学校で授業のある日、俺は基本的に休み時間は自身のアトリエに籠って作業をする。十分の休憩であろうとも、基本的に筆を握らなければ気が済まないのだ。
授業の始まった今日も今日とて、俺は自身のアトリエにまで足を運んでいた。
この学園は太っ腹なことに、申請すれば一人につき一部屋。アトリエと呼ばれる部屋が貸し与えられる。まぁ、映像科や演劇科、文学科が借りることは稀だが、絵画科と彫刻科は好んで
部屋を借りることが多い。自分の城もとい、自分だけの道具を置き、自分だけの作品を作ることができる場所というのは学生にとっては貴重だからだ。
かくいう俺も、その恩恵を賜っている生徒の一人だ。先にも述べたように家に一応絵を描くスペースはあるのだが、あそこは
だから俺はこのアトリエで基本的には作業することにしている。たまにもう少し時間をかけたいと思った時なんかは持ち帰って作業することもあるが、基本的には朝から晩までこのアトリエに篭って作業をすることが基本的には多かった。
「ただいま」
扉を開けて誰が聞いているわけでもないのに挨拶する。これが俺のルーティーンの一種となっていた。
アトリエへと入って最初にすることは荷物を置いて着替えることだ。俺の描く油絵は、基本的に絵の具が跳ねたりして汚れることが前提部分にある絵画である。汚れてもいい服に着替えて、エプロンをかけておくのは準備の一環だ。服を着替えて腕捲りをし、エプロンの帯を結ぶ。
最早随分とこなれたルーティーンワーク。
生活の一部となったこの作業をすると思い出すことがある。
『君は天才じゃない』
いつだかに言われたその言葉を覚えている。ずっと、ここ数年、思い出さなかった日はない。
脳裏にこびり付いてしまったかのように、ずっと俺の脳内でリフレインして、流れ続ける。筆を握るたびに、このアトリエに入るたびに、俺の脳内を犯すように言葉が流れる。昔はこ
の
「……んなことわかってるんだよなぁ」
筆を強く握る。
描くことはいい。これだけが俺の存在証明になっている。
俺には、これしかないから。
これだけが俺のことを肯定してくれるから。
他の何もかもが俺のことを肯定しなくたって、俺の営みを否定したとしても、絵を描くという行動だけは俺のことを肯定してくれるから。
だから、描くことはいい。
日々の中で唯一、俺の心を慰めてくれることはこの時間だけだった。
……それでいて、俺の胸を抉る痛みを与えてくるのもこの時間が大半の理由を占めていたが。
息を整えて筆先に絵の具を乗せる。重ねる。キャンバスの白を塗りつぶして、色を足す。水を足す。筆を変える。描き加える。
この時間だけは誰にも邪魔させない。
小鳥の声が遠くで聞こえた。それ以外は何も聞こえない。
静謐だけが満たすこの時間だけは誰にも──。
「頼も〜!!」
ガッシャーン!! と大きな音がして扉が開く音がする。ギィギィと建て付けの悪い蝶番が悲鳴を上げ、最後。「ギィ」という情けない断末魔を残して扉が外れてしまう。
ドスン、とドアが倒れる音が響いた。こっちが断末魔なのだろうか。とどうでもいいことを考えてしまった。
「君が一年一組!蓮重くんだね!」
「…………誰?」
首だけで振り返ると、後ろにいたのは少女だった。
ハーフツインの髪を流し、意志が宿るような、強い瞳をこちらに投げかけてくる。化粧は薄め、しかし整った顔の造形からきちんと美少女の部類に入れられることがわかり、体の起伏は薄い……というか無ですらあるが、随分と人気が出そうなビジュアルをした少女だった。スカートからスラリと伸びる生足には傷一つ、シミ一つない。
そんな少女が右手に大きめの茶封筒を持ち、ビシッと俺に左手の人差し指を指していた。
なんなんだよ。……というか見覚えがなさすぎる。このパターンで本当に知らない人が来ることある? 怖いんだけど……本当に誰?
「ボクは
「興味ありません。これでお話はおわりですね?お帰りください。出口は今貴女がぶち壊した扉を出て回れ右です。それでは」
キラッキラの目をした彼女から視線を逸らしてキャンバスに向ける。筆先に絵の具を乗せて隅にある白を塗りつぶす。絵の具の匂いが鼻先をくすぐった。
「ちょいちょい!ちょっと待った!」
ガッと肩を掴まれた。どうやら厄介払いは終わらなかったらしい。再度視線を向ける。というか無理矢理向けさせられる。
こいつ、力強くね?
「話は終わってないよ!」
「……訂正。終わったんじゃなくて始まってすらないんだよね。興味もない。帰ってくんない?」
首だけを向けるようにして侮蔑の視線を投げかける。すると斜め後ろにいた彼女の星を散りばめたような琥珀の瞳と目が合った。こいつ目でか。
「君に絵の依頼をしにきたんだ。依頼人には丁寧に対応した方がいいと思うけどな!」
「依頼……?」
そのワードで今朝、学園長に言われた言葉を思い出した。あのニヤニヤした顔が脳裏にちらつく。
そうだ、見えてるのか見えてないのか分からないチベットスナギツネのような細目の彼女が言っていたじゃないか。
今の俺に「依頼」を出したいイカれた奴がいるって話を。
「……今の俺に依頼を出したいイカれてる奴がお前か?」
「イカれているかどうかは知らないけどボクだね!」
ない胸を張りながらムフーと鼻を鳴らすイカれた女子生徒に改めて向き合ってみる。筆を置いて、改めて彼女に視線を向けた。
その瞳はワクワクに満ちていて、どうもその言葉が冗談や酔狂の類のものではないらしいということを決定づけている。どうも俺に声を掛けに来ているという部分は本当のようだった。
……まぁ、俺への依頼が本命なわけがないが。
「
その浅はかな考えを嗤うように俺は言ってやった。この手の奴らは今まで山ほどいたから、そうじゃない可能性を考えたりしない。俺の絵なんかを欲しがる奴は総じて、俺を経由したジ
ジイとのパイプを欲しがってるんだから。
蓮斜陽。日本を代表する画家の一人である。
その画風は力強く、その上で幻想的。見るものを惹きつけてやまない作品の数々は彼の名声をどこまでも釣り上げた。天井知らずなのではないかというほどに。今現在、日本でただ一人、「画伯」という呼ばれ方をしている、日本画家の重鎮だ。人間国宝。ジジイの絵がどこかの国の石油王だかに数百億という値段で取引され日本をざわつかせたのは記憶に新しい。
とある画家に「彼が絵を描いている間は筆をおくことにする」なんて言葉を言わせた。
彼が絵を売るだけで国の経済を動かすことが出来る。
逸話には事欠かない、バケモノのような画家であり、そんな彼は俺の祖父でもある。
まぁ、彼女に言った通り、俺たちの仲は悪く、有り体に言ってしまうのならば不仲だ。ここ最近は口もきいてない。
しかし柊と名乗った少女は俺の言葉に首を傾げるだけだった。今にも「誰?」と言わんばかりに首を折り曲げる。いや、蓮斜陽の名前を知らないわけがないので俺に図星を言い当てられたことを誤魔化すための反応だろう。この手の小細工は中等部の頃に嫌って程見てきた。
「……?蓮斜陽?」
「不仲なんだよ、俺ら」
これで諦めろ、とダメ押しをする。これで中等部の頃にジジイとパイプを作りに来た連中は簡単に追い払うことが出来た。厄介ファンだとか、ジジイに絵を教わりたいだとかってやつだとか、あわよくばジジイに絵を描いてもらいたいなんて邪な考えを持つ奴まで。いろんな奴が来ていたが全員追い返すことに成功している。必殺のダメ押しだ。
そう。今、この瞬間までは必殺のダメ押しだったのだ。
「…………誰?」
本当に誰なんだ?と言わんばかりに少女が再度首を傾げた。
「蓮斜陽とは連絡付けてやれないから。悪いな」
「別にいいよ。誰かわかんないし」
彼女はそう言うと、「ボクはキミに用があるんだよ」と言い切った。そして、さっさと依頼の話させてくれない? と付け足す。その様はまるで本当に知らないとでも言っているみたいだ。
「……は?違うのか?」
「違うも何も知らないよ、その人のこと」
「今の日本で唯一の画伯だぞ?あの蓮斜陽だぞ?」
「ボクあんまり絵に興味ないんだよね。で、その人はキミの親戚かい? 苗字同じだけど。親戚とは仲良くしておいた方がいいと思うけどなぁ……ボクは家族と仲良しだぜ? 姉とはちょっとアレだけど……いや、というか姉がアレだけど……」
唖然。もしくは絶句という言葉が合うだろうか。今の俺の顔を見ることが出来るのならさぞかし無様な顔をしているのだと思う。
俺が今まで知り合ってきた人間の中で祖父の名前を知らなかった人間なんていなかった。義務教育の中でも彼について説明した説明文教材を国語で勉強するし、知らない人間なんていな
いと思っていた。
毎日嫌でもアイツの描いた絵を目にする。それはテレビで、駅で、街中で、あいつが描いた作品が常に流れている。それほどまでに人気の画家なのだ。
そんなあいつを知らない?
じゃあ、コイツは本当に俺の絵を目的に来たのか?それこそあり得ない。
「まぁ、その斜陽?さんじゃなくてボクが興味あるのはキミさ。より正確にいうのならキミの絵だけどね」
「……それこそ信じられないな」
嘘を言っているようには見えないが、コイツを信用するつもりにもなれない。俺の絵を欲しがる奴なんているはずがないからだ。
俺なんてどこにでもいる才能のない絵描き、蓮斜陽って名前が背中に張り付いた失敗作。ジジイ唯一の出来の悪い作品。汚点。そう言われてきた。
そんな俺の絵を欲しがる奴なんていやしない。
負け犬の絵を買うやつなんていないんだ。
「信じられない、ね」
柊がクスリと笑った。その顔には笑みが溢れている。なんというか「ニタ〜」という感じの、いかにもベタ塗り、というような怪しい笑顔をしながら、柊はバンっ!と見出しでもつけるように、大きく俺の前に一枚の紙を差し出した。サイズとしてはポケットサイズの、厚紙一枚。
「……ポストカード? ……! これ!」
「限定販売で現在非売品のキミが描いたポストカードさ!ボクは他にも君の描いた絵画の写真も持ってるし、さらにはキミの全く更新しない絵描きアカウント……」
「そんなもんフォローしてどうするんだ……」
「の裏で密かに活動させてる不満を吐き出すための掃き溜めみたいな裏アカだって知ってるんだぜ!」
「は?」
体が跳ねたのが自分でもわかった。
俺の心臓がいやに速いスピードで鼓動を鳴らし始めたタイミングで少女はポストカードをしまって、スカートのポケットから携帯を取り出した。そして小さく息を吸う。
「『天才だ天才だって言われてた昔の俺を殺してやりたい。』『純情な少年が裸婦像を描くのって倒錯的だよな。エロじゃん』『ダメだ、林檎に欲情してきた』──」
「よし、ぶち殺してやる」
俺はカッターを取って立ち上がった。目は完全に血走っているだろう。まるでフランシスコ・デ・ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』のような瞳になっているのが見なくても分かった。
重は激怒した、かの傍若無人の無神経をぶち殺してやらなくちゃ気が済まなくなってしまった。殺すしかなくなっちまったよ──。
「ちょ、何!? 怖いんだけど!」
「安心しろ。お前を殺して俺も死ぬ」
「それって女の子が言うセリフじゃないかなぁ⁉」
柊はそう言うとギャーギャーと喚きながら俺から逃げ回った。狭いアトリエの中でしばしの間鬼ごっこに興じる。いや、捕まえられたら即座にぶち殺していたのだが逃げられ続けたので殺せなかっただけだが。
「なんなの……怖い……」
「こっちのがよっぽど恐怖なんだよネットストーカーが…… 」
俊敏な動きで身を引くようにして俺から距離を取る目の前の女子生徒を見ながらもう一度椅子に腰を下ろした。カッターを所定の位置に直しながらジロリと、自分でもわかるほど彼女を強く睨む。
「で、それで脅しにきたってわけか?」
「滅相もない!そんなつもりボクにはないぜ?ただ、とびきりのファンだってことを伝えてるだけさ!」
「……熱心なファンと粘着質なストーカーは紙一重だな」
ひとまず彼女の言い分を信じることにする。まぁ、もう俺のとびきりの恥部を知ってしまっている彼女を前に俺の行動は全て後手に回ってしまっているわけなのだが。
「で、ファンのボクがキミに依頼をしに来たってわけ!」
再度、胸を張った彼女はそう言うと、またムフーと鼻息を鳴らした。どうもその姿が様になっている。何度も無い胸張るんじゃねぇ。
柊に拒否の言葉をかけようとして、そこで昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
「……チッ、出来がイマイチになったろ」
椅子から立ち上がって画材を所定の位置においてカバー用の布をかけた。キャンバスも同様にして汚れが付かないようにする。絵を描くことを中断するときは毎回こうしなければいけないのだ。埃とかついたりするから。
少女の横を通り、画材は置いたままアトリエを出る。ドアは破壊されてしまっていたので鍵をかける必要はなくなってしまっていた。というかどうやったらドアぶち壊せるんだよ。体当たりとかした?
そうやって無視した俺の後ろをまるで親鳥の後ろで列をなすひよこのようにぴょこぴょこと柊が付いてきた。そのまま歩幅を合わせて俺の横に並び、体を前かがみにして俺の顔を見てくる。
「ね?どこに行くんだい?」
「授業だよ、授業。当たり前だろ。ここ学校だぞ」
髪の毛垂れて邪魔そうにしている柊を横目に答えた。昼休みの後は授業があるのなんて常識なことだが彼女は義務教育を受けてこなかったのか?
「この後は創作の時間だろ?」
そして彼女の言葉彼女が不思議そうにしている理由を理解した。
ここ創世学園にはカリキュラムの中に「創作」と呼ばれる時間が存在する。といってもその内容は科によってバラバラで、その授業を担当する講師によって違ったりするのであるが、まぁ、日本でも屈指の創作者、創作活動で生計を立てているような、いわばプロたちに教えを乞う機会というのはあまりない機会だから、この学園の人気を支えている授業プログラムだ。
そして、彼女が疑問に思っている理由というのが、このカリキュラムには免除という制度が存在しているということである。
この「創作」の時間は科の成績、つまり「創作」の成績が優秀なものはこのカリキュラムを免除されるのである。その時間は各々の作品に費やすことも出来るし、特別講師のタイミングならば授業を受けることも出来るのである。そして、今日は特別講師の日ではない。
彼女は俺のことを免除対象の特待生であると考えているようだ。
「……俺は免除されてないからな」
「そうなんだ」
俺の言葉に柊は「壁が高いね~」なんてのんきに呟いていた。実際、俺が免除の対象外なのは事実である。
そこには本来「免除取り消し」というこの学園始まって以来数人しか受けたことのない不名誉を受けたという事実も内包されているのだが、こんな不名誉なことはわざわざ言わなくてよいので口を噤むことにした。どうせ俺のことを調べていくのであれば必ず突き当たる内容だから隠す意味もあまりないのだが。もしかするともう知っていてとぼけているだけなのかもだけど。
「じゃあ依頼の詳細はまた伝えに来ないとかな?」
「なんで受ける前提で話が進んでんだ」
「え?受けてくれないの?」
「う……っけないが?」
当たり前のようにあっけらかんと彼女は言った。いや、受けないから。なんでびっくりしてるんだよ。そんな顔するような感じじゃないだろ。
「なんでだよ~、重くんにもメリットしかないだろ~?」
「は?どこにメリットがあるんだよ」
彼女の絵を描くことで俺にメリットなんて生まれたりしない。まぁ、学生のうちから依頼をこなせるようになったら一人前。みたいな風潮はあるが、俺はあんまりその手の風潮好きじゃないし。依頼を受けてようと下手くそな画家なんてこの世にはごまんといる。
俺は俺が満足できるような絵を世に出せるようになるまでは依頼なんて受けない。時間の無駄だから。
実際、このまま人の前にあんな絵を出しても笑われるだけだ。依頼なんてできるレベルに俺は来ていないのである。
「あれ?言ってなかったっけ?」
俺の言葉に彼女ははて、と首を傾げた。
「ボクは文学部一年生総代。現段階の創作の授業は全て免除されてるんだよね」
「あぁ…… あれ嘘じゃなかったのか」
そうであるのなら、確かに彼女の作品に絵をつけるのは大きなメリットになりえるだろう。
それは入学において極めて優秀な成績を収めた人物のことだ。ありていに言えば、その学年の入試一位。どこの学校においてもこれは変わらないだろう。
しかし、この学園において、総代であるというのは一味代わった意味を持つ。
この学園は芸術学校における日本の最高峰だ。
そして、そんな学校に入ってくる人間はどいつもこいつも頭のネジが何本か抜けちまっているような人間。創作のために色んなものを費やさないと生きていけない、そんな狂ったような人間ばかりが入学してくるこの学園において、総代というのはその学年で一番成績の良い人間のことを指す。
実技試験において、一位の実力を発揮し、その代のキーパーソンになることが確定する、そんな化け物。創作において言えば化け物揃いのこの学園において頭一つ飛び抜けた作家になることが確定するといってもいい黄金ルート。それが総代だ。
有名な作家で言えばウチのジジイも絵画科の初代の総代だったらしいし、学園長もそうだ。総代になった人間はほとんど必ず、その優れた才能を十全に発揮して世界を塗り替える作品を仕上げる。
だから、総代はある程度のワガママが許され、ある程度の自由が効くのだ。
まぁ、この学園の入試で一位を取るようなやつは自分の分野の創作に全てを賭けてきたような気狂いばかりだから、創作の授業なんて与えずとも作品を作らずにはいられない。授業というカリキュラムで縛り付けるよりも、各々の好きに創作に打ち込ませた方が合理的であると考えられているのだろうが。
兎にも角にも、総代という存在はこの学園の生徒から見ればある種の憧れすらもある人間なのである。
創作における、一握りのエリート。
各学科に学年で一人ずつしかいない天才だ。
「嘘なんてつかないよ失礼な。ボクは倫理観の強い人間なんだよ?」
「倫理観の強い人間はネットストーカーなんてしないんだよ」
へ~? と頭が悪い言葉を伸ばしているコイツの顔をボコボコにしてやりたいと思いながらもグッと堪える。流石に暴力はまずい。ここは穏便に腹パン辺りでどうだろうか? と考えていると、教室の前に辿り着く。どうやら相当に考え込んでいたらしい。
「キミのクラスはここ?」
「お前まだついてくんの?」
ひょこりと俺の後ろから顔を出してきた柊と名乗る少女に冷たい視線を投げかける。
そんな視線をとうの本人は全く気にしていないというような表情で物珍しそうに視線を教室の方に向けた。
「なんかウチのクラスと変わんないね?」
「どこも大体一緒だろ」
「この前見た彫刻科は石像がめっちゃ並んでたけど」
「あそこはまぁ……」
柊に疑問の視線を向けられて返答に困ってしまう。彫刻科は何というか他の学科と違い
まぁ、そんなことをわざわざ解説してやる義理もないので言わないが。
まだギリギリ授業時間にならない休み時間と授業時間の間の空き時間を謳歌するように廊下には人が溢れかえっていた。いや、こう言うと誇張表現なんだけど、それでもそこそこの数の人間が廊下で各々会話をしている。
別に廊下に出る必要なんてないのだろうがそれでもわざわざ廊下に出る辺り廊下には学生を惹きつける力があるらしい。
柊がねぇねぇ、どこがキミのクラス?と言いながらついてくるのを適当に躱しながら人を避けて歩いていくと、その先で特に大はしゃぎしている一団を見つけた。見間違えるはずもない金髪。石岡とその取り巻きだ。
「お、これはこれは。蓮じゃん。今日は良い絵が描けたかな?」
「いちいち喧嘩売らないと気が済まないのか?」
目敏く俺のことを見つけた石岡がニヤニヤしながら絡んでくる。俺が休み時間から戻ってくるとこれだ。コイツは俺に喧嘩を売らないと死ぬのだろうか。
「あ? ……なんだ?女引き連れてんの?」
ケラケラ取り巻きを連れて嬉しそうにはしゃぐ石岡の顔につい舌打ちが出てしまう。そんな俺の態度が気に入ったのか石岡はさらに顔を歪ませると(この時の石岡の顔はまるでピカソの『ゲルニカ』が如く歪んでいた)嘲笑を滲ませた顔のまま口を開いた。
「喧嘩にもならないんだろう?」
「………… 」
先日俺が言った言葉を仕返しのように言いながら石岡が取り巻きに視線を投げる。そうすると取り巻きがドッと声を上げた。いっそわざとらしいほどの嘲笑である。そのけたたましい大声は廊下どころか教室にまで響いてなんの関係もない生徒がこちらに視線を送ってきているのが開いたドア越しに見えた。
その視線の中には椰子馬の顔も見える。
「キミの友達かい?」
今の会話のどこにその要素を見出したのか分からないが柊がそう尋ねてきた。
「俺に友達はいない」
「え、ボクがいるじゃん」
「脳内お花畑なのかテメェ…… ?」
「ボクはチューリップが好きだからチューリップ畑がいいな」
どこまでも見当違いの言葉を重ねてくるこの馬鹿のことをどうしてくれようかと考えていると石岡が柊に向けて人好きのする笑顔を向けた。
「ところで、貴女は何組の子なのかな?この学年の生徒は全員覚えているつもりだったんだけど……貴女のような可憐な人は見たことがなくて……そこのとは知り合いかな?」
石岡が手に薔薇でも持っているのかとでも言わんばかりに大げさな動作で柊に近づく石岡。
そこの、というのはもちろん俺である。
さて、柊はどう返すのかと巻き込まれた彼女に横目を向けてみると、彼女はそれを無視して慌てたように俺の方を向いた。
「あ!チューリップの花言葉は『愛の告白』だけど、全然そんな意味で言ったんじゃないから勘違いしないでよね!」
「どうでもいいわ」
石岡を無視してビシッと俺に人差し指を向けた彼女につい笑みがこぼれた。
言い訳しておくとこれは彼女の言動に笑ったわけではなく、ここまで見事なスルーを決め込まれた石岡を哀れんでの嘲笑である。存外俺も性格が悪いらしい。
「あの、無視しないでいただけると」
「ん?あぁ、ごめんね?ボクはまぁ……重くんのクライアント……相棒…… 友達……?」
「全部違うけど。さっき知り合った他人だろ」
というか百歩譲っても相棒とか友達って言えるほどの関係値ないだろ。文字通りさっき知り合ったんだぞ。お前、アトリエのドアぶっ壊してるし、最大限譲歩しても他人だろ。譲歩しないなら敵。
「あぁ、名前名乗っておくね。ボクは高等部からの新入生で、文学部の
「文学部の柊!?」
クラスを含めてザワつくのが分かった。何やら好機の視線の数が増えて絡みつく。他クラスの人間までが身体を乗り出してこちらを見ていた。
「あれ?ボクってば有名人なの?」
「おい、俺に聞くなよ。わかるわけないだろ。友達がいない人間が噂なんて知ってると思うか?」
「それもそうだね」
なんかそれはそれで嫌な反応だな。こう、自分で言うのは良いけど人に言われるのは嫌みたいな。
「そうか!貴女が柊さんか!入学実技試験満点の逸材だね?」
石岡が興奮冷めやらないとでも言うように鼻息を荒くして柊に一歩詰め寄る。
「おぉ、重くん。どうやらボクは有名人みたいだ」
「みたいだな」
周りの反応を見ていれば嫌でもそのことが分かる。柊はものすごい有名人なのだろう。
だから何だという話ではあるが。その評価は最大限の譲歩をして他人、譲歩しなければ敵であるという俺の評価をひっくり返すだけの力はない。
「どうしてそんな柊さんがこんなところに?蓮なんかと関わってもいいことありませんよ?」
石岡が俺と柊の間に立つようにしてその柊の視線を遮る。
「ボクが重くんに依頼を出したくてね」
「こんな奴にですか?この学園きっての落ちこぼれですよ?」
チラリと後ろを見るようにして俺に視線を投げかけてくる。そして鼻で俺のことを笑ってから彼女の方に再度視線を向けた。
「そんな奴よりもオレの方が実績もあります。どうでしょう?貴女の依頼、オレに任せてみませんか?」
石岡が言葉を言い切るよりも前に教室の中へと歩を進める。正直付きまとわれて迷惑しそうな雰囲気がしているのだ。石岡であろうともその要素を取り除いてくれるのであれば感謝するべきかもしれない。
「オレの方がいい絵が描けます。依頼ならオレにすればいいのでは?」
引き抜きそのものはこの学園で比較的よく見る光景である。それに俺が了承をしていない時点で俺たちの関係値は雇用関係ではない。引き抜きという言葉も正しく当てはまらないかもしれない。
「ん~。ごめんね?ボク、重くんのファンなんだ。だから彼に頼みたいかな」
ファンじゃなくてネットストーカーだろうが、という言葉をかけようか迷ったが、やめておくことにした。俺は空気の読める男なのである。
空気が再度ざわつく。わざわざ実績もある石岡ではなく俺のことを選ぶなんて物好きな選択をしたのだ。彼我の実力差をよく理解している人間から動揺するのは当然のことであった。
「ごめんね?ご要望に沿えなくて」
「アハハ、なに。すぐに振り向かせて見せますよ」
彼女が申し訳なさそうに笑うと石岡が気丈に胸を張った。女子から黄色い悲鳴が上がっているがまぁ、告白のような光景に見えなくもない。
そうだとすればコイツフラれたことになるんだけど、分かった上で騒いでいるのだろうか。
それならそこそこ残酷だと思うんだけど。
楽しそうに騒ぎ立てる奴らを教室の中から眺めると廊下にいる石岡と目が合った。
ギリッと歯を噛みしめた石岡が俺のことを睨みつける。そんな目で見られてもいい気味だとしか思えないのだが……。
教室に入ってきた石岡が俺の席の横を通過する。
「なんでお前が……!」
「知らねぇよ……付き纏われてるだけなんだから」
俺からしてもなんで俺のファンになったというのか全くもって分からないくらいなのだ。むしろ、ここで石岡の誘いを蹴ったことで本当に俺のファンであるということに信憑性が出てきたくらいでほとんど信じていなかった。
ジジイとのパイプくらいにしか俺のことを考えてないと思っていたくらいだ。
ネットストーカーまでされて恐怖しているのはこっちだ、何故というのはこちらが聞きたかった。
「というか重くん! 放課後はアトリエにいるよね!」
「いません」
「わかった!じゃあここまで迎えに来るね!」
彼女を拒絶するために適当な嘘を口にするも彼女には全く聞かなかったらしい。むしろ迎えに来るつもり満々というように笑顔で退路を塞いでくる。
「じゃ、またあとでね!重くん!」
「来んな」
俺の言葉を無視して柊は授業開始のチャイムの音と一緒に駆け出していく。
このときは彼女に絡まれることの重大さをまだ、測りかねていたのだ。
俺はこの後しばらくして、柊という人間に、ネットストーカーまで行うような奴に絡まれるとはどういうことなのかということを身をもって知ることになる。