賢者の石と黒髪の騎士   作:krn

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第七章:夜の廊下と三つの眼

 

夜のグリフィンドール談話室は、暖炉の火がかすかに揺らめくだけだった。

 

赤い火の名残が、丸い部屋の壁やソファの縁をぼんやりと撫でている。昼間の喧騒が嘘のように静かで、時計の針が進む音さえ聞こえてきそうだった。

 

その心細い明かりのなかで、ハーマイオニーはソファの端に膝を抱えて座っていた。誰もいない階段の影を、じっと見つめている。

 

普段なら、とっくにベッドへ入っている時間だった。

 

暖炉の向かいで本を開いていたカリンは、ページをめくりながらも、ときおり視線だけはそちらへ流れていた。

 

「まだ寝ないの?」

 

声をかけると、ハーマイオニーははっとしたように瞬きをした。

 

「……眠れないの」

 

返ってきた声には、苛立ちと不安が入り混じっていた。

 

「ハリーたちがまた馬鹿なことをしないかと思うと」

 

昼間の騒ぎが脳裏をよぎる。

マルフォイの決闘の挑発に、ハリーとロンが乗ったこと。

あの二人なら、言い出した以上、本当に行く可能性は高い。

 

(……大げさだな)

 

そう思う。思うのに、否定しきれない。

 

カリンは小さく息をついた。

自分だって、何も起きないとは思っていないからだ。

 

だからこうして、まだ起きている。

 

暖炉の薪が、小さくぱちりと音を立てた。

 

ハーマイオニーはまた視線を階段の影へ戻す。

指先だけが、膝を抱く力を少しずつ強めていた。

 

***

 

しばらくして、談話室の空気を乱さないように、ひそやかな足音が階段を下りてきた。

 

ハリーとロンだった。

 

二人とも靴音を殺し、肖像画の穴へ向かおうとしている。

 

ハーマイオニーは、ぱっと立ち上がった。

 

「ハリー! ロン!」

 

静かな部屋に、その声は思った以上に響いた。

 

「今からどこへ行くつもり? そんな馬鹿な真似、絶対に許さないわよ!」

 

ロンがぎょっとした顔で振り向く。次の瞬間には、むっと眉を寄せた。

 

「関係ないだろ。ベッドに戻りなよ」

 

「関係ないわけないじゃない!」

 

ハーマイオニーは一歩も引かない。

 

「また寮の減点になるのよ? それに、決闘なんて——」

 

「しっ」

 

ハリーが苛立ったように唇の前へ指を立てたが、もう遅かった。

 

「とにかく、放っておいてくれ」

 

低く言って、二人はそのまま肖像画の穴へ向かう。

 

「放っておけるわけないでしょ!」

 

ハーマイオニーも勢いよく後を追った。

肖像画がばたんと閉まる音がする。

 

「おいおい……」

 

カリンは眉を寄せ、本を閉じた。

 

……放っておけばいい。

どうせ、ハリーもロンも自業自得だ。

ハーマイオニーだって、自分で飛び出していったのだから。

 

そう思いながらも。

気づけば、カリンも立ち上がっていた。

 

***

 

肖像画の穴を抜けた先の廊下は、夜の冷気に沈んでいた。

 

カリンが外へ出た直後、背後で肖像画がばたんと音を立てて閉まる。

 

振り向くと、太った婦人の姿はどこにもなかった。

合言葉を聞いてくれるはずの肖像画は空っぽで、ただ閉ざされた入口だけが目の前にある。

 

「あなたたちのせいで、戻れなくなったじゃない!」

 

ハーマイオニーの声が、怒りと困惑で少し上擦った。

 

「知ったことかよ!」

 

ロンもつい声を荒げる。

 

「そもそも、なんでお前たちまでついてくるんだ!」

 

「そっちこそ! こんな夜中にうろつくなんて、信じられないわ!」

 

噛みつくように言い返した、その瞬間。

 

遠くから、「ニャー」と甲高い猫の声が響いた。

続いて、石床を擦るような足音。

 

誰もが息を呑んだ。

フィルチだ。

 

ハリーが小さく舌打ちした。

 

「ケンカしてる場合じゃない」

 

低い声だったが、よく通った。

 

「ここで騒いでたら本当に見つかる。行くなら行く、今はそれだけだ」

 

その一言で、場がわずかに静まる。

 

「……もう、どうにでもなれって気分だわ」

 

その呟きは、普段の彼女らしくないほど弱かった。

 

カリンは自然と歩み寄った。

ぶつからないように、けれど離れすぎない距離で止まる。

 

よく見ると、ハーマイオニーの肩が、小さく震えていた。

 

――強がってはいても、平気なわけではないらしい。

 

「仕方ない」

 

そう言って、右手で印を結ぶ。

 

次の瞬間、カリンの影の輪郭がふっと揺れた。

そこから現れたのは、銀色の毛並みを持つ小さな狐だった。

 

狐は音もなく床へ降り立つ。

丸い耳をぴんと立て、琥珀色の目で一度だけカリンを見上げた。

 

「……お願い」

 

小さく囁くと、狐は一声だけコォンと鳴いた。

 

その声と同時に、墨色の霧がふわりと広がる。

薄い煙のようなそれは四人の足元から這い上がり、頭まで静かに包みこんだ。

 

音が遠のく。 空気の輪郭が曖昧になる。

まるで、この場からほんの少しだけずれたような、不思議な感覚だった。

 

ロンがぎょっと目を見張る。

 

「な、何だよこれ……」

 

「気配を薄くしてるだけ」

 

カリンは前を見たまま答えた。

 

「ただし、誰かに直視されると解けるから、慎重にね」

 

狐は音もなく廊下を滑るように駆け出した。

その銀の尾だけが、闇のなかでかすかに揺れる。

 

「あの子が見つからないように案内してくれる。……こっちだ」

 

四人は息を潜め、狐のあとを追った。

 

***

 

迷路のような廊下をいくつも曲がり、石階段をひとつ下りた先。

辿り着いたトロフィー室には、誰もいなかった。

 

金属のカップや銀の盾が月明かりを鈍く反射して、部屋のなかに冷たい光を散らしている。

 

「どうせビビって逃げたんだよ」

 

ロンがほくそ笑むように言った。

 

ハーマイオニーがぴしゃりと言い返す。

 

「今ごろフィルチか先生に告げ口してるに決まってるわ!」

 

その声に重なるように、狐がぴくりと耳を動かした。

 

カリンの目つきが変わる。

 

「まずい、誰か来る」

 

皆が息を呑む。

 

石床を擦る足音が、遠くからこちらへ近づいていた。

猫の爪が床を打つ細い音も混じっている。

 

「こっち!」

 

カリンが迷いなく駆け出す。

 

暗がりの廊下を、息を殺して走る。

霧が薄れていく感覚があった。長くは保たない。

 

飛び込んだ先には、見覚えのない木の扉があった。

鍵がかかっている。

 

後ろからは、足音が確実に迫ってきている。

 

「もう駄目だ!」

 

ロンが呻く。

 

「ちょっとどいて」

 

ハーマイオニーはロンを押し退けて、鍵を杖で軽く叩き、呟いた。

 

「アロホモラ!」

 

乾いた音とともに鍵が外れた。

 

ハリーが扉を押し開ける。 中は暗い。

四人はなだれ込むように部屋へ入り、急いで扉を閉めた。

 

一瞬の静寂。

 

次の瞬間、重く、地の底から響くような唸り声が部屋を震わせた。

 

それは、部屋の中央にいた。

巨大な黒い犬。いや、犬と呼ぶにはあまりにも異様だった。

 

頭が三つある。

三つの口がそれぞれ唇をめくり、濡れた牙を剥き出しにしている。

六つの目が闇のなかでぎらつき、ひとつの唸りが三重に重なって胸の奥まで響いてくる。

 

ハーマイオニーが息を呑んだ。

 

その声が悲鳴になるより早く、カリンの手が伸びた。

とっさにハーマイオニーの口元を覆う。

 

「動かないで」

 

囁きに近い声だったが、迷いはなかった。

 

「音を立てないで」

 

カリンは三つの頭の動きを観察した。

前足の位置、首の向き、視線の癖。

足元には——古びた仕掛け扉のようなものが見える。

 

(……何かを守ってる)

 

けれど、今はそれどころではない。

 

「静かに、扉まで下がって」

 

ハリーは無意識に杖の柄を握りしめたまま頷く。

ロンは顔を青くしながら、言われた通りにじりじり後ろへ下がろうとした。

 

だが、そのとき。

 

三頭犬が威圧するように、三つの喉を震わせて咆哮した。

 

空気が揺れる。

肺の奥まで押し潰されるような音だった。

 

ロンの足が止まる。

ハーマイオニーは完全に硬直した。

 

気づけば、彼女の指先がカリンのローブの袖を強く掴んでいる。

小さな手が、ひどく震えていた。

 

「ハーマイオニー」

 

呼んでも、反応が遅い。

 

「ご、ごめん……足が……」

 

言葉が途中で切れる。

唇は青く、視線は三頭犬から離せない。

その瞳は、今にも泣き出しそうだった。

 

カリンは一瞬だけ目を閉じた。

 

怖い。 自分だって、十分に怖い。

 

けれど、ここで止まったら終わる。

 

「……大丈夫」

 

その声が、自分でも驚くほど静かだった。

 

カリンはハーマイオニーの震える肩を抱き寄せる。

逃げるために、動かすために、体温を思い出させるみたいに。

 

「ハリー、扉を開けろ!」

 

ハリーが弾かれたように振り向き、鍵へ手を伸ばす。

 

扉が開いた、その瞬間。

 

カリンはハーマイオニーの脇に腕を差し込み、地面を蹴る力を失った彼女の身体を半分担ぎ上げるようにして駆け出した。

 

廊下へ転がり出る。 ロンとハリーも続く。

 

最後にハリーが扉を叩きつけるように閉めた直後、内側から凄まじい衝撃音と唸り声が響いた。

 

四人とも、しばらくその場で息ができなかった。

 

やがて諦めたのか、扉は静かになった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

壁に背を預けたまま、荒い呼吸を繰り返す。

 

ロンは膝に手をついて肩で息をし、ハリーも額に汗をにじませていた。

ハーマイオニーはひどく青ざめた顔のまま、床にへたり込み、小さく震えている。

 

カリンはしゃがみ込み、その震える手をそっと包んだ。

 

「……大丈夫。息して」

 

ハーマイオニーの視線が、ゆっくりと動く。

灰色がかったカリンの瞳へ吸い寄せられるように、ようやく焦点が合った。

 

「ほら。吸って」

 

小さく息を吸ってみせる。

 

「吐いて」

 

ハーマイオニーの肩が、少しずつ上下を取り戻していく。

強張っていた指先から、ほんの少し力が抜けた。

 

「……ありがとう、カリン」

 

かすれた声だった。

 

その顔を見た瞬間、カリンは一拍だけ言葉を失った。

 

泣きそうで、まだ震えていて、それでもこちらを見ようとしている。

さっきまでの強気な表情はどこにもなく、無防備なまま目の前にあった。

 

まともに見返していられなくなる。

 

「……うん」

 

それだけ返し、少しだけ視線を逸らす。

胸の奥で、心臓が落ち着かない速さで鳴っていた。

 

***

 

どうにかフィルチの巡回を避け、遠回りをして談話室へ戻れた頃には、夜はとっくに更けていた。

 

暖炉の火はとっくに消え、部屋の空気はしんと冷えている。

 

誰も大きな声を出す気力はなかった。

四人はソファや椅子に、ほとんど倒れこむように身を沈める。

 

しばらくは、誰も何も言わなかった。

鼓動だけが、耳の奥に残っている。

 

やがてロンが、ぐったりと背を預けたまま呟いた。

 

「あんな怪物を学校の中に閉じ込めてるなんて、一体なに考えてるんだよ……」

 

「あなたたち、あの犬が何の上に立ってたか、見なかったの?」

 

ハーマイオニーの声はまだ少しかすれていたが、もういつもの調子を取り戻し始めていた。

 

ハリーが疲れたように顔を上げる。

 

「三つも頭があったんだぞ。そんな余裕なかったよ」

 

「床に、扉みたいなのがあった」

 

カリンがぽつりと言う。

ハーマイオニーがすぐに頷いた。

 

「そう。仕掛け扉よ。何かを守ってるに違いないわ」

 

「番犬ってことか……」

 

ロンがげんなりした顔で天井を仰ぐ。

 

「でも、そんなの今はどうでもいい。もう寝たい」

 

「寝たいのは同感」

 

ハリーも苦笑した。

 

「……みんな無事だっただけで十分だよ」

 

カリンの言葉に、部屋が少しだけ静かになる。

 

ハーマイオニーが、ゆっくり目を伏せた。

 

ロンが大きく欠伸をした。

 

「もう寝ようぜ……明日の授業、たぶん地獄だ」

 

「地獄も何も、もう今日よ」

 

ハーマイオニーが小声で訂正する。

けれどそれに言い返す気力は、誰にも残っていなかった。

 

ロンとハリーが先に階段へ向かう。

 

ふと、カリンは隣を見た。

 

ハーマイオニーの指先が、まだ少しだけ震えている。

 

(……まだ、怖いんだ)

 

その震えが、まるで自分の心臓に直接伝わってくるかのように、胸の奥がチリチリと騒がしい。

 

手を重ねればいいのか、それとも気づかないふりをしてやるのが優しさなのか。

 

正解がどこにも書いていない問いを突きつけられたようで、息が詰まる。

 

結局、出てきたのは別の言葉だった。

 

「……心臓、止まるかと思った」

 

少し冗談めかして呟いた。

自分でもわずかに震える声に、軽く肩をすくめる。

 

ハーマイオニーは驚いたようにカリンを見つめたあと、ふっと目を細めて、優しい笑みを浮かべた。

 

「私もよ」

 

小さく返ってきた声に、カリンもようやく息をつく。

 

 

一拍おいて、ハーマイオニーの指先が、そっとカリンの手の甲に触れた。

 

ほんの一瞬だけ。確かめるみたいに触れて、すぐ離れる。

 

「……助かったわ」

 

その声はひどく静かだった。

 

「ありがとう」

 

カリンは視線を落としたまま、わずかに肩をすくめる。

 

「……別に」

 

ぶっきらぼうな返事だった。それしか言えなかった。

 

けれど、ハーマイオニーはそれで十分だと言うように、かすかに笑った。

 

さっきまでの恐怖はまだ身体の奥に残っていた。

それなのに、隣にいる気配だけが、不思議なくらい心を落ち着かせた。

 

カリンは何も言わない。

ハーマイオニーも、もう何も言わなかった。

 

カリンの手に残った、彼女の指先の微かな熱。

それは冷え切った談話室の空気の中でも、いつまでも消えずに居座り続けていた。

 

 

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