闇の時代と一杯の紅茶 作:The-Artless-Dodger
前話において最も強調したかったのは、孤児学校を運営する大人たちが、愉快な玩具や心踊る冒険譚の魅力に、いかに疎いかという点である。その言葉に一切の嘘偽りがないことは、他ならぬ彼らの行動が証明しているだろう。なにしろ、エドアルドたちの暮らす建物には、あまりに危険──とくに財布にとって──との理由から、箒が一つも置かれていないのである。
しかし同時に、散々悪し様に書かれた大人たちの名誉回復もなされねばならないだろう。労働と経済と政治に毒され荒れ果てた精神の砂漠にも、ごく稀に多少はましな考えが芽吹くのである。
七月、エドアルドたちに遠足開催の知らせがあった。この吉報に哀れな子供たちがどれほど喜んだか、わざわざ書き連ねる必要も無いように思われる。歓声をあげる子供たちを目にした心優しきマダム・スクランブルは、理事会に遠足を提案した自身の気まぐれに感謝した──だからといって、その気まぐれを今後増やそうというわけでもないのだが。
「マダム、マダム!」
ほんの隣の話し声すら聞き取れない大喧騒の中で、ジャックの叫び声がマダムにまで届いたのは驚嘆すべきことだった。マダムは杖の先から爆竹を何発か放ち、天井に黒焦げを放ちつつもなんとか静穏を確保すると、ジャックを指差した。発言を許可されたジャックは勇んで立ち上がり、ウィゼンガモットの委員のように堂々とした態度で質問をぶつけた。
「マダム、行き先は、どこ、ですか?」
ジャックのこの問いの背後には、苦い経験があった。最も喜んでいた、つまり最も幼い孤児たちは知らないが、数年前にも一度、マダム・スクランブルとはまた別の職員が気まぐれを起こし遠足が敢行されたことがあったのだ。その行き先は、あろうことかクィディッチの国際親善試合だった。しかし先に記した通り、オスバート孤児学校には空飛ぶ箒のような危険極まりない代物は置かれていない──当然だ! 愛すべき子供たちを、恐ろしい死の罠から出来るだけ遠ざけようという真剣な心遣いの意味は、肝心の子供たちに伝わることはなかった。目の前で世界最高の試合を目撃した彼らが、自らの待遇の改善を求め、一体どのような抗議活動を展開したかは想像に難くないだろう。ゴブリンの叛乱もかくやと言わんばかりの大暴動の鎮圧には、丸二ヶ月を要した。
これもまた、大人たちの尋常でない想像力の欠如を示す立派な証拠の一つだが、幼いながらにそれをよく記憶していたジャックは、悲劇が再現されないことをしっかり確認するまでは、手放しに喜ぶわけにはいかなかった。
事の成り行きを固唾を飲んで見守っている子供たちにとっては幸運なことに、帰ってきた答えは素晴らしいものだった。
「ロンドンですよ、ジャック」
──────
それから一週間、孤児学校全体が浮かれ気分に包まれ、滅多に自己批判を行わないマダム・スクランブルでさえ、発表が早すぎたことを少なからず後悔した。注意をしても顧みることのない者よりも、そもそも注意が聞こえない者のほうが扱いは困難だということを、職員たちは身をもって体感したのだ。しかしそれも仕方のないことである。
ロンドン! イギリス魔法界の首都にして、あらゆる魔法が渦巻く魅惑の街の噂は、人里離れた森の中で、隠遁生活を余儀なくされている孤児たちにも届いていた。テムズ川で毎週火曜に催されるという箒レースや、サザークにそびえ立つドラゴン闘技場への憧れを抱いていない子供などここにはいない。勝手口のゴミ箱からくしゃくしゃになった新聞を拝借することを覚える年齢にもなれば、興味はさらに深まる。ユニコーンの血の違法取引、シティで繰り広げられた白昼堂々の闘争劇、マグルの暴動を見事鎮圧した勇気あるホグワーツ六年生の活躍──まるで、この世で起こる危険な、そして愉快な事件の半数が、たった一つの街で展開しているかのようだった。
現実には、かの有名なデイリー・プロフェットの記者たちが、真実に対する気高い至誠(1998年以前にはマグルの間でジャーナリズムと呼ばれていた活動)と今晩食卓に並ぶ食べ物の値段とを天秤にかけ、一切の逡巡なく後者を選択したが故に産み落とされた記事がほとんどなのだが、孤児たちは知る由もなかった。
旅行当日の朝は酷く冷え込み、霧もいつも以上に濃く、自分の手相すら見分けにくいほどだった。エドアルドとジャックは分厚いコートに身を包み、大勢の子供たちとともに、孤児学校の外で出発を待っていた。
「こんなに霧が多いのは、イギリスでもここくらいじゃないのかなぁ」そう不満を言うジャックの顔には、言葉とは裏腹に満面の笑みが浮かんでいた。「ロンドンはどうなんだろう」
「僕、知ってるよ。ロンドンは霧が多かったんだ」エドアルドは答えた。「白くもない、真っ黒な霧がレシフォールドみたいに街中を覆って、毎年何万人ものマグルが死んでたんだって。でも、自業自得さ。彼らは煙突に溜まる煤を掃除しなかったから、寒くて火を焚くたびにそれが舞い散ったんだ! 当然、今はもうそんなことはないけどね」
二人が話している時、孤児学校の扉が開き、職員たちが出てきた。先頭を行くマダム・スクランブルは、光を灯す杖先をあちこちに向けながら忙しない足取りで歩いてきたが、あまりに急いだので二度も転んでしまった。転ぶたびに低い声で悪態を吐き、フラフラと立ち上がると何事もなかったかのように再び歩き出す老婆の姿を見たエドアルドは、本の挿絵に描かれていた
「ぬかるみ──全く!──いつだって道がぬかるんでいる!」マダム・スクランブルが近づくにつれ、彼女がいかにご立腹かがよく分かった。
「今度、私が凍らせてみましょうか?」不注意な新任男性職員がした提案は、マダムをさらに怒らせた。信じがたいかもしれないが、彼は本心から気を利かせたつもりだった。
「へぇ、それは素晴らしい意見ね、ミスター」マダムが声を震わせる。「なんとも素晴らしい。そうすればもう、転んでも泥はつかないものね。でも、私はそのようなご親切、求めてなくてよ」
そう言い放ったマダムが杖を一振りすると、泥に汚れて見るも無惨な姿を晒していたローブは、たちまち元の美しい白色を取り戻した。
「私はマグルではないので。ご存知ありませんでしたか?」
「見ろよ」この様子を見物していたジャックがエドアルドの耳に囁いた。「まさに
常日頃から、子供たちに相応しい教育者として保つべき品位と風格を損なわないことに不断の努力を重ねているマダム・スクランブルにとって、この醜態が孤児たち全員に目撃されたことは不本意だったらしい。彼女は無知な若い職員を徹底的に叱りつけて自らの権威を証明すると、いつも以上に厳格な態度でエドアルドたちの前に立ち、エドアルドに「全員揃っていますか?」と訊いた。エドアルドたち1998年生まれは、創立からそれほど長くないオスバート孤児学校では、かなりの年長にあたる。
「ええ、全員」エドアルドが答えると、マダム・スクランブルは深く頷いた。
「それでは今から、魔法省のお役人が、ポートキーを持ってきてくださります。いいですか、何があっても、タイミングを間違えないよう。五歳以上の子は、下の子の手をしっかり握ってください。今回の旅行は魔法省の大変高貴な方々のご好意により実現したのですから、もし何か、その方々の顔に泥を塗るようなことがあれば──つまり、あなたたちが事故に遭うということですよ──二度と同じような楽しみは望めないと、よく覚えておくように」
何よりも子供を優先していると公言して憚らないマダムの感動的なスピーチが終わった丁度その時、大きな音が二、三聞こえて、霧の中から真っ黒なローブを着た役人たちが姿を現した。その中の一人で、一番上等なローブを身につけ、一番派手な髭を生やしている男は、興奮を隠さない孤児たち全員の顔を一瞥すると、何事にも動かされないことを誇りとしている岩のような口角に、事務的な慈愛の笑みを浮かべた。
「さて、説明を……書類をさっさと貸さんか、馬鹿者!」男が怒鳴りつけると、兎のように縮こまった役人が慌てて書類を取り出し手渡した。それをひったくるように受け取った男は、これ以上望むべくもないほど大袈裟な咳払いをし、話し始めた。「えー、では、説明を。この度、オスバート孤児学校で学ぶ優秀なる諸君らに、我がM.o.Mは深く感銘し、楽しくかつ有意義な教育的休暇の機会を提供することをもって妥当な褒賞とすることに異論ないと認めた。既に我が省の制定する年少者教育課程を受けている諸君らに、いまさらの説明は不要と思われるが、もし“かのお方”が御座します首都で要らぬ言動が見られた場合には、我が同僚が一切の警告なしに適切と思われる対応をとるであろうことを、お忘れなきよう」
長たらしい訓示を読み上げ、初めて満足という人間的感情を見せた男だったが、紙から顔を上げると、彼のことを全く恐れていない様子の子供たちが目に入り、たちまち不機嫌になってしまった。子供たちからしてみれば、魔法省の口調が受け取り手の年齢を過大評価していたことは明らかであったし、何よりも心は既にロンドンへ旅立っていたのだから、いかな役人とてその若い精神に訴えかける術を持たないとしても無理はないだろう。しかし、自分の子供の顔すら鮮明には思い出せないほど省への奉仕に熱心な男は、そうは受け取らなかったらしい。
「マダム・スクランブル」彼の猜疑心は哀れな老婆に向けられた。「これは一体どういうことかな。報告書には、オスバート孤児学校の子供たちは、皆類稀な忠誠心に満ちていると書かれていたが。あなたの署名付きでね。しかし今見る限りでは、彼らには既に反体制的な兆候がありありと現れている!」
男は自分で言った「反体制的」という形容詞に震え上がり、あたりをビクビク見回しながら詰問した。しかしマダム・スクランブルは、臆病な男によってかけられた疑惑に、臆することなく堂々と反論してみせた。
「お言葉ですが、ミスター。私どもは当孤児学校の運営をする上でですね、子供たちに与える教科書から、適切な言葉遣い、スプーンの種類に至るまでありとあらゆる点において、あなたがた教育室の発行するパンフレットを参考にしておりますのよ」
「しかし、現にそこの小童どもは、私が話している間も耳障りなお喋りを止めようとしなかった!」
「もし、それを『反体制的な兆候』と仰るのならば」この時のマダムの立ち振る舞いにはジャックすら舌を巻いた。「全く不思議なお話ですね、ミスター。なぜならそれは、あなた方が“かのお方”の信頼を受けて制作した筈の教育指針に問題があるとしか考えられないのだから!」
マダムの気迫は男をすっかり萎縮させてしまった。
「うん──しかし、運用の仕方に問題があったという可能性も、当然──」
男は反論を試みたようだったが、それを実際口に出したときに予想されるマダムの怒りを想像し、口の中でもごもご唱えるだけに終始した。
「この議論がこれでおしまいなのなら、早くポートキーを出してくださらない? これ以上、この寒空の下に子供たちを待たせておくのは、不憫だとお思いにならないの?」
「いや、うん……まぁ、あなたの主張も一理ありますな、マダム。全くその通り。おい、話を聞いていなかったのか? 聞いていたんなら、なぜそこに突っ立ったままなんだ!」
男がようやく存分に威張れる相手を見つけ尻を蹴飛ばすと、小役人たちは大急ぎで袋から長い縄を取り出し、浮かせたまま手で触れることなく地面に横たえた。
マダムや役人たちの指揮のもと、子供たちは縄を挟んで二列に並んだ。途中、特別小さい子のうちの幾人かが手を伸ばしたが、年長者たちによって止められた。
「準備は良いかね」男が問いかけ、マダムが頷いた。「ロンドン中心部へ直接ポートキーを繋げることは禁じられている。従って、我々はまず空港まで移動し、その後はバスで都心へと向かう」
「
「いや、どうだろう……行けばわかるよ」
エドアルドが曖昧に返事をしたちょうどその時、男が大きな声で数字を数え始めた。孤児たちの間に今日初めて緊張が走り、エドアルドとジャックも、年少の子供が明後日の方向を向いていないか気を配る。
「3──2──1──今だ!」
男が声を張り上げた瞬間、大小様々な数十の腕が一斉に縄に向かって伸びた。真っ白い霧が泡立て器で掻き混ぜたように激しく揺らぎ、それが落ち着くころには、子供たちの姿は綺麗さっぱり消えていた。
──────
ポートキーは、必ずしも幼い子供にとって最良の移動方法ではない。ロンドン・ヒースロー空港に到着した孤児たちの実に半数は、バスではなくトイレに直行することになった。それすら間に合わず、磨き上げられた床に朝食の全部と昨晩の夕食の一部をぶち撒けた子供もいたが、マダム・スクランブルが今朝の泥消しと同じ要領で対処してみせた。
1998年より昔、すなわち、ブリテン島がトロールより多少はマシな連中によって支配されていた当時から、ロンドン・ヒースロー空港の名称は変わっていない。しかしその果たすべき役割は全く異なったものである。かつて、凄まじくうるさいデカブツの発着点として利用されていた空港は、今ではポートキーの中継地点になっている。ポートキーは極めて便利な移動手段なだけに、悪用される可能性も十分考えられる。そこで、あらかじめ定期運航便を設定し、出発地と目的地を定めておくことで、管理を容易にしようと考えたのである。
この魔法省の試みは──大変珍しいことに──上出来だった。違法ポートキー業者は、需要の減少という抗い難い波を前にして、それまでのしぶとさが嘘のように消えていった。買い物客で溢れ返った大通りの真上に、突然団体観光客が出現するという悲惨な事故も、遠い昔の話である。
さて、魔法省から派遣された役人たちが、子供たちが回復するまで出発を見送ったのは、驚くべきことだった。なにしろ彼らは“かのお方”の次に時計へ忠誠を誓っているので、真っ青な顔の少年を無理やりバスに放り込むことも当然あり得たのである。そのことを思えば、今朝のマダムのお怒りも、決して無駄にはならなかったと言えるだろう。
長い時間をかけて全員が乗り込むと、バスは一路イギリス魔法界の首都へと出発した。黒色の車体は箒も真っ青の速度で道路を駆け抜けていったので、車窓から見える景色は筆で勢いよく引かれた線のように不鮮明で、かろうじて植物と建物の区別がつくくらいだった。そもそも霧が濃かった。色は黒くないので窒息死することはないだろうが、エドアルドは先ほど自分で言った物語を思い出し、少しばかり気分が悪くなった。
「なんだぁ、結局ロンドンも霧だらけか」ジャックは不満げだった。「やっぱり、おれらについて回る問題はそれなんだな」
「どういうこと?」とエドアルドは尋ねる。
「つまり、おれたちには親がいないだろう? 正しく言えば、今はいない。でも、まさか庭妖精から生まれたわけじゃあるまいし、本当に小さい頃は一緒に暮らしていた──期間によっちゃ、
ジャック自身は、これを面白い冗談のつもりで話した。実際、ドレクネーベルに住まう数十の孤児たちの中で、ジャックほど実の両親の不在を割り切っている者はいない。彼にとって両親とは、この世のどこか、そうでなければ空の上か土の下に暮らしている、彼に一切関与しない何者かなのである。幼いジャックはこの歳にして既に、「所属しない」という人生を最善のものとする術を学んでいた。
しかしエドアルドは違った。彼にとって両親とは、どこにいるかは関係なく、胸に染み入る疼痛という形で、常に訴えかけてくる存在だった。
「でも」自分の声が軽く震えていることにエドアルドは驚いたが、続けた。「ずっと周りが見えないでいたら、動けないじゃないか」
エドアルドの問題提起に対するジャックの回答は実にすっきりしたものだった。
「そりゃ、エド、動かなきゃいいだけさ!」
──────
ロンドン旅行は期待以上に楽しいものだった。テムズ川沿いの魔法歴史博物館は、教科書の紙面上で文字という形態をとっていたときにはあれほどつまらなかった知識を、鮮明な実物として披露してみせた。スニジェットの動く実物大模型や、美しい純金に緑の石が嵌め込まれたロケット、千年の昔に書かれたという大人の背丈ほどはある書物を見て、心躍らない子供など、魔法省の教育綱要の中にしか存在しないだろう。ジャックは貴族にしか扱えないという“悪霊の火”の立体映像が展示された一室を、いたく気に入った。一方エドアルドはといえば、彼自身楽しみはしたが、しかし同時に、心のどこかに薄暗い雲のようなものが渦巻いていることに気づいていた。その所以がバスでのジャックとの会話であることも分かっていた。
両親! エドアルドがいかに切望しようと決して届くことのないそれを、貴族たちは当然持っているのだ。一般市民でも、相当数は。この不平等はエドアルドを打ちのめした。別にマダム・スクランブルの仕事ぶりに不足があるわけではない。ジャックとは親友をも超えた付き合いだと思っている。だがそこには、致命的ななにかが欠けているのだ! それがなにか、エドアルドは分からなかった。
「エド、前に言ったろ? ここからすぐのところに、ドラゴン闘技場があるって」
博物館見学は既に終了し、ある程度の歳の子は自由行動を許されている時間だった。博物館前の広場で、子供たちはそれぞれ気の向く方に散っていったが、エドアルドとジャックはまだ移動していなかった。
「着いてきてくれないか? ほら、おれだけだと迷うかも知れない。そうしたら、マダムが何ていうか!」
「うーん……うん。まだ時間もあるし、行けるかもね」エドアルドは、広場の真ん中に浮かぶロンドンの模型地図を見て博物館から闘技場までの経路を調べると、小さく呟いた。「ありがとう、ジャック」
かくして二人の少年の探検が開始された。博物館から闘技場(かつてはバージェス・パークと呼ばれていた)まではそう遠くはない。街路に人通りは少なく、濃霧の中にガス灯の鈍い灯りがゆっくりと揺蕩いながら浮かんでいる。
博物館から少し離れれば、さらに人の数は減り、ほとんど二人だけになってしまった。喧騒は遥か後方へ遠ざかり、ゾッとするような冷気が身体を包み始めると、エドアルドは心細くなってきた。道の真ん中を歩いていると、両脇に建ち並ぶ建物もぼんやりとした窓の輪郭しか見えない。今まで嗅いだことのない胸焼けのする匂いが、どこからか漂ってきた。
「なぁ、エド」ジャックの声はいつになく頼りなかった。「やっぱり、戻らないか?」
エドアルドは返事に窮した。本音ではジャックの意見に大賛成だったが、彼が元気のない自分に気を遣ってくれたことを思うと、その好意を無下にはしたくなかった。
「もうすぐのはずだよ。地図だとそうだったんだ。道もまっすぐだし、もう少し行ってみよう」
それから二人は、言葉少なに歩き続けた。エドアルドはできるだけ目立たないように、髪を黒色に変え、顔を伏せた。
前方に、冷たい光の群れが現れた。真っ白なその光は、ガス灯よりも遥かに高い場所に、数えきれないほどの数が浮かんでいた。しかし一つ一つが明滅し、時に掻き消すように消えるので、その数に比してあまりに頼りなく儚い印象を与えた。
「建物だ」ジャックが上を見上げながら呟いた。「ものすごく高い建物の窓から、中の光が見えているんだ」
「建物? なんだろう……なにかの魔法施設なのかな」
二人はこれほど高い建物は見たことがなかった。霧の中の不気味な建物が近づくに連れて、エドアルドは耐え難い恐怖を覚えた。それはただ建物の異様な大きさに圧倒されただけという話ではない。白い光が霧に滲むその様は、今まで彼らが見てきたいかなる灯り──蝋燭の火、ガス灯、杖灯りとも違う、病的な不自然さを感じさせる。その、一種異様な雰囲気は、濃密な苦しみと死の匂いを伴っていたのだ。
彼らの足取りは否応なく遅くなっていた。しかしそれでも止まらなかったのは、彼らの意思によるところではない。今二人が立っている土地、この世の不条理を全て掻き集め溜め込んだような大通りが一体なんなのかについての好奇心が、持ち主の本能をも圧倒して筋肉を動かしていた。
前方にうっすらと影が見えてくる。近づくとそれは、道の真ん中に突き刺さった看板だった。鉄の柱は赤錆に覆われ、ところどころ穴があいている。木製の看板は斜めに傾いでいて、字も薄くなっていたが、読めないことはなかった。
「
彼らはこの時、エレファント・アンド・キャッスルという地区を通過していた。ロンドンで進行していた、あるいは予定されていた再開発計画のほとんどは、支配者層の入れ替わりのために消滅したが、この地域に関しては、「マグル居住区」を建設するために続行された。こうして完成した、俗に高層ビルと呼ばれる豚箱には数万のマグルが詰め込まれている。
「帰ろう、エド」ジャックの声には、今度こそ恐慌がありありとあらわれていた。「良くない気がする。帰ろう、北の方に、魔法使いの街に。ここは、おれたちの入るべき場所じゃない」
エドアルドにも異論はなかった。一刻も早く、このまとわりつく不吉な湿気から逃れたかった。彼らはすぐさま踵を返し、しかし霧の向こうに潜んでいる怪物が起きることを恐れているとでも言うように、極めてゆっくりと元来た道を戻り始めた。冷たい風が背中を押しても、二人は歩を早めなかった。
永遠にも思える長い間彼らはひたすら逃走を続け、ついに慣れ親しんだ魔法界の空気が香ってきた。目には見えなくとも、遠くから喧騒が聞こえてくる。人がいる──たったそれだけのことにこれほど安堵した経験が、今まであっただろうか?
「まぁ、ドラゴンは」ジャックは軽口を叩く元気を取り戻していた。「そう簡単に見られたらつまらないからな」
エドアルドもまるで母の膝下に帰ったような心地で──これはエドアルドが決して感じ得ないと思われていたものだった──、髪の毛の色も明るい金色に塗り変わった。
一切の危険が彼方へ消え去ったかのように思われたその時だった。突然、エドアルドの腕が後ろから掴まれた。
「お前さん、そう、こっちを向け」
嗄れた声がそう言った。エドアルドが振り向くと、大きな血走った眼が彼を射抜いた。精一杯親切を偽ろうとして失敗した顔は引き攣っており、パイプを咥えた歯は茶渋か虫歯かで黒ずんでいる。男は、恐怖に駆られ口もきけない子供たちを見据えると、下町訛りの酷い声で話始めた。
「まぁ、そう怖がらないで。別に俺は、君らをどうこうしようってわけじゃぁ──」
「なら、エドの手を放せよ!」
勇敢にも友のために食ってかかったジャックに、男は不器用な出来損ないの微笑みを向けた。
「おお、なんと騎士道精神に溢れた子だ! 君はグリフィンドールかな、サー?」
「まだホグワーツには入ってないよ」
「へぇ、そうか。ガキの見分けはつきにくいもんだな、え? 全員生意気な面して、キンキン騒ぐからな。知っているか、生まれたばかりの赤子を揺籠から連れ去っちまって、かわりに替え玉を寝かせていく妖精の話を。そんくらい見分けがつかないのさ、え?」
要領を得ないお喋りも、ジャックを萎縮させるには十分だった。男の眼は再びエドアルドに向けられる。
「それで、だ。本題に移ろう。なに、ちょっとした商売の話だ」
「僕たち、売れるものは──」
「いいや、持っているぞ。俺には分かるんだ。お前さん、今さっき髪の色を変えただろう? どんな魔法薬を使った?」
この男の目的ははっきりしたが、不幸なことにエドアルドは要求を満たせそうにはなかった。ついに男はエドアルドの肩を掴み、大きく揺さぶった。
「僕、薬なんか使っていないですよ、本当に!」
「はっ! 面白い冗談だが、長々続けると飽きられるぞ。お前さんたちは孤児学校の子だろう。杖も持たせてもらえない、それが不満だったんだな。ああ、その気持ちはよぉく分かるぞ、俺もそのくらいの歳のときにゃ、惨めなマグルどもとおんなじだったんだから、とても耐えられたもんじゃなかった! しかしな、だからと言って、変身薬を飲むってのは法令違反だ。そうだな? 飲む前に、孤児学校の職員たちにバレたらどうなるか想像してみたか? ほんの出来心で、とか、物売りが押し付けてきて、とか──そんな言い訳をディメンターは聞いちゃくれないだろうなぁ」
男は、大人に内緒で変身薬を飲んでしまった子供を強請ろうというつもりだった。実際の所は、その程度の法令違反でアズカバンの懲役刑をくらうことなどあり得ない。しかし男はこれと同じ手段を使って、不幸な子供たちからはした金を何度も巻き上げてきたのだった。今回、男がしでかしたただ一つの間違いは、エドアルドは自身の潔白をこれ以上なく正確な証拠をもって主張できたことである。
「僕は、七変化なんですよ!」
エドアルドがそう叫んだ瞬間、男の手の動きがピタリと止まった。一方顔は、最初は驚き、次に疑念と忙しなく表情を切り替えたが、目の前でエドアルドの髪色や目の色が次々変化するのを見ると、最終的に決まりの悪そうな失望の色に落ち着いた。
「あー──なるほど。確かに、そのようだ、うん。悪かったな、お前さん。俺はなにも、恐喝しようと思ったわけではなくてだな──ただ、未来ある子供を悪しき道から救い出そうと必死に──」
「行こう、エド」ジャックはエドアルドの腕を引きながらそう言うと、言い訳を連ねる男の方を振り返った。「悪しき道の模範例をどうも」
二人が博物館への正しき道を再び歩き始めた間も、男の目線はエドアルドの背中に止まっていた。
「七変化か──まさか! いやしかし、エドとは──」
男は口の中で何やらぶつぶつ唱えていたが、これ以上の思考は無駄と判断したのか、それとも熟慮は苦手なのか、大声で質問を投げかけた。
「おい、お前さん! 名前はエドワードか?」
エドアルドは答えるべきか迷ったが、ジャックの別れの挨拶に男が腹を立てているかも知れないし、名前を知られようと孤児学校にまで押しかけてくることはあるまいと考えて、返事をした。
「エドアルドですよ、エドワードでなくって!」
この奇妙な浮浪人然とした男と、二人の孤児との間に交わされた会話はこれで終わりだった。しかし、エドアルドたちが去った後、男はしきりに頷きながら、エドアルドの名前を頭の中で繰り返し反芻していた。