Q.あなたは幽霊に取り憑かれてしまった!どうする? A.図書館に行く   作:こおり0859

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4月7日14時 もっと新聞を漁ろう

 思考を引き戻し、飽きたのだと言い張る女へ「すみません、しばらく待っていてください」とだけ書いたメモ帳の文字を見せる。

 そして、私は「パソコンで読む北海日日新聞」(※18-1)へと視線を戻した。

 女は納得いかなかったのか、出口の方まで行って手をこまねいている。当然無視する。効果がないと分かるや否や、彼女は私の腕を掴もうとしてきた。しかし、すり抜けてしまって歯がゆそうな表情をしている。いい気味だ。いつまでも食事の時みたいに唯々諾々と従っていると思うなよ。

 それからも女は様々な手段で私をデータベース席から引きはがそうとした。しまいにはモニタを手で隠してきた。これが最も効果のある抵抗で、これによって私の新聞漁りは完全にストップしてしまった。行動がエスカレートしている。いよいよ悪霊らしくなってきたな。

 まあいい、PCが使えないなら紙に戻るまでだ。ここが図書館であることを幸いに適当な本を引き抜いてきて、これ見よがしに開く。ちなみに「適当」というのは「ふさわしい」という本来の意味の方だ。

 その名も「18章でつづる北海道赤れんが庁舎物語 四季の風景と所蔵の絵画」(※20-1)。フルカラーで赤れんが庁舎を楽しめる美麗な一冊である。ちょうど古記事95件の目視確認は厳しいと思っていたところだ。赤れんが庁舎の八角塔撤去日を調べ、調査対象期間を縮める作業に戻ろう。

 無職には無限に時間があるし、このデータベースは無料で使える上に利用者があまりいない。日曜の昼下がりにもかかわらず、10ある席のうち、今埋まっているのは私を含めてたったの2席だ。女の気が済むのを私はここで何分でも待てるし、席の利用時間が終わったら予約を取り直せる。何なら明日また来て作業を続けてもいいのだ。

 きっといまの私の瞳はかつてないほどのやる気を宿していることだろう。すでに支払ったコストが私の背中を押し、そして目前から漂うゴールの気配が手を引いてくれているのを感じる。

 「18章でつづる北海道赤れんが庁舎物語 四季の風景と所蔵の絵画」によると、赤れんが庁舎の八角塔は「明治二十九年(明治二十八年説もある)に撤去された」とのことだった。

 パンフレットには明治29年撤去としか書かれていなかったが、異説があったらしい。やはり記事を漁る前に睨んだ通り、ローカルネタなので明確な資料が残っていないのかもしれない。いや、道庁の改築はいうほどローカルネタだろうか。明治政府肝入りの建物の情報なら公の文書に残っているのではないか。訝しんだ私はスマートフォンに手を伸ばした。

 ブラウザから「国立国会図書館デジタルコレクション」(※20-2)にご登場いただき「八角塔」「出版年月日:明治28年~」と入力、出てきた検索結果を「出版日:古い順」でソートする。

 すると、ほどなく明治30年出版の「札幌沿革史」(※20-3)の「北海道庁新築」の項に「中央に八角塔を設く(此は廿八年取除きたり)」という記載が見つかった。「国立国会図書館デジタルコレクション」にある中ではこれが最古の撤去の記録だ。明治34年出版の「北海道名所案内」(※20-4)でも「中央の屋上に八角塔の設けありしも二十八年之れを除きたり」とあった。

 このあたりの記載を見ると明治28年撤去説の方が有力に思えるが、北海道庁総務課作成のパンフレットが明治29年と明記している以上、これをひっくり返すだけの根拠があるのだろう。それを探るべくさらにスマホをいじっていると、画面の前に横から手が差し込まれた。先程までPCモニタをガードしていた幽霊の手だ。腕を伝って視線を向けると、彼女は目を瞑って首を振っていた。

 そちらがそう来るなら、フリーになったPCのほうで古新聞漁りに戻らせてもらおう。私は「パソコンで読む北海日日新聞」に「八角塔 工事」と打ち込んだ。

 明治21年の赤れんが庁舎建造時の記事に続いて、明治28年5月1日の「北海道庁修繕工事」という一面記事(※20-5)がヒットする。

 古めかしい文面を読み下すと、4月30日に道庁の屋根修繕工事の競争入札が行われ、激安価格を提示した「大嶋氏」が施工主となったらしい。「八角塔」は「赤れんが庁舎」の建築当初の設計には含まれておらず、お上の鶴の一声で急遽追加されたものだった。しかし、設計不備によって雨漏りもひどく、風にすら揺られるほどにボロが出ていたので撤去せざるを得なかった、というのがこの工事の理由なのだそうだ。追加の情報を得るためにそれ以降の記事を漁るも、残念ながら施工完了の記事は見つからなかった。

 屋根の工事を雪の札幌で行うのは難しいので、明治28年5月~11月か明治29年4月~11月が実質的な工期になりそうだが、着工が落札の一年後になるとは考えられない。壊れかけの塔であればなおさら撤去を急ぎたいだろう。私としては明治28年説の方がしっくりきたものの、明治29年説の根拠を見つけられなかったので妥当性の比較ができない。

 再び「国立国会図書館デジタルコレクション」に戻って根拠を探ろう。今度は図書館のアカウントを借りて、引き続き目の前のPCからアクセスする。いろいろ探っていくうちに、ついに「宣教師の見た明治の頃 」(※20-6)に行き当たった。

 どうやら明治29年説の根拠はこの本に記された宣教師「リボー神父」の日記「北海道の旅」がもとになっているらしい。これは明治29年夏の日記とされているのだが、ここには赤れんが庁舎の頂上に輝く「八角塔」の姿が描かれているのだ。

 なるほど、これは確かに有力な根拠だ。簡潔な一文だけで明治28年の撤去を報告する「札幌沿革史」や「北海道名所案内」よりも詳しく、数行に渡って道庁を賛美し、美麗な挿絵まで付けている。

「札幌で最も素晴らしい建築は、何と言っても道庁である。これはすなわち総督の官署であって、赤煉瓦の豪華な近代建築である。その建築工事にあたって政府は約百万ドルも使い、面積は五百五十坪――約二千平方メートル――である。大きな道路から見れば釣り合いの良い大きな丸窓、三つの門と階段からなった玄関、その素晴らしいドームのあるこの大建築は、実に美観そのものである。この建物はヨーロッパのどの都会でも歓迎されるだろう」

 めちゃくちゃに褒められていて気持ちがいい。私自身は全く偉くないのだが、札幌市民として勝手に誇らしくなってきた。……いや、これ、ちょっと盛ってるな。「五百五十坪」は計算すると約1820平方メートルだ。約1割増しとなる。まさか、「五百五十坪」という記載自体も1割増しされた数字じゃないだろうな。

 ついでなので実際どれぐらいの大きさだったのかを調べてみると、「北海道庁事業功程報告 明治22年度」(※20-7)にその回答があった。これは北海道庁が出した報告書だ。

 「北海道庁新築」の項を見ると、「創建坪五百五十坪」とあった。リボー神父はそこまで盛りに盛ったわけではなかったらしい。

 しかし、つらつらと読み進めると衝撃の事実が発覚する。

 ここには工費も書いてあり、「総額十九万四千七百四十六円五十五銭八厘」とのことだった。神父は「約百万ドル」と言っているので、彼を信じるならば、なんと当時は1ドル0.2円程度の為替だったことになる。今からは考えられない程の円高ドル安だ。「こいつ、またやったか」とつぶやく猜疑心が、私に当時の為替を調べさせる。

 「レファレンス協同データベース」(※2-1)にアクセスし、「明治 為替」で検索。「明治・大正期のドル(米ドル)は、日本円にしてどのくらいか知りたい。」(※20-8)というドンピシャな題名を選ぶ。

 回答だけ抜粋すると、「1874(明治7)年は、1ドルは0.984円」「1912(大正元)年は、1ドルは2.019円」とのことだった。多少時期がずれているとはいえ、どう考えても1ドル0.2円になるレンジにはない。……リボー神父、これは盛り過ぎだ。工費に5倍の下駄を履かせている。

 「他にも盛っているのでは」と、本文にざっと目を滑らせる。

 リボー神父は「北海道の住民はアメリカ人のように自由な気風を持ち、ヨーロッパ人のように豊かな生活様式を手に入れており、日本の古い慣習に拘泥しない先進性を持つ」といったようなことをしきりに繰り返していた。実際にそういう面もあったのだろうが、「明治のおはなし」(※12-3)や「札幌の寺院・神社」(※13-1)を思い出すと、どうにも乖離があるように思える。

 察するに、この過剰な下駄は北海道へのキリスト教の布教が目的だろう。「フランスの信仰弘布会の機関紙」に載せたものと考えると、これはキリスト教を日本へ広める足掛かりとして推薦したかったのではないだろうか。それが宗教的使命感によるものだったのか、プロジェクト成功の後の権力への指向性だったのかは定かではない。ただ、この行き過ぎた欧化報告からは、「キリスト教、こういう土地柄の北海道ならイケますよ」という裏の意図が透けて見えるようだった。

 明治29年説の信憑性が私の中で一枚、いや、三枚程落ちた。工費を5倍で記載するような報告書である。塔の1本や2本ぐらい増やしていても不思議はない。実態として風が吹けば揺れ、雨が降れば素通りするような塔だったのだ。本当にそれを見に行ったのかも疑わしい。よもや、フランスで付け足した創作なのではなかろうか。あるいは、本当に見に行ったことはあったが、報告書としての新鮮さが薄れるから、旅行した年のサバを読んだのかもしれない。

 ……いや、ここまで穿った読み方をするのは、私の性格が悪いな。他人の誤りに悪意を見出すのはあまり褒められたことではない。一応根拠も出てきたことだし、ここは大人しく明治29年12月31日までを視野に入れたまま調査を進めよう。

 調査対象期間こそ絞れなかったが、明治28年・29年の情報の軽重が測れたので、これは無駄な時間ではない。古文読解には根気が必要なのだ。明治29年の記事なら多少気を抜いて眺めてもいいかもしれないという推論は、私の心の重荷を少しだけ軽減してくれた。

 それからも邪魔が入るたびに媒体を乗り換えながら調査を進めていると、幽霊はだらりと手を降ろした。無駄な抵抗だと悟ったらしい。恨みがましい目をこちらに向けるのみの哀れな浮遊物となり果てている。貴様の時代とは違って手近な調査手法なぞいくらでもあるのだ。現代文明の勝利に乾杯。

 恨めし屋さんと化した女を尻目に、キーワード「死亡|死去」の検索結果一覧の年代順総当たりに戻る。

 現代の新聞にあるお悔やみ欄のようなものは見つからなかったが、別の形の死亡記事がいくつかヒットした。

 伝染病の病死者と日清戦争での戦死者の記載が最も多く、事故・事件の類は散見される程度だ。珍しいところだと葬式や喪中を知り合いに周知するための個人広告が掲載されていた。病死者の記事では腸チフスのものが多く、現在とは違って氏名まで細かく報道されている。

 記事を地道に読み下し、女性名と年齢を中心にスマートフォンのメモ帳アプリへと書きつけていく。戦死者の個人名が記載されるかどうかはまちまちだったが、どちらかというと死者・行方不明者数のみの方が多い印象だ。

 実際にこの時代の新聞を見る前は事故や事件、病気ぐらいしか死因はないかと思っていたが、確かにこの時代なら戦死もメジャーだったことにいまさら思い当たる。現代日本で無職をしているとあまり実感が湧かないが、今だってここではないどこかでは確かにあり得ることだろう。この感覚の鈍さの是非に関する議論は脇に置き、喫緊の問題へと思考をスライドする。

 当時は女性の従軍はあったのだろうか。なさそうなら「戦死」あたりでマイナス検索したいところだが、このデータベースはマイナス検索に対応しているだろうか。いや、もう半分まで来ているしこのまま行った方が速いか。そんな損得勘定をしながら次の記事へと手を伸ばす。

 「北海日日新聞」明治28年4月29日の2面記事。これも日清戦争での死者・行方不明者数の集計のようだ。いよいよ再検索の機運が高まってきたな。紙面に見切りをつけて別の記事へ遷移しようとすると、カーソルがひとつの見出しをなぞるのが目に映った。

 そのタイトルは「娘の行衛(ゆくえ)不明」(※20-9)。

 「行衛不明」か。たしかに、先程までに見てきた日清戦争の記事でも死者と行方不明者は分かれている。当然、現代でもこの区別は明確に残っており、災害等でもこれらは1セットになっていることが多い。今でこそ幽体めいたこの女だが、遺体が見つかっていなければ今も行方不明者だ。いや、経過年数で法的に死亡扱いにできるんだっただろうか。

 とにかく、次の検索ワードには「行方不明」の類も盛り込まねばなるまい。それはそれとして、偶然見つけたこの記事にそのまま目を通す。

 「石狩國札幌郡琴似村字新川代谷(しろや)神社宮司代谷(しろや)敬治(たかはる)の長女ナギ(二十)は巫女なれば日頃より神饌(しんせん)供し境内掃除せしが去る二十一日早朝社務所出行(でいき)たるまゝ行衛(ゆくえ)不明となりけり父不審に思ひて八方捜索すれども更に手掛りなかりしが一昨日新川の橋の下にて娘の角巻発見せり誤つて橋より落ち溺死したにあらずやと近隣の人々の協力を得て川中を(なほ)捜索するも融雪の候にて水量多く難航し依然行衛(ゆくえ)知れず父の顔色(はなはだ)憔悴せしを見るに見兼(みかね)し縁者より促され(たう)警察署に捜索願を差し出されりと」

 PCに入っていた百科事典で調べると「神饌」は神前へのお供え物らしい。また、「角巻」は雪国に見られた四角い毛布製の防寒具で、嫁入りの際に仕立てて後生大事に使っていくほどの高級毛織物だったのだそうだ。

 全文を大まかに訳して約すと、「代谷神社の巫女(20歳)が明治28年4月21日早朝に行方不明となった。27日に父親が新川で衣類を見つけ、溺死が疑われたので近隣住人と協力して捜索したが、依然行方知れずのままだ。父親はひどく憔悴していたものの、見かねた縁者に促されて捜索願を署へ提出した」とのことだった。

 3日前、未知との遭遇を果たす前に見た新川の様子が思い起こされる。

 あのときの新川の下流は淀み、流れを失っていた。記事の「融雪の候にて水量多く難航」という記載を見て、あれは雪解け水の排水が間に合わなくてのことだったという可能性に今更思い当たる。かつて古地図で見てきたように、簡単に流路の変わる貧弱な河口なら、尚のこと明治の新川は増水していたことだろう。

 そういえば「新川郷土史」(※9-2)にも、昔の新川はしょっちゅう洪水を起こしていて、何人も亡くなったというようなことが書いてあった。まだ行方不明にもかかわらず「溺死」などと現代では無遠慮に映る言葉が使われているのも、より死の近い地域・時代だったという背景があったのかもしれない。

 スマートフォンと向き合い、地図アプリに「代谷神社」と打ち込む。すると、札幌市北区の新川沿いに赤いマップピンが立った。今もまだ残っている神社のようだ。星が4つと少しついている。人気もあるらしい。

 記事に書かれていたのは、明治28年4月21日から行方不明の新川付近の神社の巫女。もしこのとき亡くなっていたならば享年20歳。

 一方、隣で力なく宙を漂う幽霊は巫女装束姿で推定20代前半。彼女と遭遇したのは新川河口で、明治中期の記憶を持つ素振りを見せている。

 ……この記事を見つけたのはただの偶然だったが、これは引き当てたか。

 いずれ見つけるつもりではあったものの、偶然の発見だったので心の準備が追い付いてない。もし本当にこの予想が当たっていれば彼女は不慮の事故か何かで亡くなっていることになるが、その場合、それについて直接言及することは失礼に値するのだろうか。死者に死因を尋ねたことがないからわからない。

 不貞腐れたように紙面を眺めている女とその記事を交互に見比べつつ、会話の糸口を探す。

 しばし逡巡していると、彼女がこちらの視線に気づいた。そして大きく息を吐き、天を仰ぐように顔を上げる。彼女はしばらくそのまま動かなかったが、最後にはこちらに向き直り、小さく頷いた。




3DCG化した巫女装束の幽霊と一緒に赤れんが庁舎八角塔の歴史を探る動画を作りました!
よかったらご覧ください!

【挿絵表示】

【#自由研究 #Vlog】赤れんが庁舎のアレ、調べてみた!【#北海道 #札幌】
https://youtu.be/pUqAqufqrog
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