があってから、ハーマイオニーが動いた。
ベッドの端に置いていた包みを、カリンの方へ差し出す。
「……これ。大したものじゃないけど」
「……なに、これ」
「開けてみれば分かるわ」
包みを受け取る。布で丁寧に包まれていた。
開くと、濃い紺色の手袋が出てきた。
「……実用的」
ぽつりと呟く。
「あなた、すぐ手冷やすでしょう」
ハーマイオニーが言う。
視線は少しだけ逸れている。
「クィディッチのときも、終わったあと指真っ赤だったし」
カリンの動きが、わずかに止まる。
「見てたんだ」
「見てるわよ、それくらい」
即答。
少しだけ強い言い方。
「無理するから」
小さく付け足される。
カリンは、手袋に手を通した。
じんわりと温かい。
柔らかい素材で、サイズがぴったりだった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ハーマイオニーは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
二人とも、しばらく黙っていた。
カリンは手袋を膝の上で持ったまま、窓の外を見ていた。
ハーマイオニーはノートを胸に抱えていた。
部屋が静かだった。
その静けさのまま、時間が流れた。
「……朝食、行く?」
先に言ったのはカリンだった。
「ええ」
ハーマイオニーが頷く。
本を、枕元に丁寧に置いた。乱暴に扱わないように、角を合わせて。
その仕草を、カリンはなんとなく見ていた。
見てから、目を逸らした。
毛布を跳ねのけて、冷たい床に足をつける。
今日は、寒さがあまり気にならなかった。
***
その夜は、四人とも談話室にいた。
暖炉の前。
ソファとラグに、それぞれ思い思いの格好で集まっている。
ハリーとロンはチェス盤を挟んで向かい合っていた。
駒を動かすたび、木の触れ合う乾いた音がする。
カリンはソファの端に身体を預け、ぼんやりと炎を眺めていた。
その隣では、ハーマイオニーが膝の上に本を広げている。
ページをめくる音が、暖炉の音に混じる。
ハリーが、ふと口を開いた。
「なあ、不思議な鏡を見つけたんだけど」
誰も急かさなかったので、ハリーはゆっくりと話した。
「夜中に、ちょっと廊下を歩いててさ」
ロンが顔を上げる。
「なんで誘わなかったのさ」
「……で、知らない部屋に出たんだ。そこに鏡があって」
ハリーは、言葉を選ぶように一瞬だけ黙った。
「僕の両親が映ってた」
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
その音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……両親?」
ハーマイオニーが、ゆっくりと聞き返す。
その手が止まっていることに、カリンは気づいた。
「うん。父さんと母さんが、後ろに立ってた。僕のこと、見てて」
ロンが身を乗り出す。
「どんな鏡だった?」
「大きくて、金の縁で。上に変な文字が彫ってあった」
「読めなかったの?」
「うん。見たことない文字だった」
ハーマイオニーが本を閉じた。
ハーマイオニーが読書の途中で本を閉じるのは、珍しい。
「鏡に映っていたのは、本当にご両親だったの?」
「そう思う。会ったことないから確かじゃないけど、でもそう感じた」
ハーマイオニーは少しの間、黙った。
「欲求を映す鏡、という話は聞いたことがあるわ。心の奥底にある願望を映すって」
「でも、僕は願望なんて考えてなかった」
「無意識でも映るのかもしれない」
ロンが唸る。
「……それ、すごいな。僕も見てみたい」
ハリーは少し迷うような素振りを見せたが、やがて頷いた。
「場所は分かるよ」
その会話を、カリンは暖炉の火を見ながら聞いていた。
「カリンは?」
ハーマイオニーが、こちらを向く。
「なに?」
「鏡、興味ない?」
少しだけ考える。
亡くなった両親が映る鏡。
話としては、確かに興味深い。
けれど――
(あんまり、信用できる話でもないな)
そうも思った。
魔法には、見せるものと、見せられるものがある。
それがどちらかで、意味は大きく変わる。
そこまで考えて、やめた。
別に自分が確かめることでもない。
そう思った、そのときだった。
「行ってみたくないの?」
カリンはハーマイオニーの方を向いた。
熱心な顔をしていた。目が少し輝いている。
こういう顔をするとき、ハーマイオニーはもう答えを決めている。
「……行く気でしょ、もう」
「確かめたいじゃない。本当にそういう鏡があるなら」
「夜中に四人で動くのは危ないよ」
「カリンがいれば大丈夫よ」
大丈夫の根拠がよく分からなかったが、カリンはそれ以上言わなかった。
「ハリー、案内できる?」
ハーマイオニーがハリーに向き直る。ハリーは頷いた。
「行ったことあるから」
「ロンは?」
「もちろん行く」
三人の視線が、自然とカリンに集まる。
カリンは一度だけ息を吐いた。
「……行くよ」
短く答える。
「一人で暴走されても困るし」
「誰が暴走よ」
すぐに返ってくる。
けれど、その声はどこか軽かった。
カリンは肩をすくめる。
「君」
「違うわ」
言い返しながらも、否定に力はなかった。
すでに意識は“鏡”のほうへ向いているのが分かる。
「行こう」
ハリーが声をひそめる。
四人は、談話室を後にした。
城の夜は冷えていた。
「頼む」
カリンが小さく呟くと、影から銀狐が飛び出した。
墨色の霧が四人を覆い、気配を薄くする。
ハリーが先頭を歩く。
ロンが続き、ハーマイオニーとカリンが並ぶ。
たいまつの火が廊下を照らしていたが、人の気配はなかった。
休暇中の城は、夜になると本当に静かになる。
自分たちの息と足音だけが聞こえた。
ハリーが立ち止まった。
「ここだ」
特別な装飾はない。
ただそこにあるだけの、ありふれた扉。
ハリーが押すと、軋む音を立てて開いた。
中は薄暗かった。
窓から差し込む月明かりが、床に淡く伸びている。
埃の匂い。
長く使われていない部屋の空気。
その奥に――
鏡があった。
金の縁取りが、月光を受けて鈍く光る。
縦に長く、天井近くまで届くほどの大きさ。
上部に文字が彫られているのが、遠目にも見えた。
ロンが息を呑む。
ハリーは、迷わずその前へ歩いていった。
「さあ、見てみて」
少しだけ場所を空ける。
ロンが吸い寄せられるように前に出た。
「……僕一人だけ……いや、待てよ……」
顔が変わる。
「僕、首席になってる!」
興奮した声。
だが、カリンには何も見えなかった。
ただ、鏡の前で立っているロンがいるだけだ。
そのとき。
「私も試してみたいわ」
ハーマイオニーが、前に出る。
不思議そうに鏡をのぞいた直後、
「……っ!」
ハーマイオニーの動きが、止まった。
ほんのわずかに、呼吸が乱れる。
横顔が、みるみる赤くなっていくのが分かった。
「何が見えるんだい?」
ハリーの問いに、ハーマイオニーはひきつった声を出す。
「え、ええと……私が、首席になって……それから、歴史に残るような新しい魔法の定義を見つけている姿よ。そう、当然だわ!」
早口で捲し立てる彼女は、しかし、鏡から目を逸らすことができない。
それを見て――
カリンは、ほんの一瞬だけ、妙な違和感を覚えた。
(……そんな顔、するんだな)
普段は整っているはずの表情が、崩れている。
驚きと、戸惑いと――何か、言葉にしにくい感情。
やがて、ハーマイオニーははっとしたように瞬きをした。
それから、少しだけ慌てたように鏡から離れる。
カリンの隣に並んだとき、その頬はまだ赤かった。
「んで、ほんとは何が映ってたの?」
小声で聞くと、ハーマイオニーは前を向いたまま答えた。
「……言わない」
ぽつりと呟く。
明らかに、いつもの調子ではない。
息が、いつもより浅い気がした。
「そう」
カリンはそれ以上何も聞かなかった。
「カリンも見てみろよ」
ロンが言った。
「面白いぞ、これ」
カリンは少しだけ肩をすくめる。
「まあ、いいけど」
そう言って、鏡の前へ歩いた。
鏡の正面に立つ。
自分の姿が映っている。当然だ。それだけなら、ただの鏡と変わらない。
けれど次の瞬間、映っているものが変わった。
本と道具が散らばる部屋。
見たことのない術式の図。
魔法が、まだ途中のまま残されている。
(……なんだ、これ)
けれど視線が離れない。
その中に、少しだけ年を重ねた自分が、そこにいた。
そして、自分の隣で、世界で一番安心しきった顔をして微笑むハーマイオニーの姿だった。
鏡の中の自分は、慈しむような、少しだけ離れがたいような眼差しで、彼女の柔らかな髪に触れている。
胸の奥が早鐘を打つように勝手に騒いだ。
カリンは視線を鏡面の端へ逃がす。
意味を掴もうとする前に、目を逸らした。
頬が、熱かった。
後ろへ下がる。
「カリン? 何が見えたんだ?」
ロンの呑気な声に、カリンは身体が強張る。
「……別に。私が開発した新しい防御呪文が、完璧に機能してるのを確認してただけ。……地味すぎて、人に見せるほどじゃないよ」
顔が熱い。嘘をつくのは得意なはずなのに、今は声が震えていないか確認するだけで精一杯だった。
ハーマイオニーの隣に戻ったとき、横から視線を感じた。
「で、何が映ってたのかしら?」
今度はハーマイオニーが聞いてくる。
さっきのお返しのような声だった。
「……言わない」
「そう」
短い沈黙。
ハリーがこちらを振り返った。
「そろそろまずい。帰らなきゃ」
帰り道。
ロンがカリンの隣に並んだ。
廊下は相変わらず暗く、足音だけが続いていた。
先頭をハリーが歩いて、ハーマイオニーがその後ろ、カリンとロンが最後尾だった。
「なあ、カリン」
「なに」
「さっきから顔赤くないか」
カリンは一瞬だけ歩みを止めた。
「うるさい」
「いや、鏡見てた時も、戻ってきてからも——」
「……黙って歩きなよ、ロン」
カリンは前を向いたまま、ぶっきらぼうに言い放った。
前を歩いていたハーマイオニーの背中が、ぴたりと止まった。
振り返ったその顔が、月明かりの中でも分かるくらい赤くなっていた。
それを見て、ロンがにやりとした。
「ハーマイオニーも——」
「もう黙って歩きなさい、ロン」
ハーマイオニーが前を向いた。
マントを引き寄せて、その中に顔の下半分を埋めた。
カリンはロンを一瞥してから、視線を廊下の先へ戻した。
顔が、まだ熱かった。
廊下の冷気が頬に当たっても、なかなか冷めなかった。
四人分の足音が、静かな廊下に続いていった。