秋が深まるにつれて、ホグワーツの石造りの校舎はいっそう冷たさを増していった。
なかでも地下の教室は別格だった。
分厚い石壁には朝から湿り気を帯びた冷気がまとわりつき、壁際の棚に並んだ無数の薬瓶や乾燥薬草が、ランプの火に照らされて鈍く光っている。
煮詰めた薬草の匂いと鉱石の粉の匂いが混ざり合った空気は、ひやりとしているのに妙に重かった。
そんな教室での魔法薬学の授業は、カリンにとって少しだけ特別だった。
スネイプの声は冷たく、視線は刃物のようで、教室に立つだけで生徒たちを縮こまらせる。けれど、その教えの芯はぶれない。
薬草の組み合わせ、鉱石の精製手順、月の満ち欠けに合わせた調合の時期――そうした細かな規則が絡み合って、一つの魔法薬が形になる。
その繊細な“型”は、どこか陰陽道の作法にも似ていた。
式を組み、流れを整え、力を定める。
扱うものが違うだけで、根の部分ではそう遠くない気がする。
だから嫌いではなかった。
「今日の課題は眠り薬だ」
スネイプの低い声が、教室の空気を静かに切った。
「基礎となるレシピは配布してある通り。だが、手順と分量を誤れば効果は変質する。二人一組で調合に取りかかれ。――組む相手は、各自で決めろ」
その言葉を皮切りに、教室がそわそわと動き出す。
カリンが顔を上げるより先に、隣から声がした。
「……一緒にやりましょう、カリン」
振り向けば、ハーマイオニーがすでにこちらを見ていた。
まっすぐな瞳はいつも通り意志が強い。
けれど今日は、その奥にほんの少しだけ、やわらかな色が混じっている気がした。
「うん。そうしよっか」
そう返すと、ハーマイオニーは小さく息をついて、わずかに口元を緩めた。
***
「……始め」
スネイプの号令と同時に、教室中で一斉に手が動いた。
まな板の上で薬草が刻まれ、金属器具がかすかな音を立てる。
鍋の底を火が舐め、淡い湯気が立ちのぼった。
その隣で、ハーマイオニーは早速、教科書通りに手順をなぞっていた。量りを正確に使い、寸分の迷いもなく薬草を刻んでいくその姿は、魔法使いというよりも職人のようだった。
(相変わらず、几帳面すぎ)
カリンはちらりと横目で彼女を見た。
ハーマイオニーの柔らかな癖毛が、ふとした拍子に頬へとかかる。
真剣な表情。軽く噛んだ唇。
無意識に視線が止まっていたことに気づき、すぐに自分の手元へ戻す。
さて、とカリンは指先で乾燥した根をつまむ。
このレシピ——正直、効能が薄い気がする。
〈眠り薬〉という触れ込みだが、材料の組み合わせがどうにも淡泊だ。
陰陽道では、薬草や鉱物の“気”の流れを重んじる。
何をどう混ぜるかだけではなく、どこで力を交わらせ、どこで鎮めるか。そのほうが、薬の性質は素直にまとまる。
(……少しだけ、変えてみるか)
鍋の上でわずかに材料の順番を組み替えた。
火加減もほんの少し落とす。材料同士の気配がぶつからないように、静かに馴染ませていく。
右手に持った杖を鍋へ向け、式を書くようにごく小さく魔力を流した。
淡かった香りが、そこでわずかに深く変わる。
「カリン」
すぐ横から、はっきりした声が落ちてきた。
見ると、ハーマイオニーが目を見開いてこちらを覗き込んでいた。驚きと興味が綺麗に混ざった目だった。
「今、レシピと違うことをしたでしょう」
「あー……うん。ちょっとだけ」
「ちょっとって……順番も火加減も違ったわ。どうして?」
身を乗り出すように問われて、カリンは一瞬だけ言葉に詰まる。
「西洋の教科書だと、材料の効能と手順を分けて考えることが多いけど、日本だともう少し流れで見るんだよ」
「流れ?」
「薬草も鉱石も、それぞれ少しずつ気配が違うから。強いもの同士をぶつけると効き目は出るけど、眠り薬なら、自然に沈むように落ちたほうがきれいなんだよね」
自分でも驚くくらいスラスラと口が動いた。
たぶん、熱心に聞いてくれるからだ。
「……それって、陰陽道の考え方?」
目が合った。
まっすぐな瞳が、ランプの火を映して小さく揺れている。
カリンはほんの一拍固まり、それから誤魔化すように視線を落とした。
「……まあ、そんな感じ」
するとハーマイオニーは、すぐに自分の鍋へ目を戻した。
けれどその動きは、さっきまでより少し慎重だった。
しばらくして、彼女の手元にわずかな迷いを感じた。
視線を落とすと、刻んだ薬草の大きさにばらつきがある。
煮込みの色も、どこか落ち着かない。
(あー……これじゃ、効き目が拡がらないな)
「その材料、もう少し細かく切ったほうがいいよ。煮え方にムラが出てる」
「えっ」
「あと、混ぜるのは反時計回りに三回。そっちの方が流れが揃う」
ハーマイオニーはすぐに頷き、木べらを持ち直した。
「こう?」
「うん、そう。もう少しゆっくり」
真剣な顔で言われた通りに鍋をかき混ぜるその横顔に、カリンはなぜか視線を外しそびれる。
熱心に理解しようとしている顔。
少し寄せられた眉。何かを掴もうとするまっすぐさ。
「……ありがとう、カリン」
不意に向けられた声に、はっとする。
「わかりやすいわ」
「そりゃ、どうも」
短く返して自分の鍋に向き直る。
鍋の中で、泡がひとつ静かに弾けた。
***
授業の終盤。
スネイプは教室をゆっくりと巡りながら、生徒たちの鍋をひとつひとつ覗き込み、冷酷な声で評価を下していた。
「ロングボトム、それは一体何を作っているつもりかね?吐瀉物か?」
「パーキンソン、色が全く違う。教科書をきちんと読んでいるのかね?」
冷えた声が教室の空気をいっそう凍らせていく。
生徒たちは息をひそめ、鍋の中身から目を逸らす者すらいた。
やがて、黒いローブの裾がカリンたちの机の前で止まった。
彼の視線が鍋の中を覗き込むと、その顔がわずかに動いた。
他の生徒の薬が濁り、泡立ち、分離している中で、カリンの鍋の中身は異彩を放っていた。
澄んだ琥珀色に光る液体が、とろりと均一に揺れている。
魔法薬とは思えないほどに整ったそれは、静かに光を湛えていた。
スネイプは眉をひそめる。
「……ツキヨミ。これは?」
「指定された『眠り薬』です」
カリンは落ち着いた声で答えた。
言葉は丁寧だが、どこか肩の力が抜けた口調。
「材料の性質を考慮して、レシピの配合を少し変更し、材料の持つ効果を最大限に引き出すように工夫しました」
スネイプは言葉を返さず、鍋の中の薬をじっと見つめた。
空気がぴんと張り詰め、教室全体が一瞬、静まり返る。
やがて、彼はわずかに口元を吊り上げる。
それは、スネイプという男にしては極めて珍しい表情だった。
「……なるほど。手順を無視した点は看過できんが……」
低く、よく通る声が教室に響いた。
「だが、発想力と結果には目を見張るものがある。今回は……特別に減点はしないでおこう」
教室にざわめきが広がった。
ロンは口を開けたまま目を丸くし、ハリーが驚いたように眉を上げる。ネビルは肩を落として鍋を見つめたまま、ため息をついていた。
カリンは軽く頭を下げ、そのまま片付けに取りかかった。
***
授業が終わり、生徒たちが地下室の薄暗い通路をぞろぞろと出ていく中、スネイプの声が静かに響いた。
「ツキヨミ。少し残れ」
カリンの肩がぴくりと揺れる。
隣でハーマイオニーが振り返った。
何か言いたげな顔だったが、ここで口を挟める相手ではないと分かっているのか、不安そうな目だけをこちらに向ける。
「大丈夫。先行ってて」
軽く手を振ると、ハーマイオニーは少しだけ躊躇してから、小さく頷いて教室を出た。
(……やっぱり説教かな)
気まずさを紛らわすように息をつきながら、カリンは教室の奥へと足を向ける。
部屋の片隅、薬棚に囲まれた空間で、スネイプは何かの器具を片付けながら、ふとカリンに目を向けた。
「貴様のあの調合方法……どこで学んだ?」
カリンは少し考えたあと、素直に答える。
「陰陽道です。万物の『気』の流れを読む考え方で、魔法薬も結局は魔力の流れを整えるものですから」
その答えに、スネイプの目がわずかに細まった。
「……ツキヨミ」
低く呟くような声。
ほんの一瞬だけ、何かを思い出すような間があった。
「なるほど。それであの調合か」
視線が再び鍋へと落ちる。
「手順を外してなお成立させるか。理屈が通っている以上、偶然ではないな」
カリンは小さく肩をすくめる。
「材料の性質をそのまま使っただけです」
「“だけ”で済ませるには、出来すぎているがな」
スネイプは鼻で短く息を吐いた。
「貴様の魔法は、西洋式の枠に収まっていない。……面白い。
……それにしても、スリザリンに入らなかったとはなんとも不可解だ」
カリンは少しだけ口元を引き結んだ。
「グリフィンドールのほうが、なんとなく居心地がよかったので」
スネイプはそれを“皮肉”と取ったのか、鼻で笑った。
「貴様の調合は独創的だ。だが単なる思いつきではない。理にかなっている。感覚でやっているのなら、それは“勘”ではなく――魔法構築の才だ」
言葉の端に、珍しく評価の色が混じっていた。
「放課後、研究室に来い。座学だけでは身につかん技術を教えてやろう。本気で力を求めるなら、だが」
その言葉に、思考が一瞬止まる。
(……スネイプ先生が、わざわざ?)
冷徹で有名な教授からの、まさかの申し出。
魔法の深淵に触れる機会が、こんなにも唐突にやってくるとは思わなかった。
けれど、すぐには頷けなかった。
頭の隅に、さっきまでの授業の余韻が引っかかった。
隣から向けられた真剣な視線が、なぜか妙に残っている。
けれど、それが何なのかは自分でもうまく掴めない。
「……ありがとうございます」
考えをまとめきれないまま、カリンはそう言った。
「少し、考えさせてください」
スネイプは意外そうに眉を動かしたが、すぐに鼻を鳴らした。
「好きにしろ。だが機会はそう何度も待ってはやらん」
「肝に銘じます」
「もう行け」
***
地下教室を出ると、少し離れた通路の先でハーマイオニーが待っていた。
姿を見つけるなり、彼女はほっとしたように小走りで近づいてくる。
「カリン、大丈夫だった? 叱られたり……?」
「んー、逆。ちょっとだけ褒められた」
軽く肩をすくめて答えると、ハーマイオニーは意外そうに目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「そう……なら、よかったわ」
その言葉を聞いて、胸の奥の引っかかりが少しだけほどけた気がした。
「……じゃあ、図書館行こうか」
「えぇ!」
自然と並んで歩き出す。
歩くたびに肩が触れそうで触れない距離。
いつもの距離だった。
***
放課後の図書館は、人気がまばらだ。
重たく閉ざされた魔法書の背表紙が並ぶ棚の間には、静寂だけが満ちていた。
(……落ち着くな)
この場所は好きだった。
言葉少なに本をめくる音だけが支配する空間。
誰も大きな声を出さず、「静かでいること」が当然とされる、淡い敬意に満ちた雰囲気。
冷たい石壁の匂いと、紙とインクの香りが、日本での自分を少しだけ思い出させてくれる気がした。
「こっちの机、どうかしら?」
ハーマイオニーが、小声で問いかけてくる。
窓辺からは離れているが、落ち着いた隅の席だった。
「うん。ちょうどいい」
カリンはうなずいて椅子に腰かけた。
隣ではすでに彼女が教科書や羽根ペン、インク壺をきちんと並べている。
「まずは呪文学の宿題からね。動詞の活用と呪文の分類、ちゃんと整理しておいたほうがいいわ」
「了解」
そう返しながらも、視線を横に向ける。
集中しているときのハーマイオニーは、少しだけ唇に力が入る。
羽根ペンを持つ指先は細く、でも迷いがない。
ときどき小さく眉を寄せ、納得するとすぐにほどける。
しばらく見続けたことに気づいて慌てて視線を落とす。
けれど一度意識してしまうと、隣の気配がやけに近く感じられた。
紙とインクの匂いに混じって、どこか清潔な香りがかすかに残る。
気をそらすように、自分のノートを取り出す。
黒革の表紙をした、使い込まれた一冊だった。
そこには独学で整理した陰陽道の基礎が記されている。
式神の召喚構図、符術の展開、魔力の流れの簡略図。
頭の中にあるものを、手で確かめるための記録だ。
ぱら、とページをめくった音に、隣の気配が動いた。
「それ……この前の変身術のときに言っていたもの?」
「うん。ごく基本的なやつだけど」
軽く答えながら、彼女にも見えるようにノートを傾ける。
「見てもいいの?」
ハーマイオニーの瞳が、ぱっと明るくなる。
「もちろん。ただ、ちょっとわかりにくいかも」
「そんなの、ぜんぜん構わないわ。すごく興味あるもの」
そう言うと、彼女はためらいもなく椅子を引き寄せ、ノートを覗き込んだ。
一気に距離が縮まり、肩と肩が触れる。
(……近い)
思わず背筋がわずかに伸びる。
けれどハーマイオニーは、そんなことには気づいていないらしい。
「これは……術式の中心に魔力を集めて、外側へ循環させる仕組み?」
「そう。こうすると、術の安定性が上がるんだよ。杖の魔法でも似てるところはあると思う」
「本当に合理的ね……」
ハーマイオニーが真剣な顔でノートに見入っている。
その横顔が視界の端に映るが、カリンは構わず説明を続けた。
ふと、棚の影を通りかかったマダム・ピンスが、こちらをちらと見た。
何か注意するのかと思ったが、二人の様子をひと目見ただけで、何も言わずに通り過ぎていった。
「……ねえ、カリン」
「ん?」
「こうして一緒に勉強できるの、いいわね」
視線を上げると、ハーマイオニーは少しだけ照れたように笑っていた。
「わたし、今までこういうふうに何かを見せ合うのって、あんまりなかったの」
その声には、わずかな寂しさが混じっていた。
胸の奥に、さっきとは違う感覚が残る。
「……まあ、ひとりでやるよりは楽かも」
ぽつりと出たのは、それだけだった。
もう少し別の言い方があった気もしたが、うまく形にならない。
それでもハーマイオニーは、その答えにふわりと目を細めた。
「ふふ。それならよかった」
その笑い方に、カリンはわずかに視線を逸らす。
落ち着かず、頬のあたりを少しかく。
そのとき、図書館の奥で鐘が鳴った。閉館が近いことを告げる音だった。
「もうそんな時間。そろそろ行かなきゃ」
ハーマイオニーがノートから目を上げる。
「そうだね」
カリンも席を立ち、並んで図書室を出る。
足音が二人分、石畳に静かに重なった。
しばらく無言で歩いていると、不意にハーマイオニーが口を開いた。
「ねえ、明日の放課後も……もし時間があったら、一緒に勉強しない?」
カリンは一瞬だけ目を瞬く。
けれど次には、もう頷いていた。
「……いいよ」
それだけ返すと、ハーマイオニーは少しだけ嬉しそうに笑った。
誰もいない廊下に、ふたり分の足音だけが響いていた。