どん、どん、と扉を叩く音がして、ロブ・ルッチは目を覚ました。
「……?」
暁闇の時。こんな時間に誰が何の用事で。
同僚か、それとも刺客か? 心当たりも無いままにベッドから起き上がり、寝起きでぼやっとしたハットリを肩に乗せてドアへと向かう。
どん、どん、どん、どん。
一定の間隔で殴打に近いノックを続ける扉の先に苛立って、ばたん! と力任せに開く。
「なんだっポーこんな時間に!」
ゆらり、黒髪と。
「───!」
ぎらり、凶刃が。
「ヒョウ太……!?」
驚愕も呼びかけも歯牙にかけず、その影は手に持った凶刃を押し込む。
刃渡りの短い包丁が心臓へ一直線に向かい──
──ばきり、と半分に折れた。
「……」
襲撃者は唯一の武器が破壊されたことも眼中に無い様子で玄関へと押し入り、割れた半分を振り上げる。それもまた、常人では有り得ない硬度の皮膚に阻まれ、服に解れを残すだけ。
それさえも意に介さない初めて見るガラス越しではない目には、普段の聡明な色も、くるくると変転する表情もない。全てが抜け落ちた虚ろであった。
──前々から不安定な精神状態だとは思っていたが、ついに壊れでもしたか。溜め息を吐く。
「……お前の方から『約束』を破るとはな」
立てた指はいとも簡単に、かの子どもの首を貫いた。
ふい、と。
元より灯っていなかった瞳孔の光が消える。
支えとなっていた腕を引けば、頸動脈を刺し貫いたことによる噴き出すような出血と共にどさりと床へ倒れ込む。
直に暖かい赤を浴びた男の顔は微かに笑っていた。
久々の血の味、匂いに。相手の愚かしさを笑うように。
「……バカな事を」
己が命を断った倒れ伏した体を見下ろす。当然ながら動かない其奴は、こうして見ると本当の人形のようである。クローンという存在が人かどうかは兎も角として、先の無表情には相応しい。
──そろそろ夜が明ける。本来ならばこのまま放置すべきではないのだが……今日は早くから仕事がある。
短時間で誰かに露呈しないように処分するのは困難で面倒だ。後処理が厄介なのが難点、などと物騒な思考を続けながら、普段外すことのない眼鏡とマスクを付けていない自分と同じ顔をした死体を風呂場に投げ込んだ。
─────…………
「幽霊か……???」
「いきなり何!?」
朝一番。いつも通り一番ドックに着き、さあ働こうとしたところで。
一度視線が合って、ふいと外れて。次の瞬間珍しく肩を跳ねさせ肩の鳩と同時におれを二度見。驚愕を隠せていない同じ顔に首根っこを掴まれて、個室へ放り込まれた。……前にもあったような、こんなこと。
不躾に顔だの喉だのをぺたぺた触ってきて、ようやく発した一言が冒頭のそれである。奴の声も態度も困惑で溢れていたが、訳が分からないのはこっちの方だ。
「確かに止めは……いやしかし……」
「ちょ、なに、やめ、なになになになに」
ぶつぶつと自己完結の独り言を呟きながら確かめるような手の動きを止めない相手に、流石に混乱を飛び越えて怒りが沸いてきた。首を触るな的確に血管を押さえやがって。
「ッ離せ気色悪い!!!」
とうとう思わず地声が出た。
「説明」
「……待て、今整理している」
はー、と長い息を吐いてハットリと同じ動きで頭を抱えるシルクハット男。それをしたいのはおれなんだが。
「夢? いや、そんな筈はない。……ヒョウ太、お前今日の明け方は何をしていた?」
「明け方ァ? 何にも。今日はギリギリまで寝てたし」
「間違いは無いな」
「ホントだってば」
首を傾げ思い返すが、特段話すようなことはしていない。念を押されても本当に心当たりがなく、先程まで苛立ちで沈んでいた困惑がまた元の位置へ戻ってきた。
「……そうか」
顎に手を当て少し考えるように瞼を閉じ、一拍。かと思えば何かを考え付いたようで、すぐに目線をおれへと戻す。
「……見せた方が早いだろう。おれの家に来い」
「は!?今から!?」
嘘だろコイツ出勤から退勤までが早すぎることが気にならねェのか。社会人としてどうなんだ。
……いや、そうじゃない。突っ込むべきところはそこではない。動揺のしすぎだ。
──前に不干渉を結び、今の今まで守ってきたその壁を突然破壊するようなことがあったというのか? ならば、せめて口頭での説明があってもいいだろうに。
「ほんっと言葉足らず!説明くらいしてよ!」
「説明しても信じねェだろうからな」
いいから行くぞ、と木材でも運ぶかの如く担がれる。じたばたと暴れてみても体幹は揺らがない。地に足すら着いていない状況での抵抗は無意味かと諦めて、吐き出す息と一緒に力を抜いた。
──────…………
人目につかないようにして運ばれてきたのは、推定此奴の住処。もう逃げるつもりはないと判断されたのか、肩から雑に振り落とされた。
「で? わざわざ何さ、家まで連れてきて」
「見れば分かると言っている」
がちゃりと鍵を回し、扉を開け。
──途端、嗅ぎ慣れた匂いが動物系の鼻を刺す。
これは、この鉄臭い臭いは、血の。
「こっちだ」
「……ッ」
無遠慮に腕を引っ張られ、進む部屋の先に。
なにか、見てはならないものがあるような。
「……は」
白い浴槽。水の代わりに、赤。
倒れている少年。
見慣れきった、顔。
重くぼさぼさとほつれた髪。
死体、自分の死体が、目の前にある。
血の匂いがする。死臭がする。
味覚はないのに、鉄錆の味を錯覚する。
人形ではない。マネキンでもない。浴槽に仰向けに放置されたそれは、喉に空いた穴からだくだくと流れていたのであろう血液が黒く固まり既に止まっていて赤黒く染まった服から覗く手足はだらんと弛緩していて肌色はその真逆に青白くて人の色ではなくて薄ぼんやりと開いた瞼の先にある瞳は真っ黒で濁っていて何も見ていなくて目の形も眉も鼻も口も輪郭も何もかも鏡で見慣れた自分と同じで、それで、……間違いなく、死んでいた。
最初に頭を支配するのは混乱、つぎに、背筋を伝う恐怖、が。
「こういうことだ。……おれの動揺は分かるな」
「ッ」
一瞬で全身を駆け巡った思考が、背後からの声でぴたりと停止する。
──そうだ、ごちゃりと入り交じる感情に飲まれている場合では、ない。間違いなくこの惨状を作り出した下手人が、おれの背後にいるのだから。
「なにが、あった?」
指の先がぴりぴりと酸素不足を訴える。過剰に空気を取り込もうとする息を取り繕い背後の男に問いかければ、ようやく説明する気になったらしい。殺人鬼は犯行現場の壁に寄り掛かり、なんでもない報告のように淡々と言葉を紡ぐ。
「今日の明け方に、おれを襲撃に来た。手に包丁の柄を握っているだろう、それで刺そうとな。……今思えば、お前ならばそんなものがおれに効かないことくらい分かるはずだったな」
見れば、確かに。その死体は半分に割れた上に刃がぼろぼろと欠けている獲物を握り締めていた。安物の包丁は超人の肉体に傷一つ付けられなかったらしい。……現場検証擬きを脳内で行うことで、幾らか冷静さを保とうと努める。
「これがおれだと思っていたから、あの反応という訳か」
「……確実に息の根を止めた奴が呑気に笑って出勤してりゃあ、ああなるのも道理だろう?」
はァ、と溜め息を一つ。呆れたように腕を組む気配がした。
「これで、おれの中ではお前と、ついでにその死体がクローンだという説が固まったんだがな。いい加減認めたらどうだ?」
ああクソ、混乱するようなことを言うんじゃない。
ぎり、と歯を噛み締める。おれがクローンだと? そんなこと、有り得ないと言っているだろうが。
…………けれど。
そうでないならば。目の前の死体にどう説明を付ければいい?
今目の前にあるものだけではない。この世界に来てからの違和感──負った筈の傷が無かったこと、最初に感じていた馴染まないような浮遊感、味覚異常。クローンだと仮定すれば、この身が人間ではないとすれば、全て辻褄が、合ってしまうんじゃないか。
殺人犯に背を向け、浴槽を覗き込む。
己と同一の見た目をした死体の直視に精神が削がれていくような気がしながらも、冷たい体をうつ伏せにした。
「……?何をしようとしている」
「確認、を」
それだけ言って、血液で染まった服に手を掛ける。少し力を入れれば繊維がぶちぶちと音を立てて破け、隠されていた背中が顕になった。
そこには。
「シリアル、ナンバー……」
青白くなった肌の肩甲骨の辺りに黒く刻まれた、無機質なそれ。
人工物であると否応なしに突き付けてくる英数字。
「……R-L.049」
見たままを読み上げる。ロブ・ルッチのイニシャルと何かの数字。……少なくとも、同じような存在があと48つあるという、証明。
「……頼みが、ある」
「何だ」
背後を見ないまま話し掛ける。
それまで静観していた男は、引き攣った声に相も変わらず無感情に返してくるが、今はそれが逆に好ましい。
「確認してくれ、おれの背中を。自分じゃあ見えない、見れないから……頼む」
フン、と素っ気ない応答を肯定と受け取って、ジャケットから腕を抜き床へ落とす。黄色のセーターを脱げば、おれはもう何も上半身に身に付けていない、……本来なら、背中にあるはずの大きな傷が見える状態。
容易く人体を貫ける指が背に触れる。
ついと、なぞるように。
背中、ではなく。……肩甲骨の、辺り。
「──R-L.050。そう書いてあるな」
「そう、か」
受け止めようと、した。
「そうか、そ、うか」
受け入れようとしている。なんとか冷静であれと、既に提示された可能性だと。
けれど、けれども。
視界が暗くなった。意識が、途切れた。
──もう無理だった。元から擦り切れかけた心を鉄の意志とプライドだけで保たせていた彼には。
今の自分が一人の人間であることすらも否定されることは、知り合いのいないこの世界では致命的だった。
ぐらり、ヒョウ太の頭が体ごと揺れる。
体勢を維持出来ずに膝を着き、それでは足りずに頭を抱えて蹲った。
「あ、あ゛」
かひゅ、かひゅ、と息が細く短く洩れて。
「ぅ゛、う゛あ゛あああああああああああああああッ───!」
狭い浴室で、意識さえ混迷に呑まれた少年の引き絞られた悲痛な声が反響した。
……………………
音が止む。ぱた、タンクトップの肩から飛び立ったハットリが蹲る少年の前に降り立ち、心配そうにくるると鳴いた。そこまで気にかけなくても良いだろうとは思うが、相棒と同じ顔かつ表面上は友好的である以上、そうする気持ちはルッチにも理解できる。
顔を顰めながら耳を塞いでいたルッチは両手を外し、ヒョウ太の肩に手を掛けぐい、と身を起こさせた。
眉間の皺はそのままに固く瞼を閉じる、涙に濡れた鏡写しにはァ、と一つ息を吐く。
「……気を失ったか」
いくらルッチだとはいえ、発端が自分であることは分かっていた。意識のない少年を抱えて血塗れの小部屋から出る。
自分のベッドに落とし、曇った眼鏡と顎に掛かったマスクを外せば見慣れきった顔。どう見たって同一の遺伝子であるのにクローンの自覚がなかったというのも、目的がないというのも、この発狂も、全て本当であると把握した。
……もしこれらが全て演技であれば敵わないが、そうであるなら此奴の勝ちでいいと。
掲示板のダイスの話になるんですが、ヒョウ太くんは自分からアイデアを振りに行って直球でSAN値直葬されて発狂表で気絶・金切り声の発作を引きました。神がそういう嗜好らしいです。