ようやく体を動かせる程度には回復したが、まだふらつきはするため手すりに凭れかかって座る。ふ、と息を吐いていると、心の内からしばらく聞こえていなかった声が飛んできた。
(ルッチ! 見てた、ちゃんと見てたよ! よかった……ほんとに、よかった……!)
(……ああ、心配かけた)
肉体がこうして無事である以上050も大丈夫だとは思っていたが、万が一だって考えられた。直前に聞いた途切れ途切れのものとは違う、元気そうな声に安堵する。
(これで、アイツとの因縁は終わったな)
(……うん。後は、おれだけだね)
「なー誰かウソップ知らねェか!? いなくなっちまった!!」
「ウソップー!!」
上がった声に従って目線を向ければ、船長と船医がぐるぐると甲板を巡って船員を呼んでいる。その名前の主はすぐ横にいるのに仮面を付けているだけで分からないとは、純粋が行き過ぎたバカもいるものだ。
「安心したまえ、彼ならさっき小舟で先に帰った」
「え〜〜〜〜!? 本当は今この船あいつのもんなのに!!」
そげキングに戻ったウソップと騙されている一人と一匹。そんな小さな騒ぎを無視して船室を見回っていた航海士、ナミが帰ってくる。
「やっぱり、誰もどこにも乗ってない!」
「……そりゃ変だな。確かにおれ達を呼ぶ声は聞こえたんだが」
疑問符を頭上に浮かべて、緑頭が斜めに傾く。誰も乗っていないのにエニエス・ロビーまでどうやってこの船は来たのか、ということよりも、何やら聞こえたらしい声の方が気になるようだ。
「だからおめェら言ってんだろ、あれはメリー号の声だったんだよ! なーメリー!!」
「バカ、船が喋るわけねェだろ」
「……私も何だかそんな気がしたんだけど……あるわけないわよね」
おれと解体屋、車掌にその孫とペット──海賊一味以外には聞こえなかった声。逆に言えば、海賊達には例外なく届いていたらしい声、か。
「案外有り得るんじゃないか? 偉大なる航路は何でもアリだろう、船も喋るさ。海賊の割にリアリストだな、お前達は」
「そういうお前は意外とロマンチストだな」
「、…………」
揶揄いの見える言葉に小さく目を逸らす。……空想に寄った考えにはなるか。不本意ながら、この一年間で思考がオカルトに馴染んでしまったらしい。
「ん? 前から船が来るぞ!」
気候は穏やか、波の流れも快調。船の軋みもあるので順風満帆とは行かないが、大きな支障もなく帰路を渡っていたところで、前方から巨大な帆船の影がやってくるのが見えた。警戒することはない、それは見覚えのあるマークを掲げていたから。
「ガレーラカンパニーの船だ……!」
「すげェ!! アクア・ラグナの海へ飛び出したのに信じられん!!」
「あのエニエス・ロビーから帰ってきやがった!!」
大勢の船大工が乗船した騒々しさの中で、静かに腕を組みながら此方を見下ろすのはアイスバーグ社長。
「アイスのおっさん!!」
「バカバーグ……」
傷を押して出てきたのだろうその人は、ぶんぶんと両の手を振る麦わらとぼそり呟いて口角を上げた解体屋に、ほんの僅かな驚き混じり、けれど確信があったのだろう笑みを浮かべている。
「とんでもねェ奴らだ……世界政府を相手に、本当に何もかも奪い返してきやがった」
ぎぎい、と。不穏な音が耳に響く。
「え」
「メリー!?」
同時にガタリと船体が傾いて、……違う、半分にへし折れたのか。今まで全て上手くいっていた筈だろうに、何故突然。
「おい何だ!? どうしたんだ急に!!」
「急にも何も……! これが当然なんじゃねェのか!?」
取り乱した声に煙草を噛んで返答を返すのは金髪の男。何も突然ではないのだと、押し殺せていない苦々しさの籠った言葉で。
「メリーはもう二度と走れねェと断定されてた船だ、忘れたわけじゃねェだろ」
──いや、そうか。全てが上手くいった果て、か。
麦わらの一味が命を懸けたように、この船も文字通り死力を尽くしたのだろう。ルフィが言うように、ずっと旅をしてきた仲間を朽ちかけなりに救った果て、今がその結果。
「だったらもう、眠らせてやれ……!」
麦わらの一味は誰一人認めたくはないのだろう。けれど、正しいことだって分かっているはず。心情を理解しながら、敬意を込めて社長は言葉を重ねていく。
「おれは今奇跡を見てる。もう限界なんかとうに越えてる船の奇跡を」
本職であるからこそ、誰よりも船に真摯に向き合ってきたからこその重み。それは船大工以外にも伝わる価値だ。
「長年船大工をやってるが、……おれはこんなにすごい海賊船を見た事がない。見事な生き様だった」
全て聞いて、聞き入れて。
無邪気さが鳴りを潜めた船長が、微かに眉を震わせて瞠目する。
「わかった」
「メリー、海底は暗くて淋しいからな。おれ達が見届ける!」
小舟に乗ったおれ達からでは、ばちばちと弾ける火を掲げるその表情は見えない。見えるのは、影を落とした背中だけ。
「ウソップは……いなくてよかったかもな。あいつがこんなの、耐えられるわけがねェ」
「……そんなことないさ。決別の時は来る。男の別れだ、涙の一つもあってはいけない。彼にも覚悟はできてる」
ばち、ばちりと折れた箇所を覆うようにして、炎が燃え上がる。これは弔いだ、たとえ人ではなくとも、仲間との決別には必要な事。
「長い間……おれ達を乗せてくれてありがとう、メリー号」
羊の船首からマストまで、炎が全てを包んだ頃。
ふわ、と目の前に白い靄が降る。
炎が燃え盛っているものだから舞い上がった灰かと錯覚したが、そうではない。空から落ちてきている、触れば冷たいそれは雪だった。
偉大なる航路の異常気象と言ってしまえばそれまでのこと、なのだけれど。
『ごめんね』
「え」
声がした。
はっきりと、耳ではなく頭に直接響くような声が。
『もっとみんなを遠くまで運んであげたかった』
どよめく一味にガレーラの職人達、全員に聞こえているならば、決して幻聴ではない。幼い少年のようなそれが海賊船の──メリー号の声なのだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
『……ごめんね、ずっと一緒に、冒険したかった』
雪とともに、降り頻るように。
純粋無垢なその声は、暖かさをもって伝わってくる。
「ッごめんっつーなら!! おれ達の方だぞメリー!!」
……ルフィの、船長として毅然とあろうとしていたのだろう立ち姿は決壊していた。子どものように泣き喚き、嗚咽で所々汚く濁り引っ掛かった叫び声。
「おれ゛舵ヘタだからよー!! お前を氷山にぶつけたりよ!! 帆も破った事あるしよ!! ゾロもサンジもアホだから゛、色んなモン壊すしよ!!」
しゃくり上げる音は間近からも。
震える声で船の名前を呼んでいる。
滲む涙を拭うこともせずに目を見開いている。
仮面では隠せない程、ぼたぼたと涙が落ちている。
「その度ウソップが直すんだけどヘタクソでよォ!! ごめんっつーなら!!」
『だけどぼくは、幸せだった』
懺悔を遮るようにして、感謝が降った。
『今まで大切にしてくれて、どうもありがとう』
『ぼくは本当に、幸せだった』
それを最後に、頭に響く言葉は途切れた。
……火の燃え盛る音と、船の名を叫ぶ涙声の傍らで。
感情を引き摺られて肉体ごと涙を流している癖に、いっそおれより人間らしくなった癖に。
"いい終わり方だ"なんて心の奥底で考えている片割れが、少し、憎くなった。