賢者の石と黒髪の騎士   作:krn

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第九章:スネイプとの秘密特訓

 

放課後の鐘が鳴り、生徒たちのざわめきが上階へ遠ざかっていく。

 

カリンはひとり、人気のなくなった石階段を地下へ下りていた。

足を進めるたび、空気はひやりと冷たさを増す。上の階に残っている人の気配も、陽の匂いも、石壁に吸われるように消えていく。

 

その静けさの中で、脳裏に蘇るものだけが、やけにはっきりしていた。

 

砕け散った扉。

腐臭を放つ巨体。

棍棒の影。

そして――目の前で青ざめていたハーマイオニーの顔。

 

あのとき、間に合いはした。

結果だけ見れば、そう言えるのかもしれない。

 

けれど。

 

(……あんなの、「守った」なんて言えない)

 

結界は砕けた。

身体は吹き飛ばされた。

あと少し噛み合わなければ、何かひとつずれていたら――考えたくもない結末になっていたはずだ。

 

指先が無意識に握り込まれる。

爪が掌に食い込む感触だけが、今の自分の未熟さを現実的に教えていた。

 

あんな顔を、もう二度とさせたくなかった。

 

強くなりたい。

かつての、知識への渇望とは違う。もっと焦りに近い、落ち着かない熱が胸の内側に居座っていた。

 

けれど、それを「守るため」という綺麗な言葉で片付けてしまうのは、どうにも収まりが悪かった。

 

そんな高潔な正義感ではない。自分をヒーローだと思えるほど、今の自分は強くもなければ、立派でもない。

 

もっと自分勝手で、余裕のない衝動だ。

 

あの夜の彼女の体温を思い出すたび、胸の奥で疼くこの鈍い違和感は、放っておいて消える類のものではなかった。

 

やがて、目の前に重い扉が見えてくる。

 

『セブルス・スネイプ研究室』

 

カリンは一度だけ息を整え、三度、扉を叩いた。

 

「……ツキヨミ・カリンです。約束通り来ました」

 

「入れ」

 

低く、不機嫌な声。

 

扉を開けると、鼻を刺す薬品と薬草の匂いが流れ出てきた。

薄暗い室内には、怪しげな液体の詰まった瓶や乾燥させた薬草が壁一面に並び、ランプの火がその輪郭を鈍く照らしている。

 

部屋の主は、机に向かって何かを書きつけていた。

ゆっくりと顔を上げた黒い瞳が、真っ直ぐカリンを射抜く。

 

「……時間通りか、ツキヨミ。私の貴重な時間を浪費させる心構えだけはできているようだな」

 

「ご迷惑をおかけします、先生」

 

「迷惑だと自覚しているなら、そもそも地下牢でトロールと踊り明かすような愚行はせんことだ。」

 

皮肉混じりの声。

けれど、カリンは目を逸らさなかった。

 

「おっしゃる通りです」

 

「ほう」

 

スネイプがわずかに眉を動かす。

 

「言い訳はしないか」

 

「するだけ無駄ですから」

 

短く返すと、スネイプは鼻で笑った。

 

「それで? “後始末”を受けに来たのだろう。反省文か、あるいは……」

 

「お願いがあります」

 

カリンは、スネイプの言葉を遮って、まっすぐにその黒い瞳を見つめた。

 

「私に、戦い方を教えてください」

 

部屋の空気が、ほんのわずかに止まる。

スネイプの目が、探るように細められた。

 

「……何だと?」

 

「実践的な魔法を。闇の魔術に対する防衛術を。……どんな手を使っても、相手を無力化できる術を」

 

言葉を選ぶ余裕はなかった。

けれど、あの夜から胸につかえていたものは、それで十分に伝わる気がした。

 

「君は、以前私の誘いを断ったはずだ。今さら何を血迷った?」

 

「その節は申し訳ございません。虫がいいのも分かってます。それでも、何事にも動じず、守り切る力が必要なんです。」

 

それだけで十分だった。

誰を、とは言わない。言う必要もないと思った。

 

スネイプは一瞬だけ虚を突かれたように目を瞬かせた。

その脳裏にかつての誰かの面影がよぎったのを、カリンは知る由もなかった。

 

黒い瞳の奥で何かを値踏みするような沈黙が落ちる。

 

「……感傷に酔っている顔ではないな」

 

「そういう趣味はありません」

 

「だろうな」

 

スネイプは椅子から立ち上がった。

 

「よかろう。もっとも、君が守ると決めた相手が、それをありがたがるかは知らんが」

 

核心をなぞるような言葉に、カリンの肩がわずかに強ばる。

だが、それでも引かなかった。

 

「それでもです」

 

その返事を聞き、スネイプの口元がわずかに歪む。

嘲りと興味が混ざった、ひどくスネイプらしい表情だった。

 

「……面白い。奥へ来い」

 

部屋の奥の扉が開かれる。

簡素な石造りの小部屋には、棚も机もなく、ただ訓練用らしい広い空間だけがあった。

 

「扉は閉めろ。魔法で、だ」

 

カリンは小さく頷き、右手の指を静かに組む。

 

足元の影が揺れ、黒い水面に墨を落としたように六角の紋が広がった。

紋は一瞬だけ扉へ走り、音もなく戸が閉じる。

 

外の気配が、ふっと薄れた。

 

スネイプはその様子を観察し、鼻を鳴らした。

 

「陰陽道とやらの技巧か……。奇妙なものだが、音も気配も抑えられるとはな」

 

「多少、応用すればですけど。静かに集中したいときには、便利です」

 

「ふん……では、その“応用力”とやらを見せてもらおう。構えろ」

 

次の瞬間、スネイプの杖が閃いた。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が一直線に飛ぶ。

カリンは反射的に印を組み替えた。

 

「結界陣!」

 

青白い紋が前方に展開し、光の壁が呪文を弾く。

火花が散り、空気が焼けた。

 

「……悪くない。だが遅い」

 

言葉と同時に、二発目、三発目が飛ぶ。

考える暇もない。避ける、防ぐ、半歩ずらす。だが相手はスネイプだ。手数も圧も、授業の比ではない。

 

「フリペンド!」

 

横へ流れようとした瞬間、わずかに足が止まった。

 

衝撃。

 

腹に重い一撃を受け、身体が後ろへ吹き飛ぶ。

背中が石床へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。

 

「……っ、は……!」

 

息ができない。

視界が揺れる。

それでも起き上がろうとしたカリンを、スネイプの冷たい声が打った。

 

「今、なぜ食らった?」

 

咳き込みながら、カリンは歯を食いしばる。

 

「……詠唱に、意識を寄せすぎました。足が止まった」

 

「その通りだ。呪文を唱えるたびに立ち止まるなら、敵に喉を差し出しているのと同じだ」

 

スネイプの靴音が、ゆっくりと近づく。

 

「守りたいのだろう? ならばまず、自分が立っていろ。倒れる者に誰かを庇う資格などはない」

 

胸の奥に、鈍く言葉が刺さる。

悔しいほど正しい。

 

カリンは片膝をつき、それでも視線を上げた。

 

「……はい」

 

スネイプの唇の端が、嘲笑とは少し違う、歪んだ弧を描く。

それは目の前の生徒の覚悟を試すような嗜虐的な光が混ざった色だった。

 

 

「……よかろう。放課後、貴様の時間はしばらく私が預かる。このことは他言無用。寮の連中にも、君がトロールの前に飛び出した原因にもだ」

 

ハーマイオニーの顔が、頭の隅をよぎる。

カリンはすぐにそれを押し込めた。

 

「承知しました」

 

「感謝はするな。どうせすぐ後悔することになる」

 

その日を境に、スネイプとの秘密の特訓が始まった。

 

それは授業とはまるで違う、容赦のないものだった。

呪文の起点、詠唱と身体運びの連動、結界構築の速度、咄嗟の防御、そして陰陽道と西洋魔法の理論をどう噛み合わせるか。

 

「ツキヨミ、結界術の基本概念は、空間の『気』を固定し、壁とすることだ。ならば、西洋魔法の『プロテゴ(盾の呪文)』と組み合わせれば、物理的、魔術的両面からの攻撃を防ぐ、より強固な障壁が作れるはずだ。やってみろ」

 

「式神は、術者の魔力の一部を分け与えた分身にすぎん。ならば、それに『インセンディオ(燃えよ)』の特性を付与し、自爆させることも可能だろう」

 

スネイプの言葉は苛烈で、無駄がなかった。

失敗すれば容赦なく打ち据えられ、成功しても次にはもっと難しい課題が置かれる。

 

特訓が終わる頃には、カリンは毎回、魔力も体力もほとんど使い果たしていた。

 

けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

床に転がりながら息を整えるたび、頭のどこかに浮かぶのは、あの夜の女子トイレで見た顔だった。

 

それがある限り、やめる理由は見当たらなかった。

 

***

 

その変化に気づかないほど、カリンは鈍くなかった。

 

夕食の席で、ハーマイオニーの視線が自分の手元に落ちる回数が増えたこと。

頬の切り傷に目を止めて、ほんの一瞬だけ眉が寄ること。

放課後、談話室へ戻るのが遅くなるたび、何も言わずにこちらを見る時間が長くなっていくこと。

 

けれど、何も言わないのなら、それでいいと思っていた。

 

聞かれたところで、うまく説明できる気がしなかったし、説明したところでたぶん余計な心配をかけるだけだ。

そう分かっているからこそ、カリンは何でもない顔をしてやり過ごしていた。

 

その夜も、そうするつもりだった。

 

重たい身体を引きずるようにして談話室の前まで戻ったところで、ちょうど出てきたハーマイオニーと鉢合わせる。

 

彼女はカリンの顔を見た瞬間、足を止めた。

 

「カリン!? その怪我……どうしたの?」

 

思ったより鋭い声だった。

反射的に頬へ意識が向く。さっきスネイプの呪文を避け損ねたときに浅く裂けた箇所だろう。

 

「大したこと――」

 

軽く流そうとした言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。

 

「何も言わなくていいわ」

 

きっぱりと遮られる。

 

「……こっち、座って。傷、見せて」

 

有無を言わせない声だった。

 

カリンはわずかに目を瞬いたが、逆らう気にはなれなかった。

素直に暖炉脇のソファへ腰を下ろすと、ハーマイオニーもその隣へ座り、制服のポケットから小さな薬瓶を取り出した。

 

「これ、マダム・ポンフリーに教えてもらったの。内緒で、だけど」

 

そう言って蓋を開ける。

ひんやりした匂いが、薬草の香りを含んでふわりと広がった。

 

指先に軟膏を取り、ためらいなく頬へ伸ばしてくる。

 

触れられた瞬間、カリンの睫毛がぴくりと揺れた。

 

「……しみる?」

 

「ちょっとだけ」

 

「我慢して」

 

そう言いながらも、塗る手つきは妙に丁寧だった。

傷の端をなぞるみたいに、ゆっくり、慎重に薬が伸ばされていく。

 

近い。

 

顔を少し動かせば触れそうな距離に、ハーマイオニーの表情がある。

真剣で、けれどどこか硬い。

叱っているようでもあり、そうでないようでもある微妙な顔つきに、カリンはうまく視線を外せなかった。

 

黙ったまま見ていると、ハーマイオニーはそれに気づいたのか、ほんの少しだけ目元を強ばらせた。

けれど手は止めない。

 

「……よし。これで少しはマシなはずよ」

 

小さく息をついて、薬瓶の蓋を閉じる。

そのまま終わるのかと思ったのに、ハーマイオニーはまだ離れなかった。

 

「お願いだから、あまり無茶はしないで」

 

思ったより低い声だった。

 

「あなたが傷だらけで帰ってくるの、見てると……落ち着かないの」

 

ほんのわずかに間を置いてから、ハーマイオニーはカリンの手を取った。

冷えた指先が、両手のあいだに包まれる。

 

その温度がじわじわと伝わってくる。

手のひらから腕へ、腕から胸の奥へ、妙に遅れて広がっていくような感覚だった。

 

「どうしてそんなに無茶するのかは、分からないけど」

 

ハーマイオニーは目を伏せる。

 

「でも、そういう顔で平気だなんて言われても、困るわ」

 

カリンは一瞬、返す言葉を失った。

 

触れられたところばかり、やけに意識に残る。

たかが手だ、と片づけるには近すぎて、落ち着かなかった。

 

「……大丈夫だよ」

 

やっと出てきたのは、そんな曖昧な返事だった。

 

「これくらい、すぐ治る」

 

「そういう問題じゃないの」

 

ハーマイオニーが眉を寄せる。

叱るみたいな言い方なのに、声の芯は不思議と弱かった。

 

「何のために、そこまで頑張るの?」

 

その問いに、カリンは目を伏せた。

 

喉元まで何かが上がってきて、形になる前に押し戻す。

 

言えない、と思った。

 

ここで何かひとつ言葉を間違えれば、きっと今の距離のままではいられなくなる。

そんな確信ともつかない感覚だけが先にあった。

 

「……強くなりたいから」

 

結局、そう答える。

 

嘘ではない。

けれど、それで足りてもいなかった。

 

ハーマイオニーはしばらく何も言わず、カリンの顔を見ていた。

何かを探るみたいな視線だったが、押しつける感じはない。

 

「……そう」

 

小さく頷く。

 

それ以上、問いは重ねてこなかった。

 

その沈黙を、妙に気の抜けた声が壊した。

 

「お、カリンじゃん。お前、またボロボロだな。何したらそんなになるんだよ」

 

ロンだった。

 

ふらりと近づいてきた彼へ、ハーマイオニーがすぐさま振り返る。

 

「ロン、少し静かにして」

 

ぴしゃりとした声音。

 

「カリンは疲れてるのよ」

 

一瞬、ロンが言葉を失う。

気まずそうにハリーの方を見て、それから肩をすくめた。

 

「……悪かったよ」

 

その様子に、カリンは思わず口元を緩めた。

 

「大丈夫。ロンに悪気がないのは知ってる」

 

「そういう問題じゃないわ」

 

まだ少し怒っている声だった。

けれど、それでもハーマイオニーの手は離れない。

 

その温もりの中にいると、外で削られた神経が少しずつほどけていく気がした。

傷に薬を塗られているだけではない、もっと別のところまで静かに拾い上げられているような、落ち着かなさと安心が混じった感覚。

 

(……かなわないな)

 

カリンはそう思いながら、包まれた手にほんの少しだけ力を返した。

 

その途端、ハーマイオニーがわずかに目を見開く。

 

けれど何も言わず、ただ目元だけをやわらかくした。

 

 


 

 

幕間:ハーマイオニー・サイド

 

夕食の席で、またカリンはうとうとしていた。

フォークを持ったまま、少しだけ瞼を重たそうにしている。

 

最近では、その姿を見るのが珍しくなくなってしまっていた。

 

最初は、疲れているだけだと思った。

授業に課題に、ホグワーツの生活そのものが慣れないのだろうと。

 

でも、違った。

 

手の甲の擦り傷。

頬に増えた細い切り傷。

制服の袖口に残る、小さなほつれ。

 

視線が、気づけばそこへ向いている。

 

見ないふりをしようとするほど、かえって目についてしまう。

放課後になると、いつの間にか姿が見えなくなることまで含めて、全部が落ち着かなかった。

 

問いただしたいと思ったことは、何度もある。

 

でも、そのたびにやめた。

 

カリンが話したくないとき、ほんの少しだけ視線を逸らすことを、私はもう知っていたから。

無理に踏み込めば、今より遠くなる気がして、それが嫌だった。

 

だから、何も言わない。

言えないまま、ただ見ているだけ。

 

それなのに――

その夜、廊下で鉢合わせた瞬間、そんな理屈は全部飛んでいた。

 

「カリン!? その怪我……どうしたの?」

 

声が勝手に出た。

 

左頬に新しい切り傷。

手の甲にも赤い擦れ。

 

また、増えている。

胸の奥が、きゅっと縮む。

 

「大したこと――」

 

「何も言わなくていいわ」

 

遮った自分の声が、思ったより強かった。

 

「……こっち、座って。傷、見せて」

 

有無を言わせない口調になっていたのに、カリンは少し目を瞬かせただけで、素直にソファへ座った。

 

そのことに、ほんの少しだけ心が揺れる。

 

制服のポケットから、小さな薬瓶を取り出す。

 

「これ、マダム・ポンフリーに教えてもらったの。内緒で、だけど」

 

“もしもの時”にと教えてもらった特製の治癒軟膏だ。

 

本当は、こんなふうに使う場面が来ない方がよかったけど、結果的に役立ってしまっているのが悔しい。

 

そう思いながら蓋を開け、指先に軟膏を取る。

ひんやりとした薬草の匂いが、静かな空気の中へふわりと広がった。

 

そっと頬へ触れる。

その瞬間、カリンの睫毛が小さく揺れた。

 

「……しみる?」

 

「ちょっとだけ」

 

「我慢して」

 

そう返しながらも、指先は自然と慎重になる。

傷の端をなぞるように、ゆっくりと薬を伸ばしていく。

 

近い。

 

自分でもそう思うくらい近いのに、離れようとは思わなかった。

 

カリンは何も言わずに、ただこちらを見ている。

その視線が落ち着かなくて、私は手元に集中するしかなかった。

 

「……よし。これで少しはマシなはずよ」

 

小さく息をついて薬瓶を閉じる。

それでも、まだ言いたいことは残っていた。

 

「お願いだから、あまり無茶はしないで」

 

思ったより声が低くなる。

 

「あなたが傷だらけで帰ってくるの、見てると……落ち着かないの」

 

本当は、もっと強い言葉で止めたかった。

でも、彼女はきっと笑って受け流す。

それが分かっているから、声が少し震えた。

 

ためらいながら、彼女の手を取る。

 

冷たい。

 

両手で包むと、少しずつ温度が戻ってくる。

 

それだけで、少し安心する。

 

「どうしてそんなに無茶するのかは、分からないけど」

 

目を伏せる。

 

「でも、そういう顔で平気だなんて言われても、困るわ」

 

カリンは一瞬だけ黙った。

 

それから、

 

「……大丈夫だよ」

 

と、いつもの調子で言う。

 

「これくらい、すぐ治る」

 

「そういう問題じゃないの」

 

思わず言い返す。

でも、引っ込めることはできなかった。

 

眉が寄るのを止められない。

 

「何のために、そこまで頑張るの?」

 

その問いに、カリンは目を伏せた。

 

問いかけた瞬間、空気がわずかに変わった気がした。

 

カリンが、ほんの少しだけ視線を落とす。

 

何かを言いかけて――止める。

その動きが、やけにはっきり見えた。

 

(……今、なにか)

 

喉まで出かかって、でも飲み込んだ。

そんな感じだった。

 

なぜか、息が詰まる。

 

ここで、あと一歩だけ踏み込んだら。

もう少しだけ問い詰めたら。

きっと何かが変わってしまう。

 

うまく説明できないのに、そんな予感だけがあった。

 

だから、何も言えなかった。

 

待つしかなかった。

 

「……強くなりたいから」

 

返ってきたのは、それだけだった。

 

短い。

曖昧で、でも嘘ではない声。

 

それだけじゃない、と感じた。

でも、それ以上は言わないつもりなのだとも分かった。

 

私は、しばらく黙ったままカリンを見る。

 

探るみたいに。

でも、押しつけるつもりはなくて。

 

ただ、そこにあるものを見逃したくなかった。

けれど結局、掴めないまま。

 

「……そう」

 

小さく頷くことしかできなかった。

 

沈黙が落ちる。

さっきまでより、少しだけ重い。

 

その沈黙を壊したのは、ロンだった。

 

「お、カリンじゃん。お前、またボロボロだな。何したらそんなになるんだよ」

 

……無神経にもほどがある。

 

「ロン、少し静かにして」

 

自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。

 

「カリンは疲れてるのよ」

 

ロンが一瞬、言葉を失う。

気まずそうにハリーの方を見て、それから肩をすくめた。

 

「……悪かったよ」

 

そのすぐあと、視界の端でカリンが少しだけ口元を緩める。

 

「大丈夫。ロンに悪気がないのは知ってる」

 

その言い方が、いつも通りで。

だから余計に、少し腹が立った。

 

「そういう問題じゃないわ」

 

言い返してから、私はもう何も言わなかった。

 

言葉にすると、変になりそうだったから。

 

代わりに、手は離さなかった。

 

離したくない、と思った。

 

理由は分からない。

でも、離したら何かが途切れてしまうような気がした。

 

そのとき。

 

手に、ほんの少しだけ力が返ってくる。

 

驚いて顔を上げる。

 

カリンは何も言わない。

でも、表情がほんの少しだけやわらいでいた。

 

それだけで、胸の奥が静かに熱くなる。

 

何も言えなかった。

 

ただ、そのまま手を離さなかった。

 

***

 

暖炉の火はぱちぱちと音を立てながら、小さく揺れていた。

談話室にはもう、ほとんど誰もいない。

 

その静けさの中で、カリンが小さく欠伸をこぼす。

 

私の手の中にある、少しだけ温もりを取り戻したその手。

離せばいいのに、なぜかそのままにしていた。

 

手の力を緩めて――やめる。

 

そのまま、私は立ち上がった。

 

「……部屋まで、一緒に行きましょう」

 

そう言うと、カリンは特に何も言わずに頷いた。

断られなかったことに、ほんの少しだけ息が抜ける。

 

階段を上る。

窓の外には満月の光。

足音が二人分だけ、静かに響く。

 

そのリズムが、妙に心地いいのに、落ち着かない。

 

ふと、隣を歩くカリンの歩幅がわずかに乱れた。

 

(……やっぱり、無理してる)

 

迷ったのは一瞬だった。

私は、隣を歩く彼女の腕に、そっと自分の腕を絡めた。

 

「……支えるわ。ね、大丈夫?」

 

触れた瞬間、カリンが小さく笑う。

 

「うん」

 

たったそれだけ。

でも、拒まれなかった。

 

そのことが、胸の奥をじわりと熱くする。

 

(……どうして、私……)

 

理由を探そうとして、すぐにやめた。

 

どうして、と思う。

でも、考えようとすると鼓動ばかりがうるさくなる。

 

だから、そのまま並んで歩いた。

 

近い距離を、もう直そうとは思わなかった。

 

***

 

部屋に辿り着き、並んだベッドの前でようやく手を離す。

 

その瞬間、肌を包んでいた温もりがすっと引いていき、代わりに夜の冷気が入り込んできた。

 

それが、妙に寒々しく、落ち着かなかった。

 

カリンが疲れ切った様子で寝巻きに着替える。

 

何気なく目を向けた、その瞬間。

寝巻きの隙間から覗いた痣の色が目に入った。

 

「ちょっと待って」

 

考えるより先に声が出る。

 

そのままシャツをまくり上げると、お腹に散らばる切り傷や痣があらわになった。

 

指先で、そっと触れる。

 

その瞬間、カリンの呼吸がわずかに乱れた。

 

逃げるように視線が逸らされる。

それでも、手を振り払おうとはしない。

 

そのまま受け入れられていることに、胸の奥が少しだけざわつく。

 

(……なんで)

 

こんなふうに触れていていいのか、よく分からない。

 

でも、手は止められなかった。

 

軟膏を塗り、包帯を巻く。

 

距離が近い。

近すぎる。

 

それでも、離れられない。

 

静まり返った部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる気がした。

 

「……しばらく、毎日こうして軟膏を塗ってあげる」

 

沈黙に耐えきれず、私は努めて事務的な、おせっかいな優等生を装った声を出した。

 

「いい? 寝る前の約束よ」

 

「……わかったよ」

 

驚くほど素直な返事。

いつもなら、はぐらかしたり冗談を言ったりするはずの彼女が、今はまっすぐに私の言葉を受け入れている。

 

そのことが、たまらなく嬉しい。

 

灯りが落ちる。

部屋が闇に沈む。

 

隣のベッドから、衣擦れと呼吸の音が聞こえる。

 

それだけで、意識が引き寄せられる。

 

(……どうして)

 

こんなに近いのに。

ちゃんと隣にいるのに。

 

それでも、落ち着かない。

 

目を閉じても、あの灰色の瞳が離れない。

 

考えないようにしても、勝手に浮かんでくる。

 

そのとき。

 

「……ハーマイオニー」

 

呼ばれた。

 

心臓が跳ねる。

 

「な、なに?」

 

裏返りそうになる声を必死に抑えて聞き返す。

 

「……ありがと」

 

それだけ。

 

短い言葉。

 

でも、その響きがまっすぐ届く。

 

隣の気配が、ゆっくりと眠りに落ちていく。

 

(……ずるい)

 

暗闇の中で、小さく毒づく。

いつもはあんなに食えない態度をとるくせに、こういうときだけ、妙にまっすぐな言葉を投げてくる。

 

胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。

 

このままでは、すぐには眠れそうにない。

 

そう思いながらも、私はその熱を逃がさないように、布団の中でそっと目を閉じた。

 

 

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