クリスマス休暇が明け、ホグワーツにいつもの喧騒が戻ってきた。
大広間には再び人の波が満ち、談話室も、廊下も、どこへ行っても誰かの声がする。静まり返っていた数日前が、まるで別の場所のようだった。
カリンは自分の席に腰を下ろしながら、ぼんやりとそう思った。
目の前にはランチの皿。周囲では、休暇中の出来事を語り合う声が飛び交っている。雪の話、家族の話、贈り物の話。
そのどれにも、あまり意識は向いていなかった。
気づけば、視線は横に流れている。
――隣。
ハーマイオニーがいた。
他の席にも人はいる。
笑っている声も、話している声もある。
それなのに、なぜか視線はそこへ戻る。
朝の食堂でも、昼の図書館でも、夜の談話室でも、気づけば隣にいる。どちらが先に座ったのか分からないまま、そうなっていることが多い。
けれど今は、その“当たり前”が少しだけ落ち着かない。
みぞの鏡の一件以来、胸の奥に小さな棘のような違和感が残っていた。名前はつけられない。ただ、ハーマイオニーが近くにいると、それが妙にはっきりする。
彼女はパンにナイフを入れながら、何かを考えるように少しだけ眉を寄せている。いつもの表情だ。変わったところなんて、何もない。
……ない、はずなのに。
カリンは一度だけその横顔を見て、すぐに視線を皿へ落とした。
そのつもりだった。
次の瞬間には、また見ていることに気づく。
ほんの一拍遅れて、視線を逸らした。
「……どうしたの?」
不意に声が落ちてきて、カリンはわずかに肩を揺らした。
顔を上げると、ハーマイオニーがこちらを見ている。ほんの少しだけ首を傾げていた。
「何が」
「さっきから、ぼんやりしてる」
「そう?」
「そうよ」
短い返答。
ハーマイオニーはそれ以上追及せず、またパンへ視線を戻す。
その指先が、ナイフの柄を少しだけ強く握り直した。
(……別に)
カリンは心の中で言いかけて、やめた。
何が“別に”なのか、自分でも分からなかったからだ。
特別な変化なんて、何もない。
それなのに、なぜか今になって、距離が気になる。
前から近かったはずなのに、同じとは思えなかった。
「……カリン」
呼ばれて、今度はすぐに顔を上げた。
「何」
ハーマイオニーは一瞬だけ口を開きかけて、それから少しだけ言葉を探すように視線を揺らした。
「……あとで、図書館に行かない?」
「いいけど」
短いやり取り。
それだけなのに、なぜか少しだけ間が残る。
そのまま、昼のざわめきに飲まれていった。
***
談話室に戻ると、ロンがソファに寝転がりながら蛙チョコレートをかじっていた。
「休暇明け早々、課題だなんて最悪だ……」
「やらなきゃ終わらないでしょ」とハーマイオニーが即答する。
カリンはローブから本を取り出し開く。
だが、ページを開いても内容は頭に入ってこなかった。
隣に座る気配がする。
見る前に分かる。
視線を落としたまま、ページをめくる。
「……読んでるの?」
顔を上げると、ハーマイオニーが本から視線を外し、こちらを見ている。
暖炉の火を受けた瞳が、揺れていた。
「一応」
「一応って何よ」
「文字は追ってる」
そう答えると、ハーマイオニーが小さく息を漏らして笑った。
その笑い方がやわらかくて、カリンは一度目を向け、それからすぐに本へ視線を戻した。
戻したはずなのに、次の瞬間にはまた見てしまっていた。
気づいて、今度こそ逸らす。
隣でページのめくられる音がした。
ソファの沈み込みがわずかに変わって、肩が触れそうな距離になる。
何も言わないまま、その近さだけが残った。
向かいの肘掛け椅子に座っていたロンが、退屈そうにテーブルの上の包み紙をいじっていた。
さっき食べた蛙チョコレートの残骸を片付けながら、あくびを噛み殺す。
「休暇明けの授業ってやんなるよ……。ニコラス・フラメルは見つからないし、ハリーはクィディッチ練習ばっかだし」
「僕も探してるよ」
暖炉の前にしゃがみこんでいたハリーが、むっとした顔で言い返した。
ロンは肩をすくめ、箱から取り出したカードを何気なく眺めた。
「あ、ダンブルドアだ。君が初めて見たカードだよ」
懐かしむように、ハリーに見せる。
途端に、ハーマイオニーが身を乗り出す。
カードの裏面をじっと見つめる。
ハリーとハーマイオニーが、カードを挟んで顔を寄せている。
その距離が、ほんの少しだけ目についた。
「よく見えない。貸して」
ハーマイオニーがさっと手を伸ばした。
ロンが半ば投げるように渡したカードを、彼女は受け取るなり目を走らせる。次の瞬間、その肩がぴくりと揺れた。
「――カリン」
袖を軽く引かれて、カリンはそちらを見た。
ハーマイオニーがカードを握ったまま、目を見開いている。興奮したとき特有の、あの少し息の速い顔だった。
「見つけたわ」
「何を」
一拍遅れて返すと、ハーマイオニーはさらに身を寄せた。掴んだ袖に力が入る。
「ニコラス・フラメルよ」
談話室の空気が、一瞬で変わった。
ハリーが勢いよく立ち上がり、ロンが椅子からずり落ちそうになる。
「どこに書いてあるのさ?」
「見せて、ハーマイオニー!」
二人の声が重なる中、ハーマイオニーは少しだけ得意そうに顎を上げた。
「ダンブルドアの有名な業績のところ。『一九四五年にグリンデルバルドを破ったこと、十二種の竜の血の利用法を発見したこと、そして錬金術師ニコラス・フラメルとの共同研究で知られる』――ほら」
カードを覗き込もうと、ハリーとロンが左右から顔を寄せる。カリンもその文字を追ったが、その前に意識したのは、袖を掴んだままのハーマイオニーの手だった。
小さな手。体温が、布越しにも分かる。
「……本当だ」
ようやくそれだけ言うと、ハーマイオニーがはっとしたように手を離した。
「あ、ご、ごめんなさい。つい」
「別に」
短く返す。短すぎた気がした。
ハーマイオニーもそれ以上何も言わず、ほんの一瞬だけ黙る。その沈黙は気まずいほどではないのに、なぜか胸の奥に残った。
最初に口を開いたのはロンだった。
「で、ニコラス・フラメルって誰なんだ?」
「調べましょう」
即答だった。
ハーマイオニーは立ち上がると、カードをしっかり持ったまま、本を抱え直した。
「今すぐ図書館へ行くわよ」
「え、今?」
「今よ」
ハーマイオニーはきっぱりと言った。
「何か月も探してたのよ。見つかったなら、そのままにしておけるわけないでしょう」
ハリーが勢いよく頷く。
「行こう」
***
図書館は休暇明けでも、静まり返っていた。
高い棚のあいだには人気が少なく、足音がやけに響く。マダム・ピンスの鋭い視線を避けながら、四人は魔法史、錬金術、著名魔法使い名鑑の棚を行ったり来たりした。
「錬金術の本を探して」とハーマイオニーが言う。
「はいはい」とロンが気のない返事をし、ハリーは別の棚へ向かった。
カリンが手近な本の背表紙に目を走らせていると、すぐ横からハーマイオニーが同じ段へ手を伸ばした。
指先が触れる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、二人とも動きを止めた。
先に本を引いたのはカリンだった。
「……これ」
「あ、ありがとう」
ハーマイオニーの声はいつも通りのはずなのに、少しだけ低かった。カリンは本を渡し、何でもない顔で別の棚へ目を向ける。
向けたまま、さっき触れた指先の感覚だけが残っていた。
それを振り切るように、また探し出す。
別の棚の前でハーマイオニーが背伸びしているのが見えた。
あと少しで届きそうで届かない位置に、分厚い一冊が差し込まれている。
「待って」
カリンが一歩前に出た。
ハーマイオニーの背後から手を伸ばし、本を取る。
一瞬、止まった。
近かった。
振り向かないまま、本はハーマイオニーの手に収まった。
すぐ横に、腕が残る。
カリンの吐息がハーマイオニーの耳元を掠め、カリンの鼻腔には微かな香りが届いた。
「……ありがとう」
「……ん」
ゆっくりと腕を引く。そのまま、背後から本を覗き込んだ。
「これ、索引がついてるわ。人名から探せるかも」
「じゃあ見る」
「ここで?」
「戻すの面倒」
ハーマイオニーが呆れたように息をついたが、結局その場で本を開いた。二人で同じページを覗き込む形になる。
近い、と言われるかと思った。
ページをめくるハーマイオニーの指先が、わずかに震えているのをカリンは見逃さなかった。
だが、ハーマイオニーは言わなかった。
代わりに、ページの端を押さえる指がわずかにこちらへ寄る。
「……ニコラス、フラメル……見つけたわ」
「どこ」
「ここ」
示された箇所を読むために、カリンはもう少しだけ身を傾けた。
自分でも、それが必要な距離以上だと分かっていた。
カリンの胸元が、ハーマイオニーの背中に触れそうで触れない。
ハーマイオニーもまた、何も言わなかった。
「『ニコラス・フラメルは著名な錬金術師であり、賢者の石の唯一知られた製作者である』――」
ハーマイオニーの声は、読んでいるうちに少しずつ熱を帯びていった。
ハリーとロンもすぐに寄ってくる。
カリンは一瞬だけハーマイオニーと視線を交わし、それから少し横にずれて、彼女の隣に立った。
「賢者の石?」とハリー。
「続きがあるわ」ハーマイオニーはページを押さえ直した。
それに合わせて、カリンも無意識にページの端へ手を伸ばす。
指先が、同じ場所で止まる。
カリンの手の甲に、ハーマイオニーの小指がかすかに触れていた。
ハーマイオニーは気にせず、続きを読む。
ほんのわずかだけ、ページを押さえる指に力が入った。
「『賢者の石は驚くべき力を持つ伝説の物質で、いかなる金属を純金に変えることができる。また、命の水を生み出し、不老不死をもたらす』」
「純金?」ロンの目が丸くなる。「不老不死?」
「だから有名なんだ」とハリーが言った。
「そして誰かがそれを欲しがる」
ハーマイオニーは頷いた。
「ニコラス・フラメルは六百年以上生きているって書いてあるわ。つまり、本当に賢者の石を持っているのよ」
「じゃあ、あの三頭犬が守ってたのは……」
「賢者の石」とハーマイオニーが言った。
その言葉が落ちた瞬間、四人のあいだに短い沈黙が下りた。
「ようやく繋がったわ。地下の扉。三頭犬。フラメル。ダンブルドア」
ハリーが険しい顔になる。
「やっぱりスネイプは石を狙ってるんだ」
「そうとしか思えない!」
ロンが激しく同意した。
「あの扉の先にあるものが賢者の石なら、守りが厳重なのも当然だ」
三人の会話を聞きながら、カリンは本の文字から目を離した。
賢者の石。なるほど、三頭犬に守らせるだけの代物ではある。スネイプが狙っている――その筋も通る。通るのだが。
「……でも」
小さくこぼすと、三人がこちらを見た。
「何?」とハーマイオニー。
カリンは少しだけ考えてから、首を傾ける。
「狙ってる、のかもしれないけど」
「けど?」
「……違う気もする」
ハリーが眉をひそめた。
「違うって?」
「うまく言えない。ただ、あの人が何か隠してるのは本当でも、それがそのまま石を盗むことと同じとは限らないかなって」
言いながら、自分でも曖昧だと思う。根拠は薄い。ただ、ひっかかる。
個人授業のときのスネイプの顔、クィディッチの試合で感じた黒い気配、全部を並べても、ひとつの線になりきらない。
ハーマイオニーは少しだけ目を細めた。
「あなたにしては珍しい言い方ね」
「そう?」
「もっと断定するかと思った」
「確信がないから」
ハーマイオニーはしばらくこちらを見ていたが、やがて本へ視線を戻した。
「……まあ、今のところはハリーの推測を完全に否定する材料もないわ」
「だな」とロン。
「でも、気をつけたほうがいい」とハリーが言う。「スネイプが本当に石を狙ってるなら、何かするかもしれない」
「とりあえず、見張るしかないわね」
話がまとまり、四人は本を閉じた。
その拍子にまた手が触れたのは、偶然だったはずだ。ページを押さえていたハーマイオニーの指先が、引くタイミングを失ったカリンの手に重なる。
今度は、一瞬ではなかった。
ほんの呼吸ひとつぶん。
指先の温度が、はっきりと残る程度には。
先に離れたのはハーマイオニーだった。けれど彼女はすぐには何も言わず、代わりに視線だけを逸らした。
カリンも何も言えなかった。
胸の奥が、妙に静かに騒いでいた。
***
数日後、土曜日の朝食の席で、ハリーが嫌そうな顔をした。
「聞いた? 明日の試合、スネイプが審判だって」
ロンがソーセージを落としかける。
「何だって?」
「ウッドが言ってた。いつものフーチ先生じゃない」
「絶対おかしいわ」とハーマイオニーが言った。
「そんなの露骨すぎるじゃない」
ハリーの顔色は良くなかった。
クィディッチの試合前の緊張だけではないのが分かる。
「ぼく、箒から落とされるかも」
「縁起でもないこと言わないでよ」とロン。
「でも前にもあっただろ」
あの試合のことを思い出し、テーブルの空気が少し重くなる。
カリンは黙ったまま紅茶を口に運んだ。
スネイプが審判。
嫌な響きではある。
だが、それだけで何かが起きると決めつけるのも早い。
結局、自分の中の違和感はまだ輪郭を持たなかった。
「ハリー」とハーマイオニーが言う。
「あまりスネイプばかり見ていたら、かえって危ないわ。試合に集中して」
「分かってる」
そう答えるハリーの声に、分かっていない響きが混じっていた。
***
放課後の地下牢は、相変わらず静まり返っていた。
石壁に染みついた冷気が、ゆっくりと呼吸に混じる。
カリンは部屋の中央に立ち、浅く息を整えていた。
肩の力は抜けているが、完全には落としていない。
わずかな緊張だけを残し、意識を周囲へ広げる。
視界に頼らない。
気配。温度。魔力の揺らぎ。
触れずに分かるものだけを、静かに拾い上げる。
「そういえば、クィディッチの審判になるんですって?」
間を持たせるように、軽く口を開く。
「珍しい。そういうの、面倒だと一蹴しそうなのに」
「……無駄口を叩いているだけなら帰れ」
低い声。
その直後、右後方で空気が歪んだ。
来る。
振り返らない。
半歩だけ、前へ。
赤い閃光が、さっきまで立っていた位置を掠め、石壁に弾けた。
「……ほう」
間を置かず、次。
左。
だが、それは囮。
本命は――
「ステューピファイ!」
正面。
カリンは身体をわずかに捻り、足元へ意識を落とす。
「――薄陣」
淡い紋が一瞬だけ浮かび、光の軌道を逸らす。
完全には防がない。
それでいい。
踏み込む。
距離を詰める。
黒いローブが、目前まで迫る。
――そこで、止まる。
ほんのわずか。
判断が、遅れる。
「遅い」
視界が揺れた。
気づいたときには、喉元に杖が突きつけられている。
呼吸が止まる。
沈黙。
「……今のは?」
静かに問われる。
カリンは短く息を吐いた。
「……拘束するか、迷いました」
「違う」
即座に切り捨てられる。
「判断じゃない。躊躇だ」
沈黙。
図星だった。
逃げ場のない言葉だった。
「読めているはずだ。……何故、躊躇う」
低く、淡々とした声音。
責めているわけでもない。
ただ、事実を置いてくる。
カリンは視線を逸らさなかった。
「……はい」
「もう一度だ」
間を置かない。
今度は三方向。
上、右、正面。
瞬きの間に切り分ける。
(上は囮。右は強い。でも――)
正面。
来る。
カリンは動かない。
あえて、動かない。
誘う。
一歩、踏み込ませる。
その瞬間。
足元に敷いた紋が、淡く光る。
ほんの一刹那、動きが鈍る。
その隙に。
「縛」
影が足首へ絡みつく。
間髪入れず、
「インカルセラス」
ロープが重なる。
締め上げる。
拘束。
今度は崩れない。
静寂。
数秒。
スネイプは動かなかった。
やがて、魔力がほどける。
カリンが解いたのではない。スネイプが、自ら解いたのだ。
「……今のは」
「はい」
「遅いが、通ったな」
低い評価。
それだけだった。
それで十分だった。
構えを緩める。
石壁の冷気が、また静かに戻ってくる。
そのとき――
暖炉の前。
ほんの少しだけ、緩んだ横顔。
すぐ近くにあった体温。
一瞬だけ、意識が逸れる。
「……どうした」
低い声。
すぐ近くに現実が戻る。
カリンは瞬きをひとつして、視線を戻した。
「いえ」
短く切る。
余計なものを落とすように。
「続けます」
ほんのわずかに、スネイプの目が細まる。
「……当然だ」
杖が上がる。
空気が張り詰める。
次は、さっきより速い。
だが。
今度は――
ほんのわずかだけ、早く動けた。
***
観客席はいつものように賑やかだった。
冷たい風が吹き抜け、グラウンドの上空には薄い雲が広がっている。赤と金のマフラーがあちこちで揺れ、歓声が重なって大きなうねりになっていた。
カリンはハーマイオニーたちと並んで席に着いた。試合前のざわめきの中、ハーマイオニーはいつもより落ち着かない様子でフィールドを見下ろしている。
「大丈夫かしら」
「始まれば何とかなるでしょ」とロンは言うが、声音には不安があった。
笛が鳴る。
試合が始まった。
ハリーは確かにスネイプを警戒しているようだった。上空で何度も視線を下へ向ける。そのたびに動きがわずかに遅れるのが、観客席からでも分かる。
けれど、試合自体は何事もなく進んだ。
スネイプは厳しい顔で飛び回る選手たちを追っているだけで、露骨な不正も怪しい動きもない。グリフィンドールもハッフルパフも正々堂々と点を取り合い、歓声と悲鳴が交互に上がる。
「……普通ね」とハーマイオニーが呟いた。
「今のところは」とロン。
カリンは返事をせず、フィールドを見ていた。視界の端で、ハーマイオニーがこちらを見る気配がする。
気のせいかと思って視線を動かすと、本当に目が合った。
ハーマイオニーは一瞬だけ驚いたように瞬きし、それからすぐ前を向いた。
ただそれだけのことなのに、カリンの胸が小さく跳ねる。
何だろう、と考えるより先に、実況席から大声が響いた。
「ポッターが急降下だ!」
ハリーが箒をぐっと倒し、地面すれすれまで落ちていく。観客席が総立ちになった。ロンが叫び、ハーマイオニーが手すりを握る。
次の瞬間、ハリーは地面すれすれで腕を伸ばし、再び急上昇した。
その拳の中で、金色の小さなものが陽光を弾く。
「スニッチだ!」
歓声が爆発した。
赤と金の波が立ち上がり、グリフィンドール席はほとんど崩れそうな勢いで揺れた。
ロンが飛び上がり、ハーマイオニーも思わず声を上げる。
「やった!」 「ハリー!」
試合終了の笛が鳴る。グリフィンドールの勝利だった。
選手たちが降りてくるあいだ、観客席の興奮はなかなか収まらなかった。ハリーが無事に地上へ降り立ったのを見て、ハーマイオニーがようやく大きく息をつく。
「何もなくてよかった……」
本心からの声だった。
カリンはその横顔を見た。頬が少し赤い。寒さだけではないだろう。
「ん」
短く相槌を打つと、ハーマイオニーがこちらを向く。
「何よ、その返事」
「いや、同じこと思ってた」
「……そう」
それだけのやり取りなのに、彼女は少しだけ口元をやわらげた。
帰り道の城の廊下は、試合の興奮でまだざわめいていた。あちこちで勝利を喜ぶ声が響き、寮の色のマフラーが行き交う。
けれど談話室に戻るころには、熱気も少し落ち着いていた。
暖炉の前のいつもの場所に、気づけばまた二人で座っている。ロンとハリーは勝利の余韻のまま他の生徒たちに囲まれ、少し離れたところで騒いでいた。
こちらは静かだった。
ハーマイオニーは膝の上に本を置いているが、開いてはいない。カリンも、手に取った新聞をほとんど読んでいなかった。
話すことがないわけじゃない。
フラメルのことは分かった。賢者の石の正体も、その力も、スネイプへの疑いも、少しだけ輪郭を増した。
それでも、別の何かが、逆に分からなくなっている。
隣の体温が近い。
無言でも気まずくはない。むしろ、声がないぶんだけ、距離の近さばかりが際立つ。
ハーマイオニーが、そっと本を閉じたまま指先で表紙をなぞった。
「……今日は、何も起きなかったわね」
「うん」
「ハリー、心配しすぎかもしれない」
「かもね」
答えながら、カリンは暖炉の火を見た。見たまま、視界の端でハーマイオニーが少しこちらに寄るのが分かる。
寒いからかもしれない。ソファが狭いからかもしれない。何でもいい理由は、いくらでもあった。
「でも」
ハーマイオニーが小さく言う。
「何?」
「……何でもない」
そう言って、彼女は黙った。
カリンも追及しなかった。代わりに、少しだけ肩の力を抜く。すると、隣の気配もわずかにやわらぐ。
また沈黙が落ちる。
暖炉の薪が崩れる音がして、赤い火の粉がひとつ跳ねた。
フラメルの謎は解けた。賢者の石が何であるかも、ようやく見えた。
けれどその一方で、カリンの中には、ますます輪郭を曖昧にするものがあった。
視線が先に動くこと。気づけば隣にいること。ほかの誰かより、たったひとりの表情や声にばかり意識を持っていかれること。
それが何なのか、まだうまく言えない。
ただ――
このまま何も考えないでいるには、少しだけ近すぎた。
隣で、ハーマイオニーが静かに息をつく。
その音が、なぜかひどく近く聞こえた。
幕間:ハーマイオニー・サイド
クリスマス休暇が明けて、ホグワーツはすっかり元の騒がしさを取り戻していた。
どこへ行っても声がある。笑い声、呼び合う声、休暇中の話を競うような声。静かだったこの数日が、もう遠い気がした。
私はパンにナイフを入れながら、とくに何も考えていなかった。
――そう思っていた。
気づいたのは、視線だった。
横から、誰かが見ている。
確かめるまでもなく分かった。分かってしまった、というほうが正確かもしれない。
最近、そういうことが増えた。
カリンの視線の重さを、私は少し前から、妙に敏感に感じ取れるようになっていた。
理由は考えないことにしていた。
ナイフを動かす。パンが切れる。
それだけのことに、少しだけ集中する。
でも、視線は続いていた。
私は眉を寄せた。
自分でも気づかないうちに、そうしていた。
……何を見ているの。
心の中でそう言って、すぐに打ち消した。別に、何を見ていてもいい。
同じグリフィンドールの、同じ寮の。それだけの話だ。
それだけの話、のはずだった。
視線が、ふっと逸れた。
そのとたん、胸の中で何かが微かに動いた。安堵でも、落胆でもない。上手く名前のつけられない、小さな揺れ。
——馬鹿みたい。
私は内心でそう切り捨てて、ナイフの柄を少し強く握り直した。
「……どうしたの?」
声に出していたのは、半ば無意識だった。
カリンが肩をわずかに揺らす。顔を上げた表情に、驚きの色がある。
「何が」
「さっきから、ぼんやりしてる」
「そう?」
「そうよ」
それだけ言って、私は視線をパンへ戻した。
追及するつもりはなかった。ただ、何かを言わずにいられなかっただけだ。沈黙のまま横に座っていると、さっきの視線のことを考えてしまいそうで。
カリンは何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ長く感じた。
周りは相変わらず賑やかだった。雪の話、家族の話、贈り物の話。私たちの間だけ、妙に静かだった。
しばらくして、私は口を開いた。
「……カリン」
呼んでから、何を言うつもりだったのか分からなくなった。
カリンがすぐに顔を上げる。「何」と短く返す声。
私は一瞬、言葉を探した。
「……あとで、図書館に行かない?」
自然に言えた、と思う。
理由はある。フラメルのこともあるし、調べたいこともある。
だから、別におかしくはない。
「いいけど」
あっさりと返ってくる。
それだけのやり取り。
なのに、胸の中の何かが、静かに落ち着いた。
——それが何なのか、今は考えない。
そう決めて、私はまたパンへ視線を落とした。
大広間の昼の声が、遠くに聞こえた。
***
談話室に戻ると、ロンがソファに寝転がりながら蛙チョコレートをかじっていた。
「休暇明け早々、課題だなんて最悪だ……」
「やらなきゃ終わらないでしょ」
そう言いながら、私はいつものようにカリンの隣へ腰を下ろした。
いつからこうなったのか、もうよく分からない。
気づけば自然にこの位置を選んでいて、今さら別の場所に座るほうが不自然に思える。
カリンはローブから本を取り出して開いた。
けれど、ページを追う視線が少しだけ曖昧で、読んでいるふりをしているのだとすぐに分かった。
紙の擦れる音。暖炉の火の音。ロンのだらしないため息。
その全部のあいだに、隣の気配がはっきりとある。
「……読んでるの?」
顔を上げると、カリンがこちらを見た。
暖炉の火を受けた瞳が、静かに揺れている。
「一応」
「一応って何よ」
「文字は追ってる」
思わず、小さく息が漏れた。
「それ、読んでるって言わないじゃない」
笑うつもりはなかったのに、少しだけ口元が緩む。
それに気づき、私は自分の本を開く。
カリンが一度こちらへ目を向けて、すぐに本へ視線を戻す。
その横顔を、私は少しだけ見た。
見ていることに気づいて、自分もページへ視線を落とす。
暖炉の火が揺れている。
ソファの沈み込みが、わずかに変わった。
肩が、触れそうな距離だった。
何も言わなかった。何も言う必要がなかった。
何を意識しているのか、考えないことにした。
その近さだけが、妙にはっきりしていた。
向かいの肘掛け椅子で、ロンが包み紙を丸めながら大きなあくびを噛み殺す。
「休暇明けの授業ってやんなるよ……。ニコラス・フラメルは見つからないし、ハリーはクィディッチ練習ばっかだし」
「僕も探してるよ」
暖炉の前にしゃがみこんでいたハリーが、むっとした顔で言い返した。
ロンは肩をすくめ、箱から取り出したカードを何気なく眺める。
「あ、ダンブルドアだ。君が初めて見たカードだよ」
なんとなく顔を向けた。
カードの表面をロンがハリーに向ける。
その瞬間、目に飛び込んだ文字があった。
私は本を置いて、身を乗り出した。
――錬金術師ニコラス・フラメル。
「よく見えない。貸して」
ロンが半ば投げるように渡したカードを、私は両手で受け取った。
目を走らせる。読む。もう一度読む。
肩が、ぴくりと揺れた。
「――カリン」
気づいたら、袖を掴んでいた。
カリンがこちらを見る。いつもの、少し静かな目。
「見つけたわ」
「何を」
「ニコラス・フラメルよ」
その一言で、談話室の空気が一瞬にして変わった。
ハリーが勢いよく立ち上がり、ロンが椅子から落ちそうになる。
「どこに書いてあるのさ?」
「見せて、ハーマイオニー!」
二人の声が重なるのが少しだけ愉快で、私は得意な気分になった。
「ダンブルドアの有名な業績のところ。『一九四五年にグリンデルバルドを破ったこと、十二種の竜の血の利用法を発見したこと、そして錬金術師ニコラス・フラメルとの共同研究で知られる』――ほら」
ハリーとロンが左右から覗き込んでくる。
カリンも文字を追おうとして身を寄せた、そのときになって、ようやく自分の手がまだ袖を掴んだままだと気づいた。
布越しの体温が、やけにはっきり分かる。
「……本当だ」
その低い声で、我に返る。
私は慌てて手を離した。
「あ、ご、ごめんなさい。つい」
「別に」
私はカードに視線を戻した。文字を読むふりをした。胸の中が、妙に騒がしい。
つい、なんて。
自分に呆れる。呆れながら、頬が少し熱いことに気づく。暖炉のせいだと思うことにした。
最初に口を開いたのはロンだった。
「で、ニコラス・フラメルって誰なんだ?」
「調べましょう」
ほとんど反射だった。
私は立ち上がり、カードをしっかり持ったまま本を抱え直す。
「今すぐ図書館へ行くわよ」
「え、今?」
「今よ」
自分でも少し強い口調だと思ったけれど、止められなかった。
「何か月も探してたのよ。見つかったなら、そのままにしておけるわけないでしょう」
ハリーが勢いよく頷く。
「行こう」
私は先に歩き出しながら、カリンがついてくる気配を確かめていた。
確かめていることに気づいて、少しだけ早足になった。
***
図書館は、休暇が明けても静まり返っていた。
高い棚のあいだには人気が少なく、足音だけがやけに響く。
マダム・ピンスの鋭い視線を感じながら、私たちは手分けして棚の間を奔走した。
「錬金術の本を探して」
私が指示を出すと、ロンは気のない返事をし、ハリーは別の通路へ向かった。
カリンが手近な棚に目を走らせているのが見えた。私も同じ段へ手を伸ばす。
私は背表紙を追う。
題名を確認し、違うと分かれば次へ移る。
――その時だった。
指先が、触れた。
ほんの一瞬。
たったそれだけのことなのに、私もカリンも動きを止める。
先に本を引いたのはカリンだった。
「……これ」
「あ、ありがとう」
声が少し低くなった気がして、自分で少しだけ眉を寄せる。
別に、何でもない。ただ触れただけだ。
そんなことくらいで動揺するなんて、馬鹿みたいだ。
私は本を受け取って、すぐ別の棚へ目を向けた。
けれど、指先に残った感覚だけは、なかなか消えてくれなかった。
考えないことにして、また本を探す。
少し高い位置に、お目当ての分厚い一冊が差し込まれている。
爪先立ちをして、精一杯背伸びをしてみたけれど、あと数ミリのところで指が届かない。
そのときだった。
「待って」
声がして、背後に気配が来た。
腕が、頭の上を通った。
本が、静かに取られた。
――近い。
振り向けなかった。
振り向いたら何かが変わる気がして、私はそのまま正面を向いていた。
本がそっと手渡される。すぐ横に、腕がある。
耳のあたりに、息がかかった。
心臓が、一拍だけ変な音を立てた。
「……ありがとう」
「……ん」
彼女がゆっくりと腕を引く。
でも、離れてはくれなかった。
カリンはそのまま私の背後から、肩越しに本を覗き込んできた。
「これ、索引がついてるわ。人名から探せるかも」
「じゃあ見る」
「ここで?」
「戻すの面倒」
呆れたような声を出しながらも、私は結局その場で本を開いた。
ほかにもっと落ち着いて読める場所があるのに、そうしなかった。
二人で同じページを見る形になる。近い、と言おうと思った。言えなかった。
言ったら、意識していることが伝わる。
指先が、かすかに震えていた。
ページをめくるたびに、それを悟られないよう、少しだけ力を込めた。
「……ニコラス、フラメル……見つけたわ」
「どこ」
「ここ」
示すと、カリンがもう少しだけ身を傾けた。
ほんの少し動けば、触れてしまいそうだった。
気にしない。気にしない。
私はページを押さえ直して、声に出して読んだ。
「『ニコラス・フラメルは著名な錬金術師であり、賢者の石の唯一知られた製作者である』――」
読み上げながら、私はようやく本来の目的を思い出す。
そう。今はフラメルのことを調べているのであって、こんなことで気を取られている場合じゃない。
読み進めるうちに、意識は少しずつ文字へ戻っていった。
ハリーとロンもすぐに寄ってくる。
その気配に、私はほんの少しだけ息をついた。
助かったような、そうでもないような、うまく定まらない気持ちだった。
カリンは一瞬だけ私と目を合わせ、それから少し横にずれて隣へ立つ。
「賢者の石?」とハリーが言う。
「続きがあるわ」
ページを押さえ直す。
カリンの手が、同じ場所へ伸びた。
指先が、重なった。
離したほうがよかったのかもしれない。
でも、言えなかった。
代わりに、視線をページに固定した。
ページを押さえる指に、少しだけ力が入った。
「『賢者の石は驚くべき力を持つ伝説の物質で、いかなる金属を純金に変えることができる。また、命の水を生み出し、不老不死をもたらす』」
「純金?」ロンが目を丸くする。
「不老不死?」
「だから有名なんだ」とハリーが言う。
「そして誰かがそれを欲しがる」
私は頷いた。
「ニコラス・フラメルは六百年以上生きているって書いてあるわ。つまり、本当に賢者の石を持っているのよ」
「じゃあ、あの三頭犬が守ってたのは……」
「賢者の石」
そう言った瞬間、四人のあいだに短い沈黙が落ちた。
ようやく全部が繋がる。
地下の扉。三頭犬。フラメル。ダンブルドア。
「やっぱりスネイプは石を狙ってるんだ」
ハリーが険しい顔で言う。
「そうとしか思えない!」とロンも続く。
「あの扉の先にあるものが賢者の石なら、守りが厳重なのも当然だわ」
そう言ったあと、私はふと隣を見た。
カリンは本の文字から目を離していた。
表情はいつもと大きく変わらないのに、何かを考えているときの顔だった。
「……でも」
小さくこぼれた声に、三人でそちらを見る。
「何?」
私が問うと、カリンは少し首を傾げた。
「狙ってる、のかもしれないけど」
「けど?」
「……違う気もする」
ハリーが眉をひそめる。
「違うって?」
「うまく言えない。ただ、あの人が何か隠してるのは本当でも、それがそのまま石を盗むことと同じとは限らないかなって」
私は少しだけ目を細めた。
珍しい言い方だった。
いつものカリンなら、もっとはっきり物を言う。
見えたものをそのまま掴みに行くようなところがあるのに、今は曖昧だ。
「あなたにしては珍しい言い方ね」
「そう?」
「もっと断定するかと思った」
「確信がないから」
その返しは、いかにもカリンらしいようでいて、やっぱりどこか引っかかった。
確信がない。そう言うには、少しだけ迷いがあるように聞こえた。
私はしばらくその顔を見ていたが、やがて本へ視線を戻す。
「……まあ、今のところはハリーの推測を完全に否定する材料もないわ」
「だな」とロン。
「でも、気をつけたほうがいい」とハリーが言う。
「スネイプが本当に石を狙ってるなら、何かするかもしれない」
「とりあえず、見張るしかないわね」
そう言って、本を閉じる。
その拍子だった。
ページを押さえていた指先が、引くタイミングを失ったカリンの手に重なる。
今度は、一瞬ではなかった。
ほんの呼吸ひとつぶん。
呼吸ひとつぶんの間、そのままだった。
温度が、指先にはっきりと伝わった。
先に離れたのは、私だった。
視線を逸らした。何も言えなかった。
何か言えば、声が変になる気がした。
カリンも何も言わなかった。
私はまっすぐ前を向いて、棚の背表紙を見た。
何でもない。
そう思った。
思いながら、頬が少し熱いことに気づいた。
暖炉のない図書館で、どこからくる熱なのか、私には分からなかった。
分かりたくなかった。
***
夜の談話室は、昼間よりずっと静かだった。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てて、橙色の光がゆらゆらと揺れている。さっきまで騒がしかった声も、もうほとんど残っていない。
本を開いてはいるけれど、ページはほとんど進んでいなかった。
指先だけが、無意味に紙の端をなぞっている。
――集中しなきゃ。
そう思うのに、どうしても意識が別のところへ引っ張られる。
図書館でのことを、思い出していた。
同じページを押さえていたときの、あの距離。
視線を落とせばすぐそこにあった指先と、ほんの少し触れていた、小指。
あれは――
(……偶然よ。そうに決まってるわ)
そう結論づける。
本を押さえていたのだから、触れることくらいある。
距離だって、棚の前では仕方ない。
狭いし、動きにくいし、あの位置ならああなる。
全部、説明できる。
全部、合理的だ。
――なのに。
ページを押さえていたとき、ほんの少しだけ、指に力が入った。
あれは、どうしてだろう。
(……集中してただけ)
そう思う。
そういうことにしておく。
読み上げていたのは私だし、ちゃんと伝えなきゃいけなかったし、変なところで手がずれたら困るし――
理由はいくらでもある。
あるのに。
どうして、あんなに意識してしまったのか分からない。
もしあのまま、私が顔を上げていたら――。
(……やめなさい、ハーマイオニー。仮定の話に意味はないわ)
だって、ただの調べ物だったのだから。
ただの本。ただのページ。ただの、物理的な距離。
それ以上の意味なんて、魔法史の年表をひっくり返したって見つかりっこない。
そんな必要はない。
(……そうよ)
そう、ただそれだけ。
それ以上の意味なんて、あるはずがない。
……なのに。
どうして、今になっても、こんなに残っているんだろう。
指先に触れていた感覚が、妙にはっきりと思い出せる。
離れたあとも、しばらくそこにあった気がした。
――馬鹿みたい。
小さく息を吐く。
そんなことに気を取られている場合じゃない。
賢者の石のことだってあるし、スネイプのことだってあるし、考えるべきことはいくらでもあるのに。
それなのに、どうしてこんな――
(……好き、とか)
ふと浮かんだ言葉に、自分で息が止まる。
すぐに首を振る。
違う。
そんなわけがない。
だって、あれは――
ただ、近かっただけだ。
それだけのことだ。
(……たぶん)
小さく、心の中で付け足す。
その一言が、どうしてこんなに落ち着かないのか分からなかった。
本のページをめくる。
文字は目に入るのに、意味がほとんど頭に残らない。
胸の奥に、引っかかるものがある。
顔を上げると、少し離れたソファに、カリンが座っているのが見えた。
新聞を広げているけれど、ほとんど読んでいないように見える。
なんとなく、その横顔を見てしまう。
すぐに視線を戻す。
戻したはずなのに、また見てしまう。
(……何やってるの、私)
今度はしっかり本に目を落とした。
もう見ない。
気にしない。
ただの同級生。
ただの――
(……たぶん)
また同じ言葉が浮かぶ。
それ以上は、考えなかった。
暖炉の火が、小さく音を立てる。
静かな時間の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。