ホグワーツの朝は冷たく澄んでいて、石造りの窓の向こうには、すでに冬の気配がうっすらと見えていた。
だというのに、大広間の中はいつもより少し浮き立っていた。
あちこちで飛び交うのは、今日の飛行訓練の話題だ。
箒に乗れるのを楽しみにしている者もいれば、あからさまに不安そうな顔をしている者もいる。
新入生たちの声は普段より少し高く、落ち着きなく跳ねていた。
カリンは欠伸を噛み殺しながら、ベーコンをパンに挟んだ。
「今日は飛行訓練よ」
隣から落ちてきた声に、半分眠っていた意識が少しだけ浮上する。
顔を向けると、ハーマイオニーがいつものように分厚い本を抱えたまま、まっすぐこちらを見ていた。朝から髪も制服もきっちり整っていて、眠気の欠片もない顔をしている。
「魔法省の安全基準に沿った実技になるんですって。教本、ちゃんと読んできた?」
「んー……読んでない」
カリンは正直に答えた。
「箒は、乗ってみればなんとかなるでしょ」
「もう……」
案の定、ハーマイオニーが眉を寄せる。
「飛行には理論も大事なのよ。風向き、魔力の流れ、体勢によって浮力が変わるんだから。少なくとも基本くらいは読んでおくべきだと思うわ」
「はーい…」
気のない返事をしながら、カリンはパンを口へ運ぼうとする。
そのときだった。
「ちょっと、失礼」
「……え?」
返事を待たず、ハーマイオニーの指先がふいに伸びてきた。
跳ねていた前髪をすくい上げる。
額のあたりで乱れていた髪を整えるように、そっと撫でつける。
ほんのわずかな仕草なのに、急に距離が近くなる。
カリンは目を瞬いた。
指先が額をかすめそうなほど近い。
朝の冷えた空気の中で、その指先だけがやけにあたたかく感じられた。
「ふふ。今日は寝癖、すごいわね」
ハーマイオニーが小さく笑う。
カリンは何か言おうとして、うまく声が出なかった。
こんな近さは、今までにもあったはずだった。
袖を引かれたことも、腕を掴まれたこともある。
肩が触れることだって、もう珍しくはない。
なのに、今日は妙に落ち着かなかった。
額をかすめた感触が、離れたあともそこに残っている気がする。
「……これで、少しはマシになったと思うわ」
ハーマイオニーがわずかに身を引き、どこかぎこちなく言った。
よく見れば、彼女の頬もほんのり赤い。
「……ん」
やっとそれだけ返して、少し遅れて、
「ありがと」
と、小さく付け足す。
ハーマイオニーは一瞬だけ目を見開き、それからふっとやわらかく笑った。
その笑顔をまともに見ていられなくて、カリンは視線をパンへ落とした。
ちょうどそのとき、ふくろう便が届いた。
羽音が頭上で重なり、テーブルのあちこちに手紙や小包が落ちていく。
ネビルが、届いたばかりの思い出し玉を嬉しそうに掲げていた。
白い煙のようなものが中で揺れている。
カリンは特に気にせず、今度こそベーコンと目玉焼きを挟んだパンをかじる。
「……ねえ、それ落ちるわよ」
ハーマイオニーが呆れたように言いながら、パンの端を指先で支えた。
「ん、ありがと」
ほんの一瞬だけ指先が触れて、どちらともなく手を離す。
そのとき、背後でざわりと空気が揺れた。
「貸せよ」
気づけば、マルフォイがネビルのそばに立っていた。ネビルが慌てて手を引くより早く、思い出し玉をひったくる。
ハリーとロンが弾かれたように立ち上がった。
ぴんと張る空気。
そんな一触即発の空気を壊したのはカリンだった。
「おー、マルフォイ。おはよう。マクゴナガル先生がこっち見てるぞ」
マルフォイの目が細くなる。一瞬だけ、あからさまに胡散臭そうな顔をしたが、それでも視線だけはそちらへ流した。
「……やあ、カリン。少し見ていただけだ。くだらない騒ぎに付き合う暇はないんでね」
そう言い残し、思い出し玉をひらりと放ってネビルへ返すと、そのままクラッブとゴイルを従えて離れていく。
ハリーとロンは肩透かしを食らったように顔を見合わせた。
「教えなければ、マクゴナガル先生が減点してくれたかもしれないのに」
ロンが不満そうに言う。ハリーは苦笑した。
「マクゴナガル先生のことだ。きっと喧嘩両成敗だろ」
カリンは肩をすくめて立ち上がった。
「……今の、わざと?」
隣で同じように席を立ったハーマイオニーが、小さな声で言った。
「んー、半分くらい?」
「もう……あなたって人は」
ため息交じりの声だったが、口元は少しだけ緩んでいる。
一瞬、目が合う。 けれどハーマイオニーはすぐに視線を逸らしてしまった。
カリンも何も言わず、そのまま彼女と並んで大広間を出た。
***
飛行訓練場には、冷たい風が吹いていた。
芝生の上にずらりと並べられた箒の前に、グリフィンドールとスリザリンの一年生たちが二列に並ぶ。
朝の浮き立った空気はそのままだったが、実際に箒を前にすると、誰もが少し緊張しているようだった。
マダム・フーチが鋭い金色の目で生徒たちを見渡す。
「さあ、箒の右に立って。『上がれ』と言えば、箒が手に飛んでくるわよ」
合図とともに、一斉に生徒たちの声が飛ぶ。
カリンは自分の箒を見下ろした。
「上がれ」
短く声を落とす。
すると、まるで呼ばれるのを待っていたかのように、箒がすっと掌の中へ飛び込んできた。
一方で、周囲は苦戦していた。
ロンは何度目かの「上がれ」でようやく箒を浮かせ、ネビルは足を踏まれたみたいな顔で箒を睨んでいる。
そして隣では――
「上がれ……上がって……いえ、上がりなさい!」
ハーマイオニーが真剣な顔で箒に命じていた。
だが箒はぴくりとも動かず、芝の上で寝転がったままだ。
カリンは思わず口元を押さえる。
「……意外」
「笑わないで」
即座に返ってきた声は、少しだけむきになっていた。
「魔法には理屈があるの。なのに、これはなんだか“勘”で動かすみたいで……苦手なのよ、こういうの」
たしかに、とカリンは思う。
箒は杖の魔法みたいに、綺麗な理屈だけでは従ってくれない。
持つ側の重心や気配まで見ているようなところがある。
「力入りすぎなんじゃない?」
「入ってないわ」
「入ってるよ」
ハーマイオニーが不服そうに眉を寄せる。
その顔が妙に子供っぽくて、カリンはまた少し笑いそうになる。
「ほら、肩」
言いながら、彼女のすぐ後ろに回り込む。
「上がらせようとしすぎると、逆に逃げる。もっと自然でいい」
そう言って、ハーマイオニーの手元を覗き込む。
指先の位置を軽く示すように、自分の手をその隣へ並べた。
距離が近づいたせいか、ハーマイオニーの呼吸が一瞬だけ乱れる。
「……近いわよ」
小さな声でそう言われて、カリンは一拍遅れて自分の位置に気づいた。
「そう?」
とぼけたように言って、半歩だけ下がる。
「じゃあ、このまま頑張って」
「そういう意味じゃなくて……っ」
言いかけて、ハーマイオニーが口をつぐむ。
頬がほんのり赤くなっているのを見て、カリンはそれ以上何も言わなかった。
「肩の力抜いて。柄を掴むんじゃなくて、手を置く感じで」
「……こう?」
「うん。そのまま」
ハーマイオニーは小さく息を吸って、もう一度箒へ向き直る。
「あ、上がれ」
その瞬間、箒がふわりと跳ね上がって、彼女の手の中に収まった。
「やった……!」
思わずこちらを振り向いたハーマイオニーの顔が、予想より近くにあった。
一瞬、互いに動きが止まる。
カリンは先に視線を逸らした。
「……よかったじゃん」
「え、ええ……ありがとう」
ハーマイオニーも慌てたように箒を握り直す。
耳まで赤くなっているのが見えて、カリンは咳払いでごまかした。
そのときだった。
「うわあああっ!」
鋭い悲鳴が、訓練場の空気を引き裂いた。
見ると、ネビルが箒にしがみついたまま、ぐんぐん上空へ持ち上げられていた。
制御できないまま左右にぶれ、今にも振り落とされそうになっている。
「ロングボトム! しっかり掴まりなさい!」
マダム・フーチの笛の音が響く。
だが次の瞬間、ネビルの手があっさりと柄から滑った。
「あっ——」
その声が最後まで形になるより早く、カリンの身体は地面を蹴っていた。
まるで重力が存在しないかのような滑らかさで空を駆ける。
空気の流れ。風の重み。重心の傾き。
落ちてくるネビルの身体。
それらすべてを、肌で、呼吸で、まるで“気”を読むように掴み取る。
迷う余地はなかった。
ぐっと身を伏せ、ネビルの落下軌道に重なるように滑り込む。
重力に逆らわず、共に落ちながら、その身体を懐へと引き寄せた。
「大丈夫。力抜いて」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
そのまま大きく弧を描くように減速し、芝の上へ降り立つ。
ネビルの足が地面についた瞬間、訓練場全体が一拍遅れてどよめいた。
「な、何今の……」 「すご……」 「一年生で、あんな飛び方……?」
ざわめきが一気に広がる。
フーチが慌てて駆け寄ってきた。
「ロングボトム! 大丈夫ですか?どこか痛みは?」
ネビルは真っ青な顔でうなずくだけだった。
フーチはほっと息をつくと、今度はじっとカリンを見る。
「……あなた、名前は?」
「ツキヨミ・カリンです」
「……なるほどね。あの飛び方、一年生とは思えなかったわ。何か特別な訓練でも?」
「まあ、ちょっと身体の使い方を覚えてて……風の読み方とか、重心の扱い方とか」
「……ふうん」
フーチは深く追及せず、ネビルの様子に目を戻す。
「念のため医務室へ連れていきます。その間は誰も箒に乗らないように。さもないと、退学処分になりますから」
そう言い残し、泣きじゃくるネビルを連れて足早に去っていった。
残された生徒たちはまだ興奮冷めやらぬまま、カリンへ視線を向けていた。
とくに何人かの女子は、目を輝かせたまま近寄ってくる。
「ねえ、今のすごかった!」 「どうやって飛んだの?」 「あとで教えてくれない?」
「いや、別に大したことじゃ――」
言いかけて、視界の端にハーマイオニーの姿が映った。
少し離れた場所に立っている。
さっきまで呆気に取られたように見上げていたのに、今はどこか面白くなさそうに口を引き結んでいた。
近づいてくるでもなく、視線だけが何度もこちらへ戻ってくる。
カリンは一瞬だけ首をかしげる。
その時だった。
マルフォイが、地面に落ちていた何かを素早く拾い上げる。
――ネビルの思い出し玉だった。
「見ろ、ロングボトムのだ」
マルフォイはそれを片手で弄びながら、クラスの中央へ出てくる。
高慢な笑み。
スリザリンの何人かがくすくす笑った。
「ロングボトムには必要なさそうだ。どうせ忘れるだけだろう?」
スリザリンから笑いが巻き起こる。
ネビルのいないところでそれをやるあたりが実に腹立たしい。
カリンが眉を寄せた、そのとき。
「返せよ、マルフォイ」
先に前へ出たのはハリーだった。
静かな声だったが、芯があった。
マルフォイがにやりと笑う。
「そうだな……見つけやすいよう、木の上にでも置いておいてやるよ」
「マルフォイ!」
ハリーが一歩踏み出す。
マルフォイはそのまま箒にまたがり、軽々と空へ舞い上がった。
「取りたきゃ取ってみろよ!」
その挑発に、ハリーの怒りは一気に燃え上がる。
迷わず箒にまたがった。
「ダメよ、ハリー! 先生の言いつけを守らないと、退学になるわ!」
だがハリーはもう止まらなかった。
箒に飛び乗り、そのまま地面を蹴る。
一人で追うのは危ない、と身体が先に判断していた。
だが、その瞬間。
袖を強く引かれた。
「カリンまで!行っちゃダメ!」
振り向くと、ハーマイオニーが必死の形相でカリンの腕を掴んでいた。その瞳は潤み、今にも泣き出しそうだった。
「……」
その顔を見た瞬間、カリンの動きが止まる。
飛ぶつもりだった。
けれど、この顔をさせてまで飛ぶ理由が見つからなかった。
舌打ちを一つして、しぶしぶ箒から手を離した。
空ではハリーが見事なダイブを決め、思い出し玉を空中で掴み取っていた。
歓声とブーイングが同時に起こる。
「信じられない。規則破りにもほどがあるわ。危険行為よ」
ハーマイオニーは眉をひそめて厳しい口調で言った。
けれど、その瞳が明るく揺れているのを、カリンは見逃さなかった。
ハリーの姿を見つめるその瞳は、さっきまでとは少し違って見え、カリンはわずかに眉をひそめる。
ハリーを見上げるその横顔が、なぜか妙に引っかかった。
***
その夜、グリフィンドールの談話室はやけに騒がしかった。
ハリーが思い出し玉を取り返した一件で、すっかり英雄扱いされているのだ。
さらにマクゴナガル先生に呼ばれ、クィディッチチーム入りまで決まったとあって、上級生まで浮き足立っていた。
「一年生でシーカーだなんて!」 「見た? あの急降下!」 「すごかったよな!」
歓声の中心で、ハリーは照れくさそうに笑っている。 ロンは興奮冷めやらぬ顔でその隣にいた。
ロンがふと、カリンの方を見て言った。
「そういえば、カリンのネビル救出もすごかったのに、なんでお前はシーカーに選ばれないんだ?」
「別にいいよ。面倒だし」
間髪入れずに返すと、ロンは「もったいねえ」と首を振った。
その横で、ハーマイオニーがほんの一瞬だけほっとした顔をしたのが見えた。
なぜほっとしたのか、カリンには分からなかった。
これ以上は巻き込まれたくなかったカリンは一人、暖炉の前のソファに沈みこむ。
暖炉の火をぼんやりと眺める。
暖炉の音が、ぱちぱちと小さく弾ける。
周囲のざわめきは耳には入っているはずなのに、なぜか遠い。
「……おつかれさま」
やわらかな声が落ちてきた。
顔を上げると、ハーマイオニーがティーカップを差し出していた。
湯気の立つ香りが鼻先をくすぐる。
カリンは少し瞬いてから、それを受け取る。
「ありがと」
ハーマイオニーは小さく笑ったが、どこかまだぎこちなかった。
「飛びたかったんでしょう?」
「……ん?」
「昼間。ハリーを追いかけるつもりだったじゃない」
カリンはカップの縁を見つめたまま、少し黙る。
本当はそうだった。
あのまま飛ぶつもりだったし、たぶん追いつけただろうとも思う。
けれど。
「……あんた、すごい顔してたから」
ぽつりと零した声に、ハーマイオニーが目を見開く。
「え……?」
「止めるとき。なんか、すごい必死だった」
カリンは視線を紅茶へ落としたまま続ける。
「それ見たら、まあ……いいかって」
うまく言葉にできた気はしなかった。
けれど、嘘でもなかった。
ハーマイオニーはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ俯く。
「……そう」
小さな返事だった。
二人のあいだに沈黙が落ちる。
それでも、どちらも席を立とうとはしなかった。
談話室のざわめきはまだ続いているのに、ここだけ切り離されたみたいに静かだった。
「ありがとう」
かすかな声が、はっきりと耳に届いた。
カリンはティーカップを持つ指先に、わずかに力を込める。
「……紅茶、冷めるよ」
「ええ」
ハーマイオニーが頷く。
その横顔を見ていると、さっきから胸の奥に残っていた妙なざわつきが、少しだけ静まる気がした。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
幕間:ハーマイオニー・サイド
ベッドに入ってふと思い出す。
カリンが空を飛んだとき、息が止まったこと。
箒にまたがるカリンの姿。
風を読み、重力を味方にするような動き。迷いのない身体の使い方。
美しかった——。魔法の技術だけじゃない。
鳥のように空を駆ける姿が目に焼き付いて離れない。
でも、そのあとが問題だった。
女子たちがカリンの周りに集まっていく。
「すごい」「教えて」「どうやったの」
きらきらした目で見上げる顔、顔、顔。
別に、いいのだ。
すごかったのは事実だし、注目されるのは当然だ。
……なのに、面白くなかった。
自分でも理由が分からなくて、少し離れた場所から見ているしかなかった。
それから、ハリーが飛んだとき。
ハリーは止められなかった。
「ダメよ」と言ったのに、ハリーは聞かなかった。
しかも、カリンも飛ぼうとした。
あのとき、考えるより先に手が動いていた。
カリンの袖を掴んで、「行っちゃダメ」と叫んでいた。
自分でも驚くほど必死な声だった。
ハリーのときは「ダメよ」と言っただけだったのに、カリンのときは身体ごとしがみついていた。
その違いに、あとから気づいた。
——そして、カリンは止まった。
舌打ちをして、箒から手を離した。
ハリーは聞かなかったのに、カリンは止まった。
その事実が、胸の中でぐるぐる回っている。
嬉しいのか、申し訳ないのか、それとも別の何かなのか。
うまく整理できない。
談話室で紅茶を渡したときもそうだ。
「あんた、すごい顔してたから。それ見たら、まあ……いいかって」
あの言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
泣きそうになった。
理由は分からない。
ただ、「あの人が私の言葉で止まってくれた」という事実だけが、やけに大きくて、重くて、あたたかかった。
……これは、たぶん、友達だから嬉しいのだ。
大事な人が無茶をしなくて、ほっとしたのだ。
そういうことにしておく。
でも、ベッドに入って目を閉じても、なかなか寝付くことはできなかった。