闇の時代と一杯の紅茶   作:The-Artless-Dodger

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新聞売り

 

 

 真夏の太陽が容赦なく降り注ぎ、ロンドン市民を焼き殺そうと企んでいるかのようだった。大通りには日よけの覆いがかけられ、ドラゴン闘技場も酷暑のため目下封鎖されている。俗に“魔法仲介業者”と呼ばれる魔法省認可の魔法使いたちは、寛大にも半額で冷却魔法を民家にかけてまわり、それでも十分採算がとれていた。日刊予言者新聞は一日につき二、三人の魔法使いの熱中症と、五、六匹の魔法動物の体調不良を一面大見出しで扱い、二、三十人のマグルの死亡をはるかに小さな“その他動向”の欄で扱った。そして明日も数人熱中症が出るだろうという(珍しくも)正確な予言を掲載した。

 ノクターン横丁は道が狭くまた家屋が密集しているので、冬には氷室の役割を果たす家々はたちまち高性能の蒸し器と化した。冷却魔法士を呼ぶわけにもいかず、大陸から輸入されたとかいう氷や雪を高額で売りつける者が後を絶たなかった。しかし何より深刻なのは、生ゴミである。ノクターン横丁の人々はゴミをゴミ捨て場に捨てず、路地にぶちまけ効率的に生活するのが常だったが、今年はそうも言っていられない。経験のない暑さに後押しされた微生物たちは、全力をあげてさらなる気温上昇と悪臭の排出に取り組んだのだ。このときばかりは後ろ暗い住民たちも結託してゴミ根絶に取り組み、もし無遠慮に捨てる者があれば住民総出で袋叩きにされた。

 

 そのような状況において、タバード氏がエドアルドに対する教育意欲を失わなかったのは驚異的なことだった。エドアルドはなにもしなくとも茹だるような暑さの中、大釜を火にかけ、沸騰する魔法薬と毎日格闘しているのだ。

 

「いいぞ、ロムルス!」教育意欲を失うどころか、ますます掻き立てられているらしいタバード氏が叫んだ。「そうだ、湯気さえありゃ、わざわざ火を覗き込まんでも液温はわかる。材料の種類、入れた量、組み合わせによって液温は変わるから、それを全部手で覚えるんだ」

「ぜひそうしたいですけれど」エドアルドは息も絶え絶えに言った。「今は、うんざりするほど熱い湯気じゃなくて、冷たい水がたっぷり入ったグラスを触りたいですよ!」

 

 エドアルドの苦情を聞いたタバード氏は、壁に掛かった時計を見上げた。

 

「そりゃ俺も同じだ。気づかなかったか? しかし、もうお前の手が必要な時間は終わったから、水でも飲んでこい。その間俺が見ているから、早く帰ってくるんだぞ」

「はい、ありがとうございますタバードさん」 

 

 すぐさま銀の匙をタバード氏に手渡し、地下室から二階まで一息に駆け上ると、蒸し暑さは緩和された。エドアルドは台所に踏み入り真鍮製の蛇口をひねった。肌を撫でる水はひんやりとして冷たく、全市民を苦しめる灼熱の影響を唯一免れていた。

 魔法省の(数少ない)美徳といえば無駄な出費を削ぎ落とすことにある。それは水道制度にも遺憾なく発揮されており、蛇のように入り組んだ水道管の内、温度を調整する魔法がかけられているのはわずか数か所、そしてその一つが、ダイアゴン横丁の地下だった。幸いなことに、一度冷やされた水はノクターン横丁に到着するまでも低温を保つことができていた。額の汗を流し水を口に含んだとき、ドアベルの鈍い音が聞こえてきた。エドアルドは慌てて顔を拭い、上着を羽織ろうと振り向いた。しかしその時目に入ったのは、椅子にかけられた上着ではなく、大きな包みを左手に提げた少年だった。

 

「お前だれだ?」

 

 そう首を傾げた少年を前にして、エドアルドは呆気に取られた。どう考えても、この場面で自分が誰かを説明すべきなのは少年の方なのだから。それに、一階のドアベルが鳴ってから数秒、一体いつの間に、二階まであがってきたのだろうか。

 少年は、驚きのあまり硬直するエドアルドから返事を得られないと悟ると、何食わぬ顔で包みを食卓にのせた。かなりの重さがあったらしく、食卓の天板は音を立てて軋み、少年は解放された左手を振っていた。

 

「ほんと、こんなに重くする必要があるのかって、おれは毎日親方に言ってるんだぜ? そう大したことは書いてないんだから、どうせ。そしたらなんて言われたと思う? 『それが報道の重さだ、ピップ』……だって! 笑っちゃうよ、紙面の半分が広告なら、そりゃ報道じゃなくて、金貨や銀貨の重さだろうに」

 

 軽やかな声でまくしたてる少年は、エドアルドよりも少し年上に見えた。肌は日焼けで浅黒く、それ以上に真っ黒な髪の毛がくるくる巻いていて、彫りの深い顔をしている。手足がやけに長いせいで、おそらく身長のみを参考に買ったのだろうサスペンダー付きのズボンやシャツは、丈が不足していた。シャツにはなにか店の紋章のようなものが刺繍されたアップリケが付いていたが、糸がほつれ小麦の穂よろしく垂れ下がっているあたり、着用者あるいはその雇い主の吝嗇ぶりが見てとれた。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

 エドアルドは、食卓の上の瓶に入っているオートミールを勝手に食べ始めた少年に、恐る恐る尋ねた。

 

「良い質問だな、それは」タバード氏の肘掛け椅子の上で脚を組み、心底くつろいだ様子の少年がそう言った拍子に、口からオートミールの粉が舞い散り、窓から差し込む夏日に照らされ不必要に美しくきらめいた。「でもそれは、おれが先にした質問だ。ほら、さっき言ったやつだよ、覚えてるだろ? おれがしたのも良い質問だった。てことはだ、お前はおれの良い質問を盗用したわけだから、訴訟ができるな。訴えてやるぞ、この!」

 

 スプーンを振り翳しながらなされた宣言にエドアルドは怯えたが、少年はケラケラ笑い始めたので、どうやら冗談のようだった。

 

「馬鹿にしないでよ、もう!」エドアルドはついに立腹した。「訴えるとしたらそれは僕のほうだ。もう一度聞くけど、君は誰で、どうしてこの家に勝手に入って来ているんだ?」

「うん、そう焦んなよ。食うか?」

 

 二人の短い会話は万事このような有様で、つまるところ全く埒があかなかったのだが、彼らの──というよりエドアルドの──緊張が極限に達しようとしたその時、階段からどたどたと音がして、タバード氏が登場した。

 

「ピップ!」タバード氏は浅黒い肌の少年にステッキを突き刺さんばかりの勢いで怒鳴り込んできた。「お前、なぜ俺の店にいる! なぜ、許可なく、俺の、食卓に、座っている!」

 

 歩行杖の先が鼻を掠めたので、少年は椅子代わりにしていた食卓からひょいと飛び降り、うさぎのようなすばしっこさでタバード氏から逃れた。

 

「やめてよ、ラム! 言っとくけど、あんたとそこに突っ立っているやつはそっくりだぜ。どっちもおれにおんなじことを聞いて、どっちもおれの疑問には答えない。なんて連中だ、クソッタレ!」

 

 そう言いながら部屋の中を飛び回る少年を捕まえようとタバード氏が振り回した腕は、その甲斐なく空を切った。建てられてから相当の月日を経た店舗兼住宅は、少年の足が床に接する度にみしみしと不満の声を上げ、天井から埃やら木片やら蜘蛛の巣やらを降り注がせた。

 追跡劇はしばらくの間続いたが、なにかといえば繰り返される少年の軽口に業を煮やしたタバード氏が、ついに杖を取り出したことで決着を見た。

 

「そうら、捕まえた!」杖先から伸びる縄が少年を絡め取り、タバード氏は肩で息をしながらも勝利宣言をした。「お前らの新聞など買わんと、一万回は言ったはずだぞ、ピップ! ふくろう便も合わせりゃ一万五千だ! それでどうして俺の店に入り込む、え? この悪党!」

 

 この会話を聞いていたエドアルドは、二人の間には相当の面識があるのだと知った。会話の内容からも当然察せられるが、それ以上にタバード氏が興奮状態にあることが最大の根拠であった。普段、不気味なほどに落ち着き払ったタバード氏がうちに秘めている、この種の元気で親しみやすい人格を引き出すのは、初対面の人間にはまず無理なのである。

 

 一方少年の方は、縄に締め上げられても全く悪びれる様子もなく、頭に被った埃を手を使わずに払おうと悪戦苦闘しながら答えた。

 

「ワットアバウティズムを持ち出すのは恐縮なんですがね、ミスター・タバード。少なくともこの部屋には、悪党が二人はいるはずじゃないの? そっちの子供もいれれば三人だ。おや、とすると、どうして他は棚上げして、おれだけが裁判みたいに責め立てられているんだ?」

「はっ! 知らんのかピップ、陪審員ってのは大抵悪党だ。ならこの裁判は完全に正当で伝統的だな──見ろ、ロムルス!」タバード氏は唐突に振り返り、いつになったら誰かがこの状況に関する納得いく説明してくれるのだろうと思っていたエドアルドに叫んだ。「こういうのが、ノクターン横丁で育った子供だ。新聞配達人なんて大層な職を名乗っているがな、スリ、万引き、なんでもござれ、おまけに口を開けば下らない冗談を言う。生まれた時から根っからの悪人だ」

「それはほら、“根本的な想定の誤り(fundamental assumption error)”だぜ、ラム! 生まれたときから神に“しるし”を授けられてる人間なんていないだろ」

 

 少年からの茶々を黙れ、と一蹴したタバード氏は、エドアルドに再度向き直った。

 

「紹介しよう──俺としてはしなくても一向に構わんが、気になっているようだからしよう──こいつはダイ・ダートム(Die Datum)だ」

「できればピップって呼んでほしいな、えーっと──(ロムルスだ、とタバード氏)そう! ロムルス、ピップと呼んでほしい」少年──ピップは愛想良くそう言った。「ダイって、あの酷く気まぐれで意地悪な正六面体の方だよ。今は亡き親愛なる博打好きの父上が、おれが生まれたときにポケットの中に入っていたものを名付け親にしたらしい──泣けてくるね、ほんと! でも、話しかけられる度に“死ね(Die)、ダートム!”って言われるとしたら、あまり嬉しくないだろ? いや、両親はおれの食費を計上するたび、本当にそう思ってたのかも知れないけど」

「うん、わかったよピップ」

 

 エドアルドが頷くと、ピップはますます愛想が良くなり、もしも両手が自由なら今すぐ猛烈な勢いで握手を交わしたに違いなかった。しかし現実にはタバード氏の魔法が堅実な効果を発揮していたので、「頼むぜ、狼少年!」という軽口を吐くに留まった。

 

「さて、それじゃあ」ピップは後ろ手に縛られた状態でも器用に立ち上がり、エドアルドが先ほどからずっと気になっていた包みに目をやった。「ラム、まずは縄を解いてくれよ。握手もできないんじゃ、礼儀が悪いだろ?」

 

 タバード氏は、まるで解いた瞬間にピップの手が彼の喉元に喰らい付いて来るのではないかと訝しんでいるかのように縄を睨みつけていたが、やがて一際長いため息をつくと、投げやりに杖を振り、縄を消してやった。晴れて解放されたピップは、その自由を堪能するかのごとく大きく腕を回し、その場でくるくる回ってみせた。その一連の動作は、エドアルドに不思議と好印象を与えた。

 

「では、改めてご挨拶しましょうかね、君」ピップは自分をぼうっと眺めていたエドアルドに右手を差し出した。「ピップ・ダートム。ブリテン島で二番目に質の高い新聞“デイリー・プロベイト(The Daily Probate)”の記者兼、編集者兼、論説委員兼、売り子。君の生業はなんだ、ミスター……(スワッブルだ、とタバード氏)それだ! ミスター・スワッブル?」

 

 エドアルドは、ピップの見た目の割に固い手を握りつつ、聞き返した。

 

「僕はタバードさんの手伝いを……ピップ、君、日刊予言者新聞(The Daily Prophet)の記者なの?」

 

 エドアルドは驚いて声をあげたが、返ってきた答えは全く意外なものだった。エドアルドの言葉を聞いた途端、ピップは親しげに握っていたエドアルドの右手を、今度は犯罪者を捕まえたかのように捻り上げたのである。

 

「まさか! おいラム、おれはこの不届き者を名誉毀損で訴えるぞ!」

 

 ピップはそう叫んだ。エドアルドはなにがピップの気に障ったのかも分からず、ただ苦悶の声を上げながら必死に身を捩ったが、年若い拘束者の腕力は尋常でなく、少しも逃げられそうになかった。

 

「だめだ、ピップ! お前はいつから俺の財産を勝手に起訴するほど偉くなったんだ? その手を離せ!」

「おお、なるほど。ならこの礼儀知らずの少年の法的保護者とお見受けするあんたを代わりに──」

「ピップ!」

 

 タバード氏が怒りの声とともに杖を振り上げたのを見たピップは、さっさとエドアルドの手を放し、何食わぬ顔で腕を組み、最初から何もなかったかのように振る舞った。

 

「いや、悪かったよロムルス。でも、あんたの言葉にも責任の一端はあるんだぜ、確実に。デイリー・プロベイトと、よりによって日刊予言者新聞を間違えるだなんて! おれの短いなりに何かと困難が立て込んだ人生を振り返って助言をすると、ロムルス、言葉が腹の底からせり上がってきて喉を過ぎ去る前に、十分校閲したほうがいいよ」

 

 ピップは食卓に放置されたままだった包みに解きながら言った。中身は──予想された通り──新聞の束だった。ピップは一番上の一部を手に取り、エドアルドの胸に押しつけた。エドアルドは配送前の新聞を初めて見たが、孤児学校で読んだものよりも印刷は荒く、紙もやや質が低いようである。開くと、インクで貼り付いた紙が剥がれる音がして、濡れた道路のような匂いが漂ってきた。

 

「僕、デイリー・プロベイトって初めて聞いたんだ。今まで読んだことがあるのは、日刊予言者新聞だけだったから」

「じゃ、お前は」ピップはにやにやと笑いながら言った。「今生まれて初めて新聞を読んでいるわけだ。良かったら取材させてよ、ロムルス。そしたら来週の一面大見出しで扱ってやる。“青少年の深刻な新聞離れの実態──ノクターン横丁に住むある少年は、なんと九歳になるまで新聞紙にただの一度も触れたことがなかった”ってな。大スクープだ、これは!」

「僕は十歳だよ!」エドアルドは力んで反論した。「それに、その──今言ったのって、どういうこと? まるで、日刊予言者新聞が新聞じゃないみたいな」

 

 エドアルドの質問に、ピップは指を鳴らした。「ご名答! “良質な新聞に触れた件の少年は、なんと読み始めてもいないうちに、認知機能の著しい改善の兆候をみせた”──要は、新聞たる条件ってやつだよ。公正公平正確でどこにも肩入れしない中立性、これがない報道機関なんて、そこらの魔女たちが、買い物帰りにぺちゃくちゃ捲し立てているご近所の噂話と、程度に大差はないよな。どこにも所属しない、これが絶対的かつ完全な前提条件! デイリー・プロベイトはその点胸を張って新聞を名乗れるぜ。出資者は手当たり次第かき集めたから、いわゆる“スポンサーの意向”ってのは相殺されちまう。だからこそブリテン島で二番目の新聞(Newspaper )! 魔法省の役人どもが口から吐き出したインクで書いた初心者新聞(Newbie-paper)なんかと一緒にされたら、たまったもんじゃない」

「じゃ、一番はなんなのさ」

 重ねて聞いたエドアルドに、ピップは「ザ・サンだな、間違いなく」と答えた。

 

 ここ数ヶ月、エドアルドは混乱の最中にあった。心優しいミスター・オピオタウロスとの思い出に残る邂逅の後、エドアルドは一週間に一、二度、貴族の客を出迎えた。いちいち記述すると長ったらしくなるので省略するが、そのいずれも、彼の若い心に貴族への不信感を抱かせるに十分だった。扉を開け、へつらい、理不尽な要求を受け入れ、自身が今現に働いている違法行為は棚に上げたお叱りを受ける。この繰り返しを経て、一体誰がそれまで教えられてきた貴族像を心に抱き続けることができるだろうか。少なくとも彼は、イギリス中のどんな立派な魔法使いよりも“忠実”であり続けた。彼は幾度となく、腹の底で溶岩のように煮えたぎり身体を焼き尽くさんばかりの貴族への憤怒は、実際には“かのお方”に逆らっているという罪から目を逸らそうとする卑劣な方便なのだと納得しようとした。

 彼が日刊予言者新聞への手酷い批判を意外にもすんなり受け入れたのは、そのような心理状況が多分に影響したのだ。エドアルドはすでに、貴族名鑑に載っている家名のうち──そもそもそれほど多くないとは言えど──半分以上を接客した経験があるのである。そしてその中には、日刊予言者新聞の記者が「“かのお方”を敬愛してやまない、紛うことなき忠義の臣」と称賛してみせた人物も含まれていた。

 

 エドアルドはピップに渡された新聞紙に目を落とした。何度見てもところどころインクが滲んでいるし、紙が薄いせいで裏写りしている挿し絵もあった。エドアルドは、やっぱりあまり良い新聞とは思えなかったが、ピップはその考えを見透したかのように笑って言った。

 

「ノクターン横丁じゃ、印刷機も古くてさ。でも安心してくれよ、値段は他社の新聞と同じくらい立派だから」

 

 ピップの冗談に、エドアルドは初めて笑った。色黒の少年は、真意がとにかく読みづらいことを除けば、やはり好ましく感じられた。

 

「それはやるよ、ロムルス。友情と今後の商売付き合いの健やかなることを祈って」

 

 ピップの親切な申し出にエドアルドは感激したが、養父はそうでもなさそうで、床をステッキで痛め付けながら鼻を鳴らした。

 

「はん! そう高くもないくせに」

「ああ、相変わらず酷い奴だな、ラム!」ピップは大袈裟に嘆き泣くフリまでしながら、エドアルドの肩を抱いた。「ああいう、()()()()()()()()()()()()()()()()()ような大人になっちゃいけないよ、ロムルス。少なくともおれは、そんな奴に二度とプレゼントをしようだなんて思わないね」

 

 エドアルドは養父の様子をチラと見たが、眉を吊り上げ「分かっているな」という顔をしていたので、慌てて視線を逸らし、ピップには曖昧な笑みで返事をした。

 

 ピップはエドアルドの肩に回していた腕を外し、するりとその場から離れると、食卓の上を物色し始めた。オートミールはまだ半分ほど残っていたが目もくれられず、代わりに錆と埃に彩られた缶詰が選ばれた。ピップはタバード氏が近くにいることを確認し、杖を取り出して蓋を開けると、中のベイクドビーンズを食べ始めた。タバード氏がもはや明後日の方向を一心に見つめ視界に入れまいとしているあたり、珍しい光景ではないらしい。

 

「そういやロムルス」口いっぱいにベイクドビーンズを詰め込んだピップが聞いた。

「君、孤児だろ?」

「うん、そうだよ」隠すことでもないので、エドアルドは素直に頷いた。「オスバート孤児学校の出身。タバードさんに引き取ってもらったんだ」

 

 それを聞いたピップは缶詰をおき(半分ほど残すのが彼の流儀らしい)、ハンカチで口を拭いた。そしてまたエドアルドの近くに寄って、「じゃ、七面を開いてみろよ」と言った。

 エドアルドはそれに従い、貼り付く紙を苦労してめくって七面を開いた。何があるのかと思ったが、そこには記事すら書かれておらず、雑多色々の広告が詰め込めるだけ詰め込まれているだけだった。

 

「それで?」エドアルドは首を傾げた。

「左隅に、デイリー・プロベイトのロゴマークが描いてあるだろ? それに右手の薬指だけをあてて」

 

 エドアルドはもう一度、タバード氏の様子を伺ってみた。先ほどまで視線を天井に向けていた彼は、今はエドアルドの手に握られた新聞を凝視している。相変わらずの渋面だったが、エドアルドは自分同様に養父も、ロムルスの言葉に少なからぬ関心を寄せていることを確信した。言われるがままに、エドアルドは握りこぶし大のPという飾り文字に、薬指をあてた。すると、なにか暖かいものが紙面に吸い込まれる気がして、マークが淡い青色に輝いた。エドアルドは何が起こるのかと期待して待っていた。が、しばらくすると光はだんだんと薄まっていき、そして最後には完全にかき消えてしまった。

 

 あまりにあっけない終わり方のせいで、一同を奇妙で居心地悪い沈黙が支配した。一番困ったのは、当然エドアルドである。彼ら子供は、普段魔法を使えない。従って今回、明確に薬の調合以外で明確に魔法的なものの前兆は、彼の心を踊らせた。しかし、得られた成果は飾り文字が仰々しく光り輝いただけだった。エドアルドは他の二人を見回した。事を始めた張本人であるピップは「おや!」という顔をしているだけである。他方タバード氏は、勇敢にも先陣を切って話し始めた。

 

「思った通りだ、え?」彼はピップを憎々しげに睨みながら言った。「こうなることは分かっていただろうが。許し難いほどの時間の無駄遣いだ」

「いやまぁ」ピップはやはり我関せずといった調子で答えた。「可能性は皆無じゃなかったんだし。いや、違うな、可能性が皆無だったっていう事実をおれたちは知ったんだ。これはさ、ラム、大変重要な情報だぜ?」

 

 話しぶりから、エドアルドが起こした発光現象について二人が何か共通認識を有していることは明らかだった。エドアルドはそれを教えてほしいと頼み込んだが、タバード氏は「俺は説明せんぞ」と跳ね除けると、ステッキをついて階下に姿を消してしまった。哀れな孤児はピップに答えを求めたが、彼はエドアルドの肩をぽんぽんと叩くと、演劇じみた大袈裟な口調でこう言った。

 

「ロムルス、我が友よ。大切なのは、結果が全く得られなかったってことだ。つまり、さっきの楽しいキラキラは、あんたのこれからの人生に、良くも悪くも一切影響しないってこと! それならわざわざ突き止めようとする必要があるか? そんなの、月の裏側の模様を知りたがってたマグルみたいなもんじゃないか!」

 

 ピップの言い草はまるで納得できるものではなかった。しかし、彼の芝居がかった話し方は、エドアルドを嘲笑している本心を覆い隠すためより、心底同情し悲しんでいる本心を隠そうとしているように聞こえた。だからこそ、エドアルドは一層ピップに親近感を抱いたのである。エドアルドの瞼の裏に、今や文字でしか会話ができないかつての親友の姿が浮かんだ。

 

 「じゃ、おれはもう行くよ」

 

 ピップはそう言うと、食卓上の新聞紙の塔を再び包もうとし始めた。しかしその手は、まだ紐も結ばぬうちに止まった。

 

「そうだ、ロムルス」ピップはロムルスに声をかけた。「この店にうちの新聞を置いてくれないかっていつもラムに頼んでいるんだけど、いつも断られてるんだ。君から説得できないかい? そうしたら、帰りの荷物は随分軽くなるんだけど」

「うーん──あまりうまくいかないかも」

「そいつは残念。ま、あとで試してみてくれよ、我が友」

 

 ピップもまた階下に消えてゆき、残されたエドアルドは釈然としないものを抱えつつも、久しぶりに穏やかな気持ちで椅子に腰掛けた。デイリー・プロベイトは、やはり紙の質が低かった。しかしそれでも、地下室から怒鳴り声が飛んでくるまで、エドアルドがこのささやかな贈り物を閉じることはなかった。

 

 





次回、ナルシッサ出動(やっと!)
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