ホグワーツでの生活が始まってほどなく、ツキヨミ・カリンとハーマイオニー・グレンジャーの名前は、良くも悪くも一年生のあいだで知られるようになっていた。
ハーマイオニーについては、言うまでもない。
どの授業でも教授の問いが終わるより早く手が挙がり、答えは教科書から抜き出したように正確だった。呪文学でも薬草学でも魔法史でも、その知識量は群を抜いている。
入学して間もないというのに、すでに「歩く教科書」なんて言葉が囁かれ始めていた。
けれど、その優秀さは同時に、周囲との薄い壁にもなっていた。
一方でカリンは、そのハーマイオニーとはまるで正反対だった。
魔法史では平然と机に突っ伏して眠り、天文学では五行思想で星の運行を語り出し、シニストラ先生を困惑させる。
理論や暗記にまるで興味を示さない彼女は、誰の目にも「劣等生」に映った——少なくとも、最初のうちは。
その印象が覆ったのは、マクゴナガル先生の変身術の授業でのことだった。
***
朝の教室。初めての変身術の授業。
カリンは机の上のマッチ棒を見つめていた。
隣ではハーマイオニーが背筋をぴんと伸ばして杖を構え、向かいではネビルが緊張で手を震わせている。
「合図とともに、マッチ棒を針に変えなさい。変身術は正確さと集中力がすべてです」
マクゴナガル先生の声が、教室の空気を張りつめさせた。
(……正確さ、か)
西洋魔法の理論は理解している。
けれど、カリンの中で魔法は、文字の列よりもずっと感覚に近いものだった。
静かに息を吸い、細く吐く。
内側を静める。
気を散らすものを遠ざける。
目の前のものの“在り方”を捉え、その輪郭を揺らす。
指先の感覚が澄んでいく。
そのとき、隣で布の擦れる音がした。
ハーマイオニーが杖を持ち直したのだろう。
肩先がほんのわずか近づいた気がして、意識が一瞬だけそちらへ引かれる。
カリンは小さく息を吐いた。
(……集中)
「では、始め」
マクゴナガル先生の合図と同時に、教室中で呪文が重なる。
カリンは杖を静かに持ち上げた。
サクラの杖が掌にしっとりと収まる。
意識を対象へ落とし込む。
木の細さ、重さ、形。
その先にある、変じた後の冷たい輪郭。
「ニードフォース」
短く落ちた声とともに、マッチ棒が淡い光を放った。
次の瞬間、そこにあったのは、銀色にきらりと光る一本の針だった。
「……!」
教室がざわつく。
誰かが息を呑み、マクゴナガル先生がわずかに目を見開く。
メガネを押し上げる仕草が、妙に印象的だった。
「見事です、ツキヨミさん。初回でここまで完成度の高い変化を見せる生徒は、滅多におりません。グリフィンドールに10点」
「ありがとうございます」
カリンは軽く頭を下げる。
その瞬間、強い視線を感じた。
顔を上げると、ハーマイオニーがじっとこちらを見ていた。
驚き。興味。言葉にしきれない何か。
まっすぐ向けられたその視線に、カリンの指先がわずかに揺れる。
わずかに視線を外し、「コホン」と咳払いをした。
***
授業が終わると同時に、隣から勢いよく体ごと向き直られた。
「すごかったわね、カリン! 呪文を唱えたの、一瞬だったじゃない!」
その目はキラキラしていて、けれどどこか落ち着かない。
興奮と、それを押しきれない何かが混ざっている。
「いや……あれでも結構ちゃんと集中してたよ」
「でも、わたしのは授業が終わる頃になんとか成功したってだけ。あなたのは完璧だったわ。本当にどうしてそんなに上手なの? 陰陽道の魔法って、やっぱり違うのかしら?」
言いながら、ハーマイオニーがぐいっと身を寄せる。
近い。
一瞬だけ言葉に詰まり、それでもどうにか返事をつなぐ。
「……っ、やり方が違うだけ、かも。“氣”の流れを整えて、対象の在り方を読むっていうか……そこに無理やり別の形を押しつけるんじゃなくて、少しだけ揺らして、変わる先を定める感じ」
「在り方を、読む……」
ハーマイオニーは頬に指を添えて、じっと考え込み始めた。
考えごとをする癖なのだろう。
ふとしたその仕草が、やけに可愛く見えて、カリンは思わず口元を緩める。
「そんなに真剣に考えなくても」
「だって、気になるもの」
「気になるって……」
「だって、本当に聞いたことない概念だもの。理解できたら面白そうじゃない」
きっぱり言い切る声音に、カリンはふっと息を漏らした。
「……ハーマイオニーなら、すぐコツを掴むと思うよ」
「ほんとに?」
さっきまでの勢いが少しだけ弱まった声だった。
カリンは、小さく頷く。
「ほんとに」
数秒、沈黙が落ちる。
それからハーマイオニーが、ふわりと笑った。
嬉しそうで、でも少しだけ照れたみたいな笑い方だった。
その表情を見た途端、カリンは一瞬だけ言葉をなくした。
「……カリン?」
「え、あ……いや」
遅れて視線を逸らす。
「次、移動でしょ。遅れるよ」
「あ、そうだったわ」
教室の外では、すでに生徒たちの足音が廊下を満たしていた。
その流れに混じって歩き出す。
移動教室のあいま、二人並んで歩くうちに、いつの間にか足取りが揃っていた。
幕間:日常の中の特別(ハーマイオニー・サイド)
ホグワーツの授業が始まってすぐ、私は自分がここでも“浮く”だろうことを、なんとなく感じていた。
どの授業でも私は一番に手を挙げ、先生が質問を言い終わる前に答える。
だってそれが“正しい”と思っていたし、そうすることで、私は自分の居場所を確かめたかった。
でも、周りの生徒たちは、だんだん私に距離を置くようになった。
「またか」と呆れたような視線が背中に刺さるたび、私はそれでも負けるものかと、ますます教科書を抱きしめた。
そんな中で、ツキヨミ・カリンは、全然違った。
授業中に平気で寝ている。星座の名前を聞かれて五行思想とかいう東洋の考え方を語り始め、先生を戸惑わせる。
規格外すぎて、正直最初は「何なの、この人……」って思った。
けど——
変身術の授業で、私の中の何かが、がらりと変わった。
***
マクゴナガル先生の前に置かれた小さなマッチ棒。
私は教科書の内容を必死に思い出しながら、杖を握っていた。
変身術は、理論も詠唱も難しい。
でも私は完璧にやってみせたかった。
自分の正しさを証明するように、指先まで神経を集中させていた。
そして、隣に座るカリンの方をちらりと見たとき——
彼女の気配が、まるで空気そのものと同化しているように感じた。
静かで、澄んでいて、それでいて底知れない。
彼女の黒髪が微かに揺れ、瞳が細められたその瞬間、なぜか私まで息を詰めていた。
「ニードフォース」
たった一言。なのに、その音が教室の空気を裂くように響いた。
次の瞬間、マッチ棒が銀色の針へと変わっていた。
綺麗だった。
私が知っている変身術の理論とは、まるで違う道筋で、同じ場所に辿り着いたように見えた。
驚いたのは私だけじゃなかった。
教室中が一瞬、息をのんだ空気に包まれていた。
「見事です、ツキヨミさん。初回でここまで完成度の高い変化を見せる生徒は、滅多におりません。グリフィンドールに10点」
マクゴナガル先生の言葉が、やけに遠く聞こえた。
私の心の中で、何かがざわついていた。
自分より先に、完璧にやってのけたカリンを見て、尊敬と、そして言葉にならない感情が、胸の中でぐるぐる回っていた。
彼女がこちらに視線を向ける。
その瞬間、なぜか息が詰まった。
けれども、すぐに逸らされる。
ほんの少しだけ、気が抜けたような気持ちになった。
***
授業が終わると、勢いよく身体ごと隣に向ける。
「すごかったわね、カリン! 呪文を唱えたの、一瞬だったじゃない!」
我ながら落ち着きがない。でも、それくらい衝撃だった。
「いや……あれでも結構ちゃんと集中してたよ」
「でも、わたしのは授業が終わる頃になんとか成功したってだけ。あなたのは完璧だったわ。本当にどうしてそんなに上手なの? 陰陽道の魔法って、やっぱり違うのかしら?」
カリンの目がすこし泳いだ。
「……っ、やり方が違うだけ、かもーー」
"在り方を読む"。"少しだけ揺らして、変わる先を定める"。
聞き慣れない概念に、つい頬に手を当てて考え込んでしまう。
カリンは、それを見てふっと笑った。
「そんなに真剣に考えなくても」
「だって、気になるもの」
「気になるって……」
「だって、本当に聞いたことない概念だもの。理解できたら面白そうじゃない」
胸の中で引っかかっていたものは、きっとそういうこと。
知的好奇心。理解したいという欲求。それだけのはずだ。
「……ハーマイオニーなら、すぐコツを掴むと思うよ」
「ほんとに?」
思わず聞き返してしまった。
少しだけ、声が小さくなったのを、自分でもわかった。
「ほんとに」
カリンも笑った。
けれど、そのあとほんの一瞬だけ、言葉が止まった気がした。
「……カリン?」
呼びかけると、彼女ははっとしたように視線を逸らす。
「え、あ……いや。次、移動でしょ。遅れるよ」
「あ、そうだったわ」
誤魔化すように歩き出すカリン。
けれど、それを深く考える前に、私はその背中を追う。
廊下を歩く間、私たちはとても自然に並んでいた。
足音のリズムがぴったりと合っているのがわかって、私は少しだけ横目で彼女を見た。
カリンは、ただまっすぐ前を見て歩いていた。
でも、なんとなく——
私の歩幅に合わせてくれている気がした。
(……そういうところ、ほんとに)
言葉にならないまま、その感覚だけが胸に残る。
でもそれが嫌ではなくて、気づかないふりした。
***
夕暮れの光が差し込む談話室。
高窓から漏れる茜色が、暖炉の炎と混ざりあって、部屋全体をやわらかな赤に染めていた。
グリフィンドール塔の空気は、授業の喧騒を終えたあと特有の静けさに包まれていて、私はその中にそっと身を置いた。
ふと視線を巡らせると——暖炉の前。
ソファの足元に広がるラグの上で、背を丸めている黒髪の少女が目に入る。
カリンだった。
彼女は魔法史の教科書を膝にのせていたけれど、ページをめくる指先には集中力の欠片も感じられなかった。
頬にかかる艶やかな黒髪が、彼女の整った横顔をやわらかく隠している。
まるで——読んでいるふりをしているみたいに、ただ活字を追っているだけの瞳。
(まったく、また適当なんだから)
私は、苦笑まじりにその後ろのソファに腰を下ろした。
「ねえ、カリン。宿題、あとまわしにすると、絶対に後悔するわよ?」
私の声に、彼女はゆっくり顔を上げた。
墨のような、でもどこか光を宿す灰色の瞳が、真っ直ぐ私を見つめる。
「えー……ハーマイオニーって、ほんと真面目だよね。魔法史の宿題にそんな本気出す人、あんまりいないと思うけど」
「当然でしょ。ちゃんとやることやってから、のんびりすればいいのよ」
「そっかぁ……うん、君が言うと、妙に説得力あるね」
くすっと笑うその声に、不意に胸の奥があたたかくなる。
でも次の瞬間、彼女は急に真顔になって言った。
「今日の変身術以降の授業、ハーマイオニーすごかったね。杖の動き、すごく綺麗だったし。魔力の通し方も透き通ってた」
その声には、いっさいの嘘がなかった。
心から私を見てくれている、そんな響きだった。
嬉しかった。けど——
その優しさが、なぜか少しだけ、苦しかった。
「……悔しかった、のかもしれない」
思わず、口からこぼれた。
言ってから、自分で驚いた。
けど、もう止まらなかった。
「ずっと、勉強では誰にも負けたくないって思ってたの。ちゃんと読んで、覚えて、努力して、そのぶん結果を出したかった」
暖炉の火が、静かに揺れた。
「……なのに、あなたはあっさり成功してしまうんだもの。すごいって思ったわ。でも、それと同じくらい……少し、悔しかった」
吐き出すたび、胸の奥で渦巻いていたものが、少しずつ形になっていく。
でもカリンは、怒るでも、戸惑うでもなく、ふっと微笑んだ。
「……それって、たぶん、すごく健全な気持ちだと思うよ」
「健全……?」
「うん。悔しいって思えるのは、それだけ真剣だった証拠だから。頑張ってる人しか、そんな気持ちにはなれないでしょ?」
その言葉に、胸の奥のざわつきが、少しだけほどけた気がした。
……気がつけば、カリンはラグの上で少し身体をずらし、ソファに背を預けていた。
手を伸ばせば触れられそうな距離。
暖炉の火が、彼女の黒髪を赤く染めて揺らしている。
(近い……)
そう思ったのに、なぜかすぐには目を逸らせなかった。
ただ、その横顔を見つめてしまう。
やわらかな火の色の中で、頬にかかる髪が揺れる。
それだけのことなのに、妙に目が離せなかった。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
結局そのまま、黙り込んでしまう。
静寂の中、聞こえるのは、ぱちぱちと燃える暖炉の音だけ。
それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。
***
天蓋のカーテンを引いたベッドの中。
私は目を開けたまま、天井の影を見つめていた。
(どうして、今日のことばかり思い出すんだろう)
変身術の教室でのカリンの姿。
迷いのない動き、正確な呪文。
そして——談話室での、あの距離。
尊敬しているのだと思う。
たぶん、話していて落ち着くのだ。
そう考えれば済むはずなのに、どこか引っかかった。
うまく言葉にできない。
考えようとすると、かえって分からなくなる。
それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
——明日もまた、話せたらいい。
——また隣で、あの声が聞けたらいい。
窓の外で風が揺れ、塔のどこかが小さく軋んだ。
ハーマイオニーはそっと寝返りを打ち、ようやく目を閉じる。
***
朝の光が、天蓋越しにやわらかく差し込む。
目を覚まし、眠気を抱えながら鏡に向かい、手早く髪を整える。
談話室に降りると、先に降りていたカリンが、ソファに腰を下ろしたまま、ぼんやりと欠伸をしていた。
黒髪はいつも通り寝癖ひとつなく、けれど瞼の重そうな顔つきだけが少し幼い。
その姿を見た途端、足が少しだけ止まる。
カリンが気配に気づいて顔を上げた。
「あ。おはよ、ハーマイオニー」
「あ……おはよう」
「朝ごはん、行く?」
ごく自然な調子だった。
特別な意味なんて何もなさそうな、いつもの声音。
それなのに、その一言だけで、胸の奥のざわつきがすっと引いた。
「ええ、行きましょう」
ハーマイオニーがそう答えると、カリンは立ち上がった。
並んで階段へ向かう。
昨日もこうして歩いた。明日もきっとこうして歩く。
それがいつの間にか当たり前になっていることに、まだ名前はつけられない。
けれど、悪くない、と思った。