緑谷出久の息子の英雄譚 作:鬼龍院クマ吉
忘れ物をしちゃった。
って感じ。
「……只今、帰還しました」
緑谷出久の生き写しのクローン――緑谷雫は、自身が生まれた研究所へと帰ってきていた。
彼にとっての故郷は、この研究所であり――かつて彼を包む羊水は培養液であった。それがクローンとしての摂理であるかのような、彼はそんな形容し難い感情を覚えた。
「おー、派手にやられたな。緑谷番花――噂に違わず、というか噂以上の大物だな。予想に反して狡猾な所は、誰に似たんだか」
緑谷雫にとって自身の前で、自身が負けた相手を称賛されるのは中々に堪えた。
しかし敗者である緑谷雫は、彼女に対して口答えなど出来なかった。というか、そもそもする気も無かった。
「……申し訳ありません、博士」
緑谷雫が“博士”と呼んだ女性は、いかにも研究者というボサボサの髪に、白衣というパブリックイメージを遵守したような見た目の女性であった。特筆すべきは、ドレッドヘアーのような纏まりがある桃色の髪くらいのものだろう。逆に言えば、それ以外の要素で彼女を彼女だと断じるには、あまりにも影が薄かった。
緑谷雫の謝罪を聞いて、彼女は深く肩を下ろす。
「全くだ、彼の奥義――『玉露』が観察できたのは良かったが、あそこで私が危機感知の出力を最大にしてなければ、お前はもう死んでいた。それに、最大のアドバンテージを駆使して動揺の隙を突いたまでは良かったものの、後半は相手のペースに乗せられていたな。それに関しては、向こうの方が一枚上手だったと言うべきか」
そう、あの瞬間に博士が出力を上げていなければ、緑谷雫は死んでいた。
それすなわち、緑谷番花に殺人の意志があったということである。
個性終末論の体現者――轟冷火と並ぶ逸材の男なだけはあると、博士はそう彼の評価を結論付けた。
「緑谷番花は手加減をしていた。お前を生け捕りにする為に、手を抜いたのだよ。そうでなきゃ最初、お前が緑谷番花に接近した瞬間に『玉露』で殺されていた」
「まぁ、なんだ。収穫もあったぞ。以前、お前は元A組のメンバーを襲撃した際、どうも危機感知の感度が悪かったが、緑谷番花の仮説に従うのなら、緑谷出久の記憶が奴らを“敵”と認識させないわけだ。……ふむ、一考の余地はある、か」
「……はい、悔しいですが、彼の意見は正しいかと」
「そうだな……お前がやりたいと言うからやらせてやったが、元A組襲撃は少し頻度を抑えろ。いや、何もやめろと言っている訳じゃない。私の調整が終わるまでの間だ」
博士は、そう言い終わるとパソコンに再びにらめっこを仕掛ける。
それを見て、緑谷雫は一つ疑問だったことを今、訊いておこうと決心した。
「博士はあの瞬間……なぜ、緑谷番花の『玉露』を察知出来たのですか?」
あの瞬間、危機感知を発動していて、身体能力にも優れた個体である自分が察知できなかった技の起こりを見極められたのか、それが疑問だった。
博士はパソコンから目を離さずに、語り始める。
「知っての通り、私の個性は『目が良くなる』、それだけだ。しかし幸運にも機械弄りの才能はあってね、演算装置と併用してお前の戦闘データを計測、予想をしていた。その結果に従ったまでだ。お前は唯一の成功体なのだから、頼むぞ」
博士は、何故か興が乗ったようで続けて。
「ああいやしかし、最後の緑谷番花の『露柱』を見れなかったのは残念だったな。まあ、あそこで使わない時点で、大技なのは確定か。周囲への被害を考えてたのだろう。わはは。重力使いの必殺技は『ブラックホール』と相場が決まっているのだ。官ノ宮神誤戦のデータが欲しかったなぁ」
「……官ノ宮神誤を倒したのは、壊理という女性なのですか?」
「ああそうだ。悪いな。向こうの組織が情報をクローンに流すなとうるさいものでな。あの日の事件当日――緑谷番花は官ノ宮神誤とその直属の精鋭3人を相手取って、轟冷火は彼の部下、三千人を相手に闘った。凄いだろ? 凶悪な個性揃いの奴ら三千人を、たった一人で殲滅したんだよ。緑谷番花も、勿論大立ち回りだったけどね」
「緑谷番花は三人の精鋭を即座に打倒して、官ノ宮神誤の右腕も一本ぐちゃぐちゃにしたが、それでも勝負自体は拮抗していた。それを破ったのが、壊理という女性だ」
「……そうなのですか」
疲れてショートしかけていた緑谷雫には、内容がうまく入ってこなかった。
要するに、雄英高校の中でも最強の緑谷番花を百二十回殺せる程の強さを持つ壊理という女性には、誰も敵わないということだろうと勝手に話を完結させた。
「……他のメンバーは何処に行きましたか?」
緑谷雫は、精巧な成功体である。
容姿だけでなく、緑谷出久のOFAの超火力や複数の個性などの再現ができる。
しかし、自分が生まれるまでに創られた粗悪な成功体――俗に言う、失敗作も存在する。
始めは何十体もいたが、今ではたった五名までに数を減らしている。
曲者揃いの彼らのことを、緑谷雫は兄ちゃんとは呼ばない。それは単なる出来損ないとしか認識していないからだ。
「四体は休憩室で、後の一体――緑谷
「……そう、ですか」
緑谷
度を超えた加虐体質であり、悪趣味極まりない男だ。彼に捕まったのなら、最低限の生命活動しか出来ないように成っているだろう。
……なんだか、上手く言い表せないが嫌な気分がした。緑谷出久の顔を使って、少年や少女を甚振るのは、緑谷雫の幼い心には理解し難いほど耐え難かった。
「博士は……何がしたいのですか?」
気づいたら、緑谷雫はそんな事を訊いてしまっていた。
これは、反逆に当たるのだろうか。内心、怯える感情もあった。
しかし彼の幼い心は、好奇心には抗えない。
「……ふむ、かつてAFOが創り出したNo.6という人工ヴィランがいてね。彼の失敗がキッカケで、脳無という怪物は出来たんだが……私は人工ヴィランという発想は悪くないと思っていてね。脳無を超える力に、高度な知能を持ち、尚且つ制御可能な軍隊――それを用いて、国家転覆する。それが私の求めるところさ」
「国家転覆したら……どうするつもりですか?」
「ん〜、
「……」
暫く緑谷雫は黙りこくっていたものの、ふと何かに気づいたかのように口を開く。
「……? 老婆心とはなんですか?
言いかけて、自然と口が閉じた。
どうやら女性に年齢関係の事はタブーらしい――と危機感知が知らせたのかもしれない。
「……やめたまえ、日本が誇る発目家の人間は唯一人だけ、
生き別れではなく。
死に別れである。
しかし日本が誇る発目明という女性は、毎日のように世間を騒がせている。彼女は老いてなお……ちょっと元気すぎて学会を追放されてでも、世のため人のために発明に携わっている。
……であれば、死に別れたのは、どちらだ。
世の発展を願う研究者として、死んだのは――。
「……はい、博士」
「よし、じゃあ私はあちらに荷物を取りに行ってくる。お前はカプセルの中で休んでいろ」
博士はそう告げると立ち上がる。
暗がりの中で良く見えなかった容姿の全貌が、明らかになる。
その見た目は、彼女の妹より――二十歳程、若く見えた。
「…………」
博士が立ち去ってから、緑谷雫はその場を動こうとしなかった。
今日の、緑谷番花との戦闘で吐かれた暴言の数々が、自身の心に深く突き刺さっていたためである。魚の小骨のように抜けないもどかしさが、東京タワー並の大きさで突き刺さっている。
それは生まれて間もない彼の幼い心を容赦なく刺激した。
「この感情は……なんだ?」
少し思考を始めてから、自らの行いが、自身の嫌悪する失敗作と、本質的には変わらないのでは思うようになってきた。勿論、緑谷雫は自身の顔を隠すという配慮があり、緑谷
「……いや、今は休憩だな」
緑谷雫は、睡眠を必要としない。食事を必要としない。生殖行為を必要としない。
全てが戦闘の為に造られた、完成体のクローンである。
だが、今日の彼は損傷が激しかった。
ボロボロになった服を脱ぎ捨て、回復用のカプセルルームへと足を運ぶ。
「……」
そのヒト一人しか収納できない箱の中に入ると、ドアが自動で締まり、彼の身体を修復していく。
痛み止めと併用して行われる治療には、全身を包みこまれるような包容感があり、まもなく彼を襲った。
先程も言った通り、彼は三大欲求とそれに付随する行為を必要としない。
しかし、考えてもみて欲しい。
人間が――ホモ・サピエンスが誕生したのが五百万年も前で、その間、人類は進化の過程で色々と仕組みが変化してきたというのに。
外敵に対して最も無防備な姿を晒す――睡眠という行為は、淘汰されなかった。
これはつまり、人類の睡眠の重要性を雄弁に語っていた。
そう、緑谷雫は造られた存在、クローンといえども――睡眠は行ってしまうのだ。
たとえ必要がなくても、思いを馳せている内に自然と眠りに落ちてしまう事は、誰にもあるはずだ。それに加えて、痛め止めの副作用である包容感が、それを後押ししたのだろう。
彼が思い馳せる事――それは、自身の母親についてだった。
緑谷番花の母――麗日お茶子ではなく、緑谷出久のコピーではないもう一つの『個性』の元となった人物についてだ。
博士によると、自分が成功体としてこの世に生まれでたのは、その人のお陰らしい。
失敗作の奴らは全員が緑谷出久の血液だけしか利用していないそうだ。その結果、能力が偏ったり、記憶の齟齬によって自殺した個体もあったという。
自分が唯一成功したのは、自身の母――その人物の血液が、緑谷出久の血液と奇跡的な融合を果たしたかららしい。
何でも、神がかった親和性があったそうだ。
緑谷雫は、自身の母について調べることを強く禁じられている。
それどころか、他の組織について詮索することも禁じられている。
幹部――官ノ宮神誤の情報だって、一般に公開されている範疇でしか知らなかったのだ。
「(僕の母は……どんな人なんだ?)」
そんな事を考えている内に――目を覚ましたら、学校に居た。
「……は?」
どこかノスタルジックな様子を漂わせる夕方の校舎に、緑谷雫はいた。
キョロキョロと見回してから――これは夢である、と緑谷雫は結論付けた。
クローンでも、夢は見れるのだ。緑谷雫は、少しだけ誇らしい気分になった。
「学校って、こんな所なのか……」
緑谷雫は義務教育を受けていない。
緑谷出久の記憶の中には出てきたものの、雄英高校は普通の学校と言うにはあまりにも先鋭的だ。
緑谷雫がよく嗜む文学小説のような、夢にまで見た――今現在、夢に見ている風景がそこにはあった。
暫く、緑谷雫は自身の足の気の向くままに歩き出した。
歩いて見て回っている途中に、とある教室が目に入り、どうしてもそこに入らねばならない気がした。
それは一種の強迫観念にも近い感情であった。
「……ん」
自動ドアに慣れている緑谷雫は、学校特有の建付けの悪い引き戸に苦戦しつつも、なんとか開けて奥へと進む。
そこで緑谷雫は――見た。
「……来ましたか、雫くん」
教室の窓際に置いてある机を椅子代わりにして、彼女は夕日に照らされていた。
セーラー服の上に、時期外れのダッフルコートを羽織って、静かに座っていた。
頭部に宿る黄金色のお団子が、沈みゆく太陽に、よく映えた。
緑谷雫には、その人物が誰なのか――直感で、分かった。
「……貴女は、僕の――『ママ』ですか?」
彼女は、その問いを肯定するかのように静かに笑った。
「そーゆーことに、なるのかもです」
へにゃりと笑った彼女は、とても母親と呼ぶには若すぎたが、それでも緑谷雫に対して包容感――抱擁感を、十分に感じさせる出で立ちであった。
緑谷雫は、困った。
母親に会えたのなら、聞きたいことがもっとあったはずなのに――言葉が、出なかった。
それどころか、一粒の涙が彼の頬を伝う。
クローンだって夢は見るし。
クローンだって泣くのだ。
「……雫くん。私は今、怒ってるのです」
「……え?」
「私の親友のお茶子ちゃんを――殺すって言いましたよね?」
「――ッ!??」
その言葉に緑谷雫の背筋は一瞬にして震え上がる。
彼女の言葉には、明確な殺意が含まれていた。
ただの文字の羅列だけであるはずなのに――まるで首筋にナイフを立てられているかのような恐怖が、彼を襲う。
ただの一文字すら、話せない。
彼女の放つ殺意は、濃度が違った。
場数が違った――意味が違った――要素が違った――真意が違った――数が違った――運が違った――法則が違った――関係が違った――感情が違った――価値観が違った――遺伝子が違った――善悪が、美醜が、幸福が、倫理が――。
おおよそ社会というものから――違っていた。
もしかしたら、違えていたのは『気』なのかもしれなかった。
緑谷雫は、博士以外で畏怖を覚えた人間は初めてであった。
「……まぁ、いいのです。今回は特別に許してあげます」
「――かはっ!」
詰まっていた息が、循環を始めた。
彼女が殺気を緩めたのだろう、理不尽な話ではあるが、彼はそれをありがたく思った。
「ありがとうございます……ママ」
「……ママ、かぁ」
彼女は緑谷雫の発言に目を丸くして、考え込む。
年相応の少女のように、ウンウンと唸って思考の波に飲まれる。
その様子をみた緑谷雫は、不安がる気持ちが大きかった。
緑谷番花の煽りゼリフ――『こんなのは僕の息子じゃない』――が脳裏を過る。
「……嫌、ですか?」
そう不安そうに問いかけた緑谷雫に、その女性は慌てて否定する。
「ヤ。そうじゃなくてですね。私が誰かの親になるなんて、思ってもなかったですし。しかも、パパが出久くんとか……私、お茶子ちゃんにどんな顔をすればいいんでしょうね……」
女性は、複雑な気持ちだった。
数多の人を殺してきた自分が、誰かの親になるとは――そう感じたのである。
しかも、遺伝子同士の融合とはいえ、その相手が親友の夫だなんて――申し訳ない気持ちと、好きだった相手の子供がこの世にいるという事実に、少し嬉しいと思ってしまう自分の二律背反の感情の名前を決めあぐねていた。
「昼ドラみたいです」
「……ヒルドラ?」
「つまり私達みたいな大人には、大人の事情があるのです」
「そうなのですか」
そこで会話、途切れる。
母親との会話はどういったものをすればいいのか、緑谷雫には分からなかった。
しばし訪れた沈黙の瞬間――破ったのは、彼の母親であった。
「雫くんは、生きやすいですか?」
「……どう、でしょうか」
彼女の質問はアバウトだった。
抽象的が故に、緑谷雫はその質問に即答できなかったし、答えを濁して先送りにしてしまった。
「私は、もっと自由に生きていいと思います」
彼女は、犬歯をよく見せて笑った。
緑谷雫は、思わずその様子に見惚れた。
「自由に……ですか?」
「はい。もっと好きに、自分が生きたいように生きてイイのです。雫くんは、どう生きたいのですか?」
もっと、生きやすい世の中へ――。
彼女がそう願った世界は、多様性という名札を引っ提げて、曲がりなりにも到来しようとしていた。
人間をヒトと呼んだり、そういった行動の積み重ねが、もしかしたら世界を変えていくのかもしれない。
「……僕は――」
想起されるのは、英雄――緑谷出久の記憶。
彼が守った人は、全て等しく安堵の表情を浮かべており、幸せそうだった。
自分が憧れたのは――そんな英雄だ。
しかし、緑谷雫は直接的な殺しはしていないとは言え、それでも多くの殺人を黙認してきた。
今更、そんな自分がソレを望むのは――。
「もっと、自由に」
彼女の言葉が、緑谷雫の思考を遮った。
考え込んでいる内に、いつの間にか机から降りて緑谷雫の前へ来ていたようだ。
彼女の匂いが鼻をくすぐった瞬間――懐かしい匂いが、彼の記憶を呼び覚ました。
前にも確か、こんな事があったような――。
「……ママ」
「ふふっ。はい、なんですか?」
ようやく思い出した。
自分――『完成体:59号』に、『雫』という名前を与えたのは――!!
「――『
彼女は、ゆっくりと俺を抱きしめた。
その貌は穏やかで、実の息子を愛する母親であった。
「聞かせてください。雫くんの夢の話を」
――皆を救える
彼はその言葉が、出なかった。
「……ママの名前はなんと言うのですか?」
英雄は確かに素晴らしい。
華々しいし、それは成程、きっと誰もが納得する答えなのだろう。
しかし――違う。自分が本当にやりたいのは、違う。
その感情は、緑谷出久が残した憧憬にすぎない。
彼女は、笑った。
そして、告げた。
「――
それは。
第二次全面戦争で猛威を振るった
世界一カァイイ、女の子の名前だった。
つまるところ。
緑谷雫は
彼はどちらにだって成れる――救済も、虐殺も、無垢な彼の前では同じに見えた。
「僕は――」
生まれてやりたい事など、思えば一つしか無かった。
どうしても、己の命を賭してでもやりたいことなど、それを除いて無かった。
「――ママの息子として恥じない生き方をしたいです」
緑谷雫、夢は――親孝行である。
「……そっか。そうですか」
トガヒミコは、今日何度目か笑った。
どんな答えを緑谷雫が言っても、肯定する気であったのだろう。
しかし、彼女の様子は少し動揺しているようにもとれた。
トガヒミコは――涙ぐんでいた。
「……じゃあ、まずは組織から逃げ出さないとですね」
抱擁を止めて、トガヒミコは緑谷雫の肩に手を置いて微笑みかける。
「……はい」
しかしバイタルから生命活動までを管理されている緑谷雫にとって、組織を抜け出すのは不可能である。
下手に脱走でもすれば、その瞬間に命は無くなるだろう。
「だいじょぶです! 息子を支えるのが母親の務めですから!」
緑谷雫の掌を、トガヒミコの細い指が絡めて、握る。
そして目線を合わせて、
「私の個性の使い方――教えてあげます」
緑谷雫の全身に、不思議な感覚が駆け巡る。
彼女の十七年に及ぶ人生経験が、緑谷雫に流れ込んでいるのだ。
その中で理解した――トガヒミコの人生の全てを。
彼女の受けた差別も、不幸も、異常性も――緑谷雫は全部、全部背負っていこうと決意した。
それが息子のとしての役目なのだと、そう理解したからだ。
「雫くん」
彼女は人生経験を譲渡している途中に、緑谷雫に声を掛けた。
緑谷雫も思わず振り向く。
「私の能力は誰にだって『変身』できちゃいます。でも、忘れないで欲しいのです。どんなに姿を変えようとも――貴方は私の、たった一人のカァイイ息子です!」
白い極光が、辺りを包み始める。
どうやら、夢が覚める時が来たようだ。
緑谷雫は、最後に消えゆく風景に混ぜるようにハッキリと言った。
「僕はママの事を――愛しています」
……カプセルルームの自動ドアが開き、彼は外に出た。
体中を巡る不思議な感覚は、まだありありと残っている。
緑谷雫は、自身の感情の名前を知らない。
緑谷出久の記憶を読む時間は、至福のときであった。彼の英雄譚を読んでいる時は、自身も守られている無垢な市民の気分でいられた。しかし、実際に自身が所属する組織が少年や少女を改造する悪の組織である。その事実との齟齬が、彼を苦しめる。
緑谷雫は、発目庵を知らない。
彼女が『真・
緑谷雫は、勇気を知らない。
だから、一歩を踏み出せない。
だが。
だけど。
だけども。
一歩を踏み出す――助走は出来るのだ。
緑谷雫は、博士の装置を独断で弄り、自身の髪色を変化させた。
緑谷出久の緑色の髪から――あの場所で見た
机の上においてあった短刀をとり、懐へとしまい込む。
彼は――緑谷雫に別れを告げた。
一歩を踏み出す助走をつけて、そのハードルを――クローンとしての“咎”を乗り越えて、今そこにいた。
今の彼は。
緑谷雫ではなく――『
【渡我雫:プルスケイオス】
更に混沌へ。
ママが目指した『自由』とは何か――その答えがたとえ混沌の中にあったとしても、それを探す決心をした。
トガヒミコが――ママが望んだ、自由に生きるということを、真剣にやってみようと思ったのだ。
渡我雫は――まだ知らない。
これから彼がトガヒミコの享年と同じ――
事実は常に混沌としている。
世界一カァイイ女の子の、世界一カァイイ息子の旅は。
まだ始まってすらなかった。
自分が――うん、まぁもうええか。
とにかく、忘れたらあかんよ。