賢者の石と黒髪の騎士   作:krn

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第十二章:冬の図書館と賢者の名

 

クリスマス休暇が明け、ホグワーツにいつもの喧騒が戻ってきた。

 

大広間には再び人の波が満ち、談話室も、廊下も、どこへ行っても誰かの声がする。静まり返っていた数日前が、まるで別の場所のようだった。

 

カリンは自分の席に腰を下ろしながら、ぼんやりとそう思った。

 

目の前にはランチの皿。周囲では、休暇中の出来事を語り合う声が飛び交っている。雪の話、家族の話、贈り物の話。

 

そのどれにも、あまり意識は向いていなかった。

 

気づけば、視線は横に流れている。

 

――隣。

 

ハーマイオニーがいた。

 

他の席にも人はいる。

笑っている声も、話している声もある。

 

それなのに、なぜか視線はそこへ戻る。

 

朝の食堂でも、昼の図書館でも、夜の談話室でも、気づけば隣にいる。どちらが先に座ったのか分からないまま、そうなっていることが多い。

 

けれど今は、その“当たり前”が少しだけ落ち着かない。

 

みぞの鏡の一件以来、胸の奥に小さな棘のような違和感が残っていた。名前はつけられない。ただ、ハーマイオニーが近くにいると、それが妙にはっきりする。

 

彼女はパンにナイフを入れながら、何かを考えるように少しだけ眉を寄せている。いつもの表情だ。変わったところなんて、何もない。

 

……ない、はずなのに。

 

カリンは一度だけその横顔を見て、すぐに視線を皿へ落とした。

 

そのつもりだった。

 

次の瞬間には、また見ていることに気づく。

ほんの一拍遅れて、視線を逸らした。

 

「……どうしたの?」

 

不意に声が落ちてきて、カリンはわずかに肩を揺らした。

 

顔を上げると、ハーマイオニーがこちらを見ている。ほんの少しだけ首を傾げていた。

 

「何が」

 

「さっきから、ぼんやりしてる」

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

短い返答。

 

ハーマイオニーはそれ以上追及せず、またパンへ視線を戻す。

その指先が、ナイフの柄を少しだけ強く握り直した。

 

(……別に)

 

カリンは心の中で言いかけて、やめた。

何が“別に”なのか、自分でも分からなかったからだ。

 

特別な変化なんて、何もない。

それなのに、なぜか今になって、距離が気になる。

 

前から近かったはずなのに、同じとは思えなかった。

 

「……カリン」

 

呼ばれて、今度はすぐに顔を上げた。

 

「何」

 

ハーマイオニーは一瞬だけ口を開きかけて、それから少しだけ言葉を探すように視線を揺らした。

 

「……あとで、図書館に行かない?」

 

「いいけど」

 

短いやり取り。

それだけなのに、なぜか少しだけ間が残る。

 

そのまま、昼のざわめきに飲まれていった。

 

***

 

談話室に戻ると、ロンがソファに寝転がりながら蛙チョコレートをかじっていた。

 

「休暇明け早々、課題だなんて最悪だ……」

 

「やらなきゃ終わらないでしょ」とハーマイオニーが即答する。

 

カリンはローブから本を取り出し開く。

だが、ページを開いても内容は頭に入ってこなかった。

 

隣に座る気配がする。

 

見る前に分かる。

視線を落としたまま、ページをめくる。

 

「……読んでるの?」

 

顔を上げると、ハーマイオニーが本から視線を外し、こちらを見ている。

暖炉の火を受けた瞳が、揺れていた。

 

「一応」

 

「一応って何よ」

 

「文字は追ってる」

 

そう答えると、ハーマイオニーが小さく息を漏らして笑った。

 

その笑い方がやわらかくて、カリンは一度目を向け、それからすぐに本へ視線を戻した。

戻したはずなのに、次の瞬間にはまた見てしまっていた。

 

気づいて、今度こそ逸らす。

 

隣でページのめくられる音がした。

ソファの沈み込みがわずかに変わって、肩が触れそうな距離になる。

 

何も言わないまま、その近さだけが残った。

 

向かいの肘掛け椅子に座っていたロンが、退屈そうにテーブルの上の包み紙をいじっていた。

 

さっき食べた蛙チョコレートの残骸を片付けながら、あくびを噛み殺す。

 

「休暇明けの授業ってやんなるよ……。ニコラス・フラメルは見つからないし、ハリーはクィディッチ練習ばっかだし」

 

「僕も探してるよ」

 

暖炉の前にしゃがみこんでいたハリーが、むっとした顔で言い返した。

 

ロンは肩をすくめ、箱から取り出したカードを何気なく眺めた。

 

「あ、ダンブルドアだ。君が初めて見たカードだよ」

 

懐かしむように、ハリーに見せる。

 

途端に、ハーマイオニーが身を乗り出す。

カードの裏面をじっと見つめる。

 

ハリーとハーマイオニーが、カードを挟んで顔を寄せている。

 

その距離が、ほんの少しだけ目についた。

 

「よく見えない。貸して」

 

ハーマイオニーがさっと手を伸ばした。

 

ロンが半ば投げるように渡したカードを、彼女は受け取るなり目を走らせる。次の瞬間、その肩がぴくりと揺れた。

 

「――カリン」

 

袖を軽く引かれて、カリンはそちらを見た。

 

ハーマイオニーがカードを握ったまま、目を見開いている。興奮したとき特有の、あの少し息の速い顔だった。

 

「見つけたわ」

 

「何を」

 

一拍遅れて返すと、ハーマイオニーはさらに身を寄せた。掴んだ袖に力が入る。

 

「ニコラス・フラメルよ」

 

談話室の空気が、一瞬で変わった。

 

ハリーが勢いよく立ち上がり、ロンが椅子からずり落ちそうになる。

 

「どこに書いてあるのさ?」

「見せて、ハーマイオニー!」

 

二人の声が重なる中、ハーマイオニーは少しだけ得意そうに顎を上げた。

 

「ダンブルドアの有名な業績のところ。『一九四五年にグリンデルバルドを破ったこと、十二種の竜の血の利用法を発見したこと、そして錬金術師ニコラス・フラメルとの共同研究で知られる』――ほら」

 

カードを覗き込もうと、ハリーとロンが左右から顔を寄せる。カリンもその文字を追ったが、その前に意識したのは、袖を掴んだままのハーマイオニーの手だった。

 

小さな手。体温が、布越しにも分かる。

 

「……本当だ」

 

ようやくそれだけ言うと、ハーマイオニーがはっとしたように手を離した。

 

「あ、ご、ごめんなさい。つい」

 

「別に」

 

短く返す。短すぎた気がした。

 

ハーマイオニーもそれ以上何も言わず、ほんの一瞬だけ黙る。その沈黙は気まずいほどではないのに、なぜか胸の奥に残った。

 

最初に口を開いたのはロンだった。

 

「で、ニコラス・フラメルって誰なんだ?」

 

「調べましょう」

 

即答だった。

 

ハーマイオニーは立ち上がると、カードをしっかり持ったまま、本を抱え直した。

 

「今すぐ図書館へ行くわよ」

 

「え、今?」

 

「今よ」

 

ハーマイオニーはきっぱりと言った。

 

「何か月も探してたのよ。見つかったなら、そのままにしておけるわけないでしょう」

 

ハリーが勢いよく頷く。

 

「行こう」

 

***

 

図書館は休暇明けでも、静まり返っていた。

 

高い棚のあいだには人気が少なく、足音がやけに響く。マダム・ピンスの鋭い視線を避けながら、四人は魔法史、錬金術、著名魔法使い名鑑の棚を行ったり来たりした。

 

「錬金術の本を探して」とハーマイオニーが言う。

 

「はいはい」とロンが気のない返事をし、ハリーは別の棚へ向かった。

 

カリンが手近な本の背表紙に目を走らせていると、すぐ横からハーマイオニーが同じ段へ手を伸ばした。

 

指先が触れる。

 

ほんの一瞬。

 

それだけなのに、二人とも動きを止めた。

 

先に本を引いたのはカリンだった。

 

「……これ」

 

「あ、ありがとう」

 

ハーマイオニーの声はいつも通りのはずなのに、少しだけ低かった。カリンは本を渡し、何でもない顔で別の棚へ目を向ける。

 

向けたまま、さっき触れた指先の感覚だけが残っていた。

 

それを振り切るように、また探し出す。

 

別の棚の前でハーマイオニーが背伸びしているのが見えた。

あと少しで届きそうで届かない位置に、分厚い一冊が差し込まれている。

 

「待って」

 

カリンが一歩前に出た。

ハーマイオニーの背後から手を伸ばし、本を取る。

 

一瞬、止まった。

 

近かった。

 

振り向かないまま、本はハーマイオニーの手に収まった。

 

すぐ横に、腕が残る。

 

カリンの吐息がハーマイオニーの耳元を掠め、カリンの鼻腔には微かな香りが届いた。

 

「……ありがとう」

 

「……ん」

 

ゆっくりと腕を引く。そのまま、背後から本を覗き込んだ。

 

「これ、索引がついてるわ。人名から探せるかも」

 

「じゃあ見る」

 

「ここで?」

 

「戻すの面倒」

 

ハーマイオニーが呆れたように息をついたが、結局その場で本を開いた。二人で同じページを覗き込む形になる。

 

近い、と言われるかと思った。

 

ページをめくるハーマイオニーの指先が、わずかに震えているのをカリンは見逃さなかった。

 

だが、ハーマイオニーは言わなかった。

代わりに、ページの端を押さえる指がわずかにこちらへ寄る。

 

「……ニコラス、フラメル……見つけたわ」

 

「どこ」

 

「ここ」

 

示された箇所を読むために、カリンはもう少しだけ身を傾けた。

 

自分でも、それが必要な距離以上だと分かっていた。

 

カリンの胸元が、ハーマイオニーの背中に触れそうで触れない。

 

ハーマイオニーもまた、何も言わなかった。

 

「『ニコラス・フラメルは著名な錬金術師であり、賢者の石の唯一知られた製作者である』――」

 

ハーマイオニーの声は、読んでいるうちに少しずつ熱を帯びていった。

 

ハリーとロンもすぐに寄ってくる。

 

カリンは一瞬だけハーマイオニーと視線を交わし、それから少し横にずれて、彼女の隣に立った。

 

「賢者の石?」とハリー。

 

「続きがあるわ」ハーマイオニーはページを押さえ直した。

 

それに合わせて、カリンも無意識にページの端へ手を伸ばす。

 

指先が、同じ場所で止まる。

 

カリンの手の甲に、ハーマイオニーの小指がかすかに触れていた。

 

ハーマイオニーは気にせず、続きを読む。

 

ほんのわずかだけ、ページを押さえる指に力が入った。

 

「『賢者の石は驚くべき力を持つ伝説の物質で、いかなる金属を純金に変えることができる。また、命の水を生み出し、不老不死をもたらす』」

 

「純金?」ロンの目が丸くなる。「不老不死?」

 

「だから有名なんだ」とハリーが言った。

 

「そして誰かがそれを欲しがる」

 

ハーマイオニーは頷いた。

 

「ニコラス・フラメルは六百年以上生きているって書いてあるわ。つまり、本当に賢者の石を持っているのよ」

 

「じゃあ、あの三頭犬が守ってたのは……」

 

「賢者の石」とハーマイオニーが言った。

 

その言葉が落ちた瞬間、四人のあいだに短い沈黙が下りた。

 

「ようやく繋がったわ。地下の扉。三頭犬。フラメル。ダンブルドア」

 

ハリーが険しい顔になる。

 

「やっぱりスネイプは石を狙ってるんだ」

 

「そうとしか思えない!」

 

ロンが激しく同意した。

 

「あの扉の先にあるものが賢者の石なら、守りが厳重なのも当然だ」

 

三人の会話を聞きながら、カリンは本の文字から目を離した。

 

賢者の石。なるほど、三頭犬に守らせるだけの代物ではある。スネイプが狙っている――その筋も通る。通るのだが。

 

「……でも」

 

小さくこぼすと、三人がこちらを見た。

 

「何?」とハーマイオニー。

 

カリンは少しだけ考えてから、首を傾ける。

 

「狙ってる、のかもしれないけど」

 

「けど?」

 

「……違う気もする」

 

ハリーが眉をひそめた。

 

「違うって?」

 

「うまく言えない。ただ、あの人が何か隠してるのは本当でも、それがそのまま石を盗むことと同じとは限らないかなって」

 

言いながら、自分でも曖昧だと思う。根拠は薄い。ただ、ひっかかる。

 

個人授業のときのスネイプの顔、クィディッチの試合で感じた黒い気配、全部を並べても、ひとつの線になりきらない。

 

ハーマイオニーは少しだけ目を細めた。

 

「あなたにしては珍しい言い方ね」

 

「そう?」

 

「もっと断定するかと思った」

 

「確信がないから」

 

ハーマイオニーはしばらくこちらを見ていたが、やがて本へ視線を戻した。

 

「……まあ、今のところはハリーの推測を完全に否定する材料もないわ」

 

「だな」とロン。

 

「でも、気をつけたほうがいい」とハリーが言う。「スネイプが本当に石を狙ってるなら、何かするかもしれない」

 

「とりあえず、見張るしかないわね」

 

話がまとまり、四人は本を閉じた。

 

その拍子にまた手が触れたのは、偶然だったはずだ。ページを押さえていたハーマイオニーの指先が、引くタイミングを失ったカリンの手に重なる。

 

今度は、一瞬ではなかった。

 

ほんの呼吸ひとつぶん。

指先の温度が、はっきりと残る程度には。

 

先に離れたのはハーマイオニーだった。けれど彼女はすぐには何も言わず、代わりに視線だけを逸らした。

 

カリンも何も言えなかった。

 

胸の奥が、妙に静かに騒いでいた。

 

***

 

数日後、土曜日の朝食の席で、ハリーが嫌そうな顔をした。

 

「聞いた? 明日の試合、スネイプが審判だって」

 

ロンがソーセージを落としかける。

 

「何だって?」

 

「ウッドが言ってた。いつものフーチ先生じゃない」

 

「絶対おかしいわ」とハーマイオニーが言った。

 

「そんなの露骨すぎるじゃない」

 

ハリーの顔色は良くなかった。

クィディッチの試合前の緊張だけではないのが分かる。

 

「ぼく、箒から落とされるかも」

 

「縁起でもないこと言わないでよ」とロン。

 

「でも前にもあっただろ」

 

あの試合のことを思い出し、テーブルの空気が少し重くなる。

カリンは黙ったまま紅茶を口に運んだ。

 

スネイプが審判。

 

嫌な響きではある。

だが、それだけで何かが起きると決めつけるのも早い。

結局、自分の中の違和感はまだ輪郭を持たなかった。

 

「ハリー」とハーマイオニーが言う。

 

「あまりスネイプばかり見ていたら、かえって危ないわ。試合に集中して」

 

「分かってる」

 

そう答えるハリーの声に、分かっていない響きが混じっていた。

 

***

 

放課後の地下牢は、相変わらず静まり返っていた。

 

石壁に染みついた冷気が、ゆっくりと呼吸に混じる。

 

カリンは部屋の中央に立ち、浅く息を整えていた。

肩の力は抜けているが、完全には落としていない。

わずかな緊張だけを残し、意識を周囲へ広げる。

 

視界に頼らない。

 

気配。温度。魔力の揺らぎ。

 

触れずに分かるものだけを、静かに拾い上げる。

 

「そういえば、クィディッチの審判になるんですって?」

 

間を持たせるように、軽く口を開く。

 

「珍しい。そういうの、面倒だと一蹴しそうなのに」

 

「……無駄口を叩いているだけなら帰れ」

 

低い声。

 

その直後、右後方で空気が歪んだ。

 

来る。

 

振り返らない。

 

半歩だけ、前へ。

 

赤い閃光が、さっきまで立っていた位置を掠め、石壁に弾けた。

 

「……ほう」

 

間を置かず、次。

 

左。

 

だが、それは囮。

 

本命は――

 

「ステューピファイ!」

 

正面。

 

カリンは身体をわずかに捻り、足元へ意識を落とす。

 

「――薄陣」

 

淡い紋が一瞬だけ浮かび、光の軌道を逸らす。

 

完全には防がない。

 

それでいい。

 

踏み込む。

 

距離を詰める。

 

黒いローブが、目前まで迫る。

 

――そこで、止まる。

 

ほんのわずか。

 

判断が、遅れる。

 

「遅い」

 

視界が揺れた。

 

気づいたときには、喉元に杖が突きつけられている。

 

呼吸が止まる。

 

沈黙。

 

「……今のは?」

 

静かに問われる。

 

カリンは短く息を吐いた。

 

「……拘束するか、迷いました」

 

「違う」

 

即座に切り捨てられる。

 

「判断じゃない。躊躇だ」

 

沈黙。

 

図星だった。

 

逃げ場のない言葉だった。

 

「読めているはずだ。……何故、躊躇う」

 

低く、淡々とした声音。

 

責めているわけでもない。

 

ただ、事実を置いてくる。

 

カリンは視線を逸らさなかった。

 

「……はい」

 

「もう一度だ」

 

間を置かない。

 

今度は三方向。

 

上、右、正面。

 

瞬きの間に切り分ける。

 

(上は囮。右は強い。でも――)

 

正面。

 

来る。

 

カリンは動かない。

 

あえて、動かない。

 

誘う。

 

一歩、踏み込ませる。

 

その瞬間。

 

足元に敷いた紋が、淡く光る。

 

ほんの一刹那、動きが鈍る。

 

その隙に。

 

「縛」

 

影が足首へ絡みつく。

 

間髪入れず、

 

「インカルセラス」

 

ロープが重なる。

 

締め上げる。

 

拘束。

 

今度は崩れない。

 

静寂。

 

数秒。

 

スネイプは動かなかった。

 

やがて、魔力がほどける。

カリンが解いたのではない。スネイプが、自ら解いたのだ。

 

「……今のは」

 

「はい」

 

「遅いが、通ったな」

 

低い評価。

 

それだけだった。

 

それで十分だった。

 

構えを緩める。

 

石壁の冷気が、また静かに戻ってくる。

 

そのとき――

 

暖炉の前。

 

ほんの少しだけ、緩んだ横顔。

 

すぐ近くにあった体温。

 

一瞬だけ、意識が逸れる。

 

「……どうした」

 

低い声。

 

すぐ近くに現実が戻る。

 

カリンは瞬きをひとつして、視線を戻した。

 

「いえ」

 

短く切る。

 

余計なものを落とすように。

 

「続けます」

 

ほんのわずかに、スネイプの目が細まる。

 

「……当然だ」

 

杖が上がる。

 

空気が張り詰める。

 

次は、さっきより速い。

 

だが。

 

今度は――

 

ほんのわずかだけ、早く動けた。

 

***

 

観客席はいつものように賑やかだった。

 

冷たい風が吹き抜け、グラウンドの上空には薄い雲が広がっている。赤と金のマフラーがあちこちで揺れ、歓声が重なって大きなうねりになっていた。

 

カリンはハーマイオニーたちと並んで席に着いた。試合前のざわめきの中、ハーマイオニーはいつもより落ち着かない様子でフィールドを見下ろしている。

 

「大丈夫かしら」

 

「始まれば何とかなるでしょ」とロンは言うが、声音には不安があった。

 

笛が鳴る。

 

試合が始まった。

 

ハリーは確かにスネイプを警戒しているようだった。上空で何度も視線を下へ向ける。そのたびに動きがわずかに遅れるのが、観客席からでも分かる。

 

けれど、試合自体は何事もなく進んだ。

 

スネイプは厳しい顔で飛び回る選手たちを追っているだけで、露骨な不正も怪しい動きもない。グリフィンドールもハッフルパフも正々堂々と点を取り合い、歓声と悲鳴が交互に上がる。

 

「……普通ね」とハーマイオニーが呟いた。

 

「今のところは」とロン。

 

カリンは返事をせず、フィールドを見ていた。視界の端で、ハーマイオニーがこちらを見る気配がする。

 

気のせいかと思って視線を動かすと、本当に目が合った。

 

ハーマイオニーは一瞬だけ驚いたように瞬きし、それからすぐ前を向いた。

 

ただそれだけのことなのに、カリンの胸が小さく跳ねる。

 

何だろう、と考えるより先に、実況席から大声が響いた。

 

「ポッターが急降下だ!」

 

ハリーが箒をぐっと倒し、地面すれすれまで落ちていく。観客席が総立ちになった。ロンが叫び、ハーマイオニーが手すりを握る。

 

次の瞬間、ハリーは地面すれすれで腕を伸ばし、再び急上昇した。

 

その拳の中で、金色の小さなものが陽光を弾く。

 

「スニッチだ!」

 

歓声が爆発した。

 

赤と金の波が立ち上がり、グリフィンドール席はほとんど崩れそうな勢いで揺れた。

ロンが飛び上がり、ハーマイオニーも思わず声を上げる。

 

「やった!」 「ハリー!」

 

試合終了の笛が鳴る。グリフィンドールの勝利だった。

 

選手たちが降りてくるあいだ、観客席の興奮はなかなか収まらなかった。ハリーが無事に地上へ降り立ったのを見て、ハーマイオニーがようやく大きく息をつく。

 

「何もなくてよかった……」

 

本心からの声だった。

 

カリンはその横顔を見た。頬が少し赤い。寒さだけではないだろう。

 

「ん」

 

短く相槌を打つと、ハーマイオニーがこちらを向く。

 

「何よ、その返事」

 

「いや、同じこと思ってた」

 

「……そう」

 

それだけのやり取りなのに、彼女は少しだけ口元をやわらげた。

 

帰り道の城の廊下は、試合の興奮でまだざわめいていた。あちこちで勝利を喜ぶ声が響き、寮の色のマフラーが行き交う。

 

けれど談話室に戻るころには、熱気も少し落ち着いていた。

 

暖炉の前のいつもの場所に、気づけばまた二人で座っている。ロンとハリーは勝利の余韻のまま他の生徒たちに囲まれ、少し離れたところで騒いでいた。

 

こちらは静かだった。

 

ハーマイオニーは膝の上に本を置いているが、開いてはいない。カリンも、手に取った新聞をほとんど読んでいなかった。

 

話すことがないわけじゃない。

 

フラメルのことは分かった。賢者の石の正体も、その力も、スネイプへの疑いも、少しだけ輪郭を増した。

 

それでも、別の何かが、逆に分からなくなっている。

 

隣の体温が近い。

 

無言でも気まずくはない。むしろ、声がないぶんだけ、距離の近さばかりが際立つ。

 

ハーマイオニーが、そっと本を閉じたまま指先で表紙をなぞった。

 

「……今日は、何も起きなかったわね」

 

「うん」

 

「ハリー、心配しすぎかもしれない」

 

「かもね」

 

答えながら、カリンは暖炉の火を見た。見たまま、視界の端でハーマイオニーが少しこちらに寄るのが分かる。

 

寒いからかもしれない。ソファが狭いからかもしれない。何でもいい理由は、いくらでもあった。

 

「でも」

 

ハーマイオニーが小さく言う。

 

「何?」

 

「……何でもない」

 

そう言って、彼女は黙った。

 

カリンも追及しなかった。代わりに、少しだけ肩の力を抜く。すると、隣の気配もわずかにやわらぐ。

 

また沈黙が落ちる。

 

暖炉の薪が崩れる音がして、赤い火の粉がひとつ跳ねた。

 

フラメルの謎は解けた。賢者の石が何であるかも、ようやく見えた。

 

けれどその一方で、カリンの中には、ますます輪郭を曖昧にするものがあった。

 

視線が先に動くこと。気づけば隣にいること。ほかの誰かより、たったひとりの表情や声にばかり意識を持っていかれること。

 

それが何なのか、まだうまく言えない。

 

ただ――

このまま何も考えないでいるには、少しだけ近すぎた。

 

隣で、ハーマイオニーが静かに息をつく。

 

その音が、なぜかひどく近く聞こえた。

 

 


 

 

幕間:ハーマイオニー・サイド

 

 

クリスマス休暇が明けて、ホグワーツはすっかり元の騒がしさを取り戻していた。

 

どこへ行っても声がある。笑い声、呼び合う声、休暇中の話を競うような声。静かだったこの数日が、もう遠い気がした。

 

私はパンにナイフを入れながら、とくに何も考えていなかった。

 

――そう思っていた。

 

気づいたのは、視線だった。

 

横から、誰かが見ている。

 

確かめるまでもなく分かった。分かってしまった、というほうが正確かもしれない。

 

最近、そういうことが増えた。

カリンの視線の重さを、私は少し前から、妙に敏感に感じ取れるようになっていた。

 

理由は考えないことにしていた。

 

ナイフを動かす。パンが切れる。

それだけのことに、少しだけ集中する。

 

でも、視線は続いていた。

 

私は眉を寄せた。

自分でも気づかないうちに、そうしていた。

 

……何を見ているの。

 

心の中でそう言って、すぐに打ち消した。別に、何を見ていてもいい。

同じグリフィンドールの、同じ寮の。それだけの話だ。

 

それだけの話、のはずだった。

 

視線が、ふっと逸れた。

 

そのとたん、胸の中で何かが微かに動いた。安堵でも、落胆でもない。上手く名前のつけられない、小さな揺れ。

 

——馬鹿みたい。

 

私は内心でそう切り捨てて、ナイフの柄を少し強く握り直した。

 

「……どうしたの?」

 

声に出していたのは、半ば無意識だった。

 

カリンが肩をわずかに揺らす。顔を上げた表情に、驚きの色がある。

 

「何が」

 

「さっきから、ぼんやりしてる」

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

それだけ言って、私は視線をパンへ戻した。

 

追及するつもりはなかった。ただ、何かを言わずにいられなかっただけだ。沈黙のまま横に座っていると、さっきの視線のことを考えてしまいそうで。

 

カリンは何も言わなかった。

 

その沈黙が、少しだけ長く感じた。

 

周りは相変わらず賑やかだった。雪の話、家族の話、贈り物の話。私たちの間だけ、妙に静かだった。

 

しばらくして、私は口を開いた。

 

「……カリン」

 

呼んでから、何を言うつもりだったのか分からなくなった。

 

カリンがすぐに顔を上げる。「何」と短く返す声。

 

私は一瞬、言葉を探した。

 

「……あとで、図書館に行かない?」

 

自然に言えた、と思う。

 

理由はある。フラメルのこともあるし、調べたいこともある。

 

だから、別におかしくはない。

 

「いいけど」

 

あっさりと返ってくる。

 

それだけのやり取り。

なのに、胸の中の何かが、静かに落ち着いた。

 

——それが何なのか、今は考えない。

 

そう決めて、私はまたパンへ視線を落とした。

大広間の昼の声が、遠くに聞こえた。

 

***

 

談話室に戻ると、ロンがソファに寝転がりながら蛙チョコレートをかじっていた。

 

「休暇明け早々、課題だなんて最悪だ……」

 

「やらなきゃ終わらないでしょ」

 

そう言いながら、私はいつものようにカリンの隣へ腰を下ろした。

 

いつからこうなったのか、もうよく分からない。

気づけば自然にこの位置を選んでいて、今さら別の場所に座るほうが不自然に思える。

 

カリンはローブから本を取り出して開いた。

 

けれど、ページを追う視線が少しだけ曖昧で、読んでいるふりをしているのだとすぐに分かった。

 

紙の擦れる音。暖炉の火の音。ロンのだらしないため息。

 

その全部のあいだに、隣の気配がはっきりとある。

 

「……読んでるの?」

 

顔を上げると、カリンがこちらを見た。

 

暖炉の火を受けた瞳が、静かに揺れている。

 

「一応」

 

「一応って何よ」

 

「文字は追ってる」

 

思わず、小さく息が漏れた。

 

「それ、読んでるって言わないじゃない」

 

笑うつもりはなかったのに、少しだけ口元が緩む。

それに気づき、私は自分の本を開く。

 

カリンが一度こちらへ目を向けて、すぐに本へ視線を戻す。

 

その横顔を、私は少しだけ見た。

 

見ていることに気づいて、自分もページへ視線を落とす。

 

暖炉の火が揺れている。

ソファの沈み込みが、わずかに変わった。

 

肩が、触れそうな距離だった。

 

何も言わなかった。何も言う必要がなかった。

 

何を意識しているのか、考えないことにした。

 

その近さだけが、妙にはっきりしていた。

 

向かいの肘掛け椅子で、ロンが包み紙を丸めながら大きなあくびを噛み殺す。

 

「休暇明けの授業ってやんなるよ……。ニコラス・フラメルは見つからないし、ハリーはクィディッチ練習ばっかだし」

 

「僕も探してるよ」

 

暖炉の前にしゃがみこんでいたハリーが、むっとした顔で言い返した。

 

ロンは肩をすくめ、箱から取り出したカードを何気なく眺める。

 

「あ、ダンブルドアだ。君が初めて見たカードだよ」

 

なんとなく顔を向けた。

カードの表面をロンがハリーに向ける。

 

その瞬間、目に飛び込んだ文字があった。

私は本を置いて、身を乗り出した。

 

――錬金術師ニコラス・フラメル。

 

「よく見えない。貸して」

 

ロンが半ば投げるように渡したカードを、私は両手で受け取った。

目を走らせる。読む。もう一度読む。

肩が、ぴくりと揺れた。

 

「――カリン」

 

気づいたら、袖を掴んでいた。

カリンがこちらを見る。いつもの、少し静かな目。

 

「見つけたわ」

 

「何を」

 

「ニコラス・フラメルよ」

 

その一言で、談話室の空気が一瞬にして変わった。

 

ハリーが勢いよく立ち上がり、ロンが椅子から落ちそうになる。

 

「どこに書いてあるのさ?」

「見せて、ハーマイオニー!」

 

二人の声が重なるのが少しだけ愉快で、私は得意な気分になった。

 

「ダンブルドアの有名な業績のところ。『一九四五年にグリンデルバルドを破ったこと、十二種の竜の血の利用法を発見したこと、そして錬金術師ニコラス・フラメルとの共同研究で知られる』――ほら」

 

ハリーとロンが左右から覗き込んでくる。

 

カリンも文字を追おうとして身を寄せた、そのときになって、ようやく自分の手がまだ袖を掴んだままだと気づいた。

 

布越しの体温が、やけにはっきり分かる。

 

「……本当だ」

 

その低い声で、我に返る。

 

私は慌てて手を離した。

 

「あ、ご、ごめんなさい。つい」

 

「別に」

 

私はカードに視線を戻した。文字を読むふりをした。胸の中が、妙に騒がしい。

 

つい、なんて。

 

自分に呆れる。呆れながら、頬が少し熱いことに気づく。暖炉のせいだと思うことにした。

 

最初に口を開いたのはロンだった。

 

「で、ニコラス・フラメルって誰なんだ?」

 

「調べましょう」

 

ほとんど反射だった。

 

私は立ち上がり、カードをしっかり持ったまま本を抱え直す。

 

「今すぐ図書館へ行くわよ」

 

「え、今?」

 

「今よ」

 

自分でも少し強い口調だと思ったけれど、止められなかった。

 

「何か月も探してたのよ。見つかったなら、そのままにしておけるわけないでしょう」

 

ハリーが勢いよく頷く。

 

「行こう」

 

私は先に歩き出しながら、カリンがついてくる気配を確かめていた。

確かめていることに気づいて、少しだけ早足になった。

 

***

 

図書館は、休暇が明けても静まり返っていた。

 

高い棚のあいだには人気が少なく、足音だけがやけに響く。

マダム・ピンスの鋭い視線を感じながら、私たちは手分けして棚の間を奔走した。

 

「錬金術の本を探して」

 

私が指示を出すと、ロンは気のない返事をし、ハリーは別の通路へ向かった。

 

カリンが手近な棚に目を走らせているのが見えた。私も同じ段へ手を伸ばす。

 

私は背表紙を追う。

題名を確認し、違うと分かれば次へ移る。

 

――その時だった。

 

指先が、触れた。

ほんの一瞬。

 

たったそれだけのことなのに、私もカリンも動きを止める。

 

先に本を引いたのはカリンだった。

 

「……これ」

 

「あ、ありがとう」

 

声が少し低くなった気がして、自分で少しだけ眉を寄せる。

 

別に、何でもない。ただ触れただけだ。

そんなことくらいで動揺するなんて、馬鹿みたいだ。

 

私は本を受け取って、すぐ別の棚へ目を向けた。

けれど、指先に残った感覚だけは、なかなか消えてくれなかった。

 

考えないことにして、また本を探す。

 

少し高い位置に、お目当ての分厚い一冊が差し込まれている。

 

爪先立ちをして、精一杯背伸びをしてみたけれど、あと数ミリのところで指が届かない。

 

そのときだった。

 

「待って」

 

声がして、背後に気配が来た。

 

腕が、頭の上を通った。

本が、静かに取られた。

 

――近い。

 

振り向けなかった。

振り向いたら何かが変わる気がして、私はそのまま正面を向いていた。

 

本がそっと手渡される。すぐ横に、腕がある。

 

耳のあたりに、息がかかった。

心臓が、一拍だけ変な音を立てた。

 

「……ありがとう」

 

「……ん」

 

彼女がゆっくりと腕を引く。

でも、離れてはくれなかった。

カリンはそのまま私の背後から、肩越しに本を覗き込んできた。

 

「これ、索引がついてるわ。人名から探せるかも」

 

「じゃあ見る」

 

「ここで?」

 

「戻すの面倒」

 

呆れたような声を出しながらも、私は結局その場で本を開いた。

 

ほかにもっと落ち着いて読める場所があるのに、そうしなかった。

 

二人で同じページを見る形になる。近い、と言おうと思った。言えなかった。

 

言ったら、意識していることが伝わる。

 

指先が、かすかに震えていた。

ページをめくるたびに、それを悟られないよう、少しだけ力を込めた。

 

「……ニコラス、フラメル……見つけたわ」

 

「どこ」

 

「ここ」

 

示すと、カリンがもう少しだけ身を傾けた。

 

ほんの少し動けば、触れてしまいそうだった。

 

気にしない。気にしない。

私はページを押さえ直して、声に出して読んだ。

 

「『ニコラス・フラメルは著名な錬金術師であり、賢者の石の唯一知られた製作者である』――」

 

読み上げながら、私はようやく本来の目的を思い出す。

そう。今はフラメルのことを調べているのであって、こんなことで気を取られている場合じゃない。

 

読み進めるうちに、意識は少しずつ文字へ戻っていった。

 

ハリーとロンもすぐに寄ってくる。

 

その気配に、私はほんの少しだけ息をついた。

助かったような、そうでもないような、うまく定まらない気持ちだった。

 

カリンは一瞬だけ私と目を合わせ、それから少し横にずれて隣へ立つ。

 

「賢者の石?」とハリーが言う。

 

「続きがあるわ」

 

ページを押さえ直す。

カリンの手が、同じ場所へ伸びた。

 

指先が、重なった。

離したほうがよかったのかもしれない。

 

でも、言えなかった。

 

代わりに、視線をページに固定した。

ページを押さえる指に、少しだけ力が入った。

 

「『賢者の石は驚くべき力を持つ伝説の物質で、いかなる金属を純金に変えることができる。また、命の水を生み出し、不老不死をもたらす』」

 

「純金?」ロンが目を丸くする。

 

「不老不死?」

 

「だから有名なんだ」とハリーが言う。

 

「そして誰かがそれを欲しがる」

 

私は頷いた。

 

「ニコラス・フラメルは六百年以上生きているって書いてあるわ。つまり、本当に賢者の石を持っているのよ」

 

「じゃあ、あの三頭犬が守ってたのは……」

 

「賢者の石」

 

そう言った瞬間、四人のあいだに短い沈黙が落ちた。

 

ようやく全部が繋がる。

地下の扉。三頭犬。フラメル。ダンブルドア。

 

「やっぱりスネイプは石を狙ってるんだ」

 

ハリーが険しい顔で言う。

 

「そうとしか思えない!」とロンも続く。

 

「あの扉の先にあるものが賢者の石なら、守りが厳重なのも当然だわ」

 

そう言ったあと、私はふと隣を見た。

カリンは本の文字から目を離していた。

 

表情はいつもと大きく変わらないのに、何かを考えているときの顔だった。

 

「……でも」

 

小さくこぼれた声に、三人でそちらを見る。

 

「何?」

 

私が問うと、カリンは少し首を傾げた。

 

「狙ってる、のかもしれないけど」

 

「けど?」

 

「……違う気もする」

 

ハリーが眉をひそめる。

 

「違うって?」

 

「うまく言えない。ただ、あの人が何か隠してるのは本当でも、それがそのまま石を盗むことと同じとは限らないかなって」

 

私は少しだけ目を細めた。

 

珍しい言い方だった。

 

いつものカリンなら、もっとはっきり物を言う。

見えたものをそのまま掴みに行くようなところがあるのに、今は曖昧だ。

 

「あなたにしては珍しい言い方ね」

 

「そう?」

 

「もっと断定するかと思った」

 

「確信がないから」

 

その返しは、いかにもカリンらしいようでいて、やっぱりどこか引っかかった。

 

確信がない。そう言うには、少しだけ迷いがあるように聞こえた。

 

私はしばらくその顔を見ていたが、やがて本へ視線を戻す。

 

「……まあ、今のところはハリーの推測を完全に否定する材料もないわ」

 

「だな」とロン。

 

「でも、気をつけたほうがいい」とハリーが言う。

 

「スネイプが本当に石を狙ってるなら、何かするかもしれない」

 

「とりあえず、見張るしかないわね」

 

そう言って、本を閉じる。

その拍子だった。

 

ページを押さえていた指先が、引くタイミングを失ったカリンの手に重なる。

 

今度は、一瞬ではなかった。

 

ほんの呼吸ひとつぶん。

 

呼吸ひとつぶんの間、そのままだった。

温度が、指先にはっきりと伝わった。

 

先に離れたのは、私だった。

 

視線を逸らした。何も言えなかった。

何か言えば、声が変になる気がした。

 

カリンも何も言わなかった。

私はまっすぐ前を向いて、棚の背表紙を見た。

 

何でもない。

そう思った。

 

思いながら、頬が少し熱いことに気づいた。

 

暖炉のない図書館で、どこからくる熱なのか、私には分からなかった。

 

分かりたくなかった。

 

***

 

夜の談話室は、昼間よりずっと静かだった。

 

暖炉の火がぱちぱちと音を立てて、橙色の光がゆらゆらと揺れている。さっきまで騒がしかった声も、もうほとんど残っていない。

 

本を開いてはいるけれど、ページはほとんど進んでいなかった。

 

指先だけが、無意味に紙の端をなぞっている。

 

――集中しなきゃ。

 

そう思うのに、どうしても意識が別のところへ引っ張られる。

 

図書館でのことを、思い出していた。

 

同じページを押さえていたときの、あの距離。

 

視線を落とせばすぐそこにあった指先と、ほんの少し触れていた、小指。

 

あれは――

 

(……偶然よ。そうに決まってるわ)

 

そう結論づける。

 

本を押さえていたのだから、触れることくらいある。

 

距離だって、棚の前では仕方ない。

狭いし、動きにくいし、あの位置ならああなる。

 

全部、説明できる。

 

全部、合理的だ。

 

――なのに。

 

ページを押さえていたとき、ほんの少しだけ、指に力が入った。

 

あれは、どうしてだろう。

 

(……集中してただけ)

 

そう思う。

 

そういうことにしておく。

 

読み上げていたのは私だし、ちゃんと伝えなきゃいけなかったし、変なところで手がずれたら困るし――

 

理由はいくらでもある。

 

あるのに。

 

どうして、あんなに意識してしまったのか分からない。

 

もしあのまま、私が顔を上げていたら――。

 

(……やめなさい、ハーマイオニー。仮定の話に意味はないわ)

 

だって、ただの調べ物だったのだから。

ただの本。ただのページ。ただの、物理的な距離。

 

それ以上の意味なんて、魔法史の年表をひっくり返したって見つかりっこない。

 

そんな必要はない。

 

(……そうよ)

 

そう、ただそれだけ。

 

それ以上の意味なんて、あるはずがない。

 

……なのに。

 

どうして、今になっても、こんなに残っているんだろう。

 

指先に触れていた感覚が、妙にはっきりと思い出せる。

 

離れたあとも、しばらくそこにあった気がした。

 

――馬鹿みたい。

 

小さく息を吐く。

 

そんなことに気を取られている場合じゃない。

 

賢者の石のことだってあるし、スネイプのことだってあるし、考えるべきことはいくらでもあるのに。

 

それなのに、どうしてこんな――

 

(……好き、とか)

 

ふと浮かんだ言葉に、自分で息が止まる。

 

すぐに首を振る。

 

違う。

 

そんなわけがない。

 

だって、あれは――

 

ただ、近かっただけだ。

 

それだけのことだ。

 

(……たぶん)

 

小さく、心の中で付け足す。

 

その一言が、どうしてこんなに落ち着かないのか分からなかった。

 

本のページをめくる。

 

文字は目に入るのに、意味がほとんど頭に残らない。

 

胸の奥に、引っかかるものがある。

 

顔を上げると、少し離れたソファに、カリンが座っているのが見えた。

 

新聞を広げているけれど、ほとんど読んでいないように見える。

 

なんとなく、その横顔を見てしまう。

 

すぐに視線を戻す。

 

戻したはずなのに、また見てしまう。

 

(……何やってるの、私)

 

今度はしっかり本に目を落とした。

 

もう見ない。

 

気にしない。

 

ただの同級生。

 

ただの――

 

(……たぶん)

 

また同じ言葉が浮かぶ。

 

それ以上は、考えなかった。

 

暖炉の火が、小さく音を立てる。

 

静かな時間の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

 

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