闇の時代と一杯の紅茶 作:The-Artless-Dodger
ドレクネーベルの冬は駆け足で過ぎ去り、夏がやってきた。一昔前のこの地域は、夏の盛りにおいてもそこまで気温は上がらなかったが、近年は毎年のように最高気温記録を更新している。従って学校内には本来、茹だるような暑さを多少なりとも緩和するために魔法がかけられていて然るべきなのだが、倹約家と名高い魔法界の諸氏が可能な限り財政を切り詰めた煽りを受け、依然導入されていない。このことは、子供たちの教育という点において尋常ならざる貢献があった。生存本能に突き動かされた少年たちは、自らの遠い過去を思い起こし、祖先たちが有していた戦略を呼び覚ます。力を持つ一派が、持たざる者たちを日陰から追い出し、少しでも涼しい場所を占有する階層構造を、最も実践的手法で学んで行くのだ。これはある面から見れば、魔法省が提供する中で一番価値ある教育的機会かもしれない。もっとも、孤児学校の慎ましい生活の中では、この種の競争は夏に限らずにもいくらでもあった。
"持つ者"の筆頭である若き紳士、ジャック・オボール・トレーズ氏は、彼のような人間が主張できる当然の権利を行使し、その友人たるエドアルドにまで恩恵を分け与えるという、比倫のない慈悲の心を見せつけた。彼らは自室の南向きの窓から陽光が差し込む時間になると、さながら渡り鳥のごとく北の部屋に移動した。哀れな先住民は
しかし夏について書くべきことは、なにもうっとうしい気温ばかりではない。その名の示す通り年がら年中薄暗くじめじめとした陰気なドレクネーベルも、この季節だけは晴れやかさの片鱗を見せる。冬の間は病魔に死にゆく老人もかくやという頼りない姿を見せていた木々も、今や枝という枝に青々とした葉を茂らせ硬い幹の中を流れゆく生命の力強さを誇示している。こうなると当然陽光はほとんど遮られるのだが、地面に到達する微かな木漏れ日は柔らかく健康的で、他の季節における陰鬱とした雰囲気は、この森の怠惰に原因があるのではないかとすら思えるのだった。
窓から覗いたときに見える光景は美しかったが、エドアルドの心は今でも、数ヶ月前のロンドンに連れ戻されることが時折あった。目の前の森があまりに照り輝いているだけに、ふと後ろを向けば、悍ましい閉塞感が漂うマグル居住区がそこまで迫っているような気さえした。今まで教科書で学んできたマグルなる生き物が、実際に生きているということを間接的に理解した経験は、生々しい記憶として胸の中に残っていた。そして、恐ろしい世界から平和な魔法界へと帰る途中のエドアルドを捕まえた男のことも気がかりだった。卑しい笑みを顔に貼り付けていた例の男に自分の名前を明かしてしまったことは、果たして適切だったろうか?
しかしそれでも、時というのは偉大なもので、エドアルドは友人と暮らす平穏な日々を通し、暗い一日を着実に思い出という名の焼却炉へと追いやりつつあった。
「こうも暑かったら、ボガードも消えてしまっただろうね」エドアルドは汗ばんだ顔に手で風を送りながら言った。この地域は英国内でも有数のボガード繁殖地である──あの存在の増え方を“繁殖”と呼ぶならば。
「そうなのかい? おれはてっきり、ボガードってのは一年中いるもんだと」
「そりゃ、いるけれどね、あいつらは暗いところが好きなんだって。戸棚とか、屋根裏とか──前に授業でやっただろう? ほら、スコットランドのボガードもそういう場所に隠れていたのを、魔法省の役人が退治したんだよ」
エドアルドにとって、授業で見聞きする色々を記憶するのはさほど労力を要求しない作業である。そのため彼の日常会話の中には、こうして勉強の振り返りが含まれていることがよくあるのだが、これはジャックのようにエドアルドと会話をすることが多く、一方授業中に目が覚めていることはそれほど多くない孤児にとっては、ありがたい話だった。しかしこの時のジャックはいくら逃げても追ってくる酷暑に辟易していたので、返事が投げやりなものだったのも仕方ないことであろう。
「へぇ、じゃ、連中は太陽から逃れてどっかのほら穴にでも隠れているんだな。だったらおれはボガードとお友達になれそうだ」
「ボガードを探しに行くつもり?」
「まさか!」ジャックは今日初めての大笑いをした。「むこうがおれたちから遠いどこかで昼寝をしているんなら結構なことさ。眠れるリトル・マダムをくすぐるべからず!」
次の日の朝早く、ジャックは早速毎日の習慣である占拠活動を開始しようとしたが、思わぬ来客により出鼻をくじかれた。
「エドアルド、いますか?」
扉を開けて頭を突っ込んできたのは、我らがマダム・スクランブルだった。朝からそのご尊顔を拝するというのは決して嬉しい出来事ではない。しかも今日は、彼女の小太りの顔から普段の自信とお節介が消え失せ、代わりに不安の表情が色濃く現れていたので、エドアルドは何か単純でない事情があると察した。
「はい、いますよ。おはようございます、マダム」
「ええ、おはよう」マダムはエドアルドの丁寧な挨拶にもろくに応じることができないようで、白いローブの腰のあたりを忙しなく弄りながらエドアルドの肩に手を伸ばした。「突然ですが、あなたにお客様がいらっしゃっています。顔はもう洗ってありますね?」
突然の知らせにエドアルドたちは驚き、顔を見合わせた。孤児学校の生徒に個人的な来客など滅多にない。彼らは親族がいないからこそ、ここにいるのである。
エドアルドは半ば抗議じみた言い方でマダムに疑問をぶつけた。
「待ってください、マダム! 僕に来客だなんて、どこの誰なのですか?」
「私も良く分からないのですが」マダムは話しながらエドアルドの背中を押し、廊下を歩き始めた。「ロンドンからいらして、あなたを引き取りたいと」
ロンドンという言葉が耳に入った途端、エドアルドはこの暑いのに背筋が凍りついたような気がした。まさか、あの男がどうにかして自分の居場所をここと突き止め、はるばるやってきたのではないか? 彼は明らかに不審な人物だったし、自分とジャックの態度も友好的だとは言い難かった。それを腹に据えかねた男が想像以上の行動力を発揮し、恐ろしい復讐を企んでいるということも、十分考えられるのである!
実際問題として、オスバート孤児学校で「引き取り」が話題になったことなど、エドアルドの記憶する限りでは一度もなかった。これには、先に記したそもそも子供たちのほとんどに親族がいないという理由の他に、法律の問題が深く関わっている。
“かのお方”はどういうわけか、孤児たちの福祉に大変な配慮をなさっているらしく、これに関わる条項を自ら書き上げられた。そうして完成した孤児法は、誰も改訂できないある種の聖域として、今も法律書に掲載されている。それによれば、魔法省管轄の孤児学校に属する子供は、魔法省のある一定以上の高官による個人的な許可がない限り、養子に出されることはない。しかしそのようなポストを占めるのは全員が貴族であり、彼ら自身はいかなる養子縁組も禁じられている。従って、孤児学校の生徒が新しい家族に迎え入れられることは、無いとは言わないが非常に珍しい話なのである。
しかしこの法律問題をエドアルドは知らなかった。彼の関心事は常に実の両親であり、来るとも思えない養父母に関わる色々など、気にしたこともなかった。
「どんな方なのですか、マダム! もし、変な──つまり、怪しい人だったら」エドアルドはマダムに腕を引かれ猛然と廊下を歩きながら聞いた。「僕を引き渡したりはしないでしょう?」
「もちろんです! 私の見た限りでは、それほど怪しい方ではありませんでしたよ。しかし、ああ、こんなことは私たちにとっても全然予想外で──今、書類を確かめているところです」
マダムの返答は、他ならぬ彼女自身が相当動揺していることもあって、あまり安心できるものではなかった。ただ、エドアルドの胸中に渦巻いていた重大な懸案事項については、少しばかり軽減されたかもしれない。マダム・スクランブルをはじめとする職員一同の目は、子供たちの日常的な悪巧みを摘発できるほど鋭くはないが、縮れた赤毛を振り乱し、歯の抜けた口から嗄れた笑い声を絶えず漏らして、異常に大袈裟なガニ股で歩く小汚い男を、「怪しくない」と判断するほど節穴とも思えなかった。
角を曲がり、階段を下り、玄関脇の小さな部屋の前に到着した。この部屋は滅多に使われないので、扉と床の隙間には埃が積もり、ごく最近開けられたために廊下にうっすらと跡を残していた。
「良いですか、エドアルド」マダムはエドアルドの黒い髪を軽くすいた。「これからの会談がどのような経過を辿るにせよ、結末はあなたが望んだ通りになるべきだと私は思います」
「分かります、マダム」
「ですから、私も隣に座っていますけれども、しっかりと自分の意思をもって、物怖じせずに臨むのですよ」
マダムがノックすると、扉がひとりでに開き、黴臭い空気がエドアルドの顔を包んだ。エドアルドは一瞬躊躇したが、マダムに促される前に決心を固め、背筋を伸ばし顎を引き、若い紳士の出立ちで中に踏み入った。
部屋の中は殺風景で、人が使うことを想定していないのは明らかだった。南向きの窓には黄ばんだカーテンがかけられ、東向きの壁には一面本棚が設えられているが、本の姿は一としてなく、紙に巻かれた箱が一つ置いてあるだけである。床は足跡がはっきり残るほど埃で覆われていて、エドアルドは、神経質なマダム・スクランブルが、自身の職域にこれほど不潔な場所が存在することを許していたと知って驚いた。部屋の真ん中には机はなく、向かい合わせになった二つのソファが置かれている。その片方に、件の人物が腰掛けていた。
「やぁ、こんにちは! 君がエドアルド・
そう快活に挨拶をし右手を差し出してきた男性が、ロンドンで出会した浮浪者ではなかったことに、エドアルドはひとまず安堵した。男性は紺色の布地に銀白の糸で刺繍がされたローブを着て、左手にはステッキを持っていた。初老は迎えているだろう白髪混じりの鳶色の髪には、丁寧に櫛が入れられており、どこからどう見ても、模範的な紳士である。
「えー、あー……はい、こんにちは」エドアルドは差し出された右手を握りながら言った。
男性はエドアルドの小さな手を万力のような力で握り返し、上下に激しく振り回した。
「こんにちは! 突然の話で驚いただろうね、エドアルド君。私は
「はい、この冬に……ミスター・タバードのお店は見かけませんでしたけど」
エドアルドがこう言った途端、タバード氏の眼にぱちぱちと喜悦の光が弾け、大口を開けて笑い出した。その笑い振りがあまりに大袈裟で、紳士のさるべき姿からはかけ離れていたので、見ていたエドアルドとマダムは驚いた。
「そりゃ、君! 私の店は見ないだろうね。ロンドンには信じられないほどたくさんの店がある。大鍋屋、本屋、パブ、ふくろう屋に猫屋、杖屋──はそれほど多くはないかも知れんが。魔法薬店に絞ったって、この学校の全孤児にそれぞれ一つずつ与えて余りあるだろう! マダム・スクランブル、この子にはユーモアに関する天性の才があるようですな!」
エドアルドにしてみれば、今の発言は“ユーモア”のつもりは毛頭なく、ただ真面目にしたものだったので、タバード氏の反応は気に食わなかった。タバード氏はしゃくりあげるように笑いながら涙を拭い、エドアルドとマダムに着席を促した。
「いや、今のは傑作だったもんで、失礼──ゴホン! では、早速本題に入りましょうかな?」
「私の考えるところでは、“早速”というにはあたらない気がしますけれどね」
マダムの返答は冷ややかだったが、タバード氏は気にした様子もなかった。
「全くその通りですな、ご婦人」タバード氏はそう言うと、マダムの方を向いて、エドアルドには聞こえない小さな声で“大人の話”を始めた。「さて、先ほど職員の方が長々しい検分を終えて返して下さったので、今再びお見せしますが、これが必要書類の一切です。身分証明、養子縁組の申込書、全てマルフォイ氏の署名付き」
「マルフォイ氏?」マダムは片眉を上げた。「それはいささか不思議なお話ですわね、ミスター・タバード。マルフォイ家の方々の敏腕は、こんな深い森に住む私たちも存じ上げておりますけれど、私の知る限りでは、あの一家がこれまでに、孤児学校に関わる事柄へ興味を示されたことは、ただの一度もありませんよ」
「おお、それは鋭いご指摘ですな、マダム」タバード氏は相変わらず飄々とした態度で答えた。「確かに、かのお歴々とあなた方との間に今まで繋がりはなかった。しかし、私にはマルフォイ家以外、いわゆる政府高官、つまりその書類に一筆書く権限を有する方の知り合いはおりませんで。特に深い理由はありません、これっぽっちも」
マダム・スクランブルの視線にはなおも疑いの感情が含まれていたので、エドアルドは今の二人の会話はあまり楽しいものではなかったのだろうと思った。彼女は言いたいことならいくらでもあると言いたげに口をぱくぱくしたが、冷静さを取り戻し、エドアルドの肩を叩いた。
「これはあなたについてのお話なのですからね」マダムは小さな、しかしタバード氏にも十分聞き取れる大きさの声で囁いた。「なにかお聞きしたいことはないの?」
「あります」エドアルドは自分の声が存外はっきりした調子であることにちょっと驚いたが、続けた。「その──タバードさん、あなたはどうして、僕を引き取ろうと言うのですか?」
エドアルドの質問にマダムは何度も頷いた。
「それは私どもも全く同様に疑問とするところです」
「ふむ」タバード氏は歩行杖で床を突きながらつぶやいた。「不思議に思われるのももっともだ。しかしそれに対して、私は端的かつ明瞭に返答することができる。予言です」
タバード氏が大仰に口にした「予言」という言葉を聞いたマダム・スクランブルは、突然に動揺し始めた。エドアルドはその理由が分からなかったが、実のところマダムは、かなり非論理的な──マグル的に言えば信心深い魔女だったのである。彼女は日刊予言者新聞の紙面の中で、それ自体の名前以外に「予言者」という単語が現れれば、その記事をつぶさに熟読し、その日一日か、あるいは数ヶ月にわたって忠実に実行する人物だった。そんな彼女にとって、タバード氏が口にした予言という理由は非常に理にかなっており、その発言者をも、途端に共感し得る好人物と思わしむるに足るものだったのだ。たとえエドアルドにとってはそうでないとしても!
マダムの顔色の変化に明確な手応えを見て取ったタバード氏は、
「予言を信じるなどとはけしからん奴だと思われるかも知れんが、最後まで聞いてくださいよ。私はこれまで、商売上の不都合を、ある腕利きの予言者の忠告を受けて回避してきたことが何度もあるのです」
「ええ」哀れなマダムはついに見つけた“同族”にすっかり舞い上がってしまっていた。「聞きますとも!」
「そう──その予言者がこう言ったのです。『ある孤児が助けを求めている。名はエドアルド・
タバード氏は一通り話し終えると、名前の呼び間違いに気づかないほど完全に信じ込んでしまったらしいマダムは放っておいて、歩行杖を握った手でエドアルドを指差した。
「もちろん、信じるも信じないも君の自由だ。君には、今後の人生の良し悪しに関わる重要な選択について、自分の意思で決定する権利があるし、私はそれを擁護すると誓おう。もちろんマダム・スクランブルも、私と意見を同じくしてくださると思う。そうですな?──結構。しかしエドアルド君、私が君に関する他の誰も知り得ない事柄を、予言によって事前に知り得たこと、これだけは確かだろう?」
エドアルドは頷かなかった。彼の名前、大まかな年齢、そして七変化という特徴を知り得た者は存在する──例の浮浪者だ。エドアルドはこの数ヶ月間で一番、あの男に自分の名前を教えてしまったことを後悔した。そうでなければ、この親切そうな紳士の差し出す腕を、一切の気兼ねなく掴むことができただろうに!
しかしエドアルドは、あの男を話題に出してタバード氏の意見に反論することもしなかった。もしそうすれば、世の人の常に違わず多くの欠点を抱えたマダム・スクランブルも、赤子のころから育ててきた孤児に纏わりつくなにか不穏な影に気づき、冷静に考えることができただろう。だがエドアルドの脳裏には、タバード氏の言った「生まれについて知ること」とはなんなのかという至極当然な疑問がこびり付いていた。
ともすれば、目の前の紳士が、物心ついて以来常に付き纏ってきた関心事への答えを教えてくれるのではないか? しかも、この場で伝えるでなく、それを理由に一人の孤児を引き取ろうとまで言うのだから、それはきっと大変な秘密に違いない──まだ幼く、両親という存在に飢えた彼が、そのような誘惑に取り憑かれたとして、どんな不思議があろうか。
エドアルドの沈黙は長く、時計の針の音すらうるさく感じられた。その間タバード氏は、全てを見通した者にだけ見られる、いっそ不遜ですらある落ち着きをもって、エドアルドを見つめていた。結果はもう決まりきっていたのだ。
──────
エドアルド出立の朝も空は晴れ渡り、爽やかな夏の陽光を惜しげなく森に注いでいた。窓から見える景色は、この十年間ですっかり見飽きたものだったが、明日からはこれがロンドンの壮大な街並みに取って代わるのだと思うと、新鮮なものに思えてくる。オスバート孤児学校に愛着など感じていないつもりだったが、それは間違いだったらしい。故郷というものが、ある人間の魂に及ぼしている引力の大きさは、旅立つ日が訪れて初めて実感されるものである。霧が深く陰気で、楽しいことなどなにもないはずのドレクネーベルが、今さら痛切に胸に訴えてくる。エドアルドはベッドの上ではらはらと涙を流した。
「エド?」起きたばかりのジャックが、無二の親友の肩を叩いた。「大丈夫か?」
「うん」エドアルドは涙を拭い、振り向いた。「大丈夫だよ。驚いたけど、ここを出るのが一年早くなっただけ」
見た目よりはるかに落ち込んでいたジャックは、エドアルドの言葉に元気づけられたようだった。しきりに頷き、他の誰よりも自分を説得するときに特有の真剣な口調で呟いた。
「そうだよな、うん──ホグワーツですぐに会うんだ。それに、家族の縁って、切りたくても切れるもんじゃないしな」
家族! ジャックの口から発せられたこの響きは、エドアルドの胸を打った。この二人の関係性を言い表すのにこれ以上相応しい言葉が、一体どこにあるだろうか! 彼らは家族だった。それも、血縁を超越し、まさに人生を歩む道程で獲得されていった家族だった。
エドアルドは、自分の胸の中で、ジャックに対する尊敬と後ろめたさの感情が急激に成長するのを感じた。ジャックは物質的ななにものかに一切依存せず、他者との相互的な関係の中に生きているのだ。彼は、所属の追求を拒否するという、大の大人ですら滅多に成し得ない偉業を、この歳で達成していた。一方のエドアルドは、自身の出自に関する手がかりというただそれだけの理由で、家族から離れようとしている。それは、ジャックに対しても、またタバード氏に対しても不誠実な動機と思われた。
「ジャック、君は結婚できないよ」エドアルドは今朝初めての笑みを見せながら言った。「君は結婚しないよ」
「なんだいそれは、悪口か?」
「いいや、褒めてるんだ。君に結婚は似合わないし、必要ないんだ」
これが二人の、十年続いた関係性を、新たな形で継続する合図となった。エドアルドとジャックは抱擁を交わし、互いの幸運を確かめ合った。ジャックの服からは、小麦のように柔らかい香りがした。
──────
いよいよ出発の時間になると、それまで快晴だった空模様は途端に怪しくなり、ついには霧雨が降り出した。エドアルドのローブはしっとりと濡れて艶やかな光沢を発し、肌にも水滴が伝った。
「いやはや、気持ちの良い雨だ!」養子を迎えに来たタバード氏は、相変わらず歩行杖で地面のあちこちを突き回しながら陽気に言った。「私は幾度か世界を旅したが、どこへ行ってもイギリスのそれほど分を弁えた雨はないよ」
エドアルドにとっては不快な雨でしかなかったので、短くそうですねとだけ答えた。
「それでは我が家へ向かおうか、エドアルドくん」タバード氏は山高帽を頭に被せると、エドアルドの右手をにぎった。「姿くらましの経験は?」
「ありません。だけど、ポートキーなら二度だけ」
「結構。まぁ似たようなものだ。少し違うが──君はしっかりしているしな、問題なし!」
エドアルドは一抹の不安を覚えつつも振り返り、玄関に立ったマダム・スクランブルに挨拶した。
「マダム・スクランブル、今までありがとうございました」
「ええ、ええ」マダムは淡い桃色のハンカチを目に当てながら、震える声で返事をした。「私も、なんと言えば良いか──元気で! とにかく元気で!」
「ご心配なさらず、マダム」タバード氏が割り込んだ。「この子には月に一度手紙を書かせますから、それが届かなかったら私を魔法省に通報すればよろしい!」
タバード氏の気の利いた冗談は、エドアルドには不謹慎と映ったが、マダムを不安にさせないよう指摘しないでおいた。
「本当に、手紙を書いてくださいね、待っていますから。私も、ジャックも、他のみんなも首を長くして待っていると覚えておいてくださいね」
「はい、マダム」
タバード氏が今度は本当に気を利かせて手を離したので、エドアルドはマダムのもとに駆け寄り、抱き合った。やはりここでも、十年という時の重さが深い悲しみとして押し寄せてきたが、マダムの泣き方があまり激しかったので、エドアルドは涙を流さずに済んだ。背中に回した手が触れたマダムのローブは石鹸の香り豊かで、しかし幾度とない洗濯の荒波に揉まれよれきっていた。
「では、出発しようか。エドアルド君、手を」
「はい」
マダムとの長い抱擁が終わり、エドアルドは再びタバード氏の固い手を握った。バチンッ、という大きな音がしたかと思うと、エドアルドの内臓がひっくり返り、視界に映る木々が捩れた。そして──
エドアルドが目を開けると、そこは薄暗い部屋の中だった。二人が着地した拍子に埃が舞い散り、ヒビだらけの窓から差し込む鈍い太陽光に反射しきらきらと光る。
「さて」タバード氏の顔からは、先ほどまでの空気を読めないお気楽さは消え失せ、傷ついた鷹のように鋭い目が、油断なく炯々と輝いていた。「ようこそ我が家へ、ミスター・
オリキャラ出突っ張りですが、しばらくご容赦を。