闇の時代と一杯の紅茶   作:The-Artless-Dodger

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接客業

 

 

 それから何度か逃亡のきっかけはやってきたが、エドアルドはいずれも見逃した。あるときには手紙を書こうと羊皮紙を広げたり、またあるときにはおつかいに出された拍子に通報を考えたりしたが、まさに実行に移そうというところで手を止めてしまう。理由は本人も全く分からないので、彼は自分が知らぬ間に“堕落”してしまっているのではないかと危惧していた。エドアルドは“かのお方”が水晶玉を冷淡な眼で覗き込み、自身の悪事への加担を全て知り尽くした上で、それでもエドアルドの良心の自白を待っていると信じ込み始めた。そう思うと、部屋の隅の暗闇から、エドアルドをじっと見つめる視線を感じるようである。

 だが一方で、エドアルドが行く先々に、例のマグルの亡霊たちがついて周り、不気味な足音で彼を苛んだ。このような正反対の二つの力に挟まれた少年は、哀れにも苦悩と自己批判の深い淵にはまっていくのだった。

 

 そんな状況の中で、エドアルドが淵から這い出すまでの期間彼の精神を保護し、また這い出す手助けをしたのは、彼の身の回りの人々に他ならなかった。

 

 エドアルドの葛藤の元凶たるタバード氏すら、時折は慰めになった。エドアルドは、そのような感想を抱くこと自体自分の弱さの証明だと思っていたが、現実問題として感じてしまうものはどうしようもなかった。

 タバード氏はあの日の実演を経て、養子の魔法薬の才能に人知れず感銘し、今まで以上に仕事を与えようという気になったようだった。エドアルドは今や、掃除洗濯炊事の他にも、店番や買い出しまで一手に担っている。その上魔法薬の練習にまで時間を割かれるのだから、負担はいよいよ無視し難いものだった。

 話がこれだけなら、タバード氏はかつて存在したマグルの職業の中でも飛び抜けて悪名高い“資本家”の名誉ある後継者に列せられたことだろう(実際にその資格は十分有していた。タバード氏は投資──彼が言うところの資投──という言葉を好んで使った。それに彼のよそ行きの服装は、エドアルドが昔学んだ教科書に掲載されていた“資本家”なる人々のそれに瓜二つである)。しかしタバード氏は、少年労働者たるエドアルドの身をある程度心配するというお人好しさを発揮したので、天国におわしますシルクハットを被った紳士たちに歓迎されることはあり得なかった。

 例えばある日、エドアルドが初めて店から買い出しに行くこととなったとき、タバード氏は彼が養子の服装を可能な限り見窄らしくしてからこう言った。

 

「下手に金持ちと思われると、危ないからな。いいか、ロムルス、お前は物乞いの餓鬼だ。ノクターン横丁には()()()()()ように装うんだ」

「はい、分かりました」

 

 エドアルドの返事を聞いたタバード氏は途端に渋面を作り、演技指導を続けた。

 

「いかんいかん、発音が上品すぎる! それじゃまるまる太った羊が、大声で鳴きながらドラゴンのねぐらを通るようなもんだ。そうだな、できる限り喋るな。どうしても喋らなきゃならんときには、お前が一番お近づきになりたくないような奴の話し方で喋れ」

 

 ありがたい忠告を受け、エドアルドはタバード氏の口調を真似ることにした。

 その後もタバード氏は、エドアルドの上着に埃を塗したり、髪の毛を暗い茶色にするように指示したり、ロムルスという素晴らしい偽名を与えたりと、大変な世話焼きをし、エドアルドを半ば動転させた。彼は、自分の養子を極悪人と見るべきか、はたまた神経質な小悪党と見るべきか迷ってしまった。タバード氏の手により念入りに加工されたエドアルドは、七変化という天与の才も相まって、見る人全てが不良少年と断じるだろう容貌へと変身した。茶色の頭も病的に色白の肌も煤だらけで、ぶかぶかで継ぎ接ぎだらけのコートを身につけ、ガニ股で歩く──もしマダム・スクランブルが偶然にもこのエドアルドを見かけたら、卒倒してそのまま死んでしまうに違いない。それほどタバード氏は変装の手練れであった。そして彼自身、口調、表情、姿勢だけで実に百の変身をしてみせる人物だった。マルフォイ氏のような高明な貴族すら、彼に養子縁組を許可するという失態を犯したのも、不思議ではなかろう。

 

 この買い出しに関しては、万事エドアルドの想像通りに進行した。つまり、ノクターン横丁は相変わらずジメジメと陰気くさく、正体のわからない不快な匂いに満ちていて、目的の店はほとんど朽ちかけ、店主の人相は凶悪だった。一方、店番に立たされた経験は、エドアルドの胸の中で無意識下に育ちつつあった違和感を萌芽させ、また今後の彼の人生に対して極めて重要な地位を占める出会いをもたらすこととなった。

 タバード氏に引き取られて一ヶ月が経った朝、エドアルドは初めて店番の仕事を与えられた。

 

「客には二つの種類がある」いくつもの顔を使い分けるタバード氏は、またしてもその手腕を養子に対して発揮していた。「一つ目は、俺たちと同類。不法占拠、違法売買、呪いを糧にして生きている連中のことだ。そういう輩がやってきたら、なるたけ地味な姿になって、なるたけ不遜な態度をとれ」

「でも、タバードさん」エドアルドは尋ねた。「態度はいつでも偉そうにできますけれど、姿のほうはそうはいきませんよ。まさか目の前で変身するわけにはいかないでしょう?」

「まさかな!」タバード氏は答えた。「その通りだ。お前がすべきは、窓の外をしっかりと監視して、入ってくる客の種類を事前に見分けることだ。そうすれば、客があの立て付けの悪い扉と格闘している隙に、十回は顔を変えられる」

 

 タバード氏はここまで言い切ると、右手に握ったステッキで床をつき、左手の指を一本上げた。

 

「もう一つは、俺たちとは正反対の、上品で、偉そうで、金遣いが荒い客だ。これは見分けるのに易しいな。なんせ、奴らは背中に鉄棒でも突き刺さっているかのように畏まった歩き方をする。話し方も決まって一つだ──“おい、君、私のように立派で知的な貴族が歩くというのに、なぜカーペットに穴が空いておるのだ?”」

 

 タバード氏は自分の物真似を大層気に入ったらしく、低く笑っていたが、その瞳に抑え難い憎悪と軽蔑が滲んでいるのをエドアルドは見逃さなかった。しかし、エドアルドにとってそれよりももっと重要なのは、養父の発言内容だった。

 

「貴族の方々がここに来るんですか?」

 

 懐かしき孤児学校は、“貴族は高尚かつ聡明で、非常に難しい呪文をいくらも知っている”という旨のことを、移ろいやすい子供の脳みそに()()で彫刻しようとしているかのように、幾度となく繰り返し喧伝した。日刊予言者新聞もまた、まるでイギリスの魔法族全員がその話題に絶対的関心を寄せているかのように、たびたび“高貴なる人々”の特集を組んだ。

 このような教えを受けて来たエドアルドが、養父が経営するこの愛すべき店を訪れる貴族の姿を想像できなかったことは、当然のことである。

 

 タバード氏はエドアルドの疑問の視線から目を逸らし、苛立たしげに頷いた。

 

「当然だ。むしろこんな店が、こんな世の中で、魔法省のお目溢しなしにやっていけると思っていたのか? え?」

「どういうことです?」タバード氏の答えにエドアルドはますます混乱した。一つ理由を述べるなら、彼はいわゆる温室育ちである。

「あのな、ロムルス、お前は知らんのだろうが」タバード氏は言った。「今の魔法界は、魔法を自由に使う権利と、ロンドンのシティを白昼堂々大手を振って歩く権利とを交換してできたもんだ。要するに、二十年前なら自分の家の暖炉で勝手に煎じたり、ダイアゴン横丁の店で買ったりできた魔法薬が軒並み違法化された。しかし世の常として、権力者と呼ばれる連中は、法律を作っておきながら、その厳粛たる猜疑の眼が自分たちに向けられることは好まない。だからこそ、俺のような“裏の商売人”が、高貴なる方々の便利と体裁を同時に販売する必要があるのだ」

 

 エドアルドは、今まで習ってきた秩序や常識を掻き乱す言葉が、まるで蝋燭の火を吹き消すだけかのように意図も容易く語られたことに仰天した。もはや悪徳のないイギリスで──これがあまりにお気楽な観察だということは他ならぬタバード氏によって明快に証明されたが──その上美徳を有しているはずの穢れなき人々、法を作り運用する統治者たち、“かのお方”の代弁者たちが、法律を破るだなんて!

 

 信じないぞ、という目で睨むエドアルドに、タバード氏は鼻を鳴らして話を続けた。

 

「ともかくだ、坊主! どんなにうすのろで、偉そうで、薬の効能をいちいちラベルに書いて瓶に貼り付けてやらにゃならんような奴らでも、“清濁併せ呑む”利口ささえ持っているんならば、そいつらは客だ。気に入らないなら“厚顔無恥”でも“自家撞着”でも構わないがな。ともかくだ、坊主! そういう連中がこの店の敷居を跨いだときには、こう言うだけで良い。“ようこそお越しくださいました、ええ、全くその通りで、ええ、もちろんでございます、はい、こちらが注文頂いた薬ですよ──きちんとお金を払ってくれるとは、なんと立派なお方だ!──ええ、では、ごきげんよう、またのご来店を!“」

 

 タバード氏の演技はあまりに堂に入っていたので、これで話の内容がもっとくだらないものだったのなら、エドアルドも笑ったことだろう。しかし、話はくだらないどころではなかった。エドアルドはなおも問い詰めようとしたが、何から切り出せば良いか分からず言い淀んでいる間に、養父が放った二発目の「ともかくだ、坊主!」によって遮られてしまった。

 

「お前のすることは、カウンターに立ち、羊皮紙と羽ペンを後生大事に握りしめていることだけだ。社会経験というやつだな、うん」

 

 その言いようからは、タバード氏がこれ以上の説明を望んでいないことが十分察せられた。

 

 かくしてエドアルドは店番という職を得たわけであるが、これはお世辞にも忙しいとは言い難かった。客足はまばらどころか、最初の数日間は一度も訪れなかったので、エドアルドは今まで通り掃除と魔法薬の調合、そして孤児学校への手紙を書くことに時間を割くことができた。繁盛からは程遠い実状を目撃したエドアルドは、一体どこから自分たちの生活費が捻出されているのか不思議でならなかった。しかしその謎は程なくして見事氷解する。

 三日を数えた朝、エドアルドにとって初めての客が店の扉を叩いた。その人物は、タバード氏が言うところの上品で、偉そうで、金遣いが荒い──まさに金遣いが荒い貴族だったのである。朽ちかけの店構えを鼻で笑いながらエドアルドに注文伝票を突きつけたその魔法使いは、奇妙なことだが、教科書に描かれていた“マグルの資本家”の挿し絵にそっくりな身なりをしていた。そしてその話し方も、養父の物真似に寸分違わずそっくりだったので、吹き出しそうになるのを堪えるには多大な努力を要した。

 

「ふん!」魔法使いはカウンターに立つ少年を見るなり、不遜に鼻を鳴らした。エドアルドはまるで不機嫌な牛が唸っているみたいだと思った。「ミスター・タバードは物事の優先順位というものを知らないみたいだな、君?」

「全くその通りです」エドアルドはタバード氏に教えられた通りに答えた。

「ただでさえ潰れそうな──建物がという意味だ──店の補修もしないで、さらに見窄らしい子供を雇うとは! それは、君、ゴミ捨て場の飾りに蜘蛛の巣を設えるようなものじゃないかね?」

「おっしゃる通りです、サー」

 

 あくまで冷静に受け答えをしていたエドアルドだったが、出立ちと話し方から与えられた愉快な気分は早々に消え去り、せん方ない怒りが込み上げて来た。タバード氏があまり嘘をつくような人でないことは知っていたが、それでも純血貴族のいわば“国家に対する裏切り”は信じ難かったのだ──実際に目にするまでは。

 

 このまま話し込めば、エドアルドにとっても客の男にとっても望ましくない結末を迎えることは必至だったので、エドアルドは注文伝票を手に振り返り、薬品庫に引っ込んだ。換気もされず、胸の焼けるような不快な匂いが瘴気のように立ち込め澱んだこの部屋がエドアルドは嫌いだったが、今日に限っては清らかな小川に足を浸したような心地がした。なにしろ、ここでは客の目を気にせず不機嫌を表明することができるのだから。

 聡明なエドアルドは注文の薬品を探す手を止めなかったが、頭の中で不平不満を撒き散らすのを止めることもしなかった。自分の姿を悪し様に言われたことが、気に入らなかったわけではない。エドアルドにとって、自由自在に変えられる見た目への悪口など、何の意味も持たない。しかし、幼い頃から孤児学校で真剣に学び、今でこそ犯罪者の家に身を寄せているとはいえど、未だに敬虔なる愛国心を失っていない自分の精神性を愚弄されることは我慢ならなかった。ともすれば、養父やその他ノクターン横丁に暮らす愛すべき隣人たちの方が、自分たちが高潔な人物であるなどとは脅されても言わない分、まだ救いようがあると感じた。

 エドアルドは彼にしては珍しいことに、一挙手一投足を荒々しく、薬を探した。薬品庫は日光が入ってはいけないので窓が一つもなく、昼間でもランプが必要である。扉以外の壁には全て棚が設えてあって、大小様々の瓶が所狭しと並び、それでも入りきらないものは宙に浮いている。このように、タバード氏の宝物庫には整理整頓という概念が存在せず、勇敢なる探検家に勘と知識の総動員を強要する。

 タバード氏はこのところ養子に英才教育を施すことにご執心で、一日に何度も薬の調合をさせたし、ビードルの物語の代わりに魔法薬の教科書を与えた。エドアルドはもともと頭が良かった上に、未だ残る養父への疑いの気持ちはともかくとして、勉強できることには喜びを感じていたので、今では相当数の薬の名前や見た目、効果、調合手順など、羊皮紙に書き起こすことができる情報(タバード氏が「死んだ知識」と呼ぶもの)を苦もなく暗記していた。しかしそれでも、タバード氏の宝物庫はなかなかの難関だった。

 数分かけてそれらしい瓶が見つかったが、幸いなことに手に取ってすぐ、それが当たりだと分かった。瓶の蓋に貼り付けられた札に養父の筆跡で、「脳みそのかわりに腹回りが成長してしまった貴族の注文」と書かれていたのである。 

 

 エドアルドはタバード氏が残した気遣いを剥がし、何をそんなに急いでいるのか分からないが、一定間隔ごとに牛の唸り声をあげている客の所へと戻った。再び姿を現したエドアルドを、ざらついた泥の玉のような客の眼球が射抜いた。その目はまずエドアルドの顔をじろじろ眺め、ついで左手に握られた小瓶に移り、その後も全身を何度も何度も往復して、少しの“非教養的”の兆候も見逃すまいとしつこい検査を行った。客の考えとしては、品が良く質の高い教養を受けた人々よりも、むしろゴキブリか、良くても密売品の魔法生物と近所付き合いしているノクターン横丁の子供たちが、()()()()()()素晴らしい人格を獲得するなど万が一にもあり得ないのである。もっとも、横丁の子供たちがこの考えを覗き見たとしたら、貴族から人格者との評価を受けるくらいならば、アズカバンの前科者になるほうがよっぽどの誉れだ、と異口同音に主張することは確実だった。

 しかし、話し相手の欠点と血の色を見抜くときだけは透き通る泥の玉も、エドアルドの中にはいかなる“非教養的”の兆候も見出すことは叶わなかった。客はまたもや不機嫌に唸り、もはや本心から闘牛に変身しようと試みているかのように鼻息荒く、出っ張った腹を掻き抱いた。この瞬間エドアルドは、心の中でこの客をミスター・オピオタウロスと命名した。

 

「お持ちしました、サー。効能をご説明しましょうか?」

 

 エドアルドの申し出はすげなく拒絶された。謙虚なミスター・オピオタウロスは、彼が抱える些細な問題──切れ痔──が公に宣言されることを良しとしなかったのである。その代わりに、ミスター・オピオタウロスは瓶をひったくるように受け取り、ガリオン金貨を放り投げた。

 

「おい、君」エドアルドがカウンターの跳ね上げ天板を持ち上げ、客のお帰りのために扉を開けようとすると、ミスター・オピオタウロスは演技臭い口調で問うた。「名前は?」

「ロムルスです、サー」エドアルドは慇懃に答えた。「ロムルス・スワッブルです、サー」

「はっはあ!」途端ミスター・オピオタウロスの目に喜色が宿り、腕を振り回しながら叫んだ。「あのミスター・タバードが一体どこから小僧を引っ張ってきたのかと思ったが、スワッブルとはな。はっはあ!」

 

 ミスター・オピオタウロスは興奮のあまり口から泡を飛ばし、その弁舌の猛烈さといったら、老いた顎がその持ち主を労働者酷使の罪で訴えれば間違いなく勝訴できるほどだった。

 

「孤児学校育ちか! いいや、答える必要はない。スワッブルというのは孤児につける苗字として“歴史がある”からな。聞いただけですぐにピンときたぞ。しかしそれならば君、今までの非礼を詫びねばならんな、ん? 君は自分の卑しい生まれに相応しい格好をするだけの分別はあるのだから」

 

 例え自分の立場を危うくするとしても、この発言に対して憤慨しない道理はなかった。エドアルドは努めて冷静であろうとしつつも、頭の中がグツグツ煮えたぎって吹きこぼれようとしているのを自覚していた。

 

「お言葉ですが、サー。孤児学校の職員も、僕自身も知らない僕の両親の身分について、どうしてあなたがご存知のことがあるのでしょうか?」

「ああ、ああ、分かるとも。なぜ養子縁組に我々の許可が必要なのか、ご存知ないのかね? 孤児というのは──世の決まりとしてだが──必ず最悪に卑しいか、あるいは体制に対する──」極めて上機嫌に語っていたミスター・オピオタウロスだったが、ここまで来て突然顔色がサッと青ざめ、小さな声でいかんいかんと呟くと、なんと開けられるのも待たずに扉に突進し出ていってしまった。

 

 残されたエドアルドが面食らったことは言うまでもない。もしかすると、自分の態度に酷く気を損ねたミスター・オピオタウロスはその足で魔法省に向かって通報してしまうのではないかと不安にもなった。しかし、去り際の彼の表情は怒りとは程遠いものだった。

 

 

──────

 

 

 それから夕食までの間、エドアルドは憂鬱な気持ちで、頭の上に重い石がのしかかっているようだった。一度ならず、客との気分が良いとは言えない会話のことを胸の内に秘めておこうと考えた。そしてそのような考えが脳裏をよぎるたびに、タバード氏の暗く冷徹な瞳が目の前に現れ、お前の幼稚な企みなど全てお見通しだと宣告した。

 その晩の養父との夕食の席はいままでになく重苦しかった。タバード氏は上唇と下唇が糸で縫い合わせてあるかのように寡黙で、少し古びたローストチキンにグレービーソースをこれでもかとかけ、臭いを打ち消す作業に没頭していた。その作業の合間に、曇ったスプーンから不意に顔をあげて、食事の進んでいない少年に調子が悪いのかと聞くのだが、エドアルドにはそれが自白の機会を与える最後通牒のように思えてならなかった。

 

「何かをする時には、旬を逃さないことが第一だぞ、ロムルス。といっても、このチキンは冷たくなってからちと長すぎるようだが、まぁ、これ以上長くとっておく必要もないということだ」

 

 養父の寛大な助言も、曖昧な言い方ゆえにエドアルドを煩悶させるばかりである。もし、今朝の客が勢いそのまま役人を引き連れて戻ってきたら、どうなるだろうか? タバード氏の宝物庫は持ち主を立件するにあたり多大な貢献をすることだろう。今目の前にある机も、錆びかけた合金(ブリタニアメタル)製の食器も、穴熊があしらわれた卓上時計も全て押収される。タバード氏はアズカバンに収監される。

 ここまで考えたとき、そのような未来に対して大変な不快感を抱いたことにエドアルドは驚いた。自分が“反体制的”なのではないか、あるいはそうなりつつあるのではないかという疑惑はいよいよ窮まった。記憶の中に、ここに来るまで出会った人々──マダム・スクランブル、役人、素行に問題のある孤児、それに悩まされる方の孤児──が次々と現れ、エドアルドを責め立てた。大好物の肉の味すら、度が過ぎた幸福と感じられた。しかしそれでも、エドアルドはタバード氏が逮捕されてほしくなかった! 

 

 この時唐突に、素行に問題のある孤児であり、また懐かしき友であるジャック・トレーズ少年の鮮烈なイメージが浮かび上がった。それはさながら天啓であった。エドアルドが今向き合うべきなのは、今付き合っている人間なのだ。

 エドアルドは堰を切ったように、ことのあらましをタバード氏に打ち明けた。大切なお客を怒らせてしまったかも知れません、もしかしたら、ミスター・オピオタウロス(そのお客のことです)はあなたの問題について魔法省に報告してしまったかも知れません、と。

 エドアルドが語り終えるまで沈黙を保ち続けていたタバード氏は、話が終わると意外なことににっこりと笑顔になった。

 

「何も問題はないぞ、ロムルス。問題は、一切、ない」

 

 自信満々にそう言い放った上に、どこか満足げにスプーンでグレービーソースを皿の上に広げたことに、エドアルドは仰天した。

 

「でも、タバードさん」エドアルドはテーブルの上に身を乗り出して聞いた。まるで二人の立場が逆転してしまったかのような光景だった。「僕にはとてもそうは思えません。たった一言あの人が言うなり書きつけるなりすれば、あなたの──僕たちの問題は、隠しようもなく明らかにされてしまうじゃないですか」

「ふむ、そう思うか。ならば議論してみよう」タバード氏は背もたれにゆったりと寄りかかり、常になく鷹揚とした調子で切り出した。「果たして彼──お前の呼び方で言えばミスター・オピオタウロスは、我々の楽しい生業について通報することはできるだろうか? 答えはノーだ、ロムルス。完全に、絶対に、疑いようがなくノーだ、ロムルス。理由はいくらでも挙げられるが、まず第一に、もし俺がディメンターとよろしくやっていたら、その間誰が奴の尻の面倒を見る? 裏庭で焚き火をする火をおこすにも申請がいる世の中で、金さえ──もちろんたっぷりとだが──払えば、欲しいものをくれてやるような親切な人間がいるか? それにだ、ロムルス、お前のお手柄もある。例えば今ここに魔法省のくそったれ役人どもが乗り込んできたとして、お前がミスター・オピオタウロスに不満を持った理由、つまりお前の出自について奴が言及した内容を打ち明けたら、途端奴はまずい立場になるんだ。なるほど奴は間抜けだが、蛇である以上そんなヘマはしまい──卵を丸呑みしたみたいな間抜けな格好の蛇だが!」

 

 タバード氏は大笑いをし、ローストチキンにフォークを突き刺した。エドアルドはまたしてもわからないことばかりだったが、おもむろに腰を下ろし、消え入りそうな声で聞いた。

 

「僕の両親について、なにかご存知なんですか? 僕はどうして、孤児になったんですか?」

 

 その瞬間、タバード氏の顔から笑みが消え、深い同情と悲哀に横溢した目がエドアルドに注がれた。タバード氏はテーブルに立てかけられたステッキの柄を手で弄び、口髭を二、三度ピクピク動かし、そして階段の方を指差した。しかしエドアルドは頑として席を立たず、真剣な眼差しで養父の顔を見つめ続けた。沈黙下の攻防は実に数分続き、どちらも相手が降参するのを待つ根比べが展開された。先に折れたのはタバード氏だった。

 

「分からんが、推測はできる」 

 

 腰を浮かして再び身を乗り出したエドアルドを、タバード氏は人差し指をあげて制止した。代わりにタバード氏が立ち上がり、床板の痛み具合を確かめるかのように、顔を下に向けて床を歩行杖でコツコツ叩きながら嘆息した。初老の魔法使いはそのまま部屋の中を二周回り、そこで立ち止まると、顔を上げずにしゃべり始めた。

 

「推測はできるが、言わん。いや、待て、話を聞くまで立つな。俺はなにも、お前を混乱の中に捨て置き、悲しませたくてそうするわけじゃない。お前がこの店へやってきたばかりのころ、俺は推測を話して聞かせた。しかし──お前はもはやそれだけじゃ納得しないだろうから言うが、あれは全てではない。酷な話だが、エドアルド、お前やお前の友達の生い立ちは、想像だに恐ろしい残酷な運命に彩られていることは間違いないんだ。お前の両親がただの病気や事故で死んだのだとしたら、そのことをバッチに書いて誇らしげに胸につけても良いほどの──それを今話して聞かせることなど、とてもじゃないができない。あまりに残酷で、その上危険が伴う。お前が例のミスター・オピオタウロスに意図せずにしてやったのはそういうことだ。あんな、薄汚くずる賢い男が震えて怖がるような秘密だ。いいか、エドアルド。これは俺のわずかばかりの良心から本気で忠告するが、両親のことについて自分から詮索しちゃいかん。そのうち秘密が向こうからやってくるのを待つしかない。やってこないかもしれないが、それも幸運だと思え。あまりに残酷で、その上危険だ」  

 

 タバード氏の冷笑的態度は鳴りをひそめ、ひたすら真摯な説得の趣を帯びていた。エドアルドは、結局として何ら少しも進展していない説明内容に失望しないではなかったが、養父の語り口を聞いてしまえば、腹を立てることはできなかった。エドアルドはお礼を告げると、椅子から立ち上がった。三階へ続く階段には蝋燭の灯りも届かず、ざらついたレンガの壁を手探りで進まなければならないのだが、今日はなぜかそのようなこともなく真っ直ぐ登ることができた。寝室にたどり着くと、ヒビだらけの窓の向こう遥か遠くに、ダイアゴン横丁の不眠の煌めきがぼんやり浮かび上がっており、エドアルドは涙を堪えきれなかった。タバード氏を通報する計画など、煙のように消え失せていた。

 

 

 

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