賢者の石と黒髪の騎士   作:krn

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第四章:日常の中の特別

 

ホグワーツでの生活が始まってほどなく、ツキヨミ・カリンとハーマイオニー・グレンジャーの名前は、良くも悪くも一年生のあいだで知られるようになっていた。

 

ハーマイオニーについては、言うまでもない。

 

どの授業でも教授の問いが終わるより早く手が挙がり、答えは教科書から抜き出したように正確だった。呪文学でも薬草学でも魔法史でも、その知識量は群を抜いている。

 

入学して間もないというのに、すでに「歩く教科書」なんて言葉が囁かれ始めていた。

けれど、その優秀さは同時に、周囲との薄い壁にもなっていた。

 

一方でカリンは、そのハーマイオニーとはまるで正反対だった。

 

魔法史では平然と机に突っ伏して眠り、天文学では五行思想で星の運行を語り出し、シニストラ先生を困惑させる。

 

理論や暗記にまるで興味を示さない彼女は、誰の目にも「劣等生」に映った——少なくとも、最初のうちは。

 

その印象が覆ったのは、マクゴナガル先生の変身術の授業でのことだった。

 

***

 

朝の教室。初めての変身術の授業。

 

カリンは机の上のマッチ棒を見つめていた。

隣ではハーマイオニーが背筋をぴんと伸ばして杖を構え、向かいではネビルが緊張で手を震わせている。

 

「合図とともに、マッチ棒を針に変えなさい。変身術は正確さと集中力がすべてです」

 

マクゴナガル先生の声が、教室の空気を張りつめさせた。

 

(……正確さ、か)

 

西洋魔法の理論は理解している。

けれど、カリンの中で魔法は、文字の列よりもずっと感覚に近いものだった。

 

静かに息を吸い、細く吐く。

 

内側を静める。

気を散らすものを遠ざける。

目の前のものの“在り方”を捉え、その輪郭を揺らす。

 

指先の感覚が澄んでいく。

 

そのとき、隣で布の擦れる音がした。

ハーマイオニーが杖を持ち直したのだろう。

 

肩先がほんのわずか近づいた気がして、意識が一瞬だけそちらへ引かれる。

 

カリンは小さく息を吐いた。

 

(……集中)

 

「では、始め」

 

マクゴナガル先生の合図と同時に、教室中で呪文が重なる。

 

カリンは杖を静かに持ち上げた。

 

サクラの杖が掌にしっとりと収まる。

意識を対象へ落とし込む。

 

木の細さ、重さ、形。

その先にある、変じた後の冷たい輪郭。

 

「ニードフォース」

 

短く落ちた声とともに、マッチ棒が淡い光を放った。

次の瞬間、そこにあったのは、銀色にきらりと光る一本の針だった。

 

「……!」

 

教室がざわつく。

 

誰かが息を呑み、マクゴナガル先生がわずかに目を見開く。

メガネを押し上げる仕草が、妙に印象的だった。

 

「見事です、ツキヨミさん。初回でここまで完成度の高い変化を見せる生徒は、滅多におりません。グリフィンドールに10点」

 

「ありがとうございます」

 

カリンは軽く頭を下げる。

その瞬間、強い視線を感じた。

 

顔を上げると、ハーマイオニーがじっとこちらを見ていた。

 

驚き。興味。言葉にしきれない何か。

 

まっすぐ向けられたその視線に、カリンの指先がわずかに揺れる。

 

わずかに視線を外し、「コホン」と咳払いをした。

 

***

 

授業が終わると同時に、隣から勢いよく体ごと向き直られた。

 

「すごかったわね、カリン! 呪文を唱えたの、一瞬だったじゃない!」

 

その目はキラキラしていて、けれどどこか落ち着かない。

興奮と、それを押しきれない何かが混ざっている。

 

「いや……あれでも結構ちゃんと集中してたよ」

 

「でも、わたしのは授業が終わる頃になんとか成功したってだけ。あなたのは完璧だったわ。本当にどうしてそんなに上手なの? 陰陽道の魔法って、やっぱり違うのかしら?」

 

言いながら、ハーマイオニーがぐいっと身を寄せる。

 

近い。

 

一瞬だけ言葉に詰まり、それでもどうにか返事をつなぐ。

 

「……っ、やり方が違うだけ、かも。“氣”の流れを整えて、対象の在り方を読むっていうか……そこに無理やり別の形を押しつけるんじゃなくて、少しだけ揺らして、変わる先を定める感じ」

 

「在り方を、読む……」

 

ハーマイオニーは頬に指を添えて、じっと考え込み始めた。

 

考えごとをする癖なのだろう。

ふとしたその仕草が、やけに可愛く見えて、カリンは思わず口元を緩める。

 

「そんなに真剣に考えなくても」

 

「だって、気になるもの」

 

「気になるって……」

 

「だって、本当に聞いたことない概念だもの。理解できたら面白そうじゃない」

 

きっぱり言い切る声音に、カリンはふっと息を漏らした。

 

「……ハーマイオニーなら、すぐコツを掴むと思うよ」

 

「ほんとに?」

 

さっきまでの勢いが少しだけ弱まった声だった。

 

カリンは、小さく頷く。

 

「ほんとに」

 

数秒、沈黙が落ちる。

 

それからハーマイオニーが、ふわりと笑った。

 

嬉しそうで、でも少しだけ照れたみたいな笑い方だった。

 

その表情を見た途端、カリンは一瞬だけ言葉をなくした。

 

「……カリン?」

 

「え、あ……いや」

 

遅れて視線を逸らす。

 

「次、移動でしょ。遅れるよ」

 

「あ、そうだったわ」

 

教室の外では、すでに生徒たちの足音が廊下を満たしていた。

 

その流れに混じって歩き出す。

 

移動教室のあいま、二人並んで歩くうちに、いつの間にか足取りが揃っていた。

 

 


 

 

幕間:日常の中の特別(ハーマイオニー・サイド)

 

ホグワーツの授業が始まってすぐ、私は自分がここでも“浮く”だろうことを、なんとなく感じていた。

 

どの授業でも私は一番に手を挙げ、先生が質問を言い終わる前に答える。

 

だってそれが“正しい”と思っていたし、そうすることで、私は自分の居場所を確かめたかった。

 

でも、周りの生徒たちは、だんだん私に距離を置くようになった。

 

「またか」と呆れたような視線が背中に刺さるたび、私はそれでも負けるものかと、ますます教科書を抱きしめた。

 

そんな中で、ツキヨミ・カリンは、全然違った。

 

授業中に平気で寝ている。星座の名前を聞かれて五行思想とかいう東洋の考え方を語り始め、先生を戸惑わせる。

 

規格外すぎて、正直最初は「何なの、この人……」って思った。

 

けど——

変身術の授業で、私の中の何かが、がらりと変わった。

 

***

 

マクゴナガル先生の前に置かれた小さなマッチ棒。

私は教科書の内容を必死に思い出しながら、杖を握っていた。

 

変身術は、理論も詠唱も難しい。

でも私は完璧にやってみせたかった。

自分の正しさを証明するように、指先まで神経を集中させていた。

 

そして、隣に座るカリンの方をちらりと見たとき——

彼女の気配が、まるで空気そのものと同化しているように感じた。

 

静かで、澄んでいて、それでいて底知れない。

彼女の黒髪が微かに揺れ、瞳が細められたその瞬間、なぜか私まで息を詰めていた。

 

「ニードフォース」

 

たった一言。なのに、その音が教室の空気を裂くように響いた。

 

次の瞬間、マッチ棒が銀色の針へと変わっていた。

 

綺麗だった。

私が知っている変身術の理論とは、まるで違う道筋で、同じ場所に辿り着いたように見えた。

 

驚いたのは私だけじゃなかった。

教室中が一瞬、息をのんだ空気に包まれていた。

 

「見事です、ツキヨミさん。初回でここまで完成度の高い変化を見せる生徒は、滅多におりません。グリフィンドールに10点」

 

マクゴナガル先生の言葉が、やけに遠く聞こえた。

 

私の心の中で、何かがざわついていた。

 

自分より先に、完璧にやってのけたカリンを見て、尊敬と、そして言葉にならない感情が、胸の中でぐるぐる回っていた。

 

彼女がこちらに視線を向ける。

その瞬間、なぜか息が詰まった。

 

けれども、すぐに逸らされる。

ほんの少しだけ、気が抜けたような気持ちになった。

 

***

 

授業が終わると、勢いよく身体ごと隣に向ける。

 

「すごかったわね、カリン! 呪文を唱えたの、一瞬だったじゃない!」

 

我ながら落ち着きがない。でも、それくらい衝撃だった。

 

「いや……あれでも結構ちゃんと集中してたよ」

 

「でも、わたしのは授業が終わる頃になんとか成功したってだけ。あなたのは完璧だったわ。本当にどうしてそんなに上手なの? 陰陽道の魔法って、やっぱり違うのかしら?」

 

カリンの目がすこし泳いだ。

 

「……っ、やり方が違うだけ、かもーー」

 

"在り方を読む"。"少しだけ揺らして、変わる先を定める"。

 

聞き慣れない概念に、つい頬に手を当てて考え込んでしまう。

 

カリンは、それを見てふっと笑った。

 

「そんなに真剣に考えなくても」

 

「だって、気になるもの」

 

「気になるって……」

 

「だって、本当に聞いたことない概念だもの。理解できたら面白そうじゃない」

 

胸の中で引っかかっていたものは、きっとそういうこと。

知的好奇心。理解したいという欲求。それだけのはずだ。

 

「……ハーマイオニーなら、すぐコツを掴むと思うよ」

 

「ほんとに?」

 

思わず聞き返してしまった。

少しだけ、声が小さくなったのを、自分でもわかった。

 

「ほんとに」

 

カリンも笑った。

けれど、そのあとほんの一瞬だけ、言葉が止まった気がした。

 

「……カリン?」

 

呼びかけると、彼女ははっとしたように視線を逸らす。

 

「え、あ……いや。次、移動でしょ。遅れるよ」

 

「あ、そうだったわ」

 

誤魔化すように歩き出すカリン。

けれど、それを深く考える前に、私はその背中を追う。

 

廊下を歩く間、私たちはとても自然に並んでいた。

足音のリズムがぴったりと合っているのがわかって、私は少しだけ横目で彼女を見た。

 

カリンは、ただまっすぐ前を見て歩いていた。

 

でも、なんとなく——

私の歩幅に合わせてくれている気がした。

 

(……そういうところ、ほんとに)

 

言葉にならないまま、その感覚だけが胸に残る。

でもそれが嫌ではなくて、気づかないふりした。

 

***

 

夕暮れの光が差し込む談話室。

高窓から漏れる茜色が、暖炉の炎と混ざりあって、部屋全体をやわらかな赤に染めていた。

 

グリフィンドール塔の空気は、授業の喧騒を終えたあと特有の静けさに包まれていて、私はその中にそっと身を置いた。

 

ふと視線を巡らせると——暖炉の前。

ソファの足元に広がるラグの上で、背を丸めている黒髪の少女が目に入る。

 

カリンだった。

 

彼女は魔法史の教科書を膝にのせていたけれど、ページをめくる指先には集中力の欠片も感じられなかった。

頬にかかる艶やかな黒髪が、彼女の整った横顔をやわらかく隠している。

まるで——読んでいるふりをしているみたいに、ただ活字を追っているだけの瞳。

 

(まったく、また適当なんだから)

 

私は、苦笑まじりにその後ろのソファに腰を下ろした。

 

「ねえ、カリン。宿題、あとまわしにすると、絶対に後悔するわよ?」

 

私の声に、彼女はゆっくり顔を上げた。

墨のような、でもどこか光を宿す灰色の瞳が、真っ直ぐ私を見つめる。

 

「えー……ハーマイオニーって、ほんと真面目だよね。魔法史の宿題にそんな本気出す人、あんまりいないと思うけど」

 

「当然でしょ。ちゃんとやることやってから、のんびりすればいいのよ」

 

「そっかぁ……うん、君が言うと、妙に説得力あるね」

 

くすっと笑うその声に、不意に胸の奥があたたかくなる。

 

でも次の瞬間、彼女は急に真顔になって言った。

 

「今日の変身術以降の授業、ハーマイオニーすごかったね。杖の動き、すごく綺麗だったし。魔力の通し方も透き通ってた」

 

その声には、いっさいの嘘がなかった。

 

心から私を見てくれている、そんな響きだった。

 

嬉しかった。けど——

その優しさが、なぜか少しだけ、苦しかった。

 

「……悔しかった、のかもしれない」

 

思わず、口からこぼれた。

言ってから、自分で驚いた。

 

けど、もう止まらなかった。

 

「ずっと、勉強では誰にも負けたくないって思ってたの。ちゃんと読んで、覚えて、努力して、そのぶん結果を出したかった」

 

暖炉の火が、静かに揺れた。

 

「……なのに、あなたはあっさり成功してしまうんだもの。すごいって思ったわ。でも、それと同じくらい……少し、悔しかった」

 

吐き出すたび、胸の奥で渦巻いていたものが、少しずつ形になっていく。

 

でもカリンは、怒るでも、戸惑うでもなく、ふっと微笑んだ。

 

「……それって、たぶん、すごく健全な気持ちだと思うよ」

 

「健全……?」

 

「うん。悔しいって思えるのは、それだけ真剣だった証拠だから。頑張ってる人しか、そんな気持ちにはなれないでしょ?」

 

その言葉に、胸の奥のざわつきが、少しだけほどけた気がした。

 

……気がつけば、カリンはラグの上で少し身体をずらし、ソファに背を預けていた。

手を伸ばせば触れられそうな距離。

 

暖炉の火が、彼女の黒髪を赤く染めて揺らしている。

 

(近い……)

 

そう思ったのに、なぜかすぐには目を逸らせなかった。

ただ、その横顔を見つめてしまう。

 

やわらかな火の色の中で、頬にかかる髪が揺れる。

それだけのことなのに、妙に目が離せなかった。

 

何か言おうとして、言葉が見つからない。

結局そのまま、黙り込んでしまう。

 

静寂の中、聞こえるのは、ぱちぱちと燃える暖炉の音だけ。

 

それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。

 

***

 

天蓋のカーテンを引いたベッドの中。

私は目を開けたまま、天井の影を見つめていた。

 

(どうして、今日のことばかり思い出すんだろう)

 

変身術の教室でのカリンの姿。

迷いのない動き、正確な呪文。

そして——談話室での、あの距離。

 

尊敬しているのだと思う。

たぶん、話していて落ち着くのだ。

そう考えれば済むはずなのに、どこか引っかかった。

 

うまく言葉にできない。

考えようとすると、かえって分からなくなる。

 

それでも、ひとつだけ確かなことがあった。

 

——明日もまた、話せたらいい。

——また隣で、あの声が聞けたらいい。

 

窓の外で風が揺れ、塔のどこかが小さく軋んだ。

ハーマイオニーはそっと寝返りを打ち、ようやく目を閉じる。

 

***

 

朝の光が、天蓋越しにやわらかく差し込む。

 

目を覚まし、眠気を抱えながら鏡に向かい、手早く髪を整える。

 

談話室に降りると、先に降りていたカリンが、ソファに腰を下ろしたまま、ぼんやりと欠伸をしていた。

 

黒髪はいつも通り寝癖ひとつなく、けれど瞼の重そうな顔つきだけが少し幼い。

 

その姿を見た途端、足が少しだけ止まる。

カリンが気配に気づいて顔を上げた。

 

「あ。おはよ、ハーマイオニー」

 

「あ……おはよう」

 

「朝ごはん、行く?」

 

ごく自然な調子だった。

特別な意味なんて何もなさそうな、いつもの声音。

 

それなのに、その一言だけで、胸の奥のざわつきがすっと引いた。

 

「ええ、行きましょう」

 

ハーマイオニーがそう答えると、カリンは立ち上がった。

 

並んで階段へ向かう。

 

昨日もこうして歩いた。明日もきっとこうして歩く。

 

それがいつの間にか当たり前になっていることに、まだ名前はつけられない。

 

けれど、悪くない、と思った。

 

 

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