◆ ◆
「つまり何をお尋ねしたいのかと言いますとね──あなたの考える、人間を人間たらしめている要素についてお尋ねしたいと、私はそう思っているのですよ」
神奈川県鎌倉市の某所。海を臨むことのできるとある小さな山の頂、そこに設置されている石を削った腰掛けに座したその少女は──いや
少年の方は半袖のトレーニングウェアを着た学生だった。上着は蛍光色の黄緑でズボンは紺色。髪は黒のスポーツ刈りで肌は日に焼かれたのか少々浅黒さが目立つ。アクセサリの類は身につけていないようだったが、しかしその左腕だけには百円均一のショップで購入したのだろう、ストップウォッチ機能付きの腕時計が巻かれている。
そして青年の方は──随分と古風な服装に身を纏った男だった。しかし古風だからといって威圧感を振り撒くようなこともなく、また服に着られているようにも見えなかったので、シックな大正モダン風の衣装がやたらと映える。右手には手帳を、左手には見るからに高級そうな万年筆を持っていて、男物の着物に風で揺られる羽織、かちっとした学帽に加えて柔らかな印象を与える細縁の丸眼鏡という、ともすればちぐはぐになりかねないファッションが、その小柄な青年には似合って見えた。
しかしそれはそれとして、どう考えても山に登る服装ではないだろう──と、少年の方はどうしてもそんなことを考えてしまう。
それもそうだ、小さいとはいえここは山の頂である。時期的に考えても涼しいだなんて到底口が裂けても言えないし、なんならここは直射日光も甚だしい有様であった上、しかも青年の服装は頭から爪先までが真っ黒だったので、相当な熱がこもっているはずなのだが。しかし眼前の青年は涼しい顔をしたまま、汗のひとつもかいていないようだった。
「……人間を人間たらしめている要素についてお話しするのは、ええ、別に構いやしませんよ。しかし俺の方としてはですね、こんなところでアンケートを受けるつもりにはなれません」
「おや、アンケートではなく取材のつもりだったのですが……まあいいでしょう、どちらでも大差はありませんし。ところでスポーツ少年さん、どうしてこの場所を動こうとするのですか? 私個人としては結構いい景色だと思うんですけどね、この山頂は」
「俺もこの場所は好きですけどね、しかしこの気温は馬鹿になりませんって。せめて日陰に移動しませんか? どういうつもりでそんな服装のままこの山を登ってきたのかは分かんないですけど、熱中症になりますよ、そんなところに座り続けていたら」
「おや、おやや、私の身体を案じてくれていたのですか? んふふ、お優しいですねえ、
スポーツ少年の言葉を受けた大正ロマンの青年は、手帳を持った方の手で口元を隠し、目を細めて笑う。黒々とした瞳に捉えられた少年はどことない居心地の悪さを感じながらも、しかしどうしてか眼前の青年から目を背けることができなかった。
そんな少年の内心を知ってか知らずか、青年は「よっと」と小さく呟きながら、石を切り取って作られた椅子から腰を上げ、両手を広げてからその場でくるくると周り、少年に自らの姿を見せ付けた。
「こんな風に真っ黒けな和洋折衷の衣装を身に纏ってはいるのですけれどね、しかし私はこれで案外頑丈な作りをしているのです。ですからお優しいスポーツ少年さん、心配はご無用ですよ」
「……そっすか。ならまあ、俺は別にいいんですけど──その『お優しいスポーツ少年さん』って呼び方、どうにかなりませんかね?」
「あら、お気に召しませんでした? むむ……そうですかあ、それならば仕方がありませんね。では何とお呼びすれば?」
「…………名前でいいっすよ」
どうせ悪いようにはならないだろう。目の前の青年は変わり者ではあっても、悪人には見えないし。近頃流行り始めたインターネットとやらで個人情報をばら撒かれたりしたらまずいだろうが、しかし名前を教えた程度でまさか人生が破滅するはずもあるまい。
そう考えたスポーツ少年は、もういっそのことだから本名を名乗ってしまうことにした。
「
「素晴らしいお名前ですね、解夏くん、解夏くん──はい、覚えました。本当に短い時間だけ取材させてもらうつもりだったので、お名前まで聞く予定はなかったのですが……うん、やっぱりあなたは優しくて
「……勘弁してください」
手を合わせながら首を傾げ、にこやかに目を細めて微笑む青年。この人本当に男なんだよな……少年はそんな自分の考えに半ば呆れながらも、しかし見れば見るほど目の前の青年が男性には見えなくなってきたので、その辺りで性別に関しては考えるのをやめた。
「それではそうですね、このまま楽しくお喋りを続けてもいいのですが、お名前も教えてもらったことですし、そろそろ始めちゃいましょうか、取材の方を」
「ああ、そういえばそんな話もしてましたね──えっと、人間を人間たらしめている要素についてどう考えているか、でしたっけ?」
「はい、それで間違いありません。ほんの一言だけでもいいので、何か解夏くんなりの答えを私にくれればよいのです。本当にどんな答えでもいいですよ──あっでも『性欲!』とか言わないでくださいね。そんな感じのこと言ったら殺しますから」
物腰柔らかな割にはいきなり物騒すぎるだろこの人。どうして柔らかい印象のまま殺すとか言えるんだ。
……この時少年は、青年の放った「殺しますから」という言葉を彼なりの冗談の一つだとして捉えていたため、大して気にも留めず、ろくな反応を返すようなこともしなかった。
果たしてそれは英断だったのだと、そう言わざるを得ない。
「そんなこと言わないですよ。しかしそうですね、ありがちな質問ではありますけど……いざ考えてみるとなると、なかなかそれっぽい答えが出てきませんね」
「聞いておいて今更と思うかもしれませんが、やや哲学じみた問いになりますからねえ。馴染みがないと難しいかもしれません。いきなり答えが出るはずもありませんから、じっくり考えて答えてくださいね。私、いつまででも待ちますよ」
手帳と筆を構えたまま日向でにこにこと笑う青年。早めに答えないと本当にいつまでもその場で待機しそうな勢いである。
そんなことをさせてしまったら、まず間違いなく目の前の青年は熱中症になって倒れてしまうだろう。運動部であるがために熱中症の恐ろしさを知っている少年は、可及的速やかに答えを出すことにしたらしい。
「……俺が思うに、ですね。人間を人間たらしめているのは、案外シンプルに『道徳倫理』とか、その辺りだったりするんじゃないですか?」
「ほう、なるほど。解夏くんは『道徳倫理』こそが人間を構成するに必要不可欠な要素であると、そう仰るのですね。もう少し詳しくご説明をお願いしてもよろしいですか?」
「まあ俺もまだ高校生のガキなんで、別段何か穿ったことを言えるとも思ってないんですけどね、つまりはまあ、俺たち人間っていうのはどうしたって社会に溶け込んで生きていくしかないわけじゃないですか」
こういう真面目な話は得意じゃないんだけどな。少年は内心そうも思っていたが、しかし目の前に座している青年が「そうですね、続けて?」と促すものだから、柄にもなく真面目腐って二の句を継いでしまう。
当然ながら、青年が聞き上手であることとか、質問自体に興味をそそられたこととか──少年が柄にもなく真面目な返答をしてしまうことには、その辺りも起因していそうではあった。
「マナーとかモラルとか……そうでなくとも法律とか条例とか。そういう社会規範の下に俺たちは縛られている──とまで言っちゃうと流石に過言かもしれませんけどね。だからまあ何が言いたいかというと、要するにその規範から
「ふむ、興味深いですね。これは取材ではあるのですが、同時にちょっとした調査も兼ねているので、少しばかり粗を突かせてもらいます。解夏くん、あなたの主張をそのまま受け取るとするならば、つまりあなたの言うところの
突如としてそんなことを言う青年。当然ながら少年の方はそんなことを意図していたわけではない。恐らく眼前の青年は、それすらも分かった上で自分を試しているのだろう。
ふと気になって青年の手元を見る。筆でノートを引っ掻き回していた。一体何をそんなに記録することがあるのだろうかと、少年としては内心そう感じられた。
「……そこまでは言ってませんよ。はみだしてしまった人にははみだしてしまった人なりの理由があるはずですから、その理由を考慮せずに人間でないとするのは難しいです」
「例えばどんな理由が考えられますか?」
「俺に思い付くのは……まあ例えばの話ですけど、自分の大切なものを奪った相手に対する復讐としての殺人とか、そんな感じじゃないですか? その悪事に手を染めるに至った理由が同情に値するものなら、これをはみだしているとするのは、俺には難しいです」
自分でも話がまとまっていないのは分かっていたのか、少年の紡ぐ言葉は後ろに向かうにつれて弱々しい語調へとなっていく。
不安になったので青年の顔を見やると、筆を走らせる手を止めてそれを顎へと当てていた。何やら考え込んでいるらしい。少年は眼前の青年が、どうやら自分の稚拙な論理に関して何か熟考しているらしいということを悟り、少し耳が紅潮するのを感じた。
「……つまり解夏くん、あなたはこう言いたいわけですね。同情の余地がある人間に対しては、例えはみだした存在であろうが、それ相応の情けをかけてあげるべきだと」
「まあ、そうなるんですかね。言われてみればそんな気もしますが」
「それでは、情けをかけるべき対象が
殺人鬼。
青年が何気なく、例えとして発しただけのその言葉を、少年はここのところよく聞いていた。
一週間ほど前だろうか、近くの公立高校の教師が
全員が、同一の手段で惨殺される事件が発生している──発生し
少年は何の情報の伝手もない一般人であるから、その詳細な内容までを把握することは不可能だったが……しかし巷に流れ出る風の噂とやらによると、どうやら被害者たちは皆一様に
そんな物騒な事件があったからか、普段ならば大勢のカップルなんかで賑わっているはずの江ノ島やら由比ヶ浜やらには閑古鳥が鳴いている始末。少年が住む北鎌倉も、それは例外ではなかった。
「おっと、少々説明不足が過ぎましたかね、いささか突飛になってしまいました、申し訳ありません。つまりは生まれながらにしてはみだしている存在は、果たして人間足り得るのか? という話です」
少年が殺人鬼という単語に気を取られていた間にも、青年は一人で話を続けていたらしい。まずい、物思いに
「……えっと、野生動物や殺人鬼も人間であれるのかどうか、って話でしたっけ?」
「全然違いますよお」
全然違かった。
いやでも、そうじゃなかったら何なんだ。
「その、すみません。殺人鬼ってワードについて深く考え込んでたせいで折角のお話を聞き逃しました。最近物騒な話題が尽きないものだったんで」
「ああ……そういえばそんな話もあるんでしたっけ。まったく、どこの誰があんな恐ろしいことをしているんでしょうか? というか人間かどうかも怪しいです、きっと件の殺人鬼とやらは人の心をどこかで殺してしまったんですよ」
青年は肩をすくめてため息を吐きながら、それはもう深いため息を吐きながら──しかしその表情には目を細めた笑顔でも心底困ったような表情でもなく、ただただ無表情が貼り付けられていた。
少年はその表情に、何か薄ら寒いものを覚えないでもなかったが……しかしきっと眼前の優しげな青年は残虐非道な連続殺人鬼に怒りを覚えているのだと、勝手にそう解釈し、やはりそれ以上の追求はしなかった。
「じゃなくてですね、現実の殺人鬼はどうでもいいんです。殺人鬼なんて所詮は殺人鬼でしかないんですから。そんなことより、私は解夏くんに『人でなしと人間の違い』を問いたいんです」
「人でなしと人間の違い、ですか。さっき答えた『道徳倫理』ってのは、ここでは答えになりませんか?」
「なりません。なので質問の仕方を変えたというわけです。先ほどの解夏くんの理論は人間を人間たらしめている理由とは言えません。だって『はみださないという意識』が人間を人間たらしめている理由になるというのであれば、それこそ野生動物はどうなるのですか? 彼らには彼らなりの社会規範があるわけじゃないですか。そこからはみだしていないのであれば野生動物すらも人間であるという風に結論付けられてしまいます。それから殺人鬼もそうです。殺人鬼というのは人を見れば殺さずにはいられないという、人間と呼ぶにはあまりにも悍ましくて禍々しくて間違いに間違った生態を持っているものです。これを人間扱いするのは、普通に生きている普通の人々には難しいと思いますよ。つまりですね、先ほど解夏くんが語ってくれた『道徳倫理』──そこからはみだしているかはみだしていないかというのは、あくまで単一の生命体が所属する
「…………そう、です、ね?」
想像していたよりも痛烈な批評だった。
取材に関しては人が変わるとでもいうのだろうか、そこに一切の手心が加えられることはないらしい。青年のことを優しげだと思っていた少年は、この辺りで認識を正し始めた。
恐らくだが眼前に座している青年は、欺瞞やら誤魔化しやらが大嫌いなのだろう。
だからこそ、相手の本音を何としてでも聞き出そうとするし、自分の思考を欠片も隠さずに曝け出すのだろう。
「……それなら、そうだな。人間を人間たらしめる要因が、はみだすとかはみださないとか、そういうんじゃないなら──」
そういう性根の持ち主ならば、きっと。
取材相手の本音がどんな内容であったとして、それを無碍にするようなことはないはずだ。
ただ漠然と、そう感じた。
「──親愛とか、友愛とか……
「……家族、愛ですか。しかし解夏くん、その論理にも
少年が何か琴線に触れる言葉でも放ったのか、やはりにこにこと目を細めて微笑みながら返答を促す青年。
対する少年の方はといえば落ち着き払っている。本音を語っているだけなのだから、本心を曝け出しているだけかなのだから、何を言われようが気にする必要はない、と。本人としてはそんな心持ちのようだった。
「ええそうです、俺の主張は人間らしさに満ち溢れた、傲慢で自分勝手なものですよ。人間なんてそんなもんです、きっとね」
「…………」
「だからつまり……えっと、俺が何を言いたいかっていうとですね、人間の人間らしさというのはとことんまで突き詰めたら、家族や友人のために
「………………」
「もちろんこの『何かをする』っていうのは、野生動物みたいな本能によるもの……例えば獲物を狩って群れの仲間に分けるだとか、天敵に狙われたから囮になって群れを生かすだとか、そういうのではなく、もっと感情に由来するような動機で行われるもののことです」
「……………………」
「要するに、その……生存するにあたって必要のないことを嬉々としてやることができる。それこそが人間の人間らしさってやつの正体なんじゃないかと、そう考えてます」
眼前の青年は何も言わない。ただ、その手に持った筆は今もなお紙の上を走り続けていて。
それから数秒後。先ほどまでとてつもないスピードで文字を書き続けていた──ノートを引っ掻き回していた筆の動きが、突如として
青年は「解夏くん、最後に一つだけ聞きたいのですが」とワンクッション置いた上で、少年に対して何度目かの問いを投げかけた。
「先ほどあなたが語ってくれた『人間らしさの要素』は、ええ、確かに限りなく真実に近そうですね。その上で、それを踏まえた上で──」
呼吸。
息を吐いて。
息を吸って。
言葉を吐いた。
「
「言えるんじゃないですか?」
即答だった。
しかしその言葉は──これまでのどの言葉よりも早く返されたその言葉は、なるほど確かに少年の本音のようだった。
青年には、それがはっきりと、手に取るように理解できた。
取材という手段で、少年の心理を深掘りしてきたからこそ、理解できた。
「殺人鬼は生まれ落ちたその瞬間から間違えに間違えている存在ですよ。それなのに、愛だの何だのを語ってもいいと?」
「そりゃいいでしょうよ。いや、人殺すのとかは流石に駄目ですよ、それは社会的に見ても悪ですし。殺さなきゃ生きていけないってんなら話は別ですが……」
少年はそこで一度言葉を区切った後、「でも」と言葉を接続した。
「でも、そんな殺人鬼でも、家族や友人を愛したっていいじゃないですか。友愛だろうが親愛だろうが家族愛だろうが、これが悪とされていいはずがないんです。俺はそう思いますよ、だって愛情っていうのは」
「人を殺す殺人鬼でも、人を騙す詐欺師でも、人を人とも思わない人でなしでも、誰かを愛して、誰かに愛されていいんじゃないですか。人間らしさって、つまりはそういう人間関係のもとに成り立つものでしょう」
「…………そうかも、しれませんね。いやしかし、まさかそんなまっすぐな言葉をいただけるだなんて! 私はやっぱりあなたのことが好きになってきましたよ、解夏くん」
「青臭いだけですよ、俺の言葉なんて。世間を知らないんでこんな軽はずみなことが言えるんです。それから軽々しく好きとか言わない方がいいですよ、勘違いされます」
自虐とも取れるその言葉に──実際に少年は自虐としてその言葉を発したのだが──しかし青年は、それに否を唱えることにしたらしい。
「いいえ、とんでもない! 私はちゃーんとあなたのことが好きですよ、解夏くん。嘘は嫌いなんです、嘘つきは殺したくなるくらいに嫌いなんです! ですから解夏くんみたいに正直な人は私の好みです、タイプです、どタイプ!」
「……そうっすか」
青年がにこーっと満面の笑みを浮かべながらそんなことを言ってくるものだから、少年としてはたまったものではない。相手が男性だと分かっているとはいえ、しかしその距離の詰め方は少年には照れ臭いものだった。
いやちょっと待て、そもそも意識してしまうことそれ自体がおかしいんだ。平常心、平常心。目の前にいる小柄な男性はつまり心の距離感が近いというだけで、俺がこんな風に慌てる必要はない。落ち着け、漢・可知解夏。このままだと親を泣かせることになるぞ。
そんな風に少年が一人誰に向かってというわけでもなく言い訳を重ねていたところで。
「おっと、そういえば解夏くんには快くお名前を教えてもらったというのに、私の方はまだでしたね、うっかりでした」
なんてそんなことを言いながら、ぱたんと手帳を閉じた目の前の青年は何でもないように──実際に自己紹介程度のことは何とも思っていないのだろう──その名を名乗り上げた。
「私は
「……零崎、記識ですか。へえ、随分と変わった名前ですね。だけど変わった名前はよく考えられた名前とも言いますし、似合ってると思いますよ、その名前」
人の名前に対して「似合ってる」という感想を残すのもいかがなものなのかと、少年はそうも考えたが。
しかし眼前の青年はあいも変わらずにこにこと微笑みを携え、目を細めながら「んふふ、ありがとうございます」と言っていたので、あながち間違いであるというわけでもなさそうだった。
「さて、これで取材の方は終わりです。これまでの取材で一番楽しかったですし、一番
「……あ、はい。そうっすか」
「ええ、私が
「……わーい」
「もっとです、もっと大きな声で!」
「うわーい!!」
「うん、よくできました──あっ、やまびこも返ってきています!」
……これは何の羞恥プレイだよ!
少年としては、むしろそう叫び出したい気持ちでいっぱいだった。
「っと。いけません、こんなことをしている場合ではありませんでしたね。解夏くん、確かお急ぎのご様子でしたよね?」
「ああ、まあ……しかし、これで終わりですか。早いもんですね」
なるほどこれが一期一会というやつか。そんな言葉を使う状況に直面したのが初めてだった少年は、内心微かな感動のようなものを覚えないでもなかった。
トレーニングも終わったことだし、突発的な取材も終わったことだし。さてそれではそろそろ帰路に着こう、と。少年がそう考え始めたタイミングで、既に帰り支度を始めていた青年は「よいしょっ」と声を漏らしながら、近くに立てかけてあったらしい長い筒のようなものを持ち上げた。
見たところ全長は130cmほどだろうか。流石に青年の背丈よりは二回りほど小さいものの、しかし彼の身長を考えると、中々に扱いにくそうな物が入っていそうだった。
と、そこで青年は少年の視線に気づき。
「中身、気になりますか? 私、解夏くんになら見せてあげてもいいですよ」
なんて、何故かやたらと意中の殿方を誘惑するときみたいな言い方で、巨大な筒の中身を見せびらかそうとした。
……この青年が
らしかったのだけれど。
「……いえ、俺は結構です。件の殺人鬼が世間を騒がせてる真っ最中ですから、これ以上遅くなっちゃうと、心配性の母親に心配されちゃいますし、殺人鬼に出くわすかもしれないし、それに──」
「私とお別れするのが寂しくなっちゃうとか、ですか?」
「──ん、まあ……そんな、感じ、っすかね?」
少年は一番突かれたくない図星を突かれてしどろもどろになってしまった。
「んふ、んふふ……ええ、多分そういうものなんですよ、人間って。ちょっと関わり合いになっただけで別れが寂しくなる、そんな生命体なんです。これを恥ずかしいと思う人は多いみたいなんですが……」
青年はそこで言葉を区切り、少年にずんずんと近付く。
急に接近してくるものだから、少年は驚いて後退りそうになるものの──しかしその行動を取るよりも、青年がその手を取る方が余程早かった。
「なっ、えっ!?」
「私はあなたの、そういう飾らないところが気に入りました。解夏くん、あなたに会えただけでも、この鎌倉に来た甲斐がありました。私と出会ってくれて、
「いやっ、まあ……俺なんかのことをそう高く評価してくれてるのはありがたいんすけど……!」
いよいよ表情を無に保つこともできなくなってきた。何なんだこの人マジで距離感近すぎるし好意を伝えることに躊躇いがなさすぎるだろ! 少年の情緒は正直もう限界だった。
そして何かのゲージが振り切れそうになった瞬間──青年の両手は少年のそれから離れた。
「心惜しいですが、そろそろお別れに致しましょうか。殺人鬼に見つかってしまったら、私たち二人とも殺されてしまいますから」
「……そうですね。またどこかで会えたら、そん時はもっと面白い話が出来るようになっときますよ」
「おや、それは楽しみです! んふふ、楽しみですねえ、再開するのが。それならば、それまで死なずに生き残らなければいけなくなってしまいました」
とまあ、大方そんな感じで。
「……それじゃあ、記識さん」
「はい、解夏くん」
少年と青年の語らいは終わり。
「またいつか!」
「またいつか、ですね!」
そして、二度と始まることもなかった。
◆ ◆
深夜、神奈川県鎌倉市、某所の山道。
そんなところで零崎記識は、最近巷を騒がせている殺人鬼と
殺人鬼は夏だというのに全身黒ずくめの服装に身を包んでいて、見ているこちら側が暑苦しく感じるほどだったが。しかしそれは記識の方も同じことだった。
「こんばんは、最近巷で噂の殺人鬼さん。今夜はいい天気ですね、ところで今、取材を受けていただくお時間ってあったりします?」
「……は? いや、殺人鬼って、俺は別に──」
「ああ、別にいいですよ隠さなくて! 私はあなたが今までに何をしてきたのとか、全部知っているので」
いつも通り右手に取材用の手帳を、左手に高級そうな万年筆を携えた記識は、隠し事などさせないとでも言うようにそう断言する。
「流動高校の教員である
目を細めて、薄笑いで殺人鬼にそう問いかける記識。深夜で光源も雀の涙ほどの効果しか発揮しない深夜の山道では、昼間のそれとは違って、随分と恐怖心を煽る表情だった。
何故だ、何故。何故自分が犯人だとバレている。というかそもそも目の前にいる奴はどこのどいつだ。取材と言っていたか、ということはどこぞの週刊誌の記者か?
殺人鬼が必死に思考を回している傍らで、しかし記識の方はといえばいつも通りに「時間がもったいないんで取材の方を始めさせていただきますね」なんてことを口にしている。
「なっ、おい待てよ、俺はまだ何も」
「もう、何なんですかあ、市松大学の文学部国文学科三年生である
「言って──んなっ……!?」
その言葉で、今度こそ殺人鬼は──在月木槌は恐怖を覚えた。何せ自分の身元が一方的に、それも完全に割れているのだから……しかも相手は見も知らぬ赤の他人である。
しかし、しかしだ。目の前の相手はそこまで確信している割には、警察を読んだらするそぶりは見せていない。今だって取材の準備を進めているところだし、こちらを非難するような視線も向けてきていない。
……色々と考えた末に木槌は、一か八か、記識の
最悪の場合。
この後、いつも通りに殺してしまえばいいのだし。
「……取材、受けていただけますよね?」
「ああ、はいはい、受ければいいんでしょ受ければ……で? 俺は急いでんのよ、さっさとここから離れたいの」
そう答えた瞬間、記識は手帳を筆で引っ掻き回し始めた。字を書く速度があまりにも速すぎるので、正直なところ木槌は驚いたものの、しかしその態度は皮の下に隠した。
「取材にご協力いただきありがとうございます。さて、それでは一つ目の質問なのですが……気が変わったので質問自体を変えます。たった今、ここから離れたいの、と。そうおっしゃいましたね?」
「え? あ、ああ、うん……それが何か?」
「
何でもないようにそう問いかけてくる記識に、木槌は思うところがないではなかったものの──しかし
木槌は何でもないように「ああ、うん、そうだよそうだよ、二時間前くらいにぶっ殺してきたんだ」と言い放ち、それから財布を取り出して、何かを確認し始めた。
「おや、どうしました? 小銭でも落としましたか?」
「いや違うんだよ、ぶっ殺した奴が待ってた財布でさ、これ。保険証とか入ってたら名前確認できるなーって。あんたの取材にも役立つんじゃない?」
「そうかもしれませんね。しかし私のこれは記事を書いたりするための取材ではないのですが……まあいいでしょう」
記事のための取材ではない? 何だそれは、それじゃあ目の前の小柄な男は個人的な知的好奇心を満たすために取材をしているとでも言うのか?
気になることづくめだったが、しかし今はこの状況をどうにかすることが先決だ。そう考えた木槌は、わざとらしいくらいに緩慢な動きで保険証を取り出した。
「おお、あったあった。やっぱ持ってるよな、保険証くらいは。えーっと、名前は……」
「おっ、ようやくですか。待ちくたびれました──それで? 第九の被害者のお名前は?」
「可知解夏、だってさ」
「へえ、そうですか。可知解夏、可知、解夏くん…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
途端、記識の手が止まる。
手帳を引っ掻き回すように文字を書きまくっていた手が突如として止まるものだから、木槌は内心ぎょっとしたものの、しかしどうやら相手が動揺しているらしいと考え、あくまで強気な態度を崩さなかった。
「あれ、その反応を見るにもしかして知り合いだったりする? いやあごめんね、そうだと知ってればもっとちゃんとぶっ殺してたんだけど──つーか、どうする? 同じとこに連れてってやっても」
「あ、それは別に結構です」
「いいけど──って、え?」
「だから、もう結構です。取材もここで終わりにしましょう。お時間いただきありがとうございました」
先ほどまで明らかに動揺していたというのに、何故かそんなことを言いながら手帳を閉じて筆をしまう記識の姿を見た木槌としては、何が何だか分からない。
それどころか、何やら背中に背負った長い筒のようなものから、これまた何か長いものを取り出している。長さ的に竹刀やバットの類かと木槌は推測していたが。
しかし記識が取り出したのは、木槌の予想から最も遠い場所に位置していると言ってもいい物体だった。
「……
「昔レンくんから貰った筆です。銘を『
どこかの誰かが悪ふざけで作ったとしか思えないその万年筆は、全体的に細長かった。シルエットだけ捉えたのならば、それは槍と見間違えてもおかしくはない。見たところキャップは存在していないらしく、先ほど記識がそれを取り出した長い筒が、キャップの代わりになっているのだろう。
月明かり以外の光源はほとんど無いというのに、ペン先がぎらぎらと光を放っている。随分と研ぎ澄まされているらしい──この場合研ぎ澄まされているという表現が適切なのかどうかは分からないが──とにかく、見ている側が惚れ惚れするような銀色だった。
本当に、惚れ惚れする。
実際に木槌は、その万年筆に見惚れていた。
恐らくはそれが、彼の最後の失敗だった。
「──最後に、一つだけ聞いておきたいんですが」
「っ! あ、ああ? 何だよ、取材は終わりじゃねえのか? だったら……」
「あなたの考える、人間を人間たらしめている要素は何ですか?」
まるで槍を構えるかのように巨大な万年筆を携えた記識は、にこりともせずに木槌にそう問う。その構えは洒落にならないほど様になっていて、木槌のような
否、隙はあった。少なくとも木槌には記識が
だから木槌は、懐から刃渡り30cmほどのサバイバルナイフを取り出しながら。
「知るかよ、そんなこと!!」
そんな風に叫んで、記識へと突撃した。
冷静に考えれば、相手が妙な万年筆とかいう変な武器を持っている時点で、何か危険なことをしでかしかねないということくらいは分かりそうなものだが。
しかし木槌は、これまでにまともな実戦経験など積んでいない──積んだのは殺人の経験だけだ──から、そんなことにも思い及ばなかったらしい。
だから木槌は、ナイフを片手で持ち、それを記識の首に突き刺すようにしながら、勢いをつけて突進した。
「てめえもあいつらと同じところに送って──」
「結構ですって」
「やるっつって……?」
直後ナイフが記識の首筋に突き刺さ──らない。
それどころか攻撃を空振ってしまった木槌は、何だか右手が軽くなったような感覚を覚えた後、バランスを崩して山道に倒れてしまった。
「質問に答えてくださいよ。あなたが思う『人間らしさ』って何ですか?」
「っおい! てめえ、俺に何をした──」
「何をしたって、これ以上悪いことできないように腕を切り離して差し上げただけなんですけど」
「……え?」
「ほら、この通りです。綺麗に切れたので、まあそんなには痛くないんじゃないですか?」
「は?」
木槌の眼前には、未だにナイフを握ったまま離そうともしない自分の右手があって、しかもそれを持っていたのは他でもない記識だった。
切断された面からぼたぼたと血がこぼれ落ちていて。確認のために自分の右手を見てみると、やはりそちらからも勢いよく血液が噴き出していた。
どうやら『
それに気が付いたのは、腕が切り落とされてから数秒後のことだった。
「ぐ」
しばらく遅れて。
この世のものとは思えない痛みがやってくる。
「
「そんなことより質問に答えてくださいよ。『人間らしさ』って何だと思いますか? 答えによっては生かして返してあげてもいいですよ」
みっともなく転げ回り、泣き叫び、悶絶の限りを尽くしている木槌に対して、しかし記識は容赦を加えるつもりはないらしい。
木槌の胴体に飛び乗るようにしながら、その手に持つ『
「『人間らしさ』!? 知るかよ、知らねえよそんなこと! ぐっ……ああクソッ、どうしてくれんだよこの腕!? 痛え、痛い、痛い……!」
「答えてくれないのですか? それならしょうがないですね、
記識はそう言って、木槌の首に『
「分かった、答えるから、言うから! 人間の人間らしさだろ、愛だよ愛情! 他者に対する思いやりとか、あとは家族愛とか……!」
「家族愛、うん、いい響きですね」
「っ、それじゃあ」
「それじゃあもう一つ質問しますね。あなた、どうして人を殺したんですか?」
よかった、腕は切られたけど、何とか生きて帰れる。そう考えていた木槌に追加で投げかけられた問いはそんな内容だった。
当然、木槌は困惑した。したが、しかしここで答えなければ殺されてしまう。そう考えた。だけど何も思いつかない。どうしよう、死にたくない。
そう考えて木槌は。
適当を言って誤魔化した。
「人を殺さないと、お前の家族を殺すって言われて──!」
「嘘ですよね、それ」
「──え」
涙で滲んだ目で記識を見上げる木槌。
何よりも何もない無表情が、そこにはあった。
感情も、人の心も、情け容赦もない。
ただ、『無』だけが
「そういえばあなた、被害者の方々の中身を引っ掻き回してたって噂ですけど、あれって本当なんですか?」
「それは……」
「本当なんですね?」
「本当、だけど」
「何でそんなことしたんです? 手間がかかるでしょう、そんなの」
「……あいつらは俺に酷いことをしたんだ、だから」
「嘘つきですねえ、見苦しいですねえ、社会的に悪い人ですねえ。あなた、有名になって自尊心を満たしたかったんでしょう? 悪名は無名に勝ると、そんな言葉もありますから」
どういう理屈かは分からない。分からないが、しかし
木槌はそこで、記識が持っている『
「私はね、人間という生命体が一体何なのか、まるで分からないのです」
「……おい?」
「人間はどうして嘘などつくのでしょうか。全ての人間が正直に生きているだけで、全てがうまく行くはずなのに」
「なあ、ちょっと」
「最低最悪な
「おい、話を──!」
「こうやって聞いても、どうせあなたはまた嘘をつくんでしょうね。分かっています、分かっていますとも。これまでに取材してきた方々の約半数が嘘つきでしたから」
「なあ! おい!」
「でも、どんな嘘つきの人でなしでも。質問をすれば必ず本音が飛び出る瞬間があるらしいんですよね」
記識は木槌の抗議の声など一切無視して話を進め続け。
そしてそれから、
「
「──…………はあ!?」
直後、そちらの事情などまるで知ったことではないとでも言わんばかりに(実際にそう考えているであろうことは想像に難くない)、記識は木槌の胸部から腹部にかけて
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎──!!!!!」
当然ながら、あまりの痛みに耐え切れなかった木槌は文字に起こすこともできないような、凄絶な悲鳴を上げる。
いくらここが山道であるとはいえ、流石にこの声量ともなると、遠くまで声が響き渡ってしまうのではないか。事実、声は遠くまで響いてしまう。
しかしまあ、そうなったらそうなったで──大事になったら大事になったで。零崎記識という男にとっては、そんなことは気にするまでもないことだった。
「あなた、九人もの──今は十人ですか。十人もの人間の中身を引っ掻き回していたらしいですけどね。
返事はない。記識がギリギリ死なないように調整しているとはいえ、木槌はもはや言葉を紡ぐ余力を残していなかった。
「だからまあ取材の一環として、今からあなたの本心を聞くために、あなたの内心を知るために、あなたの中身を引っ掻き回して──
目的を持って人を殺しちゃったってことを知ったらアスくんあたりは怒りそうですが……まあそうなったらトキくんを例に出して説得すればいいですかね。
そんな風に(木槌にとっては)訳のわからないことをぶつぶつと呟いていた記識だったが、しばらくしてから「まあいいか」と投げやりな言葉を吐き捨てて。
木槌の
「──それじゃあ零崎を始めちゃいましょう」
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