『さぁ! 始まりました! 今回の画会は注目カードです! まさしく九ヶ月ぶりの大勝負! 複数の依頼をこなし! 全日本油絵コンクールでの入賞も記憶に新しい絵画科一年石岡くん! そして祖父はあの絵画の重鎮! 蓮斜陽! 今や堕ちた天才だと揶揄される少年! 蓮重! さて! 今回の画会はどちらの少年が勝つことになるのでしょうか! 実況は私!
なんだか随分一方的にも感じる紹介文が挟まって、俺たちは廊下から中庭へと足を踏み出した。中庭にいるのはマイクを持った実況担当の朱鳥なる人物の声だ。俺の説明が弱そうすぎるだろ。一応勝者になる男だぞ。失礼な説明しやがって。
「お前のその余裕な面ももう終わりだな」
「あー、うんそうだな」
石岡が何やら皮肉(らしき言葉)を吐きかけてきたが、それを無視して採点を下す学園長たちを見つめた。俺たちの前に長机を置き、雁首並べているのは学園長を筆頭に文学科の学部長に有名絵画コレクター、最近はVtuberの担当絵師というイメージの強いSNSフォロワー三十万人超えのイラストレーター、それから音楽科の顧問教諭……一人だけでもその道の人が緊張する人が勢揃いだ。どうやって集めたんだよ。石岡の人脈謎すぎるんだけど。
正直脚がすくむのを治めるために一番見慣れている学園長に目を向けると、目が合った学園長が手を振ってくれる。あぁ、うん、どうも……なんか気まずそうに手を振るのやめてもらってもいいですか? 僕が昨夜どんな失礼をかましたっていうんですか?
この学園の校舎は以前も説明した通り五角形のような形をしていて、その内側には中庭が存在する。この形はいつぞやに『
窓にもたれかかりながらニヤニヤしつつこちらを見ていた。何見てんだテメェ。
『さて! 世紀の一戦となり得る今回の画会! 勝者は天才か! 元天才か! 運命の絵画発表です!』
絵画が生徒の手によって運ばれてくる。そこに掛けられた布を剥ぎ取られる形で絵画は公表されることになるのだ。それを、多くの生徒が、そして審査員の先生方が見るという形で披露される。そこまでは誰も絵画を見てはいけない、そこで初めて絵画を見たときの初見の感想こそが、分析こそが、この場における絵画の価値となる。
前回と同じだ。
「負ける準備はできたか?」
「そんなものしてるわけないだろ」
当たり前の話だ。
俺の作品が一番優れてるんだ。誰の作品よりもいいものなのだ。
だから、負ける準備なんてする必要はない。
「どんな妨害をされようと、どれだけ俺がスランプだろうと、お前なんかに負けないよ」
なんでこんなにこいつにイライラしてたのかわかった。
俺は、俺の作品を貶められるのが、心の底では嫌だったんだ。
プライドが傷つけられるのが嫌で、どうしようもなく不快で、それを自分の実力で跳ね除けられないのが苦しくて、だからこそ、自分の作品を自分で下げて、自分の子を愛することをやめて、ただ作品として、低い価値がついてもいいように貶めていたんだ。そうする方がダメージが少なくて済むから。
だから殻に閉じこもって誰からも攻撃されるような、孤独を演じていた。自分のことを、自分の作品を信じられないからこそ、そうやって無様に隠していた。
でも、そんなのもう捨ててしまうんだ。
俺は、俺の作品を……
だから、負けないんだ。俺の子は。
「負ける理由がない。俺の作品は最高だから」
自信を持って、そう言うんだ。
『さぁーて! 皆さま準備はできているでしょうか! それでは両者絵画、お披露目です!』
その言葉とほとんど同時に布が捲られて──。
× × × × ×
絵が、展示された。
その時点で、勝敗は決していた。
音が止んで、嘲笑は消えて、世界は凪いだ。
これを文学的に表現するのはどうすればいいんだろう。これを音楽的に表現するのはどうすればいいんだろうか。これが映画なら、これがミュージカルなら、これが物語なら。
表現の仕方がわからない。どう表現することにも限界というものがある。与えられたものの、芸術の枠組みの中で、それを表現するのならば、常に誰が創っている、誰が表現しているに関わらず、ただ、不可能な領域というものが存在している。
ただ。他のジャンルならばどうだろうと関係ない。
これが絵画ならきっと────。
「…………は?」
その言葉は誰の口から発せられたものか。
いま横にいる石岡の口からかもしれないし、それとも校舎にいる生徒の口からかもしれないし、もしかするその両方の口からかもしれなかった。
それが驚きの感情であろうことは手に取るようにわかった。
理由は簡単だ。俺の描いた絵が、石岡の描いた普通サイズのキャンバスではなく、その大きさの優に二倍以上にもなるサイズのキャンバスに描かれていたから。
F50号。キャンバスのサイズとして、展覧会などで用いられる、プロでも描き上げるのに何日も掛ける、いや、掛かる絵画だ。油絵ならば絵の具が乾くのにすら時間がかかる。
いや、それすらもペテンだ。普通なら、乾くのに数週間、長くて数ヶ月掛かるのが普通のこの絵画は正しく
ひたすらに大きなキャンバスに彩られた檻から飛び出して羽を広げる鳥。醜くても世界に羽搏こうとする、よだか。
黒く艶めく羽を広げて、折れ曲がった嘴は閉じて、前を向く。醜いと、蔑まれたその鳥は檻を抜けて、先へ、高い高い空へと飛んでいくのだ。
ただそれだけの絵だ。そんな絵ですら、人の心を動かすことができるのが絵画だ。
人の心を動かすのが、
「なん……は? え?」
「時間があったからね。余裕を持って描き進められたよ」
これは皮肉でしかない。本来であれば時間をかけて、何時間も思考を重ねて描かなければいけないものだ。それが当たり前だ。時間がもとからなかったことを差し引いてもここまで書き上げたばかりの作品というのも珍しい。公募ギリギリに乾いていない絵を出す人はいれど、このサイズで全くそこまで考えていない人はいないだろう。
アトリエから近くて、この学園でしか扱わないということを理解していたが故の荒技だ。
……それもこれも俺のアトリエの扉だけがどこかの誰かに壊されて大きく開く扉になっていたからこその、幸運に幸運が重なったが故の出来事だったのだけど、このことに関しては絶対に感謝してやらない。
これを見ている人間もこれが経った一夜で描いた代物であるなんて考えてもみないだろう。俺だっていまだにおかしいと思うよ。
アタリだって取ってない。構想も取ってない。ただ、思いついたまま、その筆に願いを載せただけ。上手くいったけどここまで上手くいくことなんてあり得ないんだ。普通なら。
だけどできてしまった。それが答えだった。
今回の作品は傑作だ。たった数時間しか描いていないさ。それでも、それでも俺の作品の中でも傑作だ。
他の誰が何と言おうと、俺の作品が負けることなどあり得ない。
「お前の絵は……!」
「俺の絵は? 何だよ、言ってみろ」
自分の作ったものに自信がない創作家なんていてはいけない。自分の作ったものに自信を持てない人間なんていらない。
「違う、お前は天才なんかじゃない……オレの方が、オレの方が……!」
「……天才ねぇ」
石岡の発言はもっともだろう。ここ数年においては彼の方がよっぽど称賛されてきていた。
たくさんの実績を残して、たくさんの人に自身の作品を届けてきた。
きっと、その点で見れば、俺よりも彼の方がよほど優れた創作家なのだろう。
でも、天才という意味ではきっと異なってくる。
「天才っていうのは画家……ひいては創作家としてのものだよな」
なら、彼はきっと創作家としては天才の部類には入らない。
停滞してしまった人間は天才になることは、
「天才っていうのは生まれつき他とは違う才能を持つ人間。天才っていうのはバズッたことのある人間。多くの人に天才である認められてた人間」
天才の定義というものは曖昧だ。様々な定義に答えはない。
「天才っていうのは自分の芸術を曲げない人間? 全部違う」
言葉として存在する天才という言葉は誰もが使用することが出来るもので、誰のことでも形容できる言葉で、その人のことを端的に表すことが出来る単語でしかない。
そんなたかだか単語に三年もの間縛られていた俺が言うのもなんだけど、俺の辿り着いた天才という言葉にこいつは当てはまらない。
「天才っていうのは、産み出し続ける人間だ」
天才という存在はどこか椅子取りゲームに似ている、と俺は思う。
暗闇の中で行われる参加人数も、椅子の数も不明な椅子取りゲーム。ひょっとすると、もしかすると、ゲームとして成り立っていないかもしれない、椅子取りゲーム。
ただ、そこに座っている人間だけにスポットライトが当てられる。無慈悲なゲーム。
座り続けるためには描き続けるしかない。作り続けるしかない。
そこに座ることが出来る人間は、生み出し続ける人間。
それだけが、椅子に座る権利を得るのだ。
「他人と違うものを表現する人間だけが、無数にある天才って椅子に座ることができるんだ」
持論でしかない。それに、こと天才という言葉を表現するのであれば、人の数だけ表現方法があって然るべきだと俺は思う。
きっと、俺や柊の言う天才の定義は違う、学園長の言う天才の定義だって違う、ジジイが言う天才の定義だって俺とは違うのだろう。それでも、俺は間違っていないというような自身があった。生み出し続ける人間だけが見つけられる世界が存在するのだと、俺は知っているから。
石岡の歪む顔が見えた。自信満々のその面が歪む瞬間をずっと、見たかったのかもしれない。高笑いや、嘲笑でもなくて、ただ微笑む。
「これが天才の定義だ」
俺の言葉に石岡の顔がさらに、歪んだ。
『さ、さぁ!審査員の皆さまよろしいでしょうか!』
司会の少女の大声が響いた。身振りも大げさに、大きく手を振ると、マイクを握り直してさらに言葉を繋ぐ、その顔には下馬評をひっくり返された驚きが広がっていた。
事実、この場に集まって、この『
なぜそう思うのか? 誰もがこの判決を最早認めてしまっていたからだ。
この戦いの結末が見えてしまっていた。最初に言っただろう。絵が公開された時点で勝敗は決まっていたのだ。
『この度の戦い! 絵画科高校一年生である二人の戦い! その判定が出たため発表いたします!』
ざわついた校内がその一言で静けさを取り戻す。誰かが生唾を呑む音が聞こえた。
石岡から視線を外す。もう、前しか見ない。
「ま、俺も最近気づいたんだけどね」
『審査員票数
小さな過去の清算が終わった。これでようやく前に進める気がする。拳を握りしめて上に向けて突き出した。
あの日、俺は割れんばかりの拍手を聞きながら俯いていた。涙は出なかったのに、歪む視界が少し不気味だった。あの日を、覚えている。
その、清算が今終わったんだ。
『天才、返り咲くー!』
ドッ! と歓声が沸いた。
その歓声が俺に向けられているのは明らかだった。久しぶりに浴びる歓声は心地よくて、それでいて俺の作品を世が認めたのだという優越感は、三年間で乾き切っていた俺の心の飢えを満たしてくれる。
きっと、俺はこの瞬間を忘れない。
誰かに認められるために創作をしていたわけじゃないと気付いたけど。それでも、認められるというのはいいことだ。俺が認められることも、俺の作品が世の人々に褒められることも心地がいい。
創作に囚われた人間は、人に褒められるということに多かれ少なかれ依存していて、大なり小なりのプライドを持っている。
歓声が聞こえて、それに応えるように控えめに手を振った。
学校の人々をグルッと見渡していると文芸部棟の方に柊を見つけた。
Vサインをこちらに向けている。顔には満面の笑顔だ。窓枠から身を乗り出すようにしていて、それを友人だろうか? が後ろから支えている。……危ないな、スカートの中見えるぞ。
「どうして……! お前なんだ!」
その涙声は後ろから聞こえてきた。目を赤くした石岡が俺のことを強く睨む。
「オレの方が才能があった! オレの方が多くの人から賞賛された! お前みたいな一度輝いただけの男じゃなくて! オレは! ここ数年一番を譲ったことなんてなかった! オレは! ……オレは……!」
その先の言葉は出てこない。それはそうだろう。勢いよく飛び出した言葉の数々は、形を成すにはまだ熱すぎる。はらわたの中で煮えくり返っている感情と思考は言葉にするには時間が必要なのだ。
冷静に、考えることが出来るだけの時間が。
俺はそれに三年も掛かった。
「オレの絵がお前よりも劣ってた?そんなわけがない! アレを描くのに、俺は半年の時間をかけたんだ! 全日本で銀も獲った! オレの才能を証明した作品だ!」
それは自分が才あるものであるという照明だったのだろう。彼の全身全霊をかけた作品であるということは明らかだ。生半可な努力や、才能で取ることが出来るほど、全日本は甘くない。
だけど、負けた。だからきっと石岡の頭の中では努力が否定されたような感覚に陥っているだろう。
「……お前の絵が悪いなんて俺は思わないね」
俺の言葉に彼の肩が揺れた。
「けど、俺の絵の方が上だった。実際、この勝負は一人なら勝てなかった」
「……合作か!?」
石岡の声が大きくなる。この場において合作はどう考えてもルール違反だからだろう。
「合作じゃない。正真正銘、この絵は一人で描いた。ただ、孤独に描いたわけじゃない」
この絵は一人で描き続けていた俺との決別だ。愚かで、矮小で、孤独な俺との別れ。
「気づいたんだよ。俺の描いた絵は、俺がこれから描く絵は今まで描いてきた俺の絵の先にいて、今まで描いてきた俺と、俺は今の絵を描いていて……」
今 まで過去に描いてきた絵は失敗作だと思って生きてきた。描いた意味のない失敗作。ゴミ、そう思うことでしか心を守れない、弱い作家だったのだ。
俺だけは自分の作品に自信を持たなくちゃいけなかったのに、それが出来なかった。
そんな自分に気付くことが出来た。
「俺が描く絵ってのは、今まで俺が見てきたものの先にあって、それは俺だけの力で描いてきた絵じゃないってことに、気づいたんだよ。だから、一人で描いてるお前より、俺の絵の方が『いい絵』だった」
それだけのこと。それでいて、
それがわかる作家が、天才と呼ばれる作家になるきっかけを得るのだと思う。
「だから、今回は俺の勝ち」
まだ校内は大きな歓声に彩られている。しかし、もう少しすれば人もまばらになって、そのうち下校時間になるだろう。それまでに帰りたい。絶対に面倒な絡まれ方するし……。柊とか絶対に来るじゃん。話は早く切り上げたい。
「次、またな」
「………お前の! そういう余裕ぶったところが!」
俺の背中に石岡の怒号が届く。悔しそうな顔をしているのは見なくても分かった。
「斜に構えたところが!大嫌いなんだよ!」
「……俺はお前のそういう熱いところ嫌いじゃないよ」
振り返って、一言だけ告げてから、俺は校舎の中へと続く渡り廊下に足を踏み入れた。
× × × × ×
「……なんとかなったかな」
溜め息を吐きながら締めていたネクタイを緩めた。そりゃ、トラウマを一つ乗り越えたに等しいのだ。緊張が緩みもするだろう。
「ほんと、何度夢に見たかわからないからな……」
三年前。中学一年の俺が負けた日。
あの日の判定を思い出す。完膚なきまでに叩きのめされた日のことを未だに思い出す。判定は全票取られての負け。あの日から俺は思うように絵が描けなくなった。
「そう考えると石岡には悪いことをした……気もするけど今までのこと考えたらいい気味なのか……?」
不思議と石岡に対する怒りは薄かった。創作のことについてもそれ以外のことについても自分の中で踏ん切りがついたからだろうか。それとも別の理由だろうか。
しばらくの間、彼は眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。創作をする人間がぐっすり寝ることができることなんて稀だと思うけど、さらに眠れなくなると思う。
これは、創作をする人間の魂を賭けた戦いだから。
廊下を歩く。世界が華やいで見える。俺は随分と浮かれていた。ただの白とベージュの壁に、緑色のタイルを敷き詰められた廊下ですらも今は彩度が上がって見える。
「さて、アトリエに戻って絵を描こうか」
大きく伸びをする。本当にあの夜からアイデアが溢れて止まらない。いくらでも描ける気がしてならなかった。今すぐに作業に取り掛かりたい。
ほとんどスキップに近い浮き足だった足取りでアトリエに向かおうとすると、そんな俺をシャンとした声が呼び止めた。
「この度はおめでとうございます」
同時に手を叩く音が後ろから聞こえてきたと思えば、そこには学園長が立っていた。……さも当然のようにいるけどさっきまでそこにいなかったよね? この人普通にこういうことするから怖いんだよな。当たり前みたいにヌッと現れてくることあるし……なんかこう、居なかったはずなのにいつの間にかそこにいるみたいな……。
は? 化け物か? 幽霊とか妖怪の類?
「幽霊や妖怪ではありませんよ」
「……俺、いま口に出してましたか?」
「顔に書いてあったので」
どんな顔してたんだよ、という言葉をグッと胸にしまって学園長と向き合う。この人にこういうところがあるのは今に始まったことじゃないので、今更口に出してしまったって仕方ない。
すぐ俺の表情を読み取って感情を浮き彫りにしてくるのだ。
……いつもはこの人に見られているのがなんだか嫌で、見初めてくれたのに価値のない作品ばかりを描いている自分を見せたくなくて、そんな大層な人間ではないってことがバレる前に、俺の態度で離れていってくれないかと思っていた。
ずっと反抗的な態度をとっていたのは、それが理由なんだってことが今になってわかる。
この人だけは、ずっと、俺の絵を面白いと言ってくれていたから。
「石岡くん相手に大勝利。随分と自信になったのではないでしょうか」
「そうですね。今回はいい作品が描けたと思うので。石岡に勝ったことよりそっちの方が自信につながってますかね」
「あら、謙虚ですね?」
「俺のことなんだと思ってるんですか?」
何やらインタビュー染みた質問に返答すると返ってきたのはそんな言葉だった。俺のことを本当になんだと思っているのだろうか。
「そりゃあもちろん、天才少年、蓮重くんだと思ってますよ」
「天才少年って……それいつまで引っ張るんですか?」
「いいじゃないですか。事実でしょう?」
天才少年という肩書きが嫌いだった。
ジジイの孫であるってレッテルの最たるものだったし、俺の作品を待っている人がいるわけでもないのに、俺という人間をジジイの作品としてフィルターを通して見ているあの言葉が嫌いだった。上手い絵を描けても当たり前、下手な絵を描けたら期待外れ。そういうことが一目でわかるあの言葉が嫌いで仕方がなかった。でも、今は少し違う。あの言葉自体は好きにはなれないけど、少しだけ……。
『ほんと天才だね!』
少しだけ、図に乗り直してもいいのかもしれない。
「そうですね。俺は天才らしいですよ」
その言葉に、学園長の瞳が驚いたように少し開いた。その視線が俺の体を貫く。
ピリリと、肌に電流が走った様なそんな感覚。
「なるほどなるほど。柊さんとの出会いがいい方向に作用したようですね?」
えも言わぬ違和感。緊張感。それが俺の身体を包む。
……なるほど、そういうことか。
今、合点がいった。
俺はずっと、この人が俺になんでこんなにちょっかいをかけてくるのかって、本当にずっと疑問だったんだ。名声なんて無くなって、いつからか誰もが一発屋だなんて呼ぶようになっていた俺のことを気にかけ続けていたのはなんでなんだろうかって思っていた。
その理由がわかってしまった。
俺はずっと、この人にずっと。
品定めされていたんだ。
ゾワリと身体が震えた。わかる。理解してしまう。今、俺は、見られている。
学園長、舞島卑弥呼。ではなく、
「合格です」
「ッ……」
半歩ほど身を引いた。その蛇のような目つきが俺のことを捉えている。
蛇に睨まれたカエルよろしく、その場に固まってしまう。体が錯覚してしまっているのだ。
震えてしまうのだ。一歩でも動いたが最後。
この人に頭から呑み込まれてしまうのではないかと──。
「……そんなに怯えた顔しないで欲しいんですけど」
開いていた数センチ分の瞳を閉じて学園長が不貞腐れたように頬を膨らませた。おい、糸目キャラが開眼するのは覚醒の時だけにしろ、あと、俺の母さんと同じくらいの年齢なのにそんな顔するな。どう見ても二十代くらいにしか見えなくて脳みそが混乱するだろうが。性癖が歪んだらどうしてくれるんだ。
……柊の押し付けてくる漫画のせいでなんだか変な知識が頭を巡るようになったな。
「そりゃ、数年越しにその瞳の真意がわかりましたからね……ビビリもします」
「別に深い意味はないですよ?」
「獲物を狩るみたいな目してましたよ」
「失礼しちゃいますね」
ムスッとした顔をした学園長がどこか可愛く見える。そんなところからインスピレーションが湧いてきた。
……あんなに描けなかった絵がスラスラと描ける。あんなに沸かなかったイメージがドバドバと湧いてくる。
不思議だ。何かにつけて、全てのものにインスピレーションを得られるようになっていた。
絵が、描きたい。
……でもなんかこれでインスピレーション受けてるの嫌だな。こう、癪というか。
柊にも結構振り回されてたけど、この人には時間で言えば何倍もの時間だる絡みされてきたんだよな……しかも結構私利私欲ぽいんだよな……うわ、めっちゃいやだな……。
俺がうーん、と唸っていると学園長が興味深そうに首を傾げた。
「……なんだか重くん、明るくなりましたね」
「? そうですか?」
「えぇ、少し前までは死んだ顔をしていたんですけどね」
「……死んだような顔ではなく?」
それだと比喩じゃなくて死んでることになるんだけど…… ?
「はい、死んだ顔をしてました」
「どんな面してたんだ俺……」
酷い顔をしていた自覚はある。
あの夜から少しばかり顔色が良くなった気もするが、そこまで終わっていたのだろうか?
そういえば柊も俺の顔についてやれ「目つき直せ」だの「クマを取れ、寝ろ、最悪コンシーラーしろ」だの言ってきていたけど。そこまで終わった顔してたのか。過去の写真とかないからわからないな。比較できない。
後コンシーラーってなんだ?
「さて、そろそろお迎えが来たようですよ」
「はい?」
学園長の言葉に素の反応を返してしまう。すると、廊下の奥からローファーが元気よく地面を駆ける音が聞こえてきた。そして曲がり角から飛び出してきたその姿にようやくその正体を視認する。もちろん、柊であった。
柊が弾丸のように俺の腕目掛けて突っ込んでくる。それをいなそうとするも失敗に終わってしまった。俺の腕に絡みついた柊が嬉しそうに声を上げる。
「
「引っ付くな!」
この声もどうやら聞こえてないらしい。随分とご機嫌な耳をしているようだ。
まぁ、コイツの場合は頭までご機嫌なので今更な話ではあるのだが。
「なになに! 学園長先生と喋ってたの?」
「世間話だよ」
俺の言葉に柊はふーんとさして興味もなさそうに返した。本当に興味なさそうだな。なんで聞いたわけ? 聞かなくて良かったくないか?
「先生、重貰っていいですか! 今から祝勝会するんで!」
「は? 俺聞いてないんだけど」
「姉ちゃんがはよ連れてこいって! さっきも見にきてたんだよ?」
「あの人来てたの……? 暇なの……?」
「大学生なんてみんな暇なんだよ」
「それは世の中の大学生に謝れ」
柊の失礼な言葉を訂正する。すると
「俺別にいいんだけど。絵描きたい」
「日々の生活の中にインスピレーションのチャンスがあることを知ったばっかりでしょ! もっと色んなこと知らなきゃ!」
「それはそうだけど……本音は?」
「姉ちゃんが焼肉奢ってくれるって!」
「お前マジで食うことばっかり考えてるな」
というか、前は筆理さんと飯食いたくないって言ってなかった?と思いつつ反論はしないでおく。柊、楽しそうだし……。ん? 俺も結構コイツに毒されてるのか?
俺としてもスランプを解消してくれたという恩は感じているのだ。その恩で好感度が少し上がったのであろう。うん、そういうことにしておく。
「それじゃ! 学園長先生! 重貰いますね!」
「はい。美味しいご飯を食べてきてくださいね」
「俺あんまり乗り気じゃないんですけど……」
いつの間にか交渉が成立したようで、柊と学園長が手を振りながら挨拶をしていた。なんかもう、いつものことになってるけど俺の発言軽視されすぎじゃない? そんなことない?
「ほら行くよ!」
「あぁ、もう。好きにしてくれ……」
柊に引きずられるようにして駆け出す。前へ前へと走って行く柊の声は弾んでいる。
だからまぁ、俺はこういうのもいいかって、思ってしまっていた。