アラームが鳴り響き、男は会場に足を踏み入れた。周囲を警戒しながら道を歩く中、事前に言い渡された久島千奈の情報に眉を顰める。三級の術式不明という話を聞かされた時は驚いた。
どんな術師も任務を請け負っていれば、多少なりとも術式についての情報は漏れるものだ。それが全くの不明と来た。仕入れた情報からして、戦闘スタイルは呪具頼りのものらしい。
千奈の実妹に当たる結奈を知る禪院直哉曰く、神宮寺家でない時点で神宮寺家の一家相伝にも満たない術式だそうだ。確かに自身の等級より格下の相手。油断は出来ないが、あのあからさまな様子から、作戦はお粗末なものだろう。粗方、奇襲してくるに違いない。
こちらの術式は、自身の呪力を炎に変質させるものだ。刀身の長い槍を持ってすれば、相手の術式が近距離だった場合、対処は容易だろう。いざとなれば、手のひらに炎を纏えば、簡単に相手を燃やせる。
「問題は、どこに隠れてるかだな」
真上から落ちてきた影に、飛び退いて前方へと槍を奮う。影は槍の柄が当たる前に傘を開き、攻撃を否して、後ろへと受け身をとって着地した。木の上から奇襲を仕掛けた千奈は傘を開いたまま、クルリと日傘代わりのように肩に乗せる。
「っとと、危ないな」
戯けてみせるも、無言の千奈は傘を閉じてパチンと花弁を絞めた。右手で杖のように地面に立て、男の様子を窺っている。会話をする気があるような様子に、男は警戒して槍を構え直した。
「なんだか、話したいことがあるみたいだけど…なにかな?」
「……私の術式について」
待ち望んでいたとも言える話題に、男は食らい付きそうになるのを抑える。確かに知りたかった内容だが、ここで話すメリットはあちらにはない。つまり、情報の開示による呪力の拡張を狙っているのだろう。聞かないという選択を取ってもいいかもしれない。そもそもその術式が合っているかどうかなんて、こちらには全く判断が付かない。
「……すっごい気になるけど、罠っぽいな」
「罠です」
「肯定すんのか……」
「どうします?」
挑発的な千奈の顔色は、木々の日陰になっていて見えにくい。周囲にそれらしい罠は見えず、自信満々な格下の三級に思わず笑ってしまう。何を持ってして、その自信は出てくるのか。
「じゃあ、ハンデとして聞いておこう」
一つ目の罠にかかった男に、千奈はトン、と傘で無意味に地面をノックする。まるで時間を計るような仕草に、男は笑顔を返しておいた。
「……時間
淀みなく千奈は術式を説明していき、真っ直ぐに男を見据えた。
「たった今、私は合計四分十五秒間のタイムスリップができるようになりました」
「……罠すぎだろ」
槍を構え直した男は、警戒心を最大まで上げて千奈を見据えた。そんな男に千奈は胸中で呟いた。
──まずは一つ、引っ掛かった。
千奈は嫌いな部類に入る男の様子を眺めた。
今し方の説明により、仕掛けるとしたらこちら側だ。先に攻める側は奇襲でない限り、成功は低くなる。男は防衛に徹する男に仕掛けるとなると、飛び道具が一番適している。飛び道具で不意を突き、距離を詰めて近接戦に持ち込む。両手は槍で塞がれており、中途半端に近寄ると相手が有利だ。懐まで入り込むのが勝負の鍵となる。
こちらの攻撃を許しているとしても、結局は戦闘時間最短五分以降となるだろう。タイムスリップができる以上、こちらがある程度前線する場面が必要だ。でなければ、次の罠に掛からない。
「四分も戻れるのにビビってるのか?」
「……ビビってるのはそっち」
この程度の挑発に乗るような人物ではない。傘の内側に仕込んでいたナイフを握り、眉を上げた瞬間の男へと投げる。当然槍で弾かれるが、その間に数歩踏み出した後、続け様の突きを翻して避け、眼前に来た槍を傘で往なす。そうして懐へ踏み込んだところで、傘の先端を顎から上へ振り上げる。頭を仰け反らせつつ、二歩下がる男に一歩大きく近付き、そのまま回転させた傘の柄で喉仏を突いた。
「ウグッ」
怯んだ瞬間にカーブした柄を男の首後ろへ差し出し、頭を引き寄せて鼻へと膝蹴りを咥える。追撃はせず、飛び退いた千奈は傘を持ち替え、留め具部分を握った。これで五秒。
よろけて垂れてきた鼻を拭う男に、首の音を鳴らした千奈は、留め具に親指を引っ掛けて手の内で外す。
怒りで突撃してくる男に向け、直前で傘を開く。狙いが隠れたことにより、傘に深く突き刺さったものの、槍の切っ先が外れて千奈の横腹から狙いがズレた。左の脇下に位置する長い柄を引っ掴み、二の腕と左手で捉えた千奈は、思い切り槍を引っ張った。お互いに獲物を押さえ付けた状態で、傘越しに睨み合って七秒間膠着してしまう。
不意に眉を顰めた千奈は、左腕の力を弱め、綱引きに負けた為に、槍が取り戻されてしまう。すぐさま傘を両手で持ち直し、追撃の狙いを付けにくくするため、そのまま近付いた。男は下がりながらも二撃、三撃と攻撃を加えていく。
「タイムトラベラーなら、避けてみろよ!」
五回目の突きのカウンターによる薙ぎ払いに、頭を下げて避けた千奈は、傘を閉じて男の背後の幹に傘の柄を突き立てた。制服の肩口を大木の幹に縫い付けられた男は、槍を奮って千奈を遠去ける。細かく息を洩らし、苦し気に汗を拭った千奈は暴れる男の攻撃範囲から出ていき、距離を取った。これで十秒が経過した。合計で二十二秒間。
距離を取ったところで男は右手を槍から離し、傘を掴んで捻り始める。回転と逆回転を繰り返しているので、引き抜くつもりだろう。
「お前さ、シスコンなんだって? 可愛い妹ちゃん、俺の仲間がズタボロにしちゃってたけど、どんな気持ち?」
「……」
「術式的にも妹の方が優秀って、姉として劣等感だらけなんじゃない? その上、心底嫌われてるとか、可哀想だね」
事実を話すだけの男に、手ぶらの千奈は冷めた目を向け続ける。途中で背中を向けて歩き出すのに、大声を男はあげ始めた。挑発のつもりらしく、その口調が直哉に似てきている。こればっかりは直哉の方が上手なようだ。
「いっそのこと京都に来たらどうだ?! 可愛がってやるよ!」
家入曰くシカトした千奈は森林の中に消えていき、制服下へと首から引っ提げているタイマーを取り出した。ピピピ、と一分二十秒と入力し、出したままに散策を続けた。適当に歩き続け、川に出たところで物音に振り返る。
「みぃつけた、っと」
声と共に頭上の枝から飛び降りてきて、槍を振り翳す男に、千奈はサスペンダーで背中に仕込んでいた警棒を取り出し、打撃を凌いだ。至近距離で十字に交わる獲物を挟んで睨み合う。男の額や頬は僅かに紅潮しており、少しばかり体力が削られている様子だ。
「いくつ武器隠し持ってんだよ……!」
力任せに押し勝っていく男に、眉を顰めて対抗するも徐々に足場の悪い川辺ということもあって、千奈は足場の小石ごと後退させられていく。ズズ、と足跡の付く様子に、男は景気付いて更に浅い川に落とそうと力を加える。
この術式は穴だらけだ。
縛りで呪力の拡張してなんとか戦えるレベルまで引き上げているだけに過ぎなく、かつての高専時代の私は切り捨てるものを見極められなかった。
そして、切り捨てるものを選ぶのも、実際切り捨てるのも頭を使わなければならない。時間を正確に数え、残り時間を管理する。どこまで戻り、どこで使い、いつ縛りで拡張するか。そして、どう撹乱するかが肝となる。頭を休ませる時間はなければ、呪力も尽きれば一般人と同等になる。
時間遡行は穴だらけの、弱小の術式だ。
「落ちろォ!」
頭上の槍が退けられ、腹を蹴られた千奈は、背中から吹き飛び、川の中央へと落とされた。ダウンする暇もなく、立ち上がるものの、好奇と見た男が腰のベルトに差していた千奈の傘を開いて投擲してきた。目隠しとなった傘を弾いたところで、男の槍での突撃により、千奈の左肩を貫いた。
「ッ!」
一突き目から二突き目は太腿に刺され、三突き目で眼前に突き付けられる。槍片手で仁王立ちの男に組み敷かれた千奈は、川に浸って太腿から出血する血を見送ってから、男を見上げる。両肘を突いて腹部から上半身を起き上がらせた状態の千奈に、満足気な男は鼻血を垂らして嘲笑う。
「降参しろ、そのままだと出血死するぞ」
「……」
答えない千奈に男は左脇腹へと槍を突き刺す。顔を歪め、右手で抑えた千奈は男を睨み上げた。
「その腕、もう怪我してないだろ。昨日まで包帯が無かったのに、今日はしてきた上、綱引きまでしやがって。バレバレなんだよ、アマちゃん」
槍を首元に突き付け、首から下がるタイマーを引きちぎられ、秒数を確認した男は下卑た笑みを浮かべ、川に放り投げた。水に浮かんで流れていくタイマーはもう使い物にならないだろう。
「残り三分か……おら、使ってみろよ」
「……一分後の私が使った」
怪訝な顔をした男の足首を蹴り付け、柄を横へと握り逸らした千奈は、川に両手と左足を付き、右足で男の胸板を蹴り上げた。よろめく男へ今度は回転しつつ、左足で回し蹴りをして立ち上がった千奈は、川の中央から少しズレて男へ向き直って止まった。これで残り二分間。
「チッ……!」
ゴキリ、と首を鳴らした千奈は、腰に差していた短刀をやっと手にし、相手へと構え直した。相手が息を吸い込んだ瞬間、身体を翻して短刀を鞘に戻し、川から上がってそのまま茂みへと飛び込んだ。これで八秒稼いだ。経過は一分三十秒。残りは一分五十二秒となる。
「待ちやがれ!」
逃げに徹する千奈に追撃は少なく、軽快な身のこなしに男は追いかけるのに必死だ。スタート地点からかなり離れた地点まで逃げる千奈に、男は追いかけ続け、時には大きく迂回して辿り着いた、木々で隠された崖下に千奈は追い詰められた。
途中見失ってしまった男は、遠くにいる千奈を見つけるまで十三秒掛かり、その分焦ったのか息を絶え絶えである。荒く息をする男に合わせ、肩を揺らして見せた千奈は、そこに残る自身の残穢が立ち登る茂みを近くにゆっくり振り返った。
「ハッ……ハッ……ハァッ……! 追いかけっこは終わりか……? 随分と川で時間使ったみてぇだな……」
男との鬼ごっこは、三分ほど続いた。息を整えようとする男は時間稼ぎがしたいらしく、辛そうなのに口を忙しなく動かし続けている。千奈は男に合わせて呼吸をし、胸の下を抑えて苦々しげに男を睨み付ける。逃げ場はこれ以上なく、怪我の度合いからして有利なのは男だ。
実力も残存呪力差も開いた相手に、男は整ってきた息で笑いを溢した。
「川で負けを認めてたら、こんなことにはならなかったのになぁ……!」
少なくとも男の中で四分四十三秒が経過している。男と同様に顔を向けている千奈の鼻からは、タイミングよく血が流れ、顔は無傷であることから呪力切れを示していた。目立つように震わした左手で鼻血を乱雑に拭えば、男が槍片手に高らかに笑い始めた。勝利を確信した男は、自身の素晴らしさと強さを保持し始めていく。千奈にはもはや時間は今のところ関係がないので、数を数えることをやめ、男の話に耳を傾けた。
「はははッ! 術式不明がどんな奴なのかと思ったら、ほんとにクソ雑魚じゃねぇか! 時間巻き戻せるって聞いたから、どんなもんだと思ったら、大したことないねぇ! そんなボロボロになって逃げた挙句、時間切れとかクソダッサァ!」
なんだかよく分からないが、五条と馬が合いそうな口ぶりに、千奈は如何にもな顔で聞き入った。体感五分くらい話を聞いたところで、流石に深い溜め息を吐いて、気怠げに首の後ろを撫でる。
うんざりとした様子に、男はピタリと動きを止めるが、代わりに青筋を立ててこちらに殺意を込め始めた。
「……女だからって容赦はしないこと、さっき身に染みて分かってるよなぁ?」
敵を前にしてよく喋る男だ。
この男は最初から迂闊で、呆気なく罠に嵌っていることに気が付いていない。試合開始前から罠は張り巡らせていた。大きく一歩だけ踏み込んだ千奈は次の瞬間、男の懐にいた。
「なっ?!」
小刀での峰打ちなれど、容赦のない一撃に防御は間に合わず、背後の大木へと男は叩き付けられた。激しく咳き込みながらも獲物を手に立ち上がるのは、流石格上といったところだろう。
「な、にが……ッ」
「……敵の情報、鵜呑みにしすぎ」
「はぁ……?!」
──試合開始してから、三分しか経ってないのに。
時間遡行は時間を遡る術式である。
千奈本人の呪力量では十五秒間が最大であり、男に述べた通り、縛りを幾つか設けることで呪力を拡張し、時間を増やしている。その時間が嘘だ。
術式の開示により二分間、残り時間の開示により一分間が足され、千奈が戻れる時間は三分十五秒間だ。つまり、男に言った合計四分十五秒が偽りである。もう一つ話していない縛りについては、試合前から仕込んでいた。
呪力が底を尽きた時、千奈は術式を使用できない無防備な状態となる。そこで千奈は、呪力が底を尽きた時に発動する縛りを設けた。術式を使用できない丸腰となるが、その分価値のある拡張である。指定したのは身体能力の拡張だ。
そして、試合前に千奈は十五秒間を無意味に消費し、人知れず身体の拡張をしておいた。
最初の戦闘では華麗に応戦する姿から、川での戦闘では苦戦した姿に、残り時間が少ないと勘違いをさせたのだ。
男への説明で発動した縛りは、術式を開示したことによる二分間の時間のみだ。千奈は戦闘時間が二分経過したところで、わざわざ小刀を抜刀し、数秒後鞘に戻すという無意味なことをした。それによりこの場所への鬼ごっこ時に時間を消費したと錯覚させた。
また、男に最後の縛りと身体能力の向上を悟らせないため、先に嘘の手の内を明かした上でブラフとして左腕の負傷と偽のカウントを入力したタイマーを用意し、そちらに気を取られた男は時間を多く数えた。そもそも無い残り秒数を数えさせることで、まんまと罠に嵌り続けさせたという訳だ。
実際にまだ、この戦闘において千奈は三分間の猶予を残している。
これら全ての罠に上手く嵌り、男が酷く撹乱しておかげで、千奈の術式は、これでまた不明に近い状態となる。まぁ、五条からすれば全てお見通しなのだが。
「まさか……全部ウソで、て……天与呪縛か?!」
「……」
「く、来るな!」
槍でがむしゃらに突いてくる男に嫌な顔をした千奈は、頃合いかと時間を数えるのを止め、三分間を使い切った。景色は瞬く間に変化し、木の上で傘を片手に下の様子を眺めていた。
「問題は、どこに隠れてるかだな」
わざとらしい男の声に、千奈は木の上から飛び降りた。
会話もそこそこに戦闘中の傘による殴打によって、気を失ってしまった男に目を細めつつ、千奈は東京校の勝利を告げるアナウンスを耳にした。
──あんまり、強くなれなかったな。
単純に勝利するだけなら、わざわざ面倒なこの戦い方は望ましくない。それでも術式を展開して行なったのは、来たる任務の最終チェックの為だ。これできちんと呪力切れになる度に縛りが発動することが分かった。また、まだ特級にすら及ばないことも。
千奈は重い足取りで会場を出ていき、待ち構えていた家入に試合の成果を褒められたが、これでは駄目だ。ここまで策を練って撹乱させても、縛りなしでは怪我をしたなんて。身体能力が拡張していなくとも、無傷で術式も縛りも使用せずに勝たなければならない。手札の一つである選択に、不可能だと千奈は斜線を引いて消した。
──伏黒甚爾を倒すのは、私には無理だ。
* * *
十一年前の今日、天元と同化する宿命を背負う星漿体である天内理子の護衛と抹消の任務に、千奈は特級のサポートとして配属された。高専内で数少ない千奈の術式を知る夜蛾による采配だ。特に断る理由もなかったため、千奈は二つ返事で任務に同行することとなった。その際は惨敗した個人戦の事もあり、情報の開示による縛りのみを強いていた。好き勝手する夏油たちや天内に同行し、時には敵の情報を前持って伝えるなど、それなりに役には立てた。足手纏いにはならぬよう、よく動こうとしていたのを覚えている。
問題は最終日、高専敷地内で起こった。
「逃げろッ!」
天内の暗殺後、伏黒は続けて千奈へと発砲した。既に術式で時間を全て消費していた千奈は、天内の救出に失敗し、伏黒には歯が立たず呆気なく倒された。立ち去っていく後ろ姿に、なんとか意識を保ち、伏黒を千奈は追おうとした。傷付いた身体は指を一本動かすことですら激痛が走り、片目だけとなった視界は瞼を開いたままでいてくれなかった。
「……っ、……ふ、……ふ、」
浅く短い息を吐き、もう見えなくなった背中を這って追う。瞬きをするたびに映る天内理子の姿と、沖縄の海の景色が痛みを慰めていき、生理現象による涙なのか分からなくなった。
天内と結奈は姿形も性格も似ていない。けれど、溌剌とした様子は、かつての結奈を思い出させた。私が時間を残していれば、助けられたかもしれない。こういう時のために私は任務に参加したのに、役に立てなかった。これじゃあ、役立たずのままだ。
「……く、そ……ッ」
全く進まない身体が憎くて仕方ない。
ほとんどの感覚が抜け落ち、混濁した意識をなんとか保とうと、唾を飲み込んだ千奈は、突然うつ伏せになっていた身体が天井へと向けられた。肩を掴まれて反転させられ、真っ白な視界の中でどうにか目を凝らす。覗き込んでくる人影に、千奈は自身にとっての救いを見た。
「ゆい、な……?」
何か喋っているが、よく聞こえない。助けに来てくれたのだろうか。千奈の身体に馬乗りになった少女は、血に塗れた胸元を引っ掴むと、思い切り床へと叩き付けていた。衝撃に口の中に溜まっていた血を吐き出した千奈は、今度は顔へ無尽蔵に降ってくる拳を受け続けた。辛うじて保っていた意識が混濁し、途切れては衝撃で意識を取り戻す。咽び泣き叫ぶ声を拾おうとするも、鼓膜が破れているのかよく聞こえない。保てていた半分の視界が赤く染まり、一際強い衝撃に横を向いた際、地面に転がる歯が見えた。全てがスローモーションのようにも、逆再生のようにも感じる。再び掴まれた胸ぐらで、目を合わせられた千奈は返り血の付いた結奈と目が合った。
彼女は何度も揺さぶって何かを怒鳴っているが、千奈の目線はその背後の黒い闇に注がれていた。
──あれ、こんな暗かったっけ……ここ。
次の瞬間、結奈の胸が呪霊によって貫かれていた。自分のものではない血を浴び、床に舞い戻った千奈は、転がった先で自身の横に倒れる人を眺めた。
「…………ゆいな……?」
目を見開いたまま口から血を溢して倒れる結奈の顔へ手を伸ばす。頬に触れても嫌がることはせず、空虚を見つめる彼女に何もかも吹き飛んだ。
「……結奈……結奈…っ」
穴だらけの全身の痛みを無視して、上半身を起き上がらせ、結奈の肩を揺さぶる。彼女の意識は無く、首元で測った脈はうんともすんともしていない。震える手で胸元の溢れ出る血を抑えるが、貫通しているためか、止まる気配はない。
「結奈! 結奈ッ!」
「……」
「起きて! ねぇ! 置いてかないでッ!」
「…………」
「ッ結奈!」
違う、目移りなんかしてない。天内を結奈に少し重ねてしまっただけなの。本当に仲良くしたいのは結奈だけだ。だから置いていかないで。私を一人にしないでよ。
何度呼んでも目を覚さない結奈に、千奈は必死に呼びかけた。眼球に入っていた血は涙で流され、五条に引き剥がされるまで、冷たくなっていく身体を揺さぶり続けた。放り投げられたところで、五条に連れられてきた反転術式を施す家入の胸ぐらを掴み、初めてまともに人と目を合わせた。
「私より先に、結奈を助けて」
手首を取って家入から離させた五条に、千奈はズボンの裾を引っ掴んで食い下がる。
「おねがい……さっきまで元気だったの……ッ」
無言で振り払われた千奈は、冷たい床で遠くに転がる結奈を見た。的確に結奈だけを狙った呪霊は間違いなく、夏油のものだ。夏油の治療に当たる家入とその様子を眺める五条は、何やら声を掛けてそれに呻くように夏油が何かを返していた。ねぇ、何を話してるの。どういうつもりで、こんなことをしたの。何を考えてるの。
沖縄での思い出が塗り替えられていく。家族ほどではないにしろ、数少ない楽しかった思い出が壊されていく。笑いかけてきたその細い目で、結奈を殺せと命じたのか。
千奈は入り混じっていく思考に翻弄されながら、とっくに限界を迎えていた意識を手放していった。
その後のことはよく覚えていない。抜け殻のようになって、星漿体の遺体を盤星教に運びに行くのは、夏油たちが引き受けた。千奈は家入の救急措置で補えなかった怪我の治療を、治療室で受けた後は夜蛾に何かを話されていた。誰の話も頭に入って来ず、千奈は授業以外では部屋に引き籠るようになった。眠気もなければ食欲もなく、ただぼんやりと過ごし、時間が経過していく。葬式に参列したかったが、神宮寺家の圧力と妨害によって、最期に顔を見ることも叶わなかった。
いっそのこと自殺でもしようかと、計画を練ってみたが労力が惜しく、また時間が流れるのを待った。廃人と化した千奈に、三人は何か言いたげにしていたが、然程交流もなかったので、何も言われず、残りの学校生活を終えた。
任務は夜蛾の判断により、自身が引率できなければ請け負うのを辞めさせ、呪術師相手を専門とするカウンセリングなどの手配もしてくれた。彼はあんなに世話を焼いてくれたのに、妹の死から千奈が立ち直ることはなかった。