闇の時代と一杯の紅茶 作:The-Artless-Dodger
灰色の雲がスコットランドを覆い、雪がはらはら降ってくる頃になると、エドアルドは胸の奥に一抹の寂しさを感じるようになった。中庭の痩せこけた木々は蕭々と音を立て、城全体が太陽から遠ざかったかのように沈み込んでいた。しかしエドアルドを参らせたのは、城の寂しさではなく、むしろこの景色が暖かいものを想起させるからであった。
思えば彼の人生は、なんとまぁ、煤と埃に塗れたものであったろうか。ドレクネーベルの真新しい建物は住人たちのがさつさを雄弁に物語っていたし、ノクターン横丁に至っては、もうくどくど言い立てる必要もないだろう。そしてその煤と煙は、それだけにエドアルドの周囲の人々が、いかに思い遣りに溢れていたかをありありと思い出させるのである。ある点に於いて、ドレクネーベルとホグワーツは似ていたが、前者は容れ物が小さい分、子供たちはぎゅうぎゅう詰めにならざるを得なかった。そしてタバード氏の家は壁が薄いから、嫌でも同居人の存在を知ることになる。
しかしホグワーツは、少し歩けば人の姿が忽ち掻き消えるほど広大であった。一体どうして、たったこれっぽっちの生徒のために、これほど大きな城を作らねばならなかったのか、これがエドアルドの疑問である。その不釣り合いは、パフスケインを飼うからといって、島一つを購入するに等しいほどの愚行と思われた。動く階段、互いにやたら離れた教室、床に水溜りがあっても踏み抜くまで気づかないほど薄暗い廊下──おそらくホグワーツの建築士は、いたいけな少年少女の足にマメを拵えることが楽しくて仕方ない奇妙なサディストか、「健全な魔法は健全な肉体に宿る」を盲信し明後日の方向に突き抜けてしまったスパルタかに違いない。
だが、生徒に出会すこと、これもこれで快い経験ではないことが多かった。ハッフルパフ生なら問題はない。グリフィンドール生も気がいい連中である。レイブンクロー生は目撃証言が極めて少ないので、アクロマンチュラが現実には脅威でないのと同じ意味で無害。ただ、緑色のマフラーを巻き、背骨のかわりに鉄棒でも突っ込んでいるかのような姿勢で歩く方々が大問題であった。嫌味、皮肉、ちょっとした揶揄いはまだ良いが、やはり突然の贈り物は対処に困る。ペインティングは、幾度かの贈り物でこちらを油断させた後、ここぞという時に毒餌を混ぜて謀殺しようとしているに違いない、と疑っていた。
そんな彼らは、我らがデルフィーニ嬢に対してだけは、一層陰湿な態度を見せるのである。彼らはデルフィーニ嬢と廊下で遭遇すると、俯いて目が合わないようにする。しかしすれ違った途端、小さな、しかし十分聞き取れるクスクス笑いを挟みながらこう言うのだ──「全く、レストレンジ家もヴァレンシュタインと同じ轍を踏むかの瀬戸際なのに、一人娘があれじゃあねぇ……」
デルフィーニ嬢はこうした陰口に、例の氷の彫像のような態度を貫いていた。しかしながら、学校が始まり一月が経つ頃になると、いよいよ苛立ちを抑え難くなっていることは明らかだった。するとハッフルパフ生は、お貴族様のご不興を買ってはたまらないと萎縮してしまうので、上級生たちも頭を抱える他なかった。そして、ハッフルパフに入ったことが、泣く子も黙るレストレンジ家のご令嬢をしてこのような境遇に晒させているかと思うと、元々あってないような自負心もまた、あだのあわれと消えてゆくのだ。
「おい、あのお嬢様」ある秋の夕方、穴熊の棲家でジャックが声を潜めながら言った。「また髪の毛から火花が散ってるぜ。椅子を焦がすくらいなら、おれたちに相談の一つでもすりゃ良いのにね。『ねぇ、こんなことを言われるんだけど、私ってそんなに不出来かしら?』ってさ」
「それで、相談されたらどうするの」とペインティング。
「そいつはもう、決まりきってるだろ」ジャックはニヤリと笑った。「こう言えばいい。『もちろん、だって我らはハッフルパフだ。事実を指摘されて腹を立てるのは余計惨めだぜ──」
エドアルドは手にしていた新聞でジャックの頭をこれでもかと叩き、その音で以て、万が一にもデルフィーニ嬢の耳にジャックの軽口が届かないようにした。
「なんだよ、お前も事実の提示に怒る口か、エド?」頭を摩りながらジャックはそう笑った。
「君はもうちょっと勉強したほうがいいよ」エドアルドは毅然と言う。「次はもう少し良い音がするようにね。まるで空き缶を叩いたみたいだったよ」
ペインティングはこの応酬をはらはらと見守り、いざという時に備えて腰を半ば浮かせていたが、二人は昔から、この種の言い合いに慣れているのだ。往々にしていじめっ子の気質を発揮するジャックをほどほどに諌めることこそ、孤児学校におけるエドアルドの特権的立場を支えていたのだから。そしてそれ以上に、魔法薬学の教室での一悶着が、二人の関係に楔を深々と打ち込んでいた。デルフィーニ嬢は平然と知らぬふりをしていたが、それがふりであるとわかる以上、お芝居上手とは言い難い。エドアルドは、自身の勇気ある反論を誇りにすら思いつつ、しかし彼女がお仲間からすらこれほどに疎外されているのを見てしまうと、やや後ろめたさを感じずにはいられなかった。
しかし、そんな旧友の胸中は知らない──あるいは、わざと無視しているジャックは、笑いながらこう言った。
「へぇ、じゃあエド、君の言う“勉強”ってのは、その紙屑を読むことかい? おれに言わせりゃ、濡れたブーツに詰め込む以上の役には立ちそうにないけれど」
この一ヶ月で、ジャックは新聞への無邪気な信頼を全く喪失していた。日刊予言者新聞は、声だけ大きい割に中身が薄いのは相変わらずで、まるでツグミが冬に鳴いているみたいなものだった。似たような英雄譚、政府の礼賛、貴族のお歴々が身につけている宝飾類の詳細、そして「ホグワーツ学内事情」などなど──その中でも社会面の記者は目下ロンドンの住宅問題に熱を上げているらしい。というのも、社会課題は数あるが、魔法省が記事にすることを許すのは、既に解決の途上にある問題だけなのだ。
例えばこんな調子である──
魔法省の育児支援政策は功を奏し、イングランドを中心に我が人口は増加に転じている。先の大戦において失われた尊い人々の思い出は今なお我々の胸を打ってやまないが、極めて俗物的な物言いをお許しいただけるならば(一体日刊予言者新聞が俗物的でない時があったかしら、とエドアルドは思う)、社会の体力に対して与えられた損失は、十分埋め合わせの目処がついたということである。
しかしこれは、頭脳明晰な魔法省高官たちでも予測し得なかった、ある新たな問題をもたらした。特にイングランドで爆発的に上昇した出生率は、ロンドンをはじめとする大都市において家族向けの大型住居の不足に直結したのである。
一時ロンドンではこのために悲惨な家族がいくらか見られた。
「居間と、食堂と、寝室が一つずつ。家族六人で暮らすには手狭と言っても、贅沢すぎるとは思われないでしょう? 私たち大人はまだ我慢できますが、子供はちょうど歩き始めた頃でしたから」
そう振り返るシープヘッド氏は、苦笑いを浮かべている。
だが、我々(日刊予言者新聞は好んでこの一人称代名詞を使用するが、「魔法省」を意味する場合と「市民」を意味する場合、そして「新聞社」やひいては「全魔法使い」を意味する場合が混在しているので、ややこしいことこの上ない)はもう心配する必要はない。この度魔法省は万年不足しがちな拡大呪文の掛け手を十分な人数調達し、順次対応を始めている。シープヘッド家は幸いなことに、一週間前に増築が行われた。
「今では一人一つ寝室があります。それだけでも素晴らしいのに、キッチンを広くして欲しいという妻の我儘まで叶えてもらったのですから、魔法省には頭が上がりません」
この通り、ロンドンの住宅問題はもはや解決済みといっても過言ではない。本記事の執筆段階での魔法省発表によれば、増築の施工率は全体の七割に迫りつつある。
しかしこのような、一応「新聞らしい」記事が載るのは稀で、大抵は嘘か誠かも分からない低俗な話題で紙面は埋め尽くされているのが常である。魔法使いたちは知る由もないが、かつてマグルが親しんだいわゆるタブロイド紙の高潔な精神は、見事に受け継がれていたのだ。
そしてやはりタブロイドらしく、種々様々の陰謀は記者と読者の双方の想像を掻き立てると見える。日刊予言者新聞を額面通りに信じ込むならば、「マグルとその支援者」は月に四回は「身の毛もよだつ悍ましい破壊工作」を目論み、そのたびに「“かのお方”に仕える忠実な魔法警察部隊」か、「善良な、しかもそれ以上に勇敢な市民の類稀なる慧眼」によって未然に防止されているというのだ。
しかし、これは嘘──より
その点、彼の友が毎日着払いで送りつけてくるデイリー・プロベイトはというと、これがまた輪をかけて酷かった。相変わらず紙の質は低くざらざらとしていて、インクが貼り付きページを捲るのにも苦労する。一度、それこそジャックが言うように、濡れたブーツを乾かすために使ったときなど、パンパンに詰め込んだにも関わらず、水を吸った途端驚くほど小さく萎んでしまったあたり、紙の品質を物語っていた。
そして肝心の記事は、日刊予言者新聞以上に当たり障りのない、言ってしまえば意味のない与太話なのだ。しかしそれでも、かの社は倒産する気配もなく、ピップに言わせると「購読者数は程よく浮きつ沈みつ」らしい。
一体この新聞は、どういった理由で「程よく」売れているのか、これはエドアルドにとって解けない謎だった。記事以外になにか特別の使い道があるのだろうか? それにしたって先述の通りブーツを乾かすのには全く使えないし、思い当たるものといえば、薬指を当てると光るロゴマークくらいだった。新聞業界が果たしてこんな有様であるから、エドアルドもすぐにはジャックに反論できなかった。
沈黙に耐えかねたのはペインティングだった。
「でもどうして、彼女はあんなに──その──」
「嫌われているのか」ジャックが引き継いだ。「うん、そこが疑問だ。エド、何か知らないか?」
「分かるわけないだろ」エドアルドはジャックに鋭い目を向けて言った。「ジャック、頼むからもう少し小さい声で話してくれないかな」
実際、これは大きな問題である。エドアルドたちにとって、デルフィーニ嬢と他の貴族たちとを隔てているものといえば、前者は多少遭遇することが多く、従って気が休まらないことと、贈り物は全くくれないことだけであった。
「まあ、現実的に考えれば」ジャックはソファにもたれかかり、脚を組んだ。「この寮が理由じゃないのか?」
「ああ、うん」ペインティングも頷いた。「そうだと思う。だってスリザリンの人たちは、あまり僕らのことを好きそうじゃないし。例え仲間でも、穴熊のバッジを着けていたら、それは嫌なのかも知れないね」
しかしこの単純明快な説は、エドアルドには合点がいくものではなかった。彼の頭には、組分け帽子の意味深長な言葉があったのだ。
「でも、ジャック、ペインティング」エドアルドは身を乗り出し、辺りを見回した。「組分け帽子はこう言ったんだ、彼女の『我儘』を聞いたんだって。つまりさ、彼女は自ら望んで──」
「いやぁ、それはどうかな!」ジャックは大笑いしながら口を挟む。「
「じゃあ思い出してみなよ、彼女、校長のくれた機会にも、全然飛び付かなかったじゃないか」
「そりゃ意地を張ったのさ。あんなに陰湿な“厚意”に膝を屈するなんて、貴族でなくたって恥に思うよ」
ジャックは言い切ると、テーブルの上のティーカップを手に取った。琥珀色のお茶を飲んでご満悦の彼は、エドアルドとペインティングを手招きし、寝室に向かう。暖かい布団の上では、それだけ心も柔らかくほぐれると踏んでのことであろう。
「まぁエド、気になるんなら」ジャックは談話室からくすねてきたプティングを食べながら言った。「聞いてみたらどうだ? お前を引き取った人、
「うーん、知っている気はするけれど、その分、口は堅いよ。あの人の仕事は、唇を糸で縫い合わせるのが制服、みたいなところがあるしね」
ここまで言ったエドアルドは、膝を打った。いかにも口の軽そうな知り合いがいるではないか。毎度毎度、無理やり新聞を買わされているのだから、質問の手紙の一つや二つくらい書いたところで罰は当たらないはずである。エドアルドは早速羽根ペンを取り出し、羊皮紙にサラサラと書き付けていった。
──────
返事は、三日後の朝食時に届いた。エドアルドたち三人がジャガイモのスープにスプーンを突っ込み、今日の魔法史の課題についてあれこれ話していると、窓から甚だしく肥えた梟が飛び込んできた。その梟はエドアルドたちの頭上を旋回し軟着陸を図ったが、下手に羽ばたきを弱めたせいで自重に耐えかね、ペインティングの皿へと真っ逆さまに墜落した。エドアルドは顔を顰めながら、スープに濡れて無惨な姿を晒している赤色の手紙を摘み上げた。
「全く!」ジャックは頬に貼り付いたベーコンを取りながら笑った。「お前の養父は、もうちょっとましな梟を飼えないのか?」
「いや、これは友達からだよ」
そう言ってピップからの手紙の封蝋を切った瞬間、手紙が凄まじい大声で「親愛なる我が友へ──」と喋り始めた。
「あの馬鹿!」エドアルドは手紙をローブの下に突っ込み、立ち上がった。「なんでわざわざ吠えメールで!」
三人は教師や生徒からの好奇の目を避け、朝の廊下を走り、男子トイレに飛び込んだ。そこでローブから手紙を取り出すと、ようやく解放された手紙は意気軒昂と大演説を始める。
「あれほど世間に対する関心の低かった君が、我が社の新聞を毎日購読することによって、ついには貴族社会の交友関係にまで興味を持つに至ったことに、ますはお祝い申し上げる! これ、来月の売り文句にするから、期待していてくれよ。君もこれで有名人だな、ロムルス!」
「ロムルス?」ペインティングの問いに、エドアルドは「僕のあだ名」とだけ答えると、再びピップの声に集中した。
「お尋ねのデルフィーニ・レストレンジご令嬢についてだけど、これは簡単に説明できる。仮に君が、無人の荒野にでかい屋敷を建てるため、意気揚々と乗り込んだ蛮勇逞しい開拓者だったとしよう。熊やら狼やらを追っ払うために、特別獰猛な猟犬を連れてね。猟犬を野に放ち、そいつらが好き勝手野獣を喰い殺すのを観戦するのは、きっと爽快だろうね! 何せ殺せば殺すだけ、君の屋敷の延床面積も広がるってもんだからさ。
さて、晴れてかつての支配者たちを絶滅に追いやって、立派な屋敷を建てた君は、荒野に巣穴を作っていた兎やら、狼のおやつになりつつもそれ以上の速度で
すると君は、だんだん猟犬たちを厄介者と感じ始める。図体ばっかり大きくて、やたら血に飢えたそいつらは、熊や狼に替わる猛獣さ。それなら、膝の上で撫でられるだけのコーギーとか、仕事を手伝ってくれるお利口さんのボーダーコリーとかの方を飼いたくなるよな。だけど用済みになったからって、一応頑張ってくれた猟犬たちを殺しちまうなんて大悪党のすることだ!
だから君はこうするわけだよ。つまり、今度は犬たちを金網に閉じ込めて、家畜は広々した芝生に放す! 猟犬たちには、まぁ飢えないくらいの餌をくれてやる、これで万事解決だろ? 君の屋敷は天下平らかなり、ってわけ」
それだけ言うと手紙は震え、自分でビリビリに破れてしまった。エドアルドは、デルフィーニ嬢が貴族のお仲間から冷遇される理由に、ようやく納得が行った。数年前、“かのお方”が「“解放”の進行中に一部で用いられた非合法的手段」について公に認め、謝罪と補償をしたことは有名だ。つまり、レストレンジ家はピップの言うところの「猟犬」一家なのだろう。
彼女は自らハッフルパフを選んだ、という仮説についても、彼はその正しさを半ば確信していた。もしスリザリン寮に入れば、貴族の子息たちはきっと彼女を歓迎しただろう。しかしその腹の底で、最近の不遇を嘲笑われることを、彼女のプライドが許容し得ないのはごく自然のことと思われた。その種の二面性は、あからさまな悪口よりも人を傷つけるものである。
すると魔法薬学の教室にて彼女がエドアルドに攻撃を仕掛けたのは、彼を貴族に与する一派と捉えたからだろうか。その点エドアルドも全く異論ないが、しかしそれだけでも無いように感じられた。デルフィーニ嬢は明らかに、彼ら下々を下々として扱っている。
未だなかなかよく分からない人物であることは確かだ。しかしエドアルドは、デルフィーニ嬢の人間性を垣間見て、ほんの少しだけ親近感を抱いたのだった。
トム・梯子外し・リドル。