夜の決闘騒ぎからしばらくして、ハロウィンの朝が来た。
支度を終え、女子寮から談話室へ降りるころになっても、ハーマイオニーの機嫌は少しも上向かなかった。
あれからハリーとロンは、まるで素晴らしい冒険をしたつもりなのか、暇さえあれば三頭犬と、その足元にあった仕掛け扉の下に何が隠されているのかを、飽きもせずひそひそと話し合っている。
その声を耳にするたび、ハーマイオニーの眉間の皺は深くなった。
「あの二人、本当に信じられないわ」
階段を下りきるなり、吐き捨てるようにそう言って、ハーマイオニーは唇をきつく結ぶ。
「校則を二つも破ったのよ? それなのに、あんなに浮かれて……おまけにマクゴナガル先生まで、ハリーに箒を贈るなんて。一体何を考えていらっしゃるのかしら」
勢いよく言い切っても、胸のつかえは少しも下りていないらしかった。足取りまで、どこか棘立っている。
その隣を歩きながら、カリンは小さく肩をすくめる。
「まあまあ。先生もグリフィンドールを想ってのことだよ。寮杯を勝ち取りたい一心なんだろうし」
その言葉に、ハーマイオニーは一瞬だけこちらを見た。
何か言い返しかけて、けれど結局、口を閉じる。
短い沈黙が落ちた。
視線だけが、わずかに揺れる。
やがてハーマイオニーは何も言わず、くるりと踵を返した。
怒りを振り払うような勢いのまま歩き出し、そのまま一度も振り返らずに大広間のほうへ去っていく。
(……珍しい)
カリンは、その背を見送る。
いつもなら、なにか一言くらいは返してくるはずだった。
呆れたようにでも、食ってかかるようにでも。
それがない。
その違和感だけが、妙に胸の内へ残った。
「あれ、カリン一人? ハーマイオニーは?」
入れ替わるように階段を下りてきたハリーとロンが、屈託のない声で話しかけてきた。
「ん〜……先に行かれちゃった」
「なんかずっとプリプリしてるよな。あんなんじゃ、ずっと一緒にいるお前も大変だろ」
ロンが呆れたように肩をすくめる。
「……君たちがもう少し大人しくしてくれたら、私の苦労も減るんだけど」
鼻を鳴らすロンを見て、カリンは思わず苦笑いした。
「でも、ちょうど良かった。カリンに聞きたいことがあったんだ。一緒に朝食を食べようよ」
ハリーがそう言うので、カリンは軽く頷いた。
三人で並んで、朝食のある大広間へ向かって歩き出す。
「実際カリンが一人きりなんて滅多に無いよな。あの優等生にいつも付き纏われてさ」
「ちょっと、ロン。そういう言い方やめなよ」
ハリーが慌てて肘で小突き、気まずそうに咳払いする。
「聞き捨てならない気もするけど、ハリーに免じて一回だけ水に流すよ」
「恩にきるよ、カリン」
ハリーはほっとしたように笑ってから、今度は本題へ入るように声を潜めた。
「それでさ、聞きたいことっていうのは……あの三頭犬が守っていた扉の話なんだ」
その声音が一段低くなる。
ハリーは、入学前にハグリッドと一緒にグリンゴッツを訪れたときの奇妙な出来事を話し始めた。空になった金庫。あの日の慌ただしさ。あの犬が守っていたものとの妙な符合。
カリンは黙って聞きながら、石造りの廊下を進む。
冷えた床を踏む靴音が、三人分、規則正しく重なっていた。
「ふーん……確かに、その荷物が学校に移された可能性は高そう」
話を聞き終えてから、カリンは素直にそう言った。
「でも残念ながら、わたしには『三頭犬の下に扉があった』以上の情報は持っていないよ」
「カリンは気にならないのかよ?」
ロンが食い下がる。
カリンは少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「少しね。でも新しい情報が無ければ、いくら考えてもしょうがないよ。そんなことよりお腹すいた。早く食べよう」
話しているうちに、大広間の重い扉が見えてくる。
石造りの冷たい廊下から一歩、中へ足を踏み入れた瞬間――さすがはハロウィンの朝だった。
パンプキンパイを焼く甘く香ばしい匂いが、一気に鼻先をくすぐる。
温かな空気と、祝祭めいたざわめきが押し寄せてきた。
カリンは思わずお腹を鳴らし、小さく肩をすくめた。
ハリーが吹き出し、ロンもつられて笑った。
***
ハロウィンの飾りつけで城じゅうが浮き立つように華やいでいるというのに、その日の呪文学の教室だけは、どこか妙にぎこちなかった。
原因は明白だった。
フリットウィック先生が、よりにもよってハーマイオニーとロンを同じペアにしたのだ。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!あなたのは違うわ、ロン。『ガー』は長く、『ヴィ』はもう少し鋭くよ!」
ハーマイオニーの完璧主義な指摘に、ロンがむっと顔をしかめる。
「うるさいな、わかってるって!」
ロンは苛立ったように杖を振る。羽はぴくりとも動かない。
その隣で、ハーマイオニーの羽は軽やかに宙へ浮かび、くるりと回って机の上へ戻った。
その差が、余計にロンの神経を逆撫でしたのだろう。
「……別に、そんな得意げにやることでもないだろ」
ぼそりと吐き捨てるような一言。
ハーマイオニーの指先が、ぴたりと止まる。
「得意げ、ですって……?」
声の温度が、一段下がる。
教室内が、息を呑むような重い沈黙に沈んだ。
(……ったくもう)
カリンは、杖を持ち上げた。
羽根はするりと浮かび上がり、そのまま天井近くまで舞い上がる。
けれど次の瞬間、羽根は不自然な軌道を描いた。
宙でぴたりと止まったかと思うと、今度は真下へ“落ちる”のではなく、まるで見えない手で叩きつけられたみたいに加速する。
ドォンッ!
鈍い衝撃音が教室に響いた。
羽根は、柔らかな白い羽毛の塊とは思えない勢いで机に突き刺さり、周囲の羊皮紙をばさりと跳ね上げた。
インク壺がかたんと揺れ、何人かが悲鳴まじりの声を上げる。
「……な、なんだね、今の音は!?」
フリットウィック先生が目を丸くして駆け寄ってきた。
「あー……すみません」
カリンは杖を下ろし、苦笑いをした。
「ちょっと応用を試したら、変なことになりました」
「変なことに、で済ませるつもりかね君は!?」
机にめり込んだ羽根と、平然としているカリンの顔を見比べて、先生は半ば悲鳴みたいな声を上げた。
「浮かせるだけじゃなくて、流れを少し弄ると、重さの感覚も変わるみたいで」
「み、みたいって君……!」
呆れているはずなのに、その目は隠しきれない興味できらきらと輝いていた。
その様子に、教室の空気がほんの少しだけ緩む。
つられるように視線を横へ流すと、ハーマイオニーがこちらを見ていた。
さっきまでロンに向けていた険しさは消えている。
代わりに、毒気を抜かれたようにぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
――そこで、終業の鐘が鳴った。
張りつめていた空気が一気にほどけ、生徒たちがざわざわと席を立ち始める。椅子の脚が鳴り、教科書を閉じる音が重なった。
「ツキヨミさん、ちょっといいかな!」
案の定、フリットウィック先生が目を輝かせたままカリンを呼び止める。
「君の今の応用、実に興味深い! 浮かせたまま質量の感覚を変化させるなんて、前代未聞だよ。一体どういう発想なんだね?」
「……陰陽道では、物事そのものより、まず流れを見るんです」
カリンは面倒そうにしながらも立ち止まり、先生に向き直った。
「浮かせる、落とすって結果だけじゃなくて、その間を流れる力を少し弄るというか。魔力の向きをずらせば、重さとか均衡の感じ方も変わるんで……たぶん、それで」
話しながら、視線だけは教室の出口を探す。
ちゃんと聞いているふうを装いながら、無意識に人の波の向こうを追った。
――いた。
扉の近くで、ハーマイオニーが立ち止まっていた。
こちらを見ている。
唇の端だけをほんの少し持ち上げた、静かな微笑みだった。 けれどその笑みは、いつものようにまっすぐではない。どこか力がなくて、心だけ少し遠くへ行ってしまっているみたいに見えた。
「……またあとで」
そう言った声は小さく、ざわめきに紛れそうなくらいだった。
それでも、なぜかはっきり耳に残った。
一瞬だけ返事が遅れる。
「……うん」
カリンがそう返したときには、もうハーマイオニーは踵を返していた。
その背中が教室の外へ消えていく。
フリットウィック先生はなおも興奮気味に何かを尋ねていたが、カリンの意識は半分もそこになかった。
(……なんで、そんな顔すんの)
問いは胸の内に落ちたまま、答えにならない。
それなのに、あの一瞬の表情だけが、妙に頭から離れなかった。
***
先生に捕まったのが、思ったより長引いた。
ようやく大広間へ足を踏み入れた頃には、ホールはハロウィンの祝宴で賑わい、笑い声と料理の匂いが満ちていた。
けれど。
その中に――彼女の姿がない。
視線が、そこで止まる。
ざらりとした違和感が、胸の奥を撫でた。
「ねえ、ネビル。ハーマイオニーは?」
近くにいたネビルに声をかけると、彼は一瞬言い淀み、申し訳なさそうに目を泳がせた。
「えっと……まだ女子トイレにいるんじゃないかな。さっき、ロンとちょっと……」
……トイレに、一人で?
その言葉が、妙に引っかかった。
視線が、ゆっくり横へ流れる。
ロンがいた。
何も気にしていない顔で、パンを頬張っている。 いつも通りの、呑気な顔。
「ロン」
声が、思ったより低く落ちた。
「……何を言ったの」
ロンは顔も上げず、肩をすくめる。
「べつに。本当のこと言っただけだろ」
その一言に、胸の奥がわずかに軋む。
「『誰だってあいつには我慢できないっていうんだ。だから、カリンでさえ愛想を尽かして、今朝は一緒に朝食をとらなかったんだ』ってさ」
――その瞬間。
何かが、静かに切れた。
怒り、というより。
もっと鈍くて、逃げ場のない感情が、内側を一気に満たす。
今朝、追わなかったこと。
それが、そういうふうに伝わっている。
――違う。
そう思ったのに、
うまく言葉にならなかった。
そのままにした。
その結果が、これか。
胸の奥が、鈍く軋んだ。
気づけば、一歩踏み出していた。
もう一歩。
近づくごとに、ロンの顔から余裕が消えていく。
「……なんだよ、カリン?」
次の瞬間、カリンの手がロンの胸ぐらを掴んだ。
椅子がガタりと音を立て、身体が浮く。
「ちょっ……やめろって、カリン!」
ハリーが慌てて駆け寄る。
それでも、カリンは動かなかった。
その瞳だけが、冷たく、鋭く、ロンを捉えている。
「二度と」
低く、押し殺した声。
「彼女のことを、そんなふうに言うな」
ロンの喉がひくりと鳴る。
「……次は、容赦しない」
その言葉が落ちた瞬間、ロンの顔から血の気が引いた。
――そのとき。
大広間の扉が、激しく開いた。
「ト、トロールが! 地下牢に……トロールが出ました!」
クィレルの絶叫が響き渡る。
一瞬で、空気が崩壊した。
悲鳴。椅子の音。逃げ出す足音。
その喧騒の中で。
「――ハーマイオニー」
カリンの唇から、小さく、名前が零れた。
女子トイレ。
あそこに、ひとりで。
もう考える暇なんてなかった。
カリンの黒髪が風を切り、パニックに陥る生徒たちをかき分けて走り出す。
(……くそ、間に合え)
石床を蹴るたび、呼吸が荒くなる。
先ほどの笑みが、頭から離れない。
(……あのまま、行かせなきゃよかった)
足に力がこもる。
廊下を風のように駆け抜けながら、カリンはただ前だけを見て、走った。
***
大広間を飛び出すと、生徒たちが悲鳴を上げながら四方へ逃げ惑っていた。
その流れに逆らうように、カリンはただ一人、人気のない廊下へと駆ける。
――どこだ。
――どこにいる。
石床を蹴る音が、やけに大きく響く。
呼吸が荒い。整える余裕はない。
廊下の中央で、カリンは唐突に足を止めた。
足元に落ちた影が、燭台の灯りに揺れて細く伸びている。
両手の指を素早く組み替え、音もなく印を結ぶ。
「――飛来せよ」
囁きと同時に、影がふっと揺らいだ。
次の瞬間、そこから二羽の鳥が飛び立つ。
紅、藍、金、銀、緑――五色の光を羽に滲ませた鳳凰が、ひらりと廊下へ舞い上がった。
二羽は一声、高く澄んだ声を上げる。
「……探せ」
短く落とす。
鳳凰は迷いなく散り、城内の奥へ消えた。
カリンはその場に立ったまま、目を閉じる。
意識を沈める。
視界を手放し、感覚を式神へと重ねる。
石壁。階段。人気のない廊下。
閉ざされた扉。
――違う。
さらに奥。
砕け散った木片。
揺れる巨大な影。
女子トイレの扉が、外側から壊されかけていた。
「……そこか!」
目を開くと同時に、地を蹴る。
左手で印を切る。足裏に淡い光が走り、風が脚に絡みつく。
次の一歩で、加速が跳ね上がる。
階段を二段飛ばしで駆け上がる。
角を曲がる。
廊下を裂くように、走る。
――見えた。
壊れかけた扉。
その向こう――
壁際に追い詰められたハーマイオニー。
そして。
腐臭を放つ巨体が、ゆっくりと棍棒を振り上げていた。
「ハーマイオニー!」
声が弾けるより早く、身体が動く。
床を滑るように飛び込み、そのままハーマイオニーの前へ割り込んだ。
小柄な体の上に、棍棒の影が覆いかぶさった。
空気そのものが潰れるような質量が、頭上から叩きつけられる。
カリンは咄嗟に印を結び、掌を突き出す。
「結――!」
青白い結界が、半ばまで展開する。
薄い光の膜が棍棒を受け止める――が、次の瞬間、嫌な音を立ててひび割れた。
耐えきれない。
ドンッ!!
衝撃が全身を貫いた。
カリンの体は軽々と宙を舞い、背中から壁へ叩きつけられる。
肺の奥の空気が一気に押し出され、視界が白く揺れた。
耳鳴りの向こうで、かすれた悲鳴が届く。
「カリン……! いや、やだ……っ」
ハーマイオニーの声だ。
痛む背を無理やり起こし、カリンは片膝をつく。
まだ、意識は切れていない。
「鳳凰――狐!」
呼びかけに応じるように、足元の影がふくらむ。
二羽の鳳凰に加え、今度は二匹の狐が跳ね出た。
片方は宵闇のような黒、もう片方は月光を溶かしたような銀。
かすれた息のまま、短く命じる。
「……っ、足止めしろ」
式神たちが散る。
黒狐と銀狐が床を滑るように走り、トロールの両脚へ食らいつく。
鳳凰は閃くように飛び上がり、顔の前をかすめた。羽ばたきと五色の光に、巨体がわずかに怯む。
その隙に、カリンは懐へ手を入れ、印札を一枚引き抜いた。
指先が切れたのか、札の端に赤いものが滲む。
「――
札を叩きつけるように床へ放つ。
瞬間、淡い青白い光が石床に走り、円陣を描いた。
次の刹那――弾けるように光が鎖の形を取る。
幾筋もの蒼い鎖が床から噴き出し、蛇のようにうねりながらトロールへと絡みついた。
足首。
手首。
鈍く振り上げられた腕へ、滑り込むように巻きついていく。
――ぎしり、と。
力任せに振りほどこうと、巨体が身体を捻る。
だが、動くたびに鎖はきしみ、食い込むように締まっていった。
トロールが低く唸り、さらに激しく暴れる。
「ぐ……っ」
喉の奥で息が潰れる。
魔力が、目に見えるように削られていく。
押し切れない。
そのとき。
「うわっ……! カリン!?」
遅れて駆け込んできたハリーとロンが、扉の向こうで目を見開いた。
ロンは一瞬ひるんだが、ハリーが叫ぶ。
「今だ、杖を!」
トロールが鎖を引きちぎろうと暴れ、棍棒を振り直そうとする。
だがバランスが崩れている。
ハリーとロンが同時に杖を向けた。
「「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」」
二人の呪文が同時に棍棒にかかる。
持ち上がらない。
重すぎる。
だが――
トロールの手が、わずかに浮いた。
それで十分だった。
カリンは重い腕を無理やり振り上げた。
「グラビタス・レヴィオーサ!」
棍棒が、引き剥がされるようにトロールの手から離れる。
一瞬だけ宙に止まり――
次の瞬間、重力が反転したように叩き落ちた。
ごうんっ!!
鈍く、重い衝撃が空気を震わせる。
棍棒がトロールの頭頂部にめり込み、巨体がぐらりと揺れた。
一歩。
二歩。
遅れて、全身が崩れる。
ドォン……!
石床が震え、粉塵がふわりと舞い上がる。
……静寂が落ちた。
式神の姿が、ふっと薄れていく。
絡みついていた鎖がほどけ、霧のように消えた。
カリンはその場に片膝をついたまま、しばらく動かなかった。
重くなった腕が、ゆっくりと下がる。
遅れて、息が漏れた。
「……は、」
ようやく、呼吸が戻る。
耳鳴りが消えない。
背中が熱い。立ち上がろうとすると、足元がわずかに揺れた。
それでも。
視線が、ひとつの場所に向く。
ハーマイオニー。
彼女は壁際に立ち尽くしたまま、真っ青な顔でこちらを見ていた。
その瞳が、ようやく現実を取り戻したように大きく揺れる。
一歩。
ふらつきながら、カリンが近づく。
「……ケガ、ない?」
低く、ひどく掠れた声。
その瞬間。
ハーマイオニーの表情が、崩れた。
「カリン……!」
次の瞬間、彼女はほとんど駆けるようにして距離を詰めてきた。
勢いのまま、カリンのローブを掴む。
強く。
指が震えている。
「どうして……!」
息が乱れている。言葉が揃わない。
「どうして、あんな……っ」
続かない。
代わりに、ぐっとローブを握る力が強くなる。
カリンは一瞬だけ視線を逸らした。
「……間に合ったんだから、いいじゃん」
それだけ言って、肩をすくめる。
けれど。
ハーマイオニーの手は離れない。
むしろ、もう片方の手も伸びてくる。
腕。肩。背中。
触れて、確かめるように。
「……血、出てるじゃない……!」
かすれた声。
「平気。大したことない」
即答する。
少し早すぎるくらいに。
「平気なわけないでしょ!」
思わず、といったように声が跳ねる。
そのあとで、自分でも驚いたのか、ハーマイオニーは小さく息を呑む。
けれど、手だけは離さない。
震えが、まだ残っている。
カリンは少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……落ち着けって」
そう言って、無意識に手を伸ばす。
触れる寸前で、ほんのわずかに止まる。
――そのまま、そっと肩に置いた。
軽く、押さえるように。
「もう動かないから」
顎でトロールの方を示す。
それでも。
ハーマイオニーは動かない。
視線も、手も、そのまま。
カリンは少しだけ視線を逸らした。
(……困ったな……)
胸の奥が、落ち着かない。
仕方がなく、そのまま、背に手を回す。
軽く、叩く。
一定でもなく、ぎこちないまま。
ハーマイオニーは俯いたまま。
代わりに、呼吸だけが少しずつ戻っていく。
そのとき。
「カリン! 無事か!?」
ハリーの声が、ようやく現実を引き戻した。
「……ああ、一応」
短く答える。
ロンも後ろから顔を出し、トロールを見て息を呑んだ。
「……マジで倒したのかよ……」
その声に、ハーマイオニーの指先がわずかに強くなる。
それでも、離れない。
「……ほら、もう大丈夫だから」
今度は少しだけ強めに言う。
それでも。
彼女の手は、すぐには離れなかった。
その静けさを、荒々しい声が無遠慮に破った。
「いったい何事ですか!!」
壊れかけた扉がさらに押し開かれる。
現れたのは、マクゴナガルだった。
その後ろにスネイプ、そして顔面蒼白のクィレルが続く。
三人の視線が、室内を走る。
倒れたトロール。
砕けた壁。
そして――
カリンと、そのそばにいるハーマイオニー。
「……これは、あなたたちが?」
マクゴナガルの声が、低く落ちる。
ハリーが一歩前に出た。
「僕たちで……なんとか」
その言葉を、マクゴナガルは最後まで聞かなかった。
「説明はあとです」
きっぱりと言い切る。
その視線が、カリンへ向く。
カリンは一歩踏み出しかけて、わずかに揺れた。
その瞬間。
袖を掴まれ、体がわずかに引き止められる。
ハーマイオニーだった。
「……無理しないで」
小さな声。
けれど、はっきりとした調子で。
カリンは一瞬だけそちらを見る。
近いままの距離。
まだ、離れていない手。
「……大丈夫」
そう言いながら、体勢を立て直す。
スネイプが一歩前に出た。
黒いローブが床を払う。
「愚かな真似を」
低く、冷えた声。
「その程度の結界で受け止められるとでも思ったのか」
視線が、カリンの掌と床に残る魔法陣の痕をなぞる。
「……構築が甘い」
吐き捨てるように言う。
だが、その目はわずかに細められていた。
観察するように。
「……次はないと思え」
その一言だけを残し、スネイプは視線を外した。
マクゴナガルがすぐに続く。
「ポンフリー先生のところへ。今すぐ」
その声には、わずかな焦りと――抑えた安堵が混ざっていた。
「歩けますね?」
問いかけというより確認。
カリンが頷くより早く、
「私が付き添います」
ハーマイオニーが言った。
間を置かずに。
マクゴナガルが一瞬だけ彼女を見る。
厳しい視線。
――そして、ほんのわずかに緩む。
「……では、そうしなさい」
短く許可を出す。
ハーマイオニーの手が、そっとカリンの袖を引く。
「行きましょう」
その声は、まだわずかに震えていた。
カリンは短く息を抜いた。
「……ん」
歩き出す。
そのまま、並んで。
少しだけ近い距離で。
後ろでは、教師たちがトロールの処理を始めていた。
重い音と低い声が、遠ざかっていく。
けれど。
袖を掴む指だけは、最後まで離れなかった。
***
医務室の扉が開いた瞬間、薬草の匂いがふわりと広がった。
「またあなたたちですか」
マダム・ポンフリーが顔を上げ、呆れたように眉をひそめる。
だがその視線はすぐにカリンへと移り、表情が引き締まった。
「そこに寝なさい。すぐに診ます」
指示に従い、カリンはベッドへ腰を下ろす。
そのまま横になろうとした瞬間、背中に鈍い痛みが走った。
「……っ」
わずかに息が詰まる。
「動かないで」
すぐ横から声がした。
ハーマイオニーだった。
いつの間にかすぐ傍に立っていて、カリンの肩に手を添えている。
支えるように、ゆっくりと体を寝かせる。
「……大げさだよ」
「大げさじゃないわ」
即答だった。
その声には、まだ余裕がない。
ポンフリーが手際よく杖を振る。
淡い光がカリンの背をなぞり、破れたローブの奥を探る。
「打撲と……軽い裂傷ね。骨は無事。運が良かったわね」
「軽いって言ってるし」
「黙ってて」
間髪入れずに遮られる。
カリンは一瞬だけ目を瞬かせた。
ハーマイオニーはそのまま、視線を逸らさない。
ポンフリーが薬を取りに奥へ下がる。
一瞬、空白が生まれた。
その間も、ハーマイオニーの手は離れない。
「……」
何か言いかけて、止まる。
唇がわずかに動いて、結局閉じられる。
代わりに、そっとカリンの袖を握り直した。
カリンはそれを見下ろして、少しだけ眉を寄せる。
「……怖かった?」
軽く、聞いただけのつもりだった。
ハーマイオニーの肩が、びくりと震える。
「……っ」
息を飲む音。
答えは、返ってこない。
けれど。
握る指に、力がこもる。
そのまま、ゆっくりと顔が伏せられた。
「……別に」
小さな声。
震えを押し込むような。
「……平気、よ」
カリンは視線を逸らした。
「そ」
それ以上は言わない。
言葉を探すのも、やめた。
しばらくして、ポンフリーが戻ってくる。
薬を塗り、包帯を巻き、簡単な治癒呪文を重ねる。
「これで傷は問題ないけども、魔力切れを起こしかけてます。今日は安静。動き回るのは禁止です」
「はいはい」
「“はい”は一回で結構」
ぴしゃりと返される。
処置が終わり、ポンフリーが離れる。
再び、静けさが戻る。
ハーマイオニーは、椅子を引いてベッドの横に座った。
近いままの距離で。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
カリンは天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。
「……帰らなくていいの」
「ここにいるわ」
間髪入れずに返ってくる。
視線も動かさないまま。
カリンは一瞬だけ沈黙した。
「……そう」
それ以上は何も言わない。
しばらくして。
ふと、指先にわずかな重みを感じた。
見ると、ハーマイオニーの手が、そっと触れていた。
触れている、というより――置かれている。
遠慮がちなまま。
それでも、離れない。
カリンは少しだけ目を細めた。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
けれど、その手を払いのける気にはならなかった。
そのまま、何もせずにいる。
やがて、ハーマイオニーの呼吸が少しずつ整っていく。
さっきまでの震えが、ようやく消えていくのが分かった。
医務室の静けさの中で。
その距離だけが、残った。
***
朝の光が、ゆっくりと医務室に差し込んでいた。
白いカーテンの隙間から入る柔らかな光が、ベッドの端を淡く照らしている。
薬草の匂いと、静かな空気。
カリンは、ゆっくりと目を開けた。
身体はまだ重い。
だが、昨日ほどではない。
少しだけ視線を動かす。
すぐ隣。
ハーマイオニーが、椅子に座ったまま眠っていた。
腕をベッドに預け、そのまま顔を伏せるようにしている。
細い指が、まだカリンの手に触れていた。
離れていない。
そのまま、朝を迎えたらしい。
カリンはしばらく、それを見ていた。
(……帰らなかったのか)
小さく息を吐く。
起こすべきか迷って、やめた。
代わりに、ほんの少しだけ手を引こうとする。
その瞬間。
「……っ」
ハーマイオニーの指が、反射のように強く握り返した。
目はまだ閉じたまま。
けれど、離さない。
カリンは動きを止めた。
「……起きてる?」
声を落として聞く。
「……起きてないわ」
即答だった。
目は閉じたまま。
カリンは一瞬だけ黙った。
「それ、起きてるやつ」
「違うって言ってるでしょ……」
今度は少しだけ、間があった。
ゆっくりと、ハーマイオニーが顔を上げる。
髪が少し乱れている。
目元は、わずかに赤い。
「……おはよう」
先に言ったのはハーマイオニーだった。
「おはよう」
カリンも短く返す。
少しだけ沈黙が落ちる。
手は、まだ離れていない。
ハーマイオニーが気づいて、はっとしたように視線を落とした。
そして――
ほんの一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと手を離す。
指先が、最後に少しだけ触れて離れた。
「……もう、大丈夫なの?」
視線は逸らしたまま。
「たぶん」
「“たぶん”って……」
少しだけ眉を寄せる。
けれど、それ以上は言わない。
言いかけて、飲み込む。
代わりに、ベッドの端に手を置いた。
近い距離のまま。
「昨日……その」
言葉が途切れる。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からないように。
カリンはそれを見て、小さく肩をすくめた。
「倒れなかったし、問題ない」
軽く言う。
いつもの調子で。
ハーマイオニーは少しだけ顔を上げた。
「……そういうことじゃなくて」
小さく、返す。
そのあと、また黙る。
続きが出てこない。
カリンも追わない。
ただ、そのまま視線を外した。
窓の外に目を向ける。
朝の光が、やけに明るい。
しばらくして。
「……昨日」
ハーマイオニーが、ぽつりと言う。
カリンは反応しない。
続きが来るのを待つ。
「……来てくれて、ありがとう」
小さな声だった。
ほとんど独り言みたいに。
カリンは少しだけ視線を戻す。
「……別に」
それだけ言う。
一拍置いて、
「近かったから」
付け足す。
ハーマイオニーは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
その表情が、ほんのわずかに緩む。
けれど――
完全にはほどけない。
どこか、昨日のまま。
そのとき、カーテンがしゃらりと開いた。
「医務室はそういう場所ではないはずだが」
スネイプが冷ややかな視線で立っていた。
「っっっ!!!」
ハーマイオニーの背筋が凍りつく。
カリンも、思わずまばたきを一つ。
「こ、これは、その、お見舞いに……」
「言い訳は無用だ、グレンジャー。君がここで何をしていようと、私の知ったことではない」
スネイプはわずかに鼻を鳴らし、カリンに向き合う。
「ツキヨミ、生きているなら今日の午後、私の研究室に来ること。君の“無茶”には後始末が必要だ」
「……はい。承知しました、先生」
スネイプが背を向けて去っていくと、
入れ違いにマダム・ポンフリーが覗き込む。
「ちょうどいいわ。様子を見せて」
その声に、ハーマイオニーはすぐに立ち上がった。
一歩、距離ができる。
ほんの少しだけ。
カリンは目を閉じる。
けれど。
さっきまであった手の感触が、まだ残っている気がした。
幕間:ハロウィン(ハーマイオニー・サイド)
夜の決闘騒ぎからしばらくして、ハロウィンの朝が来た。
あれからハリーとロンはずっと上機嫌だった。
素晴らしい冒険でもしたつもりなのか、暇さえあれば三頭犬と仕掛け扉の下に何が隠されているのか、飽きもせず、ひそひそと同じ話を繰り返している。
その声を聞くたびに、私の機嫌は目に見えて悪くなっていった。
「本当に信じられないわ。校則を二つも破ったのよ? それなのにあんなに浮かれて……おまけにマクゴナガル先生まで、ハリーに箒を贈るなんて。一体何を考えていらっしゃるのかしら!」
吐き出してもなお、苛立ちは収まらなかった。
「まあまあ。先生もグリフィンドールを想ってのことだよ。寮杯を勝ち取りたい一心なんだろうし」
カリンは軽く肩をすくめてそう言った。
その言い方が悪いわけじゃない。むしろ、たぶん正しい。
けれど、今の私にはその正しさが少しだけ遠かった。
思わずカリンを見る。何か言い返したかった。
喉まで出かかった言葉は結局形にならず、そのまま沈んでいった。
短い沈黙が落ちる。
私はその場にいたたまれなくなって、くるりと踵を返した。
本当なら、後ろから足音がしてもおかしくなかった。
何か一言、呆れたようにでも声をかけてきて、結局は隣に並ぶのだと、どこかで勝手に思っていた。
でも、来なかった。
それが、妙に胸に残った。
大広間へ向かう途中、私は一度だけ振り返りそうになって――やめた。
そんなことをしたら、自分が何を期待していたのかまで見透かされてしまいそうだったから。
大広間に着いたあと、少し遅れて三人が入ってくるのが見えた。
ハリーとロン、その間にカリン。
何か話しながら歩いて、ふいにカリンがお腹を鳴らす。
二人がそれにつられて笑った。
それだけのことなのに、胸の奥がざらついた。
私は視線を落としたまま、パンプキンパイにも手をつけられなかった。
***
ハロウィンの飾りつけで賑やかな城内とは裏腹に、その日の呪文学の授業は、最初からどこかぎこちない空気に包まれていた。
よりにもよって、フリットウィック先生が私とロンを同じ組にしたからだ。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!あなたのは違うわ、ロン。『ガー』は長く、『ヴィ』はもう少し鋭くよ!」
言った瞬間、自分でも少しきつかったと思った。
ロンはたちまち顔をしかめる。
「うるさいな、わかってるって!」
苛立ったように杖を振る。羽はぴくりとも動かない。
対照的に、私の羽は軽やかに宙へ浮かび、優雅に机の上へ着地した。
その差が、余計にロンの神経を逆撫でしたのだろう。
「……別に、そんな得意げにやることでもないだろ」
ぼそりと吐き捨てるような一言に、私の指先がぴたりと止まる。
「得意げ、ですって……?」
教室の空気が冷えた、その瞬間だった。
近くにあった羽がふわりと浮き上がり、次の瞬間には真下へと“突き刺さる”ように加速した。
ドォンッ!
柔らかなはずの羽が机に深く食い込み、周囲の羊皮紙がばさりと舞い上がる。
「……な、なんだね、今の音は!?」
フリットウィック先生が慌てて駆け寄る。
「ちょっと応用を試したら、変なことになりました」
軽く肩をすくめたカリンは、苦笑いをしている。
「浮かせるだけじゃなくて、流れを少し弄ると、重さの感覚も変わるみたいで」
「み、みたいって君……!」
先生の目がきらきらと輝き出す。
あまりにもカリンらしくて、あまりにも突拍子もなくて、私は思わず毒気を抜かれたように目を瞬かせた。
さっきまでの険悪な空気が、一瞬だけどこかへ飛んでいく。
けれど、終業の鐘が鳴ると同時に、それも終わった。
生徒たちが教室を出ていく中、案の定、フリットウィック先生はカリンを呼び止めた。
カリンは先生の前に立ち止まるなか、
私は教室の出口近くで足を止めた。
待つ理由なんてない。そう思うのに、足だけが動かない。
そしてカリンが、ふとこちらを見た。
その視線とぶつかった瞬間、私は無理やり唇の端を持ち上げた。
「……またあとで」
かすかに震えた自分の声が、妙に耳に残った。
カリンはまだ先生に捕まっている。私はそのまま教室を出た。
出てすぐだった。
廊下の角を曲がりかけたところで、前方からロンの声が聞こえた。
「誰だってあいつには我慢できないっていうんだ。だから、カリンでさえ愛想を尽かして、今朝は一緒に朝食をとらなかったんだろ」
足が止まる。
息ができなくなる。
違う、と言いたかった。
今朝カリンが追ってこなかったこと。大広間であの子がハリーたちと笑っていたこと。全部見てしまっていたせいで、否定の言葉が喉に引っかかった。
――そう見えたのだ。
そう思われても仕方がないほど、私はあのとき一人で歩いて行ってしまった。
喉の奥がぎゅっと締まって、息がうまくできなかった。
それを誤魔化すように走った。
誰かの声が後ろで上がった気がしたけれど、振り返らなかった。
そのまま走る。走って、走って、気づけば女子トイレに飛び込んでいた。
扉を閉めた瞬間、張りつめていたものが一気に崩れた。
朝、追ってこなかったこと。
さっき、先生に捕まっていたこと。
「またあとで」と言った私の声。
全部がぐちゃぐちゃに混ざって、何が悲しいのか、自分でもよく分からなかった。
私は蛇口に手をつき、俯いた。
泣くつもりなんてなかったのに、肩が震えて止まらなかった。
***
どれくらいそうしていたのか分からない。
最初は遠くの騒ぎも、大広間の喧噪の続きだと思っていた。けれど、次に聞こえた重い音で顔を上げる。
どん、と壁を打つ音。
遅れて、鼻を刺す腐臭。
壊れかけた扉の向こうに、巨大な影が揺れた。
トロール。
喉が凍りつく。
逃げなければいけないと分かっているのに、脚が動かない。
壁際へ下がるので精一杯だった。
棍棒がゆっくりと持ち上がる。
その瞬間、扉の向こうから声が弾けた。
「ハーマイオニー!」
カリンだった。
次の瞬間には、彼女の身体が滑り込むように私の前へ割って入っていた。
小柄な背中が、私とトロールのあいだを塞ぐ。
印を結ぶ手。突き出された掌。
「結――!」
青白い結界が棍棒を受け止める。けれど、嫌な音を立ててひび割れたと思った瞬間、結界は砕け、カリンの身体が宙を舞った。
「カリン……! いや、やだ……っ」
自分の声がひどく遠い。
壁へ叩きつけられても、彼女は意識を失わなかった。片膝をついたまま、すぐにまた印を結ぶ。
「鳳凰――狐!」
影が膨らみ、二羽の鳳凰と二匹の狐が飛び出す。五色の光と影がトロールへ散る。その隙に札が床へ叩きつけられ、蒼い鎖が噴き出した。
足首。手首。腕。
巨体に絡みついていく。
けれど、完全には止まらない。
トロールが暴れるたび、カリンの喉の奥が苦しげに鳴った。見ているだけで分かる。あれは、無理をしている。
押し切れない。
そう思ったそのとき、さらにハリーとロンが駆け込んできた。
「今だ、杖を!」
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
二人の呪文が棍棒にかかる。持ち上がりはしなかったが、それで十分だったらしい。
カリンが重そうな腕を無理やり持ち上げる。
「グラビタス・レヴィオーサ!」
棍棒がトロールの手から引き剥がされ、一瞬宙に止まり、そのまま凄まじい勢いで叩き落とされた。
ごうんっ!!
鈍い衝撃。
巨体が二歩よろめき、そのまま崩れ落ちる。
床が震える。
そして、静寂が落ちた。
式神の光が薄れていく。鎖も霧のように消えていく。
けれど、私の視線は倒れたトロールではなく、その場に片膝をついたままのカリンから動かなかった。
やがて彼女がふらつきながら立ち上がり、こちらを見た。
「……ケガ、ない?」
低く、ひどく掠れた声。
その一言で、もうだめだった。
「カリン……!」
気づけば駆け寄っていた。
勢いのままローブを掴む。指が震えている。息がうまく揃わない。
「どうして……!」
どうして、あんなふうに飛び込めたのか。
どうして、躊躇いもしなかったのか。
何一つ最後まで言葉にならない。
代わりに、ローブを握る指に力が入る。
カリンは一瞬だけ視線を逸らした。
「……間に合ったんだから、いいじゃん」
よくない。
そう言いたいのに、喉がつかえたままだった。
もう片方の手まで勝手に伸びていた。腕、肩、背中。
確かめるように触れる。血の気配に気づいて、私は息を呑んだ。
「……血、出てるじゃない……!」
「平気。大したことない」
「平気なわけないでしょ!」
思わず声が跳ねる。
言ったあとで自分でも驚いた。
それでも手を離せなかった。震えが止まらない。
カリンは少し困ったように眉を寄せる。
「……落ち着けって」
そう言って、手が伸びる。触れる寸前でほんの一瞬だけ止まり、それからそっと肩に置かれた。
軽く、押さえるように。
「もう動かないから」
顎でトロールを示されても、視線は動かなかった。手も離せなかった。
胸の内側がぐちゃぐちゃで、呼吸だけが少しずつ戻っていく。
そのとき、ようやくハリーの声が割り込んだ。
「カリン! 無事か!?」
「……ああ、一応」
ロンも後ろから顔を出し、倒れたトロールを見て息を呑む。
「……マジで倒したのかよ……」
その声に、私の指先がわずかに強くなる。
それでも、離れない。
「……ほら、もう大丈夫だから」
少しだけ強めに言われても、すぐには無理だった。
***
その静けさを、次に破ったのは教師たちだった。
「いったい何事ですか!!」
マクゴナガル先生が壊れかけた扉を押し開け、その後ろからスネイプ先生とクィレル先生が続く。
三人の視線が室内を一瞬で走り、倒れたトロール、砕けた壁、そして私たちを捉えた。
「……これは、あなたたちが?」
マクゴナガル先生の声が低く落ちる。
ハリーが一歩前へ出る。
「僕たちで……なんとか」
「説明はあとです」
ぴしゃりと言い切られた。
その視線がカリンへ向く。カリンが一歩踏み出しかけ、わずかに揺れた。
反射的に私は袖を掴んでいた。
「……無理しないで」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
カリンが一瞬だけこちらを見る。
近いままの距離。離れていない手。
「……大丈夫」
そう言いながら、体勢を立て直す。
スネイプ先生が一歩前に出た。
「愚かな真似を。その程度の結界で受け止められるとでも思ったのか」
床の魔法陣の痕と、カリンの掌を見て冷たく言い放つ。
「……構築が甘い」
吐き捨てるような声。けれど、ただ怒っているだけではない気がした。
「……次はないと思え」
それだけを残して視線を外す。
マクゴナガル先生がすぐに続く。
「ポンフリー先生のところへ。今すぐ。歩けますね?」
カリンが頷くより早く、私は口を開いていた。
「私が付き添います」
間を置かずに出た言葉だった。
マクゴナガル先生が一瞬だけ私を見る。厳しい視線。けれど、ほんの少しだけ和らいだ。
「……では、そうしなさい」
許可が出る。
私はそっとカリンの袖を引いた。
「行きましょう」
自分の声がまだ震えているのが分かる。
「……ん」
短い返事。
そのまま並んで歩き出す。後ろでは教師たちがトロールの処理を始めていた。重い音と低い声が遠ざかっていく。
それでも、私の指は袖を離せなかった。
***
医務室の扉が開いた瞬間、薬草の匂いがふわりと広がった。
「またあなたたちですか」
マダム・ポンフリーが呆れたように眉をひそめる。けれど、すぐに表情を引き締めた。
「そこに寝なさい。すぐに診ます」
指示に従ってカリンがベッドへ腰を下ろす。そのまま横になろうとした瞬間、彼女が小さく息を詰めた。
「……っ」
「動かないで」
気づけば私はカリンの肩に手を添えていた。支えるように、ゆっくりと体を寝かせる。
「……大げさだよ」
「大げさじゃないわ」
即答していた。
ポンフリー先生が杖を振る。淡い光がカリンの背をなぞる。
「打撲と……軽い裂傷ね。骨は無事。運が良かったわね」
「軽いって言ってるし」
「黙ってて」
間髪入れずに返す。
ポンフリー先生が薬を取りに奥へ下がる。
一瞬、空白が生まれる。
その間も、私は手を離せなかった。
何か言いたいのに、何から言えばいいのか分からない。唇だけが動いて、結局閉じる。
代わりに、そっと袖を握り直した。
「……怖かった?」
軽く聞かれただけなのに、肩がびくりと震えた。
答えられない。
でも、指に力が入る。
そのまま顔が伏せられる。
「……別に」
ようやく出た声は小さかった。
「……平気、よ」
自分でもひどい嘘だと思った。
カリンは視線を逸らした。
「そ」
それ以上追ってこないことに、少しだけ救われた。
ポンフリー先生が戻り、薬を塗り、包帯を巻き、治癒呪文を重ねる。
「これで傷は問題ないけども、魔力切れを起こしかけてます。今日は安静。動き回るのは禁止です」
「はいはい」
「“はい”は一回で結構」
ぴしゃりと返され、少しだけいつもの空気が戻る。
処置が終わって、先生が離れる。
再び静けさが戻った。
私は椅子を引き、ベッドの横に座る。
何も言わない。ただ、そこにいる。
「……帰らなくていいの」
カリンが天井を見たまま、小さく息を吐く。
「ここにいるわ」
考えるより先に答えていた。
「……そう」
それ以上、カリンは何も言わない。
しばらくして、私はそっと手を伸ばした。
触れる、というより置くように。
遠慮がちに。
それでも、離せない。
カリンは少しだけ目を細めたが、払いのけることはしなかった。
そのまま何もせずにいるうちに、ようやく自分の呼吸が整っていく。震えも少しずつ引いていく。
医務室の静けさの中で、その距離だけが残った。
***
朝の光が、ゆっくりと医務室に差し込んでいた。
いつの間にか私は椅子に座ったまま眠っていたらしい。腕をベッドに預け、顔を伏せたまま。
そして、指先はまだカリンの手に触れていた。
ふと、その手がわずかに引かれる。
反射的に握り返していた。
「……っ」
目は閉じたまま。
「……起きてる?」
落とした声が聞こえる。
「……起きてないわ」
即答してしまってから、自分でもおかしくなった。けれど目は閉じたままにした。
「それ、起きてるやつ」
「違うって言ってるでしょ……」
今度は少し間が空いた。
ゆっくり顔を上げると、カリンがこちらを見ていた。
「……おはよう」
先に言う。
「おはよう」
短い返事。
静かな沈黙が落ちる。
まだ、手は離れていない。
気づいて、私ははっと視線を落とした。
ほんの一瞬迷ってから、ゆっくりと手を離す。最後に指先が少しだけ触れて、それから離れた。
「……もう、大丈夫なの?」
視線は逸らしたまま尋ねる。
「たぶん」
「“たぶん”って……」
少しだけ眉を寄せる。けれど、それ以上は言えない。
何か言いたいのに、言葉にならない。
「昨日……その」
結局、途中で止まる。
カリンは小さく肩をすくめた。
「倒れなかったし、問題ない」
「……そういうことじゃなくて」
小さく返して、また黙る。
続きが出てこない。
カリンも追わない。
窓の外の朝の光が、やけに明るく見えた。
やがて、やっと一つだけ言葉になる。
「……昨日」
カリンが反応しないまま待つ。
「……来てくれて、ありがとう」
小さな声だった。ほとんど独り言みたいに。
カリンが少しだけ視線を戻す。
「……別に」
それだけ言って、一拍置き、
「近かったから」
と付け足した。
その返答に、胸の奥がまた静かに揺れた。
何をどう返せばいいのか分からない。ただ少しだけ目を細めることしかできなかった。
まだ、昨日の空気が残っている気がした。
そのとき、カーテンがしゃらりと開いた。
「医務室はそういう場所ではないはずだが」
スネイプ先生が冷ややかな視線で立っていた。
背筋が凍りつく。
「こ、これは、その、お見舞いに……」
「言い訳は無用だ、グレンジャー。君がここで何をしていようと、私の知ったことではない」
そう言って鼻を鳴らし、今度はカリンを見る。
「ツキヨミ、生きているなら今日の午後、私の研究室に来ること。君の“無茶”には後始末が必要だ」
「……はい。承知しました、先生」
スネイプ先生が去ると、入れ違いにマダム・ポンフリーが覗き込む。
「ちょうどいいわ。様子を見せて」
その声に、私はすぐ立ち上がった。
一歩、距離ができる。
ほんの少しだけ。
その瞬間、さっきまで触れていた指先が、急に冷えた気がした。