それは多分地獄だった。
鍵を閉めた個室の外。
キーキーと甲高い、煩い声。
「ごめんなさい」
助けを求めるような弱々しい声。
あたしは関係ない。
そう言い聞かせて耳を塞ぐ。
耳障りな嗚咽と笑い声、鼻に付く排泄物の匂い。
ここに居合わせたあたしが被害者だ。
居ない振りをしよう。見なかった事にしよう。だってあたしは関係ない。
あたしは悪くない。
☆ ☆ ☆
岡井佳は平たく言うと金持ちの娘だ。
ただ、金持ちの娘である事は関係なく、彼女は小さな頃からかなり変な女の子だったのだろう。
不自然にボーッとしている事が多かったし、あまり人と会話をするのも得意ではなかった。所謂不思議ちゃんとして扱われていたのは言うまでもなく。
幼稚園の時から休みの時間は金魚鉢の金魚を眺めているだけだったし、小学生になったら校庭の池に居た鯉を眺めているだけだった。
要するに友達もいなくて、変な奴。そして金持ち。
否──理由なんてのはどうでも良いのかもしれない。
簡潔に、岡井佳は小さな頃イジメを受けていた。そんな話である。
小学生のソレは可愛い物だったからか、月日やミヒロが居るだけで大きな事にはならなかった。
ただ、中学生になると話は別である。
何が別かというと、中学生にもなると力というモノを持ち始めるからだ。特に、ミヒロが。
岡井佳をイジメていたクラスメイトを、ミヒロがボコボコに殴り倒したという事件が起きる。
イジメは減ったように見えた。誰もボコボコにされたくはないから。
けれど、高校になってくると、ソレはより陰湿になっていく。
バレないような事をする。逆にバレたら困るような事をする。
イジメとはそういう物。
「岡井……佳ちゃん、だっけ? あたし芦屋未鳩。
芦屋未鳩が岡井佳と初めて会話をしたのは、高校二年の夏。その頃の話。
千堂一は誰とでも仲が良かった。
学校で孤立していた岡井佳や東雲ミヒロに声を掛けて友達になろうとしたのが彼からである事は言うまでもないだろう。
芦屋未鳩も、誰とでも仲が良かった。
世渡りが上手いというか、損得を直ぐに判断して、誰と仲良くすれば良いのかが分かる。それが芦屋未鳩という少女を簡単に説明する言葉だ。
「ぁ、えっと……はい」
「変な子」
だから分かる。
この子は深入りしない方が良いタイプの子だ。
誰とでも仲が良いから、うっすらと感じていた彼女の立場。
だから、少し距離を取ろう。
「髪、綺麗ねぇ。サラサラで、お人形さんみたい」
岡井佳は高校の頃、髪が長かった。背中まで伸びる、ハチミツ色の明るい髪。
「……いつも、ミー君に……やってもらってる、から」
「ミー君……? あー、いつも一緒にいる、
ミヒロはある意味有名人だったのを彼女は覚えている。
中学生の時に暴力沙汰で、クラスメイトを何人も病院送りにしたのだとかなんとかで。
「どういう関係?」
後に聞く話だが、二人は小学からの幼馴染らしい。
恐ろしい番犬と、誰とでも仲良くなってクラスでも人気の一が気に掛ける、お金持ちの女の子。
「ふーん」
ある意味、納得が行くパーツだらけだった。
だから、あまり近付かないようにしようと決める。
勿論、
それどころか一が態々連れて来たりする物だから、話す機会は多くなっていった。
「私も『みーちゃん』って呼んでよぉ、佳ちゃん」
「み、未鳩ちゃんは……えーと、みーちゃんの方が、良いの……?」
「
だから、
「──あの子の髪さ、ムカつくよね」
「え、あ、分かるぅ〜……」
自分が損をしない為に。
「そういや芦屋さん、一君とつるんでる時、たまにあの子と話してるよね?」
「あ、ごめん。あたし先生に呼ばれててさ〜。また後で」
自分が悪者にならない為に。
「……みー、ちゃん」
「佳……ちゃん? どうしたの、髪」
汚れだらけで、ぐちゃぐちゃになった、お人形みたいに綺麗だった髪を──
「……どうしよ。ミー君にバレたら……ミー君、怒っちゃう。そしたら、ミー君……学校来れなくなっちゃうかもしれない。ど、どうしよ……どうしよう」
「あたしが切ってあげるわよ、髪。それで、一旦誤魔化してから美容院に連れていってあげる」
「……そっか、切っちゃえば良いんだ。ありがとう、みーちゃん」
「……あぁ、うん。任せなさい」
──私が切った。
今でも思う。
私は上手くやった。敵を作らず、敵にならず、上手く立ち回った。
これで良かった筈。私は何も間違えてない。私は何も悪くない。
時間が経てばイジメなんて無くなっていく。
私は何もしなくて良い。だから、これで良かったんだ。
☆ ☆ ☆
扉を勢いよく開ける。そこには友達が待っていてくれていた。
「おっ邪魔しまーす! 本日の主役が来たわよー」
今は、こうして仲良く暮らせている。
だから、これで良かった筈だ。
私は、間違っていない。