闇の時代と一杯の紅茶   作:The-Artless-Dodger

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ミセス・マルフォイの複雑な家庭事情

 

 

 ピップとの出会いは、このうんざりするほど暑い夏を乗り切る活力になった。エドアルドの同年代との交友関係はこれまで、遠く離れたドレクネーベルの森に残してきたジャックただ一人だった。

 しかもその交友関係というのは、タバード氏によって念入りに検閲された手紙を、ふくろうに咥えさせるというものである。これは通信として、絶賛できる速度ではない。そのような不便を乗り越えてでも定期的に連絡を交わしていたことは、彼ら二人の真の友情の動かぬ証拠であったが、物足りないのは事実であった。ジャックは今頃、たくさんの孤児たちに囲まれ、年長者に求められる労働の義務を果たしていることだろう。その忙しさに含まれる平穏と幸福は、離れてみて初めて気付かれるものだった。

 そのためピップは、やや冗談が過ぎるという大きな欠点を持っているにも関わらず、すぐにエドアルドの大切な友人となったのだ。

 

 やがて夏は行きつ戻りつしながら過ぎ去り、代わりに物悲しい秋が訪れた。ノクターン横丁には本当に僅かながら、木が植えられている。しかしどうやら一帯を包み込む不健康な空気のせいで病んでいるらしく、まだ山々は緑一色の時期に葉を全て落とし、驚くほど早く冬支度を済ませてしまっていた。横丁の古い道路は──一体どういう魔法がかかっているのか──一年中湿っている。そのせいで地面に落ちた枯葉は、道ゆく人々に踏み躙られ、見るも無惨な泥状になっており、エドアルドはその上を歩くたびに言いようのない不快感に襲われた。同じ泥でも、ドレクネーベルの泥はまだマシだったのだと知った。

 

 このようにして、ブリテン島全体が暗く厳しい冬に向かってゆっくりと歩み始め、ノクターン横丁がその先陣を切って突き進んでいる中、タバード氏の店は盛況だった。

 貴族たちは皆子供が少ないので、大切な我が子を守るためにあらゆる動産・不動産を投じることを辞さなかった。そのため子供たちは、言うならば最大限に几帳面な園芸家が育てた“繊細”な花の鉢植えのようなもので、やたらに目立ちたがりでその上食事も遊びもこれでもかと貪るくせに、すぐに健康不安を生じるのである。この季節はホグワーツの新年度の始まりにあたるので、腹痛を訴える我が子の手紙を受け取った親たちは、違法魔法薬店にすら足を運んだのだ。タバード氏も商魂逞しく、のこのこやってきた鴨を逃すはずもなかった。

 

「ほう、息子さんのお腹の調子が悪そうだ、と。それは心配ですな──いやいや、まぁ大丈夫だとは思いますよ。なにしろ新学期ですからな、過敏──失礼、繊細かつ可愛らしくていらっしゃるご子息が、少しストレスを感じるのも無理はない。ご心配なく、ストレスが原因ならばこの薬を飲めば百発百中!」

 

 まずこれで瓶を一つ売ってしまうのだが、エドアルドはそれが市販の気付薬を薄めて砂糖を加えたもの(“繊細”な貴族の令息令嬢の舌は少しでも苦味を含んだ薬が喉を通過するのをよしとしない)であると知っていた。そしてタバード氏はさらに続ける。

 

「しかしあれですな、この季節になると、毎年あの子を思い出して涙が出る──誰か、ですと? お話ししておりませんでしたかな?

いえ、そう大した話ではないのですが、昔()()()()()()()()()婿()()()()()が、同じように腹痛を訴えていたようで。私の友人の親戚の娘婿は無学でしたから、それをそのまま放っておいた。しかしそれは、友人の親戚の娘婿を恨んでいた男が復讐を企みかけた呪いだったのです! かわいそうにその子は、胃の中で生まれ続けるクリームパイのせいで消化不良を起こし、聖マンゴに三ヶ月も入院しました。私がその話を聞いていれば、例の薬を使ってあっという間に治してやれたのに!」

 

 するとそれを聞いた純血貴族は震え上がり、あくまで興味をそそられただけだが、と前置きして、その薬の詳細を尋ねてくる。

 

「何かと申しますと、まぁ我がタバード家に代々伝わる秘伝の魔法薬ですよ。しかし貴方のように立派なお方なら、誰かから恨みを買うこともないのでは? ──なるほど、通り魔的にご子息が狙われるかもしれない、と。いやはや、その発想はなかった! 英明果敢な為政者は一味違いますな! そういうことでしたら無論ご提供するにやぶさかではございません。しかし、ご承知のとおり秘伝ですから、値は張りますぞ? それに、秘密を盗まれるとまずいから、絶対に他言無用でお願いしたい」

 

 こうしてタバード氏は、期限切れ間近の魔法薬を、“腹の中でクリームパイを生み出し続ける呪い”に効く薬として売り付ける。しかし“腹の中でクリームパイを生み出し続ける”などといった、魔法の基本法則から外れた効果をもつ呪いが存在するはずもなく、その薬の正体は永遠に露見せず薬棚の肥やしになるのである。

 

 生活が万事このような調子で進むので、エドアルドの貴族不信は確固たるものにまで成長し、そしてノクターン横丁の住人に対する一種の好感──同じ悪なら、露悪的な方がまだ正直である、という考えは強まっていった。彼は何度か、今もオスバート孤児学校で「純粋無垢」に勉強しているジャックに、手紙でそのことを伝えようかしらと悩んだ。だが、タバード氏の検閲作業によって差し止められるまでもなく、それがまずい考えであることは知れた。一般的に、二者間の誤解の可能性はその二人の物理的距離に比例して増大していく。そのため彼は、ホグワーツで旧友と再開した時に対面で話をしようと思っていた。

 だが、エドアルドが“貴族”という生き物を一括りで嫌っていた期間というのは、比較的短かった。ある貴婦人が、単なる客以上に親密な間柄を求めて訪れた時、エドアルドは初めて“貴族”の中に、彼らの高貴なる所以とも言うべき品格を見出したからだ。それは以下のような話である。

 

 

──────

 

 

 秋が一層深まり、エドアルドの毎日の業務に曇ったガラスを拭くという面倒な作業が追加された頃のことだった。彼がいつも通り朝早く目を覚まし、ベッドを軋ませながら伸びをしていると、寝室の扉を叩く音が聞こえてきた。

 慌てて肌着を羽織り、スリッパを履き、扉を開けると、タバード氏の不機嫌な顔が目の前に現れた。養父はエドアルドに、与えた中で一番上等のいわゆる“よそ行きの”服を着るように指示をした。このようなことは初めてでエドアルドは不思議に思ったが、寝起きの養父の脳を要らぬ質問で活性化させても好ましいことにはならないと知っていたので、何も言わずに従った。

 タバード氏はステッキを左手から右手へ、右手から左手へと弄びながら、エドアルドの着替えを見守っていた。これにはあまり気安い思いはしなかった。まるで試験中に教師が自分の答案を覗き込んでくるようなものだったから。

 なにはともあれ着替えは終わり、立派な紳士の出で立ちになったエドアルドに、タバード氏はさらに髪色も変えるよう指示を出した。エドアルドは、何か尋常でない客が来るに違いないと確信した。

 

「さて、ロムルス。悪い知らせだ」

 

 タバード氏は決してそうと見えない渋面を貼り付けながら言った。

 

「悪い知らせですか?」エドアルドは首を傾げた。

「ああ、悪い知らせだ。お前にとって」タバード氏は嘆息した。「そして、人間関係がえてしてそうであるように、俺にとっては良い知らせだ。とびきりの大物、マルフォイ家のご婦人がやってくる」

 

 タバード氏が口にした家名に、エドアルドは驚いた。マルフォイ家という名前は、当然エドアルドも聞いたり読んだりしたことがある。孤児学校で教科書としていた『魔法界における昨今の出来事や事件』によれば、この大昔から続く名門一族は、“かのお方”がなさった“解放闘争”において主要な役割を果たしたという。それにしては不自然に新聞への露出が少なかったが。

 

「マルフォイ家!」エドアルドは、驚愕と失望の入り混じった声で叫んだ。「マルフォイ家が来るのですか? こんな──」

「こんな薄汚い非合法の小売店にだ」言い淀んだエドアルドをタバード氏が引き継いだ。

 

 エドアルドは今朝の養父の行動に合点が行った。なるほどそんな大物貴族のご来店となれば、エドアルドがフォーマルな格好をしなければならないのも、タバード氏の気が常にも増して重いのも道理である。わからないのは、これがエドアルドにとって「悪い知らせ」であるという発言だった。彼はこの疑問を養父にぶつけてみた。

 

「うむ」養父は唸った。判断に迷っている合図である。「まぁ、説明せにゃならんことだしな。良いだろう」

 

 タバード氏はエドアルドのベッドに座り、話し始めた。

 

「この数ヶ月間、店頭で不愉快な思いをしてきたお前なら、もう既に分かっていることだろう。俺の店の売り上げは、その大部分をお貴族様に依存している。一般市民は、ノクターン横丁みたいなネズミの巣窟には寄り付かない。そして俺たちの同業者は、あまり景気が良い連中じゃない。そうだろ? だからこそ、貴族たちがちょっと法的に怪しい魔法薬が欲しいと思った時が、商売のチャンスというわけだ」

「分かります」エドアルドは頷いた。

「結構──それで、とどのつまり俺たちは切っても切り離せないんだな。骨と骨とが繋がって、血管と血管が結びついている。まぁそうは言っても、向こうの心臓は俺たちのよりも何十倍は大きいんだが、それはひとまず置いておこう。何が言いたいかというと、俺たちは互いに融通しあう仲なんだ。向こうはこの店を検挙しない。俺は奴らに薬を売る。良い商売だと思わんか?」

「うーん」エドアルドは返事を濁した。

 

「経済的には良い商売だ、少なくとも。だが、話はこれで終わらない。俺たちは、薬と秘密を取引すると同時に、もう一つ取引をしている。俺たちが検挙されて困るのは、実は向こうも同じなんだ。俺は連中が“かのお方”に胸を張って報告できない所業をどっさり知っている。つまり、何回この店の扉をくぐったかを、全部記録してある。それだけじゃないぞ、仮に新聞に圧力をかけて、不法行為をもみ消したとしても、だ。俺は連中がどんなことに悩み、どんな病を抱えて俺を頼ったのか知っている。いくら日刊予言者新聞も、とある貴族の少し恥ずかしい程度のスキャンダルなら、検閲が口出そうと気にしないはずだろう? そう、俺は貴族が隠しておきたいことを黙っておいてやるんだから、正当な報酬を受け取る権利があるんだ。多くの場合、取り立てはとりあえず保留しておく。で、必要になったときに多少便宜をはかってもらう。便利な預金だな!」

 

「ええ、話は理解できるんですけど」エドアルドは割って入った。「結局、僕にとっての悪い知らせはなんなのですか?」

 

「まぁ待て」タバード氏は、自分でも話が長すぎたことに気づいたのだろう、バツが悪そうに弁明した。「俺は時系列に沿わないと思い出せんのだ──で、どこまでいった? そうそう、便宜をはかってもらう。ところでロムルス、お前は孤児学校の生徒を引き取るために何をしなきゃならないか、知っているか? 知らんだろう、これは相当珍しい出来事だから、俺も調べるのに苦労したぞ。ここには法律が絡んでくるからな。それもとびきり面倒な、“根幹法”だ」

 

 根幹法という単語を、エドアルドは知っていた。もっともこれは正式な法律用語というわけではなく、学習上の便宜を考えて編み出された言葉である。オスバート孤児学校で習った記憶によれば、根幹法とは魔法省が制定する膨大な数の法律の中でも極々限られた、“かのお方”自ら書き起こされたものの一群を指している。しかしその中身を学習する前に、エドアルドはタバード氏に引き取られた。あるいは孤児学校のカリキュラムにはもともと組み込まれていないのかも知れない。

 

「問題になったのは」タバード氏は話を続けた。「血統保護法と孤児法だ。この二つは不可分で、もともと両者一体となって運用されることが前提らしいが、詳しいことはよく分からん。“かのお方”が孤児の生活環境に特別の配慮をしている理由も、全く分からん。だが法律に明るい貴族の人間──法律のほの字も理解してない貴族もいるから厳選したぞ──によれば、俺が養子縁組をするには、とにかく貴族の許可が絶対に必要だと言うんだ。その貴族自身は血統保護法によって養子を迎えることを完全に禁止されているらしいのに、おかしな話だろう? それでだ、その時の相談相手にして、俺の書類にサインをしてくれたのが、今日いらっしゃるミセス・マルフォイの旦那様、ミスター・マルフォイというわけだ。これが何を意味するか分かるか?」

 

 エドアルドは首を横に振った。

 

「つまり、ミセス・マルフォイに()()()お礼を言わなくてはならんということだ。どうだ、悪い知らせだろう?」

 

 どうやらタバード氏は、貴族へ本心からお礼するのを最大級に屈辱的な行為と捉えているようだった。

 

 

 

──────

 

 

 

 その女性が訪ねてきたのは、約束の時間を三十分ほど過ぎたころ(タバード氏に曰く「マシな遅刻」)だった。エドアルドはミセス・マルフォイを二階に設えてあるこじんまりとした、しかし格調高い客間にご案内する役目を拝命した。

 

 店頭に立っていたエドアルドは、バシン!という大きな音を聞いて、ミセス・マルフォイの来訪に気がついた。音のした方を見ると、背の高い女性がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。

 このときエドアルドが受けた印象は、計り知れないほど不吉なものだった。女性は濃いグレーのローブを羽織るように身につけていて、顔は異様に青白く、まるで周囲に漂う霧が固まって人の形をとったようである。濡れた石畳の道路を、一歩一歩時計のような精密さで踏みしめていることも、人外じみた雰囲気に拍車をかけた。もしもエドアルドがもうあと三歳だけ幼ければ、悲鳴をあげて逃げ出していたことだろう。

 しかし現実には、彼は任務を放棄しなかった──勇気ゆえというよりも、ミセス・マルフォイに圧倒されてのことではあるが。ともかく彼は定規をあてられたように直立不動で、ゴーストのような女性が霧から析出するのを待っていた。

 

「ようこそお越しくださいました、ミセス・マルフォイ」

 

 エドアルドは丁寧にお辞儀をしながら言った。緊張と一種恐怖に支配された彼が、言い間違いをしなかったことは奇跡と呼んでも過言ではない。ミセス・マルフォイは何も答えず、ただエドアルドを下から上まで眺めた。相手に対して不躾な物色の目線を送ることも、彼女にとっては至って日常のことであるようだった。彼女の青色の瞳は、まずエドアルドの左の靴紐がうまく結べていないことを発見し、コートの胸ポケットの糸がほつれていることを発見し、そしてタバード氏が「陰気でないから」という理由で採用した薄い金髪に注がれた瞬間、不意に悲しげな光を帯びた。エドアルドはミセス・マルフォイが泣いているのだと思い、驚いた。が、まばたきをすると、悲哀は消え失せ元の冷徹な無関心がその場に居座っていた。

 

 この無口な女性を引率するのは骨が折れた。彼女は、口をきかないことをもって周囲の人を威圧するという芸当に関する天与の才能を持ち合わせていたのである。彼女を後ろに階段を登る間エドアルドは、普段は目にも入らない壁の汚れが気になってしかたなかった。そのせいで、いつもの倍以上は長くかかったように思われた階段を登り切った時、エドアルドは汗だくになっていた。ただ、客間の扉を開けて招き入れた折に──極めて無愛想ながら──お礼の一言を頂けたことが、せめてもの救いだった。

 ミセス・マルフォイが客間に足を踏み入れると、壁にかけられたランドポートの風景画をわざとらしく鑑賞していたタバード氏が振り向き、滅多に見せない“よそ行きの”笑顔で挨拶をした。

 

「いや、ようこそお越しくださいました、ミセス・マルフォイ! 毎度のことながら、大変お美しいお洋服をお召しで()()()しましたよ、ええ。今日のような天気は特に貴女によく似合う!」

 

 タバード氏の褒め言葉に、エドアルドはギョッとして、もしかしたら養父は今日一度も窓の外を見ていないのではないかと訝しんだ。肌がじっとりと湿るような冷たい霧が建物を包み込み、太陽が煤で汚れきったガス燈のような天気に女性を例えるのは、どう考えても失礼である。だが一方で、確かにミセス・マルフォイは霧がよく似合う人物でもあった。というより、暖かい陽光が降り注ぐ緑豊かな高原にいる姿を全く想像できない、と言った方が正確かもしれない。そして何より、ミセス・マルフォイ自身が、タバード氏の論評を受け入れているかのように、何を言うでもなくただ顔に走る悲壮の皺をさらに深く刻み込んだのだ。

 

「ごきげんよう、ミスター・タバード」ミセス・マルフォイの声は、外見を裏切らない物憂げなものだった。「貴方もお変わりないようね。いつも通り貧相で──」

 

 驚くべきは、ミセス・マルフォイのこの発言の中に、いささかの悪意も含まれていないらしいことである。

 

「さよう、その通りですな」タバード氏も気にした様子はなく答えた。「私が真鍮製の大鍋だからこそ、貴女のような黄金製の大鍋の美しさがより一層──いや、これは適当でないな。私が薄汚いネズミだから、可愛らしいウサギである貴女は──まぁともかく、そういうことです」

 

 不手際を悟ったタバード氏は、誤魔化すように杖を振りティーセットを浮かせると、当然の顔で上等な方のソファに腰掛けていたミセス・マルフォイにお茶を淹れた。その腕の鮮やかさは、魔法を目にした経験が少ないエドアルドにとっても、相当なものに見えた。

 

「ところで」ミセス・マルフォイはティーカップに目もくれずに切り出した。「そちらの小さな紳士は──」

「ああ!」タバード氏が叫んだ。「こいつも本日、貴女にご紹介したいと考えていましてね。しかし、お時間の都合もあるでしょうから、先に我々の──あー、相談を済ませてしまうのがよろしいのでは?」

 

 このタバード氏の話の逸らし方があまりに露骨なので、エドアルドはすぐに、彼が自分を紹介する苦労を重大に捉えているのだと察したが、なにも言わなかった。ミセス・マルフォイの方も、エドアルドのことをごみ溜めから生まれた奉公人としか思っていないだろうから、両者の間には利害の一致が見られ、わざわざ指摘することもなかった。

 

「結構」タバード氏は揉み手をしながら、エドアルドの方をチラと見ると、気持ちが悪いくらい晴れやかな笑顔で話し始めた。「こいつが貴女の──一種、問題を聞くことは構いませんか? もし気になるようでしたら、下の掃除にでもやりますが」

 

 ミセス・マルフォイは案の定、高潔な無関心を貫いた。エドアルドのささやかで柔らかい自尊心は少なからず傷つけられたが、この女性が抱える問題──彼女がずっと漂わせている、ただならぬ悲愴な空気と確実に関係しているであろう問題──に関心があったので、好都合だと思い直すことにした。

 

 ミセス・マルフォイは決して、タバード氏の顔を見ようとしなかった。まるで、彼を視界に入れたという経歴が、霧の張った湖のような美しい眼球の価値を著しく毀損することを恐れているかのように。彼女はまず奥の壁を見つめ、次に俯き、その拍子にほとんど白に近いブロンドの髪が一房、はらりと垂れた。しかしそれに少しも注意をせず、直しもしないまま口を開いた。

 

「それで……私が頼んだことは検討していただけたかしら。どうにかして、彼の妻をよくすることができないか……」

 

 ミセス・マルフォイの口調は深く沈み込み、澱んだ泥のようだった。エドアルドは、目の前に腰掛けた美しい女性からこれほど物悲しくはかない声が発せられたことに驚いた。もしここでタバード氏がくるりとエドアルドの方を向き、「言い忘れていたが、ミセス・マルフォイは三百年前に龍痘で儚くなられたが、ゴーストになってもなおこの店にいらしてくださっているのだ」と説明したとしたら、そのほうがよほど腑に落ちただろう。しかし現実には、ミセス・マルフォイの身体は──そう錯覚しかねないほど儚いとはいえど──透けてはいなかった。

 

 問いかけられたタバード氏は、しばらくステッキの柄を弄り、どう返答しようか迷っているようだった。結果を言うと、その返答は極めて簡潔なものだった。

「単刀直入に申しましょう。やはり、患者に直接お越しいただかなければ、私には打つ手がない」

「それはなぜでしょう」ミセス・マルフォイは即座に切り込んだ。

「なぜかと言いますとね、ミセス・マルフォイ。あなたのご子息の奥様が抱えておられる非常に厄介な問題は、まず根治不可能なわけですよ。聖マンゴにも当然行かれたのでしょう?」

「それは──」貴婦人はやや言い淀んだ。「行ったと思います」

「しかし解決しなかった。ですな?」

「でなければ、私はここにいないわ」

 

 タバード氏はゆったりと背もたれに背中を預け、杖を振った。すると本棚から一冊の大きな本が飛び出して、タバード氏の前でパラパラめくれ、あるページで止まった。

 

「現在我々が議論している問題は、根治不可能です。人の死が避けられぬ運命であるのと全く同様に、哀れな彼女が生まれ落ちた瞬間から定められた決定事項が、最近になって噴出したということなのです。ですから私にできることは、対症療法に限られる。まぁ平たく言えば、運命へと続く下り坂から、足の裏を傷つける石や、不快な穴を取り除くことですな。

しかし、貴女はどこに石や穴があるのかこれっぽっちもお知りでない! ミセス・マルフォイ、私はあらゆる手段を──すなわち必ずしも合法とは限らない手段を講ずることはできますが、まず先に適切な手段を見極めないでは、なんともしようがない」

 

 事情の詳細を知らないエドアルドにも、今のタバード氏の言葉が残酷な宣告であったことは容易に理解できた。事実、ただでさえ青白いミセス・マルフォイの顔からはいよいよ正気が抜け落ち、唇はわなわなと震えていた。貴婦人は腕で自分の身体を抱きしめると、勢いよく立ち上がった。エドアルドはそのまま帰ってしまうのかと思ったが、そうではなく、狭い応接間の中を忙しなく歩き始める。まるで何か恐ろしいもの──タバード氏の言う運命──に追われているかのように。

 

「しかし」ミセス・マルフォイは消え入りそうな声で言った。「しかし、それでは──私では彼を説得できないでしょう。夫ならなおさらそう。例え貴方のことを説明して、ここに連れてこようとしても──いえ、詳しく今の症状を聞き出すことすら──」

「私がご子息ならば、貴女がノクターンの怪しい商人と連んで愛する奥様を毒殺しようと目論んでいるのではと疑いますな」

 

 とうとうミセス・マルフォイは床に崩れ落ち、泣き出した。

 

「ええ、その通り! その通りなの!」

 

 彼女の顔には、確かに強く気高い女性の気配が見受けられる。にも関わらず、そんな女性がここまで追い詰められるまでに一体どれほどのことがあったのだろうか。

 

「ああ、なぜ私たちはあそこまで彼に辛い物言いをしてしまったのでしょう! お義父様が今考えれば不思議なほど全く反対なさらなかったのに……ああ、どうして!」

 

 ミセス・マルフォイの目からは涙がはらはらと溢れ、その光景はさながら、窓ガラスを伝って流れ落ちるあの柔らかく切ない冬の雨のように美しかった。彼女としては、目の前にいるのが歯牙にも掛けない下賤な二人組だからこそ、これほど感情を露わにできるのであろう。それにしても居た堪れなくなったエドアルドは、嗚咽する貴婦人から目を逸らし、タバード氏を見た。が、次の瞬間、心臓を握り締められたような心地がした。

 養父の表情は、あまりに複雑だった。目に光はなく冷酷で、しかしそれなのに、その顔にはどこか憐憫めいたものも窺えた。複雑で──恐らくタバード氏自身すら──理解しがたい感情がそこにはあった。

 

 ミセス・マルフォイはそれでも、程なくして落ち着きを取り戻した。床からゆっくり立ち上がった彼女の背筋は伸び、服には少しの乱れもなく、泣き腫らした両目だけがエドアルドの記憶の正しさを証明している。

 

「では、申し訳ないけど、薬代は払えないわね。相談料は、後日送りますから」

 

 ミセス・マルフォイは凛とした声音で言った。

 

「ええ、お役に立てず申し訳ない」タバード氏は一瞬俯いて言うと、膝を打った。「ああ、私としたことが! うっかり忘れるところだった!」

 

 そして振り返った養父はエドアルドの背中を強かに叩き、ミセス・マルフォイの前に押し出した。

 

「こいつの紹介を忘れるところだった! さぁ、自分の名前くらい自分で言えるな? 偽名は使わんでもいいぞ、さっき言った通り、ミセス・マルフォイの旦那様が、お前がこの素晴らしい家にやってくるお膳立てをしてくれたのだから」

 

 エドアルドは突然話の中心に引っ張り出されたことに困惑しつつも、目の前の女性に対して最大限の礼を尽くしながら──頭を十分に下げれば、内臓が凍りつきそうになるほど冷たい目線を直視しなくてもよい──自己紹介した。

 

「こんにちは、ミセス・マルフォイ。僕はエドアルド・スワッブルです」

 

 その時エドアルドは、例の死人のごとき冷静さを取り戻していた女性が、小さく息をのむ音を聞いた。顔を上げてみると、ミセス・マルフォイは驚愕と、一種恐怖に駆られた顔をしていた。先ほどまでの涙が、愛息子の未来を憂いたもの(エドアルドは話の内容をそう解釈した)なのだとしたら、今度の恐怖は、数年前に家に押し入った強盗と街路で偶然出会したかのような、とにかく何らか過去にまつわる恐怖だった。ミセス・マルフォイはおもむろにエドアルドを指さしたが、よく見るとその手は、カタカタと小刻みに震えていた。

 

「エドアルド?」

「ええ、そうです。あの、旦那様が僕のために様々な手続きをしてくださったと聞き及んでいて、その節は──」

 

 エドアルドのたどたどしい感謝が最後まで語られることはなかった。ミセス・マルフォイが怯えた、しかし何人の干渉も許さない確固たる調子を帯びた声で遮ったのである。

 

「あなたは──今年でいくつなの?」

「十歳です、多分」

「生まれは?」

「分かりません。ほんの赤ん坊のときに、ある女性がロンドンの孤児院に預けていったそうです。それから、オスバート孤児学校に移って──その母の顔も覚えていないので、きっとものすごく幼いときの話です」

 

 エドアルドが話し終えると、ミセス・マルフォイはそう、とだけ呟き、額の手を当ててなにかを堪えているようだった。その様子があまりに尋常でないので、エドアルドはすぐに、この女性が自分の出自に関するなんらかのことを知っているに違いないと確信した。にも関わらず、ミセス・マルフォイは顔を上げてタバード氏に「この子をしっかり躾けるように。では」と簡単な挨拶だけすると、部屋を出て行ってしまった。

 エドアルドはびっくり仰天して、咄嗟にタバード氏の顔を仰ぎ見た。彼もまた、ミセス・マルフォイの行動が不審に感じているが、不用意に上客の寛容性を試すような真似をしても良いものか悩んでいるようだった。しかしすぐに、エドアルドに対して目配せをし、自分はとっとと応接間から撤退した。エドアルドに外交権限の全部を委任したのだ。

 

 エドアルドは応接間から飛び出すと、真っ暗な階段を転ぶ危険も厭わずに一気に駆け下り、玄関扉に体当たりをして路地に出た。ともすればミセス・マルフォイはとっくに姿くらましをして、ここから数百マイル離れた見知らぬ土地の家に帰ってしまったかも知れないと心配した。が、先刻彼女が現れたのと同じ方向に、今度は濃霧に溶けゆく人影を見つけた。

 

「待ってください、ミセス・マルフォイ!」

 

 エドアルドは、霧が視界だけでなく声すら遮ると思っているかのような大声で必死に呼びかけた。人影は速度を落とし、もう一度叫ぶと、完全に歩みを止めた。

 

「ミセス・マルフォイ、お聞きしたいことがあります」エドアルドは相手の返事も待たずに切り込んだ。「僕の両親について、何かご存知ではないですか?」

 

 ミセス・マルフォイは一瞬振り返ったが、何やら躊躇するような仕草を見せると、絞り出すようにただ一言、「貴方はスリザリンに入りなさい」とだけ言った。エドアルドはなおも食い下がろうとしたが、瞬きした間にミセス・マルフォイの姿は消えてしまっていた。

 

 

 





本作最初の「原作死亡キャラ生存」に該当したのが、まさかアブラクサス・マルフォイになるとは!
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