創作学園へようこそ!   作:波間こうど

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天才とは、

 

 ライブハウス、というと人を寄せ付けない場所のイメージがある。

 

 陽気な人間の集まる場所。非合法が蔓延している場所。というように錯覚してしまうが実際のところはそんなものでもないそうだ。

 薬物やアルコールを摂取してハイになった人間ばかりで、刺青をバチバチに入れた人間が大人数の中にダイブする光景が連日連夜繰り返されている…… というのは物語の中だけのフィクションだそうで、最近はそんなイベント自体が少なくなってきているとかなんとか。

 そもそも、このご時世。規制の厳しい世の中でそこまでチャレンジ精神が旺盛なものは淘汰されていくらしい。そんなジャンキーがたくさんいたようなハコは潰れていって今や見る影もないそうだ。昔はあったんかいというツッコミはさておき。

 

 というのは横で楽しげにライブハウスの説明をする柊の談だ。

 まぁ、その手の話に疎い俺でもなんとなく地下にあって厳つい形相のおじさんたちがタバコ咥えながら女性の話なんかしているという雑な偏見を持っていたくらいだ。世俗に詳しい人ならもっと具体的なものを想像するだろう。

 俺みたいに絵を描くことに生涯を捧げていたような人間とは一生縁がないと思っていた場所だ。足を踏み入れるのに少し緊張していた俺の緊張を解くように柊が説明してくれた。

 得意気に説明してくれた柊はと言えばライブハウス代はどうやら柊姉が出してくれたらしく、バーカウンターにもなっている受付を通る際に「お代は頂いています」と綺麗な女性に言われてからずっと上機嫌である。鼻歌まで歌ってご機嫌だ。

 

「重くんは音楽好き?」

「好きも嫌いもないな」

 

 思いついたかのような柊の質問に我ながらそっけないなと思いつつそう返す。まぁ、興味があまりないといえばそれまでだが、こういう音楽が好きな人が集まる場所でそういうことを言わない程度の良識なら俺にもあった。

 

「バンドのライブって初めて?」

「まぁ、音楽を普段から聞かないからな」

「え、じゃあメジャーバンドのライブも見に行ったことないの?」

「ない。そんな時間があれば絵を描いてる」

 

 事実である。絵を描いてる時間が多く、普段は音楽なんて滅多に聞かない。たまに家族がリビングで流しているテレビの歌番組を流し聞きする程度のもので、音楽という芸術ジャンルに対して、ほとんど知らなかった。造詣が深くないと言い換えてもいい。ジジイが好んで聞くクラシックには少し明るいが、それでも音楽好きを自称するほど聞きこんでいるわけでもない。

 

「ふむ、なるほどなるほど」

「なんだよ、変な顔しやがって」

 

 得意気なしたり顔をした柊が胸を張る。

 

「じゃあ音楽童貞はここで捨てるわけね」

「ハハハ、次その手の冗談言ったら帰るからな」

「冗談じゃないよ!本気だよ!」

「帰ろ」

 

 振り返って帰ろうとすると顔が柔らかいものに衝突した。人に当たったらしいということに気づいて咄嗟に謝罪する。声が上から聞こえてきた。

 

「お、重どした?」

「…………柊、姉」

 

 後ろに立っていたのはいつの間にか背後にまで迫っていた柊姉であった。彼女の背の高さは俺より頭二つ分ほど高い。ということは、今、当たったのは……。

 ジッと柊姉を見る。すると俺の視線の意図に気づいた柊姉が体をくねらせながら艶っぽい声を出した。

 

「いや〜ん。重ってば、役得だな」

「…………」

「あ、重くんが今にも自害しそうな顔してる」

「お前もアタシに対して大抵だけど、お前の彼も相当だな。似た者同士め」

「あ、重くんが今すぐ自決したくて短刀探してる」

「ライブハウスでハラキリショーする気か?ロックじゃねぇか……」

 

 俺の顔を見ながら二人がコント始める。俺がぶつかったのは言うまでもなく柊姉だった。いや、今ちょっと考えうる限り最悪の方法で柊姉が姉であることを理解したのだけど、ここが暗い場所でよかった。顔熱い。

 

「あ、重赤くなってる。お姉さんのおっぱいに当たって恥ずかしくなったか?」

「違うよ。ボクがずっと腕に絡みついてるからだよ」

「それなら昼に会ったときから顔真っ赤だろ」

「そうだったでしょ?」

「顔面蒼白、ガチで嫌そうな顔してた」

「うそ」

 

 うそ、とか言ってるけどガチだ。ちゃんと死ぬほど嫌で血の気が引いていたまである。そして柊姉の言ってることも合ってるので是非とも顔を凝視するのをやめていただきたい。本当に。

 

「ま、折角来たんだし楽しんで行ってくれよ」

「姉ちゃんの性格とかはともかくバンドはカッコいいから」

「言ってくれるなぁ〜。こう見えてもインディーズだと結構人気なんだぜ?」

「インディーズでは、でしょ。さっさとメジャー行けばいいのに」

「そう簡単にはいかないからメジャーってのは価値があるんだよ」

 

 柊姉がハンとでもいうように鼻を鳴らす。インディーズやらメジャーというのはよくわからないがなんとなく意味はわかる。つまるところプロなのかプロじゃないのかということなのであろう。画家にもある。絵で生計を立てられる人間と立てられない人間。

 

 俺は、後者だった。

 

「ま、見てなよ。いいか? 音楽の聞き方を教えてやる」

 

 柊姉がニヤリと笑う。その笑顔には、どこか惹きつけられるような魅力が備わっていた。

 

「好きに聞きな」

 

 手を振って人混みに消える柊姉の最後の言葉がどうも耳に残った。

 

 

 

  × × × × ×

 

 

 

 人が増えてくる。先程までとは違い、人数はおよそ百に迫るだろう。もしかすると百すら超えるかもしれない。

 人口密度が高くなるにつれて前の方に押し出されてしまう。気がつくと俺たちはライブハウスの超ど真ん中に来ていた。

 

「なんだこの人数……」

「そりゃ人も集まるよ。人気バンドだからね」

 

 柊が俺の腕に絡み付きながらそう言った。その顔はどこか誇らしげだ。

 

「人気バンド?」

「そ。姉ちゃんのバンドはライブハウスを拠点に活動して、最近はその圧倒的な実力とビジュアルで人気を博すガールズバンド」

 

 バッ! と示し合わせたかのように真っ暗なステージをライトが照らした。そこには柊姉、ベーシストのツキナさんを含めて合計四名の女性が立っている。一番後ろにいる座った女性が木の棒を数回、叩くのが見えた。

 

「ハクロウ」

 

 音が、鳴る。

 それは、音の噴火だった。

 まるで、音が爆発したような、そんな姿だった。まず、溶岩が飛び、傾斜を駆け降りるような音の落石、次いで、細やかな塵が空までひらりと広がると、まるで世界を覆い尽くすかのように他の音を遮断していく。景色は色とりどりのライトで埋め尽くされ、耳にはもう、音しか、届かない。

 

「楽しんでいこうぜ!」

 

 そこに俺は聖女が、軍を鼓舞するかのような幻覚を見た。拳を上げる柊姉を、ウジューヌ・ドラクロワの描いた『民衆を導く自由の女神』の姿に幻視する。

 生まれた時代も違うければ、テーマもきっと異なっている。彼女たちが奏でるロックのサウンドというやつはどう聞いても絵画のモチーフになっている「平和」や「博愛」というイメージとは結びつかない。

 

 どこか暴力的な、不平等な、圧倒的な音の圧力。「平和」や「博愛」なんて程遠い、壁を壊すような、どこか「侵略」とか「伝達」とか、そういった強いメッセージ性を覚える。しかし、彼女たちの音楽の中に俺は確かに幻視した。

 

 それはきっと、テーマ性や、そこに共通点があったというだけではない。

 もっと根本的なナニカ。

 

 音楽に、絵画を見た?

 

「…………」

 

 後で聞けばその時の俺はとても滑稽な顔をしていたという話だった。口を開けて、金魚が餌を待つかのようにステージを、たった一メートル上のステージを眺めていたということだった。

 

「ボクが絵を描けるならキミのことを描いてただろうね!」とヘラヘラ笑う柊の言葉がなんだか心に残った。

 

「…………すげぇ」

 

 音の波は、俺を飲み込んで、揉みくちゃにして、ぐちゃぐちゃにして、悩みも、全部流し去るみたいに流れた。

 濁流で、清流で、ただ、そこに在る大きな流れは、俺たちのことを押し流してさらに先まで進んでいく。そんな、芸術。

 ……これが芸術?

 

「おい! つまんねぇ顔してんな!」

 

 ビシッと柊姉が俺に向かって指を向けた。そしてニヤリと笑う。

 

「好きに楽しめ!」

 

 その手が六つの弦を弾く、音が変わる。

 色が変わる。

 世界が、変わる。

 音に殴られながら、俺は頭の奥底で、何故だか遠い夢を見ていた。

 

 音楽の授業はこんなにうるさくなかった。小学生の時の合奏はここまで激しくなかった。人数だってあの時の十分の一にも満たない人数だ。

 

 なのに、柊姉たちの奏でる音楽は、空間を支配して、音を支配して、脳裏を支配して。

 いつの間にか俺たちの身体を貫いて、遥か彼方へと連れて行く。

 半ば拉致に近い。芸術とはこういうものかと思わざるを得ない。

 

 昔、こういう経験をした。どこでしたんだっけ。

 そう、それは遥か過去、夢の中。

 

 なんだっけ、確か──。

 

『重。お前は天才でなければならない』

 

 あの絵を見たときだ。

 

「……ッ!」

「重くん? どうかしたかい?」

「ん……あぁ、うん。別になんでもない」

 

 嫌な記憶だ。

 どいつもこいつも、俺のことを天才じゃないと口にする。

 そんなことは俺が一番理解していた。俺が一番俺のことを理解しているから。

 彼らの言葉が正しくて、俺の才能がないってことは正しいのだろう。

 きっと天才というのはこういう人間たちのことを言うのだ。

 

 音が流れて、照明が目を焼いた。何度も、何度も繰り返される濁流のような音の波に、柊姉の歌声が重なる。

 

 俺のことを貫いて、なおも前まで飛んでくるような、そんな歌声だ。

 初見の人間でも関係ない。人のことを魅了する歌声。センス、カリスマ性。それが集約されて、俺の目の前で形を成している。音が彩りを携えて踊っている。

 こういうことが、当たり前にできる人間が天才なのだろう。

「歌えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 柊姉の声に合わせてパンパンな会場で、スピーカーから拡張された音に張り合うような音が鳴り響いた。それは、この会場の人たち全員の声。

 

 数百人の人間が彼女たちの歌を覚えている。

 優れた芸術が多くの人間に周知され、固定の人間に支持されている。

 それは芸術の一つの在り方だ。

 

「すげぇ……」

 

 自分の作った芸術でここまで多くの人と一つになれる。それはきっと、ものすごく素敵なことなんだろうな、だなんて思った。

 

 天才を見ている。

 

 (ひいらぎ)筆理(ひつり)

 

 音楽の天才は、自身の美しい歌声を枯らしながらも観客の心に、俺の心に、歌を届ける。

 長いと思っていた一時間という時間はあっという間に過ぎ去って。気が付いたときにはライブは終わってしまっていた。

 

 

 

  × × × × ×

 

 

 

「重!どうだったよ。私たちの音楽(えんそう)は」

「正直、音楽を全く聴いて来なかったので良し悪しが分かりませんでしたね」

「率直な感想それかよ!」

 

 プラスチックのカップを片手にゲラゲラと笑う柊姉は、たくさんの人に囲まれていたとは思えないほどケロッとした顔で俺の横にまでやってきた。

 

 人混みに巻き込まれたらめちゃくちゃ疲れると思うんだけどあれは俺だけなのだろうか?

 なんであんなにステージで動き回って、終わってからもたくさんの人に囲まれたのにピンピンしてんだよ。体力おばけか?

 ……変なところで柊との類似点を認識しちゃったな。

 

「まぁ、でもカッコよかったろ?」

 

 柊姉はカップの氷をカラカラと鳴らしながら俺の横に立った。壁にもたれかかるようにして俺を上から見つめる。

 俺が何というかなんて分かりきっていると言わんばかりの顔だ。

 

「……なんでそんなに自信満々なんですか?」

「なんでって……どういうこと?」

「自分の作品になんでそんなに自信満々なんですか?」

 

 言葉が突いて出た。

 口から飛び出した言葉が失言であったことに気付く。ハッとした俺はその発言を取り消そうと再度口を開こうとして。

 

「自分たちが自信のない音楽やるなら、やらない方がマシだよ」

 

 柊姉の温度の籠っていない言葉に二の句を告げ無くされた。ヒヤリと、身体を言葉が舐める。どこかあっけらかんと放たれたその言葉には彼女の人生を賭けたような重みが乗っていた。

 

「芸術だぞ。少なくとも作者だけは胸を張って、どうだ! すごいだろ! って叫ばなきゃ誰も見てくれねぇよ」

 

 プラスチックのカップの中に入ったお酒をくぴりと口に含んでから前を向く。柊姉のその目は、遥か遠くを見ているようだった。

 

 俺のことなんて忘れて、俺に話してることなんて忘れて、ただひたすらに前だけを見ている。

 自分に何千回も言い聞かせてきた言葉なのだろう。自分に何億回と刷り込んできた言葉なのだろう。その言葉は一種の実感を持って俺に意味を伝達した。

 

「ただでさえ、現代は山ほど芸術に溢れてる。身近なものだと漫画やゲーム。数百円で買える娯楽から、三千円から五千円払って、足を運んでライブハウスや美術館まで、腐るほど溢れ返った娯楽と芸術の中でファンをつけようと思うのなら、自分たちの芸術を見誤っちゃいけない」

 

 カップの酒を空にして、氷を口に入れてから噛み砕く。そして言い放った。

 

「自信のない芸術は、誰から見向きもされねぇよ」

 

 その言葉は、まるで俺のことを指しているように感じた。

 

「…………」

「悩んでんだろ? 蓮重(はすかさね)

 

 いつの間にかプラスチックのカップからビンのお酒にお供を変えて、柊姉は俺に問いかけた。

 図星だ。俺は悩んでいる。何に悩んでるのかもわからないくせに、一人前に悩んでいるのだ。

 

「つまんねぇことでウジウジ悩むな。お前がどう思おうと、お前にファンは一人もいないのか?」

 

 肩を組んでくる。アルコールの匂いが微かに香った。それと…… 淡いハチミツの香り。甘ったるい、女性の香りだ。

 

「……実は私、天才じゃない方の人間なんだよ」

「え……」

 

 柊姉のセリフについ視線を上げてしまう。彼女の瞳は依然遠くを見つめている。

 

「勉強も運動もなんでも出来たんだけど。こと音楽に関してはからっきしでさぁ、ギターがそれなりに弾けるようになるのに人の何倍も時間が掛かったし、歌なんて昔のやつは聞けたもんじゃないんだぜ?」

 

 笑えるだろ、なんて言って柊姉はグイっとお酒を煽る。

 そんなはずはない。彼女が天才じゃないなら、他の誰が天才なんだ?

 というか、ならどうして彼女は自分の音楽(芸術)に自信を持っているんだ?

 

 天才じゃない人間は全員、自分の作品に芸術なんて持っているわけがないのに。

 

「でも、天才がどんだけこの世にいたところで関係ないだろ? 私たちが作りたいもの、内側で滾るこれが形を成して、誰かに届けばそれでいい。そんな承認欲求から生まれたものが人と人を繋げて、形を成していくんだよ」

 

 チラリと視線がこちらを向いた。

 

「作りたいから。……私なら歌いたいからやってんの。それに自分が自信を持てないとか、かっこ悪い通り越して心底ダサいよ」

 

 色付きサングラスの奥に、アイツと同じ琥珀色(トパーズ)の瞳。

 

「教えてやるよ、重。現実は甘くねぇけど、見る目がある(・・・・・・・・・・・・・・・・)。ウジウジしてるだけの奴に

チャンスは訪れねぇよ。いい加減前を向け、クソガキ」

 

 その言葉は、どうしてかストンと胸に落ちた。言葉だけ聞いたら綺麗事でしかない。それでも、なんでか、その言葉が胸に刺さる。

 

 それは彼女が俺と同じ天才ではない人間だからか?

 それとも、他の理由か?それは分からないけど。

 けどわかることは、今、ぼんやりとしたナニカが形を成そうとしているということ。

 

「お前の描きたいものはなんだよ」

「俺の…… 描きたいもの……」

 

 その言葉によってモヤモヤした塊が急激に輪郭を帯びた。具体的な形を成して俺の前に姿を現わす。

 

「なんで、お前は絵を描いてんだ?」

 

 その問いは予想外のものだった。確かにそうだ。なんで俺は絵を描いているんだ?

 

 ジジイのことは嫌いだ。絵を描いていたって心は休まらない。

 

 これだけ失敗してきたらもう誰も俺になんか期待していない。

 

 俺が絵を描く理由なんて、もうないんじゃないか?

 

 どうして絵を描いているんだ?

 

「ヷー! 姉ちゃんが重くん誘惑してるー!」

 

 人混みの奥から大きな声が聞こえた。そちらに目を向けると柊姉のバンドメンバーに揉みくちゃにされている柊が見える。いつの間にか髪の毛が結ばれ、ベースを首から引っさげているところを見るに随分と着せ替え人形にされたらしい。今も柊姉に詰め寄る最中髪の毛編み込まれてるし。どんだけ遊ばれてんだよ。

 

「あぁ?誘惑なんかしてねぇよ。悪りぃけどタイプじゃねぇし」

「ハァ⁉こんなにカッコいいのに!? 見る目ないんじゃないの!? そんなだから毎回彼女にフラれてるんだよ!」

「よーし、姉弟(しまい)喧嘩と行くか。手加減なんてしてやらねぇから。ボコボコにしてやる」

「望むところだ! そのヒョロ長い体でパンチ打てんのか!?」

「お前こそヒラヒラした服着て、パンチの打ち方知ってまちゅか〜?」

 

 ギャイギャイと罵り合う柊と柊姉をぼーっと眺めながら考える。柊姉の言っていた、俺の描きたいものについて。

 俺の描きたいもの、俺だけが描きたいもの。俺だけが届けたいもの。

 それは、一体なんだろう。

 音が随分、遠くに聞こえる。

 

「お、やれやれー! 喧嘩とナンパはライブハウスの華だぞー!」

「ウチの箱はそんな治安が終わってるライブハウスとは違います! 営業妨害で訴えるわよ!?」

 

 目の前で起こっているキャットファイト(片方は女装男子、片方は男装女子)を見ながら考える。今まで、俺はなんで絵を描いてきていたのだろうか。俺はなんで絵を描こうと思ったのだろうか。俺が絵を描く理由は?なんで絵を描くんだろう。

 

 俺の原点は、どこにあるんだろうか。

 

「重くーん! もう無理だよー! 逃げよー!」

「おいコラ逃げんな!」

 

 俺が思考の海の中に沈んでいるといきなり腕を掴まれた。グンッ! と強く引かれて荷物ごと無理矢理足を前に引き摺り出される。

 俺の腕を掴んだのは柊らしかった。涙目で、大きな瞳から今にも溢れんばかりの涙を蓄えている。

 

「ちょ、柊……?」

「ばーかばーか! 姉ちゃんのアホ! 姉ちゃんなんてまたバンド優先して彼女にフラれればいいんだ〜!」

 

 そんな捨て台詞を残して柊は階段を一段飛ばしで登って行った。目元を拭うために俺の手を離していたから俺のことを置いて行ってしまう形になってしまった。

 なんで俺の腕掴まれたんだ?

 

「えぇ……?」

「兄ちゃん! 走って彼女ちゃん迎えに行けよ!こういうときに放置すると女は怖いぜ!」

 

 ゲラゲラ笑うアルコールの過剰摂取で顔が真っ赤になっているオジサンの言葉を無視して、柊姉の方に顔を向ける。そして深々と頭を下げた。俺は礼儀を大事にする方なのである。

 

「柊のお姉さん。ありがとうございました」

「礼はいいからさっさと追いかけろ。アイツへなちょこだからちゃんと送ってやってくれ」

「はぁ……」

 

 この人姉だよな? なんで弟が家まで送って行ってやれなんて言われてるんだ? 普通逆では? ……いや、この姉弟に関しては今に始まったことじゃないけど。

 柊が駆け上がっていった階段に足を掛ける。段差が急な階段を薄明りの中なんとか上っていこうとすると背中に柊姉の声が届いた。

 

「あと、重!」

 

 先ほどとはまた違うお酒のカップを持ちながらニヤリと笑う彼女が見える。

 

「お前の絵を楽しみにしてるのは鈴里だけじゃねぇぞ?誰がアイツを美術館に通わせたと思ってんだ」

 

 ……その言葉で、柊の言葉を思い出す。確か、「家族に送ってもらった」って言ってたな。何度も通い詰めるほど、送って貰ったと。

 

柊一家(ひいらぎいっか)はお前の絵を楽しみにしてんだよ」

 

 ヒラヒラと俺に手を振る彼女は、とてもさっきまで自分の弟と取っ組み合いの喧嘩をしていた人に見えなかった。もっと大人な、一人の女性。

 

 カッコいい、芸術家(アーティスト)だ。

 

「さっさと追いかけてやりな。どうせ階段の上で待ってる。寂しがり屋だからな」

 

 もう一度だけ頭を下げてから階段を登る。

 俺もいつか、あんな風にお酒が飲めるようになりたいな、なんて、柄にもなく思った。

 

 彼女は大人だ。俺はまだまだガキで。自分のことしか見えてなくて、ずっと自分のやりたいことの前で立ち止まってるガキでしかない。

 俺もいつか、柊姉のような……筆理さんのような、大人になることができる日がやってくるのだろうか。

 

「遅いよ」

 

 階段を上り切ると、筆理さんと同じ琥珀色の瞳を涙で濡らした柊が体育座りで待っていた。グスンと鼻を鳴らしながら半泣きでこちらを見ている。その姿は幼児を彷彿とさせる。

 

「……お前は本当にガキだな」

「はぁー? いきなりなにさ!」

「筆理さんとは似ても似つかないって言ってるんだよ」

「はぁー? 何さその言い方! 姉ちゃんの方が……って今筆理さんって言った? ちょっと、ねぇ! どういうこと!? 口説かれた!?」

「違うわ。ほら、とっとと歩け。こんな場所に座り込んでたら営業妨害だろ」

 

 柊が買い込んだ荷物を持ってライブハウスを後にする。俺が駅に向かって歩き出したのを見て、ようやく柊は立ち上がって俺の方へと足を向けた。俺のことを追い越して、ムスッとした顔で前を歩く。

 

「何も本気で殴ることないじゃんね! ボク弟だよ?」

「お前が弟かどうかは一考の余地がないか?」

「弟ではあるよ。ちんちんはついてるから」

「お前ら姉弟はちんちんって言うのやめない?」

 

 道路にある白線だけを追うように、柊が足を縦にしながら俺の前を歩く。その姿はまるで子どもみたいだ。たまにバランスを崩してわちゃわちゃしてる姿なんて未就学児にしか見えない。

 

「それで、次はどこ連れて行く気だよ。もう帰る……ってわけじゃないんだろ?」

「んー? ふふ、とっても素敵な場所さ! キミもきっと気にいる、デートのラストに相応しい場所だよ!」

「……デートじゃねぇよ」

 

 振り返りながら嬉しそうに笑う柊を見て、何とか否定の言葉を吐き出すことしかできなかった。俺が否定する限りはデートじゃねぇよ。

 

 

 

  × × × × ×

 

 

 

「……どこ行く気だ?」

「まぁまぁ、付けばわかるって」

「いや、流石になんとなく察しはついてるぞ」

「キミはサプライズのし甲斐がない奴だなー」

 

 そんなことを言われてもここまで一緒に歩いてきているのだ、どこに向かっているのかなど、俺でなくともよほどの馬鹿でなければ察しがついてしまうだろう。

 駅から山道を歩くこと数分。

 街灯が等間隔に設置されているとはいえ、山道は暗闇に呑み込まれてしまっていた。

 終電だって俺たちのことを運んできた電車が最後で、この先数時間、電車は通らない。

 

 つまりタクシーでも呼ばない限り俺たちはこの山道に置き去りにされるという訳だ。本当にふざけないで欲しい。

 そして、わざわざ電車に揺られ、終電を逃してまで出向いた場所というのも見覚えがありすぎる場所だ。声が荒くなるのも許してほしかった。

 

「……学校じゃん」

「そうだよ?」

 

 降りた駅が駅だから、どこに向かっているのかというのは分かっていたのだが、目的地に辿り着いて、あまりにも予想通りの場所で声が出てしまった。

 

 終電もない中連れて来られたのはお馴染みの創世学園高等部だ。正門はもちろん施錠されていて、職員室の灯りもついていない。文字通り誰もいない学校。

 いや、流石に守衛さんはいるだろうけど、守衛室に灯りがついていないところを見るに見廻中なのだろうか。それでも人が少ないことに変わりはない。

 

「おい、どうすんの? 終電もないんだけど。どうやって帰るつもり?」

「え? 帰らないよ?」

「……は?」

「キミは今から絵を描くんだから」

 

柊はそう言うと正門に飛びかかり、そのままの勢いでヒョイっと乗り越えた。

言うまでもないことではあるが不法侵入である。

 

「は? なにしてんの!?」

「ほら、キミも来るんだよ?早くしなきゃ守衛さんに見つかるって」

「馬鹿かお前! 普通に見つかるだけでも怒られるのに無断侵入なんてバレたら停学喰らうわ!」

「馬鹿はキミだよ。考えなしめ」

「あ?」

「もしこのままバレずに帰るにしてもキミの家までどれだけの時間がかかるのさ。そこまで人目つかずに歩ける? バレたら警察が来て補導だぜ? 大切な勝負の前に補導なんて喰らったらまずいんじゃない? このまま学校に籠るのとどっちが安全?」

「はぁ……?」

 

 確かに、この馬鹿はしてることこそ馬鹿だが……いや、言ってることも馬鹿なことではあるが、しかし、その内容に関しては一利あるかもしれない。

 

 というか、その反論をするつもりで終電もほとんどなくなった状態にしてからここまで俺のことを誘き寄せたと見るべきだろう。これは用意周到に画策された罠なのだ。

 

「ほらほら、守衛さんに見つかる前に早く。大目玉くらうよ!」

「お前、絶対に碌な死に方しねぇぞ…… 」

「堕ちるときは二人で地獄に堕ちようね!」

「巻き込むんじゃねぇよボケカス。ぶち殺すぞ」

「口悪」

 

 荷物を門の向こうにいる柊に渡してから、門をよじ登る。俺たちの身長の二倍は優にある門だが、幸いなことに掴んだり足を引っ掛けたりできる装飾も多く、運動音痴な俺でもよじ登ることができた。

 ゆっくりと音を鳴らさないように着地して、柊と共に物音を立てずにアトリエへと向かう。アトリエなら鍵もあるし籠城するのにうってつけだ。俺がキーケースにアトリエの鍵を着けていることは知っているだろうから、持っていないわけがないと踏んでいたのだろう。どこまでも用意周到な奴である。

 

「大体、絵なんか描けないだろ」

「あれ? アトリエの鍵忘れた? 安心してよ、スペアあるから」

 

……今の発言についても言いたいことはあるがコイツの発言に突っ込んでいたらきりがない。さっきの考察もズレていたことがわかったが、話を先に進めさせてもらうことにする。

 

「絵を描くって言っても電気つけたらバレるだろ。俺は暗闇の中で絵なんか描けないぞ」

「あぁ、そういうこと?」

 

 俺の発言に柊はなんてことはないというように言葉を溢した。そして、さらにセリフを続ける。

 

「守衛さんはこの時間守衛室で爆睡してるだろうからバレないよ」

「は?」

 

 ケロッとした顔で告げられる事実に俺は間抜けな声を溢すのを止められなかった。

 俺のことを無視するように歩いていく柊は俺の言葉なんてどこ吹く風と言わんばかり。

 

「ウチの学校、守衛さん守衛室で爆睡してるんだよね。見回りの時間以外は基本寝てるからその時間だけ電気消してれば基本的になにしててもバレないんだ」

「え? は?」

「アイマスクしてヘッドフォンでお気に入りのASMR聞くのが趣味なんだよ」

「そんな奴に守衛やらせてんじゃねぇよ!」

 

 そこまで叫んでからハッと口を塞ぐ。しかし、声は随分と響いたのに誰かが駆けつけてくる様子もない。それは柊の論が正しいということの証明になってしまった。

「……」

「ほらほら、時間は有限。守衛さんが次の見回りし始める前に仕事するよ」

「お前……騙すのは性別だけにしとけや……」

 

 俺の恨み節は、夜中の風に流されて儚く消えた。

 

 

 

  × × × × ×

 

 

 

 アトリエの鍵を開けて(鍵を開けたのは柊だった。本当に鍵あるのかよ)中に入る。内側から鍵を閉めて、荷物やらなんやらを床において嬉しそうにコンビニで買ったチョコレートバーを取り出して……そして絶句した。

 

「……なにこれ」

「あ? ……あー」

 

 そこにあったのはぐちゃぐちゃにされてしまった絵画だった。絵の中心にバケツでぶちまけられてしまったのかというような絵の具がこびりつき、キャンバスの下はたくさんの絵の具が滴り落ちている。もう既に固まってしまっているところを見るに、随分と前の反抗なんだろう。

 絵の端の方を見る限り昨日まで俺が描いていた絵画と相違ないということがわかるそして柊も俺も当然だが絵画に絵の具をぶちまけたような記憶はない。

 

 つまり、これは言うなれば妨害工作だ。

 

 石岡か、その周りか、誰の犯行かはわからない。そもそも、このアトリエに防犯カメラなんてものがついているわけもないので、犯人を突き止めようがないというのが正直なところだった。それに、絵画に絵の具をぶちまけるのは画法として無くはない。

 

 俺がやっていない、という証拠もなかった。つまるところ詰みというやつだ。

 

「……そういうこともあるか」

「なんでそんなに冷静なの!?」

「別にこういうことは今までいくらでもあったし、明日までに絵を描き上げなくちゃいけないって事実は変わらないだろ」

 

 今までもドアのネジが緩んでたり、取っ手が壊れてたり、窓が外されてたり、アトリエに絵の具がぶちまけられてたり……その手の嫌がらせを受けることは多々あった。わざわざ報告して大ごとにするのも面倒なので今まで無視していたそれが今になってやってきたというだけの話だ。

 

「おかしいじゃん! キミの作品がぐちゃぐちゃにされたんだよ!?」

「うるさいな……だからなんだよ」

「怒るべきでしょ!」

 

 柊が必死な顔で俺に抗議してくる。怒る必要なんてないだろう。今その絵は絵画から『ガラクタ』に変わってしまったのだから。

 

「……怒る労力が無駄だ。そんなことに力を割くなら絵を描きたい」

 

 怒るのも、反応するのも、何もかも無駄だ。本来なら、今日の柊との外出だって意味のないもので、する必要のないものだった。するつもりなんてないものだった。

 それでもなお、俺がこの外出に乗ったのか、本来なら乗らなくていい喧嘩を買ったのか。

 

「…… お前マジでなにがしたいんだよ」

「ん? はい? なにがって……どういうこと?」

 

 柊は惚けるつもりなのか、あるいは本当に素なのか、椅子に座りながらこてんと首を傾げた。そういうところを見るとどうも女の子にしか見えない。なんでこんなにボク悪くないですよみたいな顔できるんだ?

 

「俺のこと脅して連れ出して……今日一日連れまわしやがって。こちとら石岡に勝たねぇと絵描き人生終わるかもしれねぇってところまで追い詰められてんだけど?」

 

 それくらい、この戦いには意味がある。

 

 負けた場合にのみ経歴に残る、大きく、深い傷。

 特にペナルティーがあるという訳ではないこのシステムが、嫌われている理由。

 

それは負けた人間は実質創作家としての生命が絶たれるからだ。

 

画会(セラヴュー)』に負けた人間は、その界隈から足を洗うことが多い。というか、足を洗わざるを得ない、と言った方が正しいのかもしれないが。

 

 それは創作家にとって致命的なとある「呪い」のせいによって。

 

「邪魔ばっかしたんだからその意図くらい聞かせろよ」

「それどころじゃなくない? ん〜……でも、ま、いっか。仕方ないから話してあげる」

「なんで上からなんだよ。普通に話せよ」

 

 イライラして仕方がない。コイツと話していると思い通りにいかないことに腹が立つ。

 自分の思い通りにいかない感覚はどこか絵画に似ているなと思った。

 でも、それよりももっと、身の内側に湧き出てくる、根源的な怒り。

 俺の急かす言葉に観念したのか、柊はもったいぶるように一息ついてから俺に視線を投げかけた。

 

「キミに描かないって選択肢を選んでみて欲しくてさ」

「は?」

 

 コイツの言葉の意味が分からず、言葉が口から飛び出た。

 それを聞いて言葉足らずだったねと柊が言葉を付け足そうと口を開く。

 

「今日、キミは書かないって選択肢を経験してみたわけだ」

 

 描かないという選択。

 

 つまり、絵を描かないという選択をしたのであるということであろう。口で言うのは簡単だ。

 柊の言いたいことは分かる。確かに俺は今日一日筆を握っていない。それは絵を描かないという選択肢を選んだという風に言い換えることが出来るかもしれない。

 

「キミ、今までアウトプット過多だったんじゃないかなって思ってさ」

「アウトプット過多……?」

「そ」

 

 チョコレートバーのゴミをくしゃくしゃにまとめてゴミ箱に投げ入れた柊があっけらかんと肯定した。俺の筆を一本手に取って筆先を眺めながら言葉を連ねる。どっから出したんだ、それ。

 

「ご飯食べてないのにトイレ行かないでしょ? 絵の具つけてないのに絵は描けないでしょ?」

 

 筆をペン回しの要領でグルグルと回しながらそんな当たり前のことを羅列していく。

 

「今日でいろんなもの見れたよね? 服を買って、映画見て、いつもとは違うお店でご飯食べて、人と触れ合って、本を読んで、カラオケで歌って、いつもは行かない場所に行って、バンドのライブまで見てさ」

 

 それは、紛れもなく今日という一日の軌跡。

 

 今日、俺が、柊と一緒に通った軌跡だった。一日の記録、履歴。

 

 その全てが新しいものに触れることだと今、気づいた。

 この馬鹿はそこまで計算していたというのだろうか。プランのうちだったということなのだろうか。

 

 もし、仮にそうだとしたからなんだというのだろうか。

 

「たくさんインプットしたでしょ? たくさんインプットした今なら描けるんじゃない?」

 

 その言葉は弾んでいる。自身が正しい行いをしたと信じて疑っていない声色。

 つまり彼はこう言いたいのだ。ただ、絵を描くだけではなく、様々な経験を糧にして絵を描くのだと。

 

 お前ひとりでは何も生み出せないからもっと他のものに触れて描け、と。

 心の底から湧き上がってくる激情が目の前を支配していく。怒りが喉元まで出かかった。今にも柊の勝手な物言いを止めてやろうと拳を握りしめて──。

 

「描けるさ! なんたってキミは天才なんだから!」

 

 その言葉が、俺の脳を鈍器で殴ったように揺らした。

 あんなに高ぶっていた怒りは引いていき、冷静になっていくにつれて他の怒りが顔を出す。

 

「……天才じゃない」

 

 声が漏れた。

 

 それは酷く、無様な否定だ。

 力ない否定に対して柊が首を傾げる。

 

「? なに言ってんの? 天才でしょ?」

「俺は天才じゃない」

「キミは天才だよ。天才少年蓮重、それがキミじゃないか」

俺は天才じゃない(・・・・・・・・)!」

 

 柊の言葉を強く、強く否定した。

 

 その言葉は、俺がこの世で一番嫌いな言葉だったから。

 

「何怒ってるんだよ……キミが天才なのは雑誌にも、ネットにも出回った事実だ。最高の作品を今まで残してきた天才。それがキミじゃないか」

「違う! そんな奴は俺じゃない!」

 

 俺の否定の言葉を聞きながら柊は負けじと足を踏み出してくる。

 

「そんなキミがちゃんと適切にインプットしたら描けるようになるさ、創作っていうのは生きてきた中で影響を受けたものを束ねて作品を織りなすことなんだから」

 

 悪びれる様子もない柊がそのままこちらを向く。理路整然とされたその言葉は恐らくその通りなのだろうと思う。

 

 でもそれは明確に正しくて、明らかに間違っていた。

 

「ほら、描いてみなよ。描けるだろうからさ」

「うるさいなぁ!」

 

 それは、自分でもわかる、感情の発露。

 そうだ。理論では分かっている。理解ならとうの昔に及んでいる。

 それでも、理解したからと言ってできるようにはならないのがこの芸術の世界だ。

 

 だから、この世界は厳しくて、美しい。

 

 それすらも分かっているのに、俺は美しいものが作れないのだ。

 

 八つ当たりのように言葉をまくし立てる。理解はしていて、脳みそはこの怒りに意味がないことを分かっているのに、止まってなんかくれないのだ。

 

「わかんねぇだろ! 苦しいんだよ! 描きたいものが、内側にあるものが、描けないんだよ!」

 

 それは情けのない独白だった。

 あり得ない程惨めな告白だった。

 これ以上に惨めなことはこの世に存在しない。今の俺からすればこの世で一番醜い生き物は俺でしかなかった。

 いや、本気で創作をする人間なら、誰もがそう思うだろう、無様な告白だ。

 

「吐きそうになりながら、気分だって常に悪くなりながら、寝つきも悪くて、寝起きも最悪で、体調なんて常に悪くて……」

 

 なんて情けのない独白だ。

 この世界で今、創作に携わっている存在のうちで、俺がいちばん情けなくて、カッコ悪くて、惨めで、みっともなくて、底辺にいる絵描きなんだろうと思う。

 涙だって出てくるような気がした。現に、視界は霞んで仕方ない。色は滲んでしょうがない。

 それでも叫ばなくてはならなかった。

 それでも叫ばずにいられなかった。

 美しいものが作りたいと願ってやまない創作家なら誰もが求めてやまない言葉だ。

 

「それでも描きたいんだよ」

 

 声は(かす)れた。コラージュのように暖かく霞んだわけではなくて、もっと、錆びて、色が落ちてしまったかのような、そんな感覚がする。例えるなら、難しいが、そんな声。

 

「情けなくても、天才じゃなくても、描けなくても、描きたいんだ……お前には、わかんないかもしれないけど、それでも……描きたいんだ」

 

 掠れた声を無理矢理柊の鼓膜に届けるつもりで吐いた。

 こんなに惨めで、情けのない、愚かで、無様な独白。

 凡人であるが故の独白。どうしようもない、感情の羅列。

 

 それはきっと、天才(コイツ)には届かない。

 

 届くはずがないのだ。だって、この言葉は、負け犬の、敗者の遠吠えにすぎないのだから。

 言葉が届いても、意味が伝わることはない。

 

 この言葉の本当の意味は、柊鈴里(てんさい)には響かない。

 

 俺の声を聞いて、柊はスカートを翻しながら足を開き、仁王立ちになった。両腕を組みながら鼻から息を吸うと一気に吐く。

 

「ごめん! わかんない!」

 

 それはいっそのこと気持ちがいいほどの返答だった。俺の言葉が、崩れていく。気が付けば口元には笑みが浮かんでいた。

 

「……言い切るかよ、天才が」

「ホントごめんね!」

 

 悪びれているようには見えないようなそんな発言。

 しかし、そんな言葉だったが、不思議と胸は晴れていた。

 視線を上げてみると柊が目を閉じるのが見えた。やけに長い睫毛の一本一本が月光に照らされて光り輝いていた。

 

「ボクにキミの気持ちはわからない」

 

 それは明確な線引きだった。ボーダーが俺たちの間に引かれて、分けられる。

 

 天才と、凡人の差。その違い。

 

 (てんさい)と、(ぼんじん)の違いだ。

 

 この違いが、それだけの違いが、こんなにも近くて、こんなにも遠い。

 

「だから、ボクの気持ちを開示することにするよ」

 

 柊はそう言って鞄の中から茶封筒を取り出した。その茶封筒にはなぜか見覚えがある。

 

コイツ、初めて会ったときもこの封筒持ってたな。……そういえば今日朝俺に見せた号外の束もこの中に入っていたっけ。

 

「……それは?」

「ボクが今まで、キミの絵を見て書いてきた小説だよ。全二八〇ページ、二十万文字くらい?」

「……は?」

 

 柊の言っているの言葉の意味が解らなかった。

 俺の絵を見て書かれた世界。俺の絵だけがモチーフになっている世界。

 俺の絵を見て書いた二次創作。それが、あの紙束の中にはある。

 

『そんなキミがちゃんと適切にインプットしたら描けるようになるさ、創作っていうのは生きてきた中で影響を受けたものを束ねて作品を織りなすことなんだから』

 

 つい先ほどの柊の言葉を思い出す。確かに、コイツはずっと俺のファンであるということを公言して憚らなかった。やけに好感度が高いなというように思っていた。

 

 しかし、まさか、二次創作書くほどだとは思わなかった。

 

「……解釈は自由だと思うから、キミが描いたのと解釈がズレてても許してね?」

 

 恐る恐るといったように柊が上目遣いでそう言うが、正直、そんなことどうでもよかった。

 この、衝撃を処理するのに時間を当てたいくらいだ。

 処理落ちするように固まった俺のことを無視して柊が微笑みかけた。

 

「これは全部、全部、ぜ〜んぶ!」

 

 両手を広げた柊が笑顔で小躍りでもするように椅子から降りた。

 

 一歩、二歩とステップを踏む。

 軽やかな歩みはさながら女神(ヴィーナス)のようで。

 

「ボクから見たキミの物語だ!」

 

 月明かりに照らされながら、こちらに紙の束を差し出してくる姿は名画のように美しい。

 

 ずしりと重いそれを受け取る。

 他人の書いた、俺の世界。

 

「……キミの曇った顔もまぁ、見慣れてないからね。大変悪くないわけだが……」

 

 コホンと、柊が咳払いを一つ打った。そしてニヤリと口角を吊り上げる。

 それは大胆不敵な天女の笑みに見えた。

 

「一度、キミの顔から雲を取り払うとしようか」

 

 その顔は月明かりに照らされて、晴れやかにすら見えた。何故か、あぁ、そんな訳がないのに

 

 まるで、一枚の絵画のようで────。

 

「何言って……」

「読んでよ、今」

「今?」

 

 急な展開すぎてついていけていない頭を無理矢理動かして、かろうじて口から出したのはそんな言葉だった。それがゆっくりと夜の闇に溶ける。

 

「キミ、放置すると読まないだろう」

 

 理由を尋ねるように視線を向けると柊はそう言った。言っていることに心当たりはあるから、反論のしようもない。後回しにしてしまうと、俺は絶対に読まない。

 

「だから、ボクが監視するよ。一晩かけたっていいから…… だから、読んでよ。そのまま感想も聞くからさ!」

「監視って……」

 

 その言葉の通り、柊はそこに座ると、俺を見つめた。その瞳が少し急かすように俺に刺さる。

 その刺さった視線の感覚には覚えがあった。この視線には馴染みがある。この学園に来た人間は誰もが体験する視線。

 

 ……あぁ、コイツも、作家なんだ。

 

 そう思う。創作者で、自分の作品を世に出したいなんて連中はどいつもこいつも承認欲求の塊だ。そうじゃない例なんてあり得ない。全員が全員癖の塊のような、満たされない承認欲求を抱えた怪物(モンスター)

 

 そして、それでいて、その中でも一癖も二癖も自分の作品の「価値」に拘りのある奴らだ。

 

 そうじゃない奴から、堕ちていく世界だ。

 

「ボクの小説を読め、キミの世界を観ろ」

 

 そう、告げてくる声が聞こえた。幻聴なのは分かっている。理解している。それでもその声は耳のうちで弾ける爆竹のようで、体を突き刺す稲妻のような声のように思えた。

 

 それが視線から伝わる。二の句なんて聞かなくてもわかる。

 

「ボクの小説がいちばん面白いから」

『自信のない芸術は、誰から見向きもされねぇよ』

 

 …………作家は、常にそう思ってなくちゃいけない。

 

「……急かすなよ」

「? 何も言ってないよ?」

「はっ」

 

 鼻を鳴らしてから、その視線を小説に向ける。そしてゆっくりとページを捲った。

「……『空を放つ』」

 

 コピー用紙一枚に、デカデカと書かれた言葉。真ん中に配置されたそれがタイトルであると理解するのに数瞬かかった。そして、また、ページを捲る。

 

 読む。

 

 それは、

 それは、世界が塗り変わる感覚だった。

 まるで水でもぶっかけられるかのように、世界が移り変わる。

 夜が明けて、朝が来るようにごく自然にシームレスに世界が切り替わる。

 心情を揺さぶられる。心を掴まれる。

 現実じゃない、ただの文字が描く世界に引き摺り込まれる。

 

  ──海の中に叩き落とされて、星を旅した。

 

 ただの活字の羅列だ。

 

 ──空を泳いで、太陽に恋をした。

 

 ただの、活字の、羅列のはずだ。

 

  ──その中で俺は鳥で、魚で、星で、海で、君で。

 

 でも、そのはずなのに、でも!

 

 心の奥底から感情移入してしまう。

 

 それは感情の奔流だ。濁流だ。無理矢理巻き込んで、俺ごと奥まで、遠くまで流していく。それは完結というゴールまで、いや、読者の感情だけを口にするのであれば、きっとこの濁流は、俺のことを完結という物語のゴールの先まで(・・・・・・・・・・)、連れていくのだ。

 

 読者が主体ではない。主体は物語だ。俺は今、物語に無理矢理、話の続きを読まされている(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 気がつけば、ページを捲ってしまう。

 なんだ? これは。

 

 こんなに面白い物語がこの世に存在してもいいのか? こんなに心揺さぶられる物語がこの世に存在していいのか?体の芯を揺さぶって、身体が熱くなる、そんな、この物語を書いた。

 

 コイツは。

 

 コイツは、なんだ?

 

「はっ……」

 

 息が詰まる。

 あの日みたいだ。

 天才を、自分を圧倒的に超える天才と対面したときの感覚。

 覚えている。身体が、縮む。萎縮する。

 わかる、勝てない。勝てないと、体が、脳が、心が理解する物語。

 

 それでいて、「読む」と「観る」を。

 

 読者にだけ許されたそれらの行為を雁字搦めのうちに閉ざして、鎖ざして、強制するような物語。

 

 ページを捲るという行為そのものを、読者にだけ許された行為を強制する、物語。

 バッと視線を柊に向けた。その琥珀の瞳と視線がかち合う。こんな物語を書いておいて、柊はなんてことのないように笑っていた。薄っすらと笑みを浮かべたまま琥珀色(トパーズ)の瞳が感想を待ち望んでワクワクしているように俺に向けられる。

 

「どうかな?」

 

 これが、学園始まって以来の天才と呼ばれる物書き。

 

「? なんだよ、ボクの顔見て。どうなのか教えて欲しいんだけど?」

 

 (ひいらぎ)鈴里(すずり)

 

 文字書きとしての、化け物。

 物語を産み落とす、神。

 身体を鳥肌が包んだ。身体が、勝ち目なんてないって思ってしまっているみたいだった。そんな悔しいこと思いたくないのに。

 

 それから、腹から湧いてくる言葉があった。それを口に出すのは憚られるところがあるのだけど、……本当に、つくづく業腹なところがあるのだけど、それでも、言わずにはいられないようなそんな言葉があった。

 一言でまとめることができる、そこにだけ帰着する言葉があった。

 

「どうだった?」

 

 読み終わってコピー用紙を机の上にばさりと置くと、再度柊の瞳と目が合った。そして柊はニヤニヤと顔を歪めながら俺の方を見て、そう聞いてくる。

 

「……そうだな。控えめに言って、クソだよ」

「ふふ。へぇ?」

 

 少し意地悪をしてやろうと、ここまで好き勝手に振り回されてるんだ、少しくらい、いい思いしてもいいだろうと「クソだ」と口にしてみるも、柊の瞳は揺れない。こんな冗談では柊の心は動かない。

 俺がつまらない冗談を告げようとしていることが見透かされているようで、いい気分はしなかった。

 

「チッ」

 

 一つ、舌打ちをしてから、評価を改めるように俺は上を向いた。椅子から転げるようにして、背中から地面に倒れる。バターン! と地面が音を鳴らした。

 

 窓から差し込む光はもう、白んでいた。

 

 完敗だ。

 

「控えめに言ってクソ」

「うん」

「クソ面白かった」

「でしょ。当たり前じゃんか」

 

 それ以外の評価なんてあり得るわけがないと言うように、それ以外の評価なんて受け付けたりしないと言わんばかりにない胸を張る柊に少しムカついた。

 

 その自信は、一体どこから湧いてくるのだろうか。

 そんな自信が在ったらどれほど良いだろうか。

 その自信を持ち続けていられるのなら、俺はどれほど──。

 

「……なぁ、お前は俺の絵。上手いと思うか?」

「? 何言ってんの?」

「事実確認だよ。どうなんだ」

 

 体を起こして、目を合わせる。綺麗な琥珀の瞳。

 ここ数ヶ月でやけに見慣れた、柊の瞳。

 柊が少し首を傾けた。

 

「そんなのわかんないよ」

「なんだそれ。わかんないのかよ」

 

 俺の口から不満そうな言葉が漏れる。それを聞いてクスリと柊は笑った。

 

「だけど、キミの絵がいちばん惹かれた」

「は?」

「上手いとか、下手とか。それが芸術? いや、それも立派な芸術だと思うけどさ……」

 

 柊は笑いながら言った。

 

「技術以上に人の心に残るものが芸術なんじゃないの?」

 

 その言葉が胸にスッと、まるで日差しのように突き刺さる。

 そうだった。上手い絵を描こうとしなくていいんだ。技術の上下ではなくて、表現の上下にこそ、俺の描きたいものがあったんだ。

 自分の描きたいもの、それが身体中を駆け巡る。早くこの身体(おり)の中から出せって、イメージが暴れる。

 

「キミの絵が一番惹かれたんだよ」

 

 まるで水の中から引きずり出されるような感覚と言えばいいのだろうか?

身体中にまとわりつく嫌なモノがなくなって、身軽になるような感覚。一気に息がしやすくなる感覚。視界が晴れていくような感覚。それが、あった。

 

「世界一だよ。だからボクが声をかけたのさ」

「そうか」

 

 それは、俺の口から漏れたなんて信じられないほど気の抜けた声だった。まるで、諦めるような声だ。気が抜けたような声と言い換えてもいい。

 

「そっかぁ……」

 

 頭をかく。乱雑に、そして大きく声を上げた。

 それは、自然に、飛び出していた。

 

「アーハッハッハッ!!」

「!?」

「そっか! 俺の絵に! 惹かれたのか!」

 

 今にして思えばこんなに簡単なことはないと思う。俺の原点はそこにあったんだ。

 ずっと、その言葉が欲しかったんだ。

 その言葉しか要らなかったんだ。

 その言葉を聞くためだけに、毎日毎日、寝る間も惜しんで、絵を描いてきたんだ。

 

「柊」

 

 気が付けば声が出ていた。でも、出ることも当たり前であるように思えた。腹の内側からから、これがしたいって感情が湧いてくる。創作意欲が湧き上がってくる。

 

「なに……? 気が触れた……?」

「お前の小説の挿絵」

 

 指を突き付けた。体中が理解している。

 この失礼な言葉を吐く奴が、天才なんだってことを理解している。

 コイツは確かに、筆理さんの言う通り、馬鹿で幼稚で、仕方のないやつで。

 それでいて、確かに、確かな天才なのだ。

 

「描いてやる。世界でいちばん、いいやつだ」

「……! そうこなくっちゃ! 頼むよ! ()!」

 

 柊が今日一番の笑顔を見せながらそう言った。

 

 

 

  × × × × ×

 

 

 

「じゃあ、差し当たっては、直近の仕事だけ終わらせるか」

 

 立ち上がって真っ白なキャンバスのシュリンクを剥がした。それを台に立て掛けて、何を描こうか考える。

 

 この時間は、苦手だった。何を描いたらいいのかわからないから。

 

 練習しなくちゃいけないことならいくらでもある、動物の絵が特に苦手で、動きがない、のっぺりとした絵になることが多かった。つまらない絵だと自嘲してしまうほどの出来の作品ばかりだ。

 

 あるときは鳥を描いた。今にも落下しそうな、痩せ細ったカラスだった。

 あるときは魚を描いた。今にも水流に押し流されてしまいそうな鮎だった。

 あるときは人を描いた。星を旅して、太陽に恋をした少女を描いた。

 

 行間なんてない。ただ、俺が描けそうだと思ったものだけ描いた。

 

 全部全部、ジジイにつまらない、見るに耐えない。お前に才能はないと言われてきた作品たちだ。

 

 そんな作品たちを、愛してくれた人がいた。

 

 少しだけ美術館で展示されただけ。それも物珍しさだけ、そう言われていたのに。才能が枯れ果てた「元」天才。そんな風に言われてきたのに。

 

『世界一だよ。だからボクが声をかけたのさ』

 

そう言ってもらえたんだ。

 

「なぁ、ジジイ」

 

 アンタは上手くない絵に価値はないって言うんだろうな。下手が描いた絵に意味はないって言うんだろう。きっと、そういう言葉すらも許される。それほどのキャリアと実績があるんだろうと思う。

 

 俺みたいな奴は、アンタからすればド下手くそで、何の価値もないような奴なんだろう。

 

 そうだと思うよ。それが俺だ。蓮斜陽の失敗作、蓮重だ。

 

 蓮家の落ちこぼれ、蓮重(はすかさね)

 

 そんな俺はなんで絵を描いていたんだろうか。

 今まで、なんで辞めてこなかったんだろうか。

 やめるタイミングなんて山ほどあった。そのどれをも俺は絵を描くという選択肢を選び続けた。

 それは何故なんだろうか。理由はあるのだろうか。

 

 考えたって答えのない問いだと思ってきた。描かなくちゃいけないから、胸の内を吐き出す場所をキャンバスにしか求められないから、俺は今まで絵を描いてきたんだと思っていた。

 けど、そこに答えはあったのだ。

 

「アンタがたとえ俺のことを認めなくても関係ないんだ」

 

 そんな、自分を今捨てる。

 俺は蓮斜陽の孫、蓮重じゃない。

 俺はただの絵描き小僧の蓮重だ。

 ファンが一人、俺のために二次創作を書いてくれる。人気画家だ。

 

 それが、蓮家の落ちこぼれじゃなくて、零細人気絵描きの俺なんだ。

 

「……だから、期待には応えなきゃな」

 

 筆を握った。

 一日。

 たった一日。だけど、それだけの時間でも筆を握らなかったことなんて、多分、人生で初めての経験なんじゃないだろうか。小学生の頃の修学旅行は一泊二日だったし、帰ってきてからは絵を描いていたし、中学校の修学旅行は普通に絵を描くような環境整ってたし……。

 

 だから、初めて。

 

 俺は初めて丸一日絵から離れたんだ。

 

「…………あれ?」

 

 ふと、自身の握った筆に違和感を覚えた。筆を見る。いつも使っている筆に変わりはない。

 でも、体が訴えかけてくる。

 

 五感が研ぎ澄まされて、今なら何でもできそうな気がする。そんな気がしてならない。

 こんなに、細かったっけ。筆って。

 こんなに空気は静かだったっけ。

 こんなに、絵の具とニスの匂いは、鼻についたっけ。

 

 こんなに──。

 

 絵を描かなくちゃ(・・・・・・・・)じゃなくて(・・・・・)絵を描きたい(・・・・・・)って思ったの、いつぶりだっけ。

 

 つい口の端に笑みが溢れた。

 もう、迷わない。

 指標は、ずっと心の中にあった。表面が煤けて見えなくなってしまった方位磁針(コンパス)指す方角が、俺の向かいたい先だった。

 

 だから、迷わない。

 

 筆先につけるのは赤。自信を乗せる。常に胸に巣食っていたネガティブな感情を吐き出す。

 筆先に乗った赤を真ん中に叩きつける。次に、青、紫、黄色、なんでもいい、ある色を混ぜろ。

 絵の具の意味とか、絵画の価値とか、そういうのも大事だと思う。その絵画の芸術性、モチーフ、あり方、独自性、この学園で学んできたことは、学術的な意味は、常に存在していて、それは重視されるべき事柄だと思う。

 

 でもそれよりも大事なものは常にあった。見失っていた。それを教えられた。

 だから、もう、迷わない。

 

 筆はいい。

 

 羽のように軽いこれを使っている時、俺は常に身体中が浮遊感に包まれているのを感じることができていた。

 

 そうだ、俺は楽しむために絵を描いてたんだ(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 生まれて初めて見た湖を写し取りたくて、筆でジジイの真似事をした。

 

 初めての人物画は母親だった。初めての静物画は母の好きな蓮の花だった。

 

 思い出す。今まで、描いてきた絵を思い出している。心の内側の深い所に埋めていた、たくさんの感情。たくさんの色。たくさんの景色。たくさんの人。

 全部忘れていた。描いたものは頭から捨ててしまっていた。どうでもいいと思っていたから。

 

 傑作以外に価値なんてないと思っていたから。

 

 でも違う。それは全部、俺の歩いた道なんだ。

 

 筆が動く。

 

 宙を吸い込んで、大地を飲み乾して、まだ、乾いて仕方がない心を満たす。

 筆を水に浸けた。すぐさま取り出してパレットの上に叩きつける。絵の具を着けて、またキャンバスに色を加える。

 

 今回描くのは、閉じ込められた鳥の絵。

 

 鎖を引きちぎって、空に飛び立ちたいと月に恋したよだかの絵。醜いといわれた口を大きく開いて、自由を、満たされない自由を、求めている。

 

 小さく歪な翼を広げて、自らを縛る枷を引きちぎり、今にも飛び立とうとする勇士。

 あの活字に負けないように、描写できないような、思いつかないような、そんな世界に飛び立つようなそんな姿を描くのだ。

 

「アハハ」

 

 気が付けば、声が漏れていた。

 

 自分では気が付かなかった。頬についた絵の具を乱暴に拭って、そのまま額を流れる汗を拭き取る。

 

 楽しい。

 

 楽しい。

 

 楽しい! 楽しい! 楽しい!

 

「アハハハハハハハハハ!」

 

 体が歓喜に打ち震える。わかる。体が思い出している。

 

 俺は勝つためとか、芸術的に価値があるものを描かなければいけないから、みたいなことを原点に据えて描いてたんじゃないんだ。

 

 俺は。

 

「柊!」

「うぇ?」

 

 思わず振り返った。どこかぼんやりと放心状態といった柊と目が合う。

 

「ありがとう!」

 

 感謝を伝えなければならない。心の底から湧き上がってくるこの感情を柊に伝えなければならない。悔しいけど、完敗だ。

 

「こんなに絵が楽しいの、久しぶりだ!」

 

 表情筋が一気に躍動する。顔が笑顔から戻らない。

 

 また、キャンバスに向き合う。絵を描く。

 

 心の内側にある感情を吐き出すように。

 

 ただひたすらに。

 

 

 

  × × × × ×

 

 

 

 実感があった。

 予感がしていた。

 

 ボクからすればその直感が外れることなんてありはしないと思っていたから、この状況においては、ボクはいつも通り正しい直感だったわけだ。この手の直感を、生まれてこの方、ボクは外したことがない。

 

 初めて、彼の絵を見たのはどこだかの美術館だった。

 

 至って普通の、一般的な絵画と同じように飾られていた彼の作品を見て、当時のボクはとある感情を強く胸に抱いたことを覚えている。

 

 それは、『恐怖』。

 

 身体中から血の気が引くような、それでいて身体の奥底から、魂から激情が湧いてくるような、ただ、感情を揺さぶられるような絵画だった。目から、視覚神経を通って、脳髄を犯して、身体中の温度を奪っていく。

 次いで、ボクの身体を沸騰させるほどに熱くして、その後、身体中に鳥肌を立たせたかと思えば、嫉妬すらも抱かせた。そんな作品。

 

 一人の少女の横顔、それが、そこにはあった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 まるで、物語のヒロインのようだった。

 その場に飾られているどんな作品のヒロインよりも、魅力的だった。数多の女神(ヴィーナス)なんかよりも、数多の偶像の美女(アイドル)なんかよりも、その横顔にだけボクは焦がれていたのだ。この作品を見るためだけに、ボクの足はこの美術館に出向いたのではないかとすら思えた。

 

 ストーリーが、彼女のことを形取るストーリーが脳裏に展開された。彼女の今までとこれからをそのストーリーが描いた。何にも、考えようとしていなかったのに、ちっとも、考えてなんかいなかったのに。言葉じゃなくて映像でその作品が彩られていく。まるで、コマ送りの映像のように、ボクの心を埋めていく。

 

「……蓮、重」

 

 作者はそういう名前だった。

 そのあと、ボクと同い年で、齢(よわい)にして六つの頃、この作品を描き上げたのだということを知った。

 

 この人の絵に物語をつけたい。そう思った。

 だからボクは物語を書く作家になった。

 そのために、創世学園(ここ)に入学した。

 

 そこで、彼と出会った。

 

 そして、今、そんな彼が絵を描いていた。

 

 色の奔流。表現の渦。感情の波。そして、それは物語の海だった。

 

「あはは……すごいや」

 

 キンパツの言う天才じゃないだなんて、嘘だ。

 

 天才とは。

 

 人とは違う人、天性の才能を持つ人。

 

 そして、人々の心を、動かす人。

 

 そこに物語を生み出す人。

 

 筆が動く、色が動く。

 

 陽の光に照らされた彼が紡ぐ物語。

 それが、ボクの視界を灼いた。素晴らしい。なんだこれは、なんだこれは!

 創作意欲が湧き上がってくる、心の内側から物語が噴き出してくる!

 

 輪郭が濃くなっていくたびに、内容が深まっていく度に、ボクの心が踊った。

 

 天才を、見ている。

 

 ありふれた、一般的な枠からはみ出した天性の、天凛の、天賦の才能を見ている。

 

 蓮重(はすかさね)

 

 絵描きとしての、化け物。

 物語を描き出す、神。

 

 身体が実感を持っていた。ここから、彼の物語が始まるとわかってしまっていた。ボクの心が理解していて、きっと、今、起きてきて木の枝の上で鳴いている小鳥だって祝福の歌を歌っているのだと錯覚してしまうほど、この朝日が神からの祝福に見えてしまうほど。圧倒的なことがわかってしまった。

 

「アハハハハハハハハハ!」

 

 彼が笑い声を上げる。楽しそうに描く。

 

 その姿が、服に絵の具が跳ねても気にしないで筆を使い続けるその姿が、まるで少年のように──。

 

「柊!」

「うぇ」

「ありがとう!」

 

 彼が後ろを振り返った。頬にも絵の具をつけた、悪戯っ子みたいな顔で。

 

「こんなに絵が楽しいの、久しぶりだ!」

 

 胸が疼いた。

 

 ボクの物語が面白いのなんて当たり前だ。彼の描いた物語を描写して抽出しているわけだから、面白くて当然だ。入試だって、初めて彼の作品を見た時の面白さを丁寧に描写しただけ。

 

 それだけでしかない。

 

 でも、それでも、ボクの小説で心が動いた人がいるのだ。

 

 そう思えば、なんだか体が熱くなってきた。顔にも熱が籠る。そうか。

 

「……ボクはこんなに嬉しいのハジメテだよ」

 

 笑みが溢れた。

 ボクの書いた物語は人の心を動かしたのか。

 永遠のようにも感じる一瞬。彼が筆を自由に動かすのを見ながらボクは、胸を抑えていた。

 胸を穿った衝撃の余韻を抑えるように、ただ、ずっと。

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