闇の時代と一杯の紅茶 作:The-Artless-Dodger
官と民との成績表
成績はそれから数日後にやってきた。その日は珍しいほどの大快晴で、夏の陽光はブリテン中に降り注ぎ、ノクターン横丁の空を覆う炭と灯油と出来損ないの魔法薬との粉塵すら、これには敵わず身を翻して煙突の中へ撤退してしまったかのようである。故に梟も、その脚に括り付けられた分厚くやけに仰々しい封筒をものともせず、鼻歌すら口ずさみそうな感じで、二階の窓をコツコツと突いた。偶然遊びに来ていたピップは──しかしこの「偶然」というのがどこまで本当でどこから嘘か、全く分からないのが彼の常だ──椅子から跳ね上がると、テーブルの上に散らばっていたクヌート銅貨を引っ掴み、窓に駆け寄った。埃や曇りを丁寧に拭き取られた窓は透き通っていたが、元々ガラス板が凸凹しているので、梟のただでさえ大きい目はいよいよ不自然である。
「わ、不細工な顔だなぁ」ピップは深刻な表情で言った。「そんなに不細工じゃ、きっと虐められてんだろうな。特にセント・アルデーツの梟どもはとんだ性悪だって聞くし。そうして虐められると、気分が落ち込んで余計不細工になるんだから、どうしようもないよ。見ろよロムルス、こんな泣き腫らした目、ドラゴンの眼球の樽に紛れ込ませておけば、それなりの値段で売れるぜ、間違いなく!」
「馬鹿にするなよ、ピップ」タバード氏が鼻を鳴らした。「ここじゃ、盲だってドラゴンの目と梟の目との
ピップがやっとこさ建て付けの悪い窓をこじ開けた所で、梟の脚にクリーム色の大きな封筒が括られているのに気づいたタバード氏は、気の毒な少年を労わることもせずステッキで押し除け、駆け寄った。
「痛いな、ラム!」床に倒れ込んで見せたピップは、いかにも深刻といった表情で金切り声を上げた。「訴訟だ、訴訟だ! 訴えてやるぞ、即日訴えた上で、新聞に書いてやる、世論はおれに味方するぞ!」
「宣伝どうも、ピップ」タバード氏は梟に銅貨を握らせ、封筒を外すのに躍起になっていた。特別大きいので梟の爪では掴めなかったのだ。「お前の新聞じゃ、書かれた所で悪名は無名に勝るどころか、有名になるだけだろうに。それに裁判所はM.o.Mの臆病風のせいで、未処理の訴状が部屋を三つ満杯にしているからな、お生憎様──ほおら、思った通りだ! ロムルス、ロムルス!」
タバード氏の手に握られているのは、真っ黒の分厚い封筒であった。エドアルドはきょとんとしたが、臙脂色の封蝋を見て、送り主がホグワーツであると知れた。手紙を受け取ったエドアルドは、不思議と震えることすらしない手でナイフを掴んだ。ピップはこれが面白くないらしかった。
「なぁんだ、肝が据わってやんの。おれはさ、ロムルスがロムルスっていうより、仔犬のように震えるんじゃないかと期待したのにさ」
「馬鹿野郎、無駄な期待だ」エドアルドよりも早く反論したのは、咥えたパイプを右へ左へせわしなく揺らす養父であった。「俺が思うにこいつは根っからロムルスだ、犬なんて血じゃないさ。それに、こいつの成績はすでに先生よりお墨付きを──」
「なぁんだ!」ピップは再び叫ぶと、背もたれにぐったり身を預けた。「じゃ、出来レースみたいなもんじゃないか。つまらないなぁ、そりゃこの狼少年だって、不安なんか少しもあるはずないよ」
とは言いつつ、深い眼窩の奥に座す双眸は、暗い炎のように爛々と輝き封筒を睨んでいた。エドアルドはピップのこのような顔は見たことがなかった。エドアルドは手元に視線を移し、そっとナイフを入れた。厚い紙は鋸のように引いて押してをしないと一向切れず、切り口はギザギザに曲がり、割れた封蝋の欠片が床に落ちた。ようやく開いた封筒から、四つ折りに柔らかく畳まれている羊皮紙を取り出すと、背後でマッチを擦る音がしたのでエドアルドはギョッと振り返ったが、ただタバード氏が煙草の火をつけただけであった。
「ええと」エドアルドは羊皮紙を陽にかざして読み上げ始めた。「ホグワーツ魔法魔術学校より、貴殿の昨年度の成績評価について──」
前置きは羊皮紙一枚にびっしりと書き込まれていた。成績の見方、各教科の出来不出来、校長先生からのありがたい訓戒などなど、およそ紙とインクの無駄と言って差し支えないものである。エドアルドはこれに慣れていたが、学費を払っているタバード氏はすこぶるご立腹であった。ともあれその重要部分だけを抜粋しまとめれば、大体以下のようになる。
拝啓
ホグワーツ魔法魔術学校は、先日厳粛なる管理の下実施された期末考査について、本校生徒であるエドアルド・スワッブル殿の全教科の採点を完了し、その結果を以下のものと確認した。なお、全教科を合計した点数が、第一学年次席に値するものであったことを付記する。この結果は、貴殿の並々ならぬ勤勉と本校への忠誠を示すものであると同時に、以後の一層の奮励を──当然の責務として──要求するものであることを理解されたし。
三人は顔を見合わせ、何も言葉を交わさぬまま、大きく見開いた六つの目を再び手紙に落とすのだった。
──────
冷夏の予想は果たして的中し、八月初めのロンドン市街は、日陰にいて風が吹けばやや肌寒いほどであった。しかし雲は少なく、からりと乾いた日差しが気持ちの良い季節である。エドアルドはその日、ピップの仕事を手伝って、ノクターン横丁から少し遠出をしていた。ひとりでに動く馬車に揺られ、セント・ポールの丸屋根を左手に眺めながら二人は道を行く。平日の昼間で、乗客の人数は少なかった。幾部もの新聞をまるで毛布のように膝に乗せ、開いた朝刊の文字に涎を垂らし夢現を彷徨っている禿頭の魔法使い。長面にくっついた几帳面そうな両眼が離れすぎていて、魔法の不具合で馬車が止まってもこの人が馬の代わりをすれば良いだろうと思われる紳士。レイブンクローの腕章を付けた三人組の青年。そして疲れからかあるいは気苦労からか、涙袋がたるんだ女性と、一人は彼女の膝の上に、もう一人は隣に鎮座した幼なげな子供たち。この二人の子供は全くやかましく、薔薇の蕾のようにぷくりと膨らんだ唇を盛んに動かしてぺちゃくちゃお喋りに興じており、母親はどうにか静かにさせようと注意するのだが、その発情期の猫そっくりな声の方が、よほど耳障りであった。
「見てよ、あれ!」と膝上の子供が叫ぶ。「島だよ、島!」
「馬鹿だなぁ、橋だよ!」ともう一人の子供が叫ぶ。「橋を作る途中だよ」
この子供は舌足らずがややましで、多分兄なのだろうとエドアルドは思った。しかし兄からの講釈を、弟は容れる様子もない。
「じゃ、橋の
「違うよ、
「
エドアルドはチラリと右手に目をやった。濁ったテムズ川に、大きな台形の石造物が二つ配置されていた。確かに均された表面には茶色くくすんだ苔以外に一切の飾り気もなく、なるほどずんぐりむっくりの火山のような不格好さである。この二つの「島」の間は、舟が三艘並んで進んでいても悠々と通過するに十分なほど広かった。エドアルドは、皮袋の中のクヌート銅貨を数えて舌打ちをついていたピップの脇腹を突いた。
「新しく橋を作るんだね。いつできるんだろう?」
「できないさ」と、ピップはエドアルドの顔も見ずに答えた。「必要もないだろ、ロムルス? あの橋脚、ずっと昔からあのままだぜ」
馬車は、ついに開通の日を迎えることなく朽ち果てゆくミレニアム・ブリッジを尻目に、アッパー・テムズの通りを下流に向けて下っていく。
それから二百ヤードほど進んだ時であった。エドアルドの耳に、ざわめきのような音が飛び込んできた。視線を向けると、大変な人だかりがサザーク橋を通って、対岸よりこちら側へと渡ってきているのであった。先頭を行く人々は皆一様に手首より先がなく、汽車のピストンさながらの規則正しさで一歩一歩進んでいる。一方、その後ろを歩く人々は角材やら鈍く光るパイプやらを手に掲げ、ワァワァと大変な騒ぎぶりである。エドアルドには彼らの叫び声の中身が、ほとんど聞き取れなかった。しかしそれがむしろ、あの群衆の容易ならざる、本源より発する激情を証明していた。
「叛乱だ!」ピップが叫んだ。
「叛乱?」エドアルドは鸚鵡返しにする。「何に対しての──」
ピップは馬車の縁から乗り出して、橋の方を見入っており、エドアルドに答えることはなかった。しかしエドアルドには、これが何らか巨大な不条理に対しての、生物的本能に基づく叛乱なのであると直感し得た。本来、彼は知る由もないのである。約束された明日を、自らが自らを支配しているのだという擬制的な前提を、多くを望むことはないが、少なきを望むのならば大体にして叶うという安寧を、一挙に覆された人々の抱く、理不尽への鬱積した恐慌と憎悪など、彼は経験したことがあるはずもない。しかし、かの群衆が発しているのは怒りではなく恐慌と憎悪であったから、その莫大なエネルギーが放射熱となってほとんど真空をも横切り、エドアルドの心臓にざらついた、生々しい嫌悪感のほんの一部分を共有したのである。
馬車はやや減速したが、なおもまっすぐ橋を目指していた。御者も何が起きているのかはっきりと分かってはおらず、手綱に染みついた手垢の分だけの月日に由来する「何も起こるはずはない」という漠然とした慣れと、僅かな興味から、停めようとは敢えてしなかった。そうこうするうちに、乗客を乗せたままの馬車は、群衆の表情の仔細が窺えるまでに近づいたのである。先頭をゆく人々は、唇を真一文字に結び、一方後ろの人々は、煮えたぎる怒りの蒸気が絶え間なく腹の底から噴き出し、口を閉じることを許さないらしかった。エドアルドは初めて、彼らが手にしているのが角材ではなく、十字架を真横から見ていたのだと気づいた。群衆が一歩進むごとに、幾本もの十字架が上へ下へとまるで浮標のように揺れ動いている。いずれも全く粗末で、やすりすら満足にかけられていないのか、十字架を握りしめるある者の手は血が滲んでいた。しかしなお、彼はそれを傾けることすらなく、ナイト・バナレットもかくやと誇り高く、決然掲げていた!
「ねぇ、降りようよ、ピップ」エドアルドはピップの肩を叩いた。「このままだと、つまり──」
「しっ!」ピップは指を立ててエドアルドを制止する。「ほら、連中が来たぞ!」
エドアルドが左を振り返ると、濃紺のコートに制帽を身につけ杖を握りしめた魔法警察部隊の一団が、曲がり角から姿を現した。杖先からバンバンと爆竹を鳴らして橋上の群衆に向かっていくが、遠目からでも動揺が見て取れるほどの尻込みぶりであった。
「止まれ!」消火栓に足をかけた魔法警察が、拡声魔法を使い声を響かせた。「諸君らの、この地区への立ち入りは魔法法の第……あー……魔法法に基づき、厳格に規制されている! 即刻停止せよ!」
しかし興奮状態の群衆に対して、このような警告の効能などあるはずもなかった。むしろ彼らは一層憤り露わに、今や拡声魔法など圧倒せんばかりの大声を上げ始めたので、呼びかけをしていた魔法警察は面食らい、何度か虚しく口を開いたが、ついに消火栓から足をおろしすごすごと引っ込む羽目になったのである。
魔法警察らが爆竹を発射するばかりで足踏みしている間にも、群衆は橋を渡りきった。赤錆に覆われた鉄鎖は幾度かパチパチと火花を散らしたが、それきり元気がなくなり、群衆の持ち出した工具によって容易く断ち切られた。鬨の声を上げる彼らの手によって川に放り込まれ、水飛沫を上げたが最後水面に消えた鎖が、適切な防御魔法の保守を受けていなかったことは明々白々である。かくして群衆は、ついにシティ・オブ・ロンドンの石畳を踏み締めたのであった。
その時、魔法警察の一人がエドアルドらの乗っている馬車が騒動の中心に突撃しようとしていることに気付き、大きく手を振りながら駆けつけてきた。
「止まれ、止まれ! あれが見えないのか、引き返せ!」
しかし御者は警察の頭越しに、橋周辺を眺めようと必死になって首を伸ばしていたので、その返事は全く呑気なものであった。
「止まれったってね、あんた、この馬車は14時きっかりに、タワー・ヒル・プラザに着かなくちゃならないんでね。ここから迂回していたら、どうしたって14時を15分は過ぎちまう」
「何を言って──」魔法警察は御者台に足を引っ掛け乗り込んできた。「今日になって突然、定刻通りの運行を厳守するようになったのか? そんな言い訳は罷り通らんぞ、この野次馬根性!」
「別に今日からだろうと昨日からだろうと、時間通りに動くことになったのなら結構じゃあないですか」
「言い訳は罷り通らん!」魔法警察は叫んだ。「いいか、引き返せ。でないと、さっき見ただろう、今度はこの馬車がテムズ川に放り込まれるぞ、定刻から五時間は遅れるだろうな!」
なお口を開こうとした御者に、魔法警察は「なんなら俺がその役を演じてやっても良いんだぞ!」と叱りつけたので、馬車はようやっと旋回した。しかし肝心の魔法警察は、護衛だと主張してそのまま座席に座り込んだので、ピップは「逃げだな」とくすくす笑った。
エドアルドは後部座席に移動し、徐々に遠ざかる橋の方を眺めていた。群衆は長く長く続いて、最後尾はまだ対岸のサザークで詰まっていた。一方魔法警察部隊は、赤い閃光を群衆に向けて次々と放っていたが、先頭の手無したちに当たってもあまり効果はないようで、せいぜい数人がばたりと倒れ、後続に抱き起こされるだけであった。この攻撃を受けて十字架を持っていた連中は走り出し、他の連中もそれに続く。騎兵突撃さながらの光景には魔法警察部隊も全く仰天し、閃光も尻すぼみになったかと思うと、彼らは出てきた時より遥かにあっけなく、曲がり角の向こうへ退散してしまった。
映画版の『謎のプリンス』の冒頭では、死喰い人たちによってミレニアム・ブリッジが破壊されます。しかしこのお話の時系列は原作に沿っていますので、ハリーたちが6年生の時に死喰い人たちによって破壊されたのは、“ Brockdale Bridge”ということになります。