困ったような顔で、マツリと名乗った少女は聞いてくる。
「忘れちゃったんですか?」
「……本当にごめん」
覚えていない。
飯田マツリ。そんな名前に聞き覚えはない。
そもそも彼女の顔を見たのは、記憶の上ではつい先ほど──帰り道での事だ。
「待てよ」
そう思ってから、ヒラタイは一つの可能性に辿り着く。
実は自分の記憶よりも時間が過ぎていて、あの日に弟子にするのを断ってから数ヶ月経っており──その間に弟子になって、そして何処かで頭を打った自分はその記憶を失った。
「──そんなわけ無くて」
慌ててスマホを確認するが、日付は初めてのライブの翌日である。時刻は昼前。帰宅後、朝になっても連絡がないからか、一達から心配するメッセージが何件も来ていた。
「でも、そうなるとやっぱり……俺が君の師匠ってのは変だよ」
何度も頭の中で確認するが、マツリという少女に出会ったのは昨日の夜で間違いない。
けれど、彼女はずっと前から自分の弟子だったと言う。そんな訳がない。
「お、思い出して下さい師匠! 毎日同じ屋根の下で一緒に歌を歌っていたじゃないですか!」
「俺にそんな役得な人生が訪れる訳なくない!?」
「やくとく……?」
これまでの人生、俗に言う非モテの日々を過ごして来たヒラタイは思わず叫んだ。
「とりあえず、皆に連絡返しても良いかな? 心配してると思うから。その後で話を聞くよ」
「ぬぬ……」
この件に関しては一旦保留する事にして、ヒラタイは溜まっていたメッセージに目を向ける。
一やミヒロ達とのグループで『ヒラタイだけこの時間になっても既読付かなくね?』なんて会話が繰り広げられていたり、個人メッセージで『起きてる〜? 大丈夫〜?』と月日から連絡が来ていた。
「『今、目が覚めました。病院のベッドで』『自分でも混乱してるんだけど、ちょっと詳しく説明する前に、とりあえずそんな大した事になってないから安心して欲しい』、と」
メッセージを送ると、一瞬で一から『病院!? 大丈夫か!?』とメッセージが来る。良い友人を持った、と感慨深く感じた。
「むぅ……ちょっと、お手洗いに行ってきます」
「え、ぁ……」
スマホを見ていると、マツリは目を細めて部屋を出ていく。
「……怒らせちゃったかな」
彼女の言う事が本当だった場合、自分は弟子の事を忘れ、その弟子を目の前で放置してスマホを触り出したという状態だ。
普通に最低である。
「──やっほー、太地君。マツリちゃんに聞いたよ。マジ大変だったらしいじゃーん」
「……え、レジ子? また
マツリが部屋を出ていった直ぐ後に、部屋にギャルレジ子が入ってきた。ヒラタイは色々な事が重なって一瞬頭が真っ白になる。
「ソレって何ー? てかマジヤバーい。頭打ってマツリちゃんの事忘れるとかー。マツリちゃん泣いてたよー!」
頬を膨らませて、いつもと比べるとありえないテンションでヒラタイの頭を突っ突くレジ子。
誰だこの化け物は。ミヒロが見たら卒倒するかもしれない。
「ギャルにハマってるのか……」
「──というか、マツリちゃんって言った?」
それよりも。
レジ子の口から出て来た「マツリちゃん」という言葉が耳に引っ掛かる。
自分の記憶では、彼女に会ったのは昨日の事だ。
けれど、ソレなりに付き合いの長いレジ子が彼女の事を知っている素振りを見せている。
こうなると、実はおかしいのは自分なのではないだろうか。ヒラタイは頭を抱えた。
「レジ子、ちょっと良い?」
「れ……じ……こ……ちょっと良い。あー、うん、ちょっと良い。マジで良い」
「マツリちゃんって……俺の何?」
「弟子」
ヒラタイは頭を抱えた。おかしいのは自分なのかもしれない。
「従兄弟が言うんだからマジ間違いじゃなくない!? おかしいのどっちか分かった? お見舞いに来たのだって、マツリちゃんから連絡来たからだし!」
「あぁ……おかしいのは俺なのかも」
マツリ本人だけがそう言うならともかく、レジ子がこう言うのだから本当におかしいのは自分なのだろう。
グループラインで病院の場所を教えるよりも早くレジ子がここに来たのが、何よりもの証拠だ。
マツリはレジ子の事を知っているし、レジ子はマツリの事を知っている。おかしいのは自分。QED。
「……ふふん。じゃ、マジで時間ない時に来たから一旦帰るね! マツリちゃんによろしく!」
「え、早っ」
レジ子は言いながらも部屋から出ていってしまった。
いつもミヒロと一緒なのに、一人で来たと言う事は、ミヒロが何か用事があって、本当に時間がないのに来てくれたのかもしれない。
良い友達を持ったと、ヒラタイは少し嬉しくなる。後で、お礼のメッセージを送っておこう。
「あの……し、師匠」
レジ子が帰って直ぐに、部屋の扉の隙間からマツリが顔を覗かせながら小さく声を漏らした。
「おいで、話をしよう」
ヒラタイは決心を固めて、彼女を手招きする。
「師匠、私は……」
「その師匠って呼ばれるのは何だかこそばゆいけど……レジ子も言ってたし、信じる事にするよ。君の事」
「師匠……! ありがとうございます!」
「うわぁ!?」
抱きついて来る年頃の女の子。
こんな可愛い女の子が俺の事なんて──でも、それは自分の事を認めてくれている一達や彼女に失礼だ。
「ただ、俺は本当に覚えてないんだよね。色々迷惑かけるかもしれないけど、ごめんね」
だから真剣に、彼女と向き合うことにする。
「はい! ありがとうございます、師匠」
安心したような、そんな表情で彼女は笑った。
そんなにも思っていてくれたなんて感じると、やはり嬉しい。
だからこそ、自分が本当に忘れてしまったというなら、変な話だとも思う。
「変な話……か」
ここ最近、変な話は多い。
「夢だったりしてなぁ……」
そう思いながら、一旦グループチャットの返事をする事にした。ふと、再びレジ子の事を思い出す。
「そういえばマツリ……さん?」
「マツリで良いですよ! 師匠!」
「えーと、じゃぁ……マツリちゃん、は……俺の友達とは知り合いなの? レジ子とは知り合いだったみたいだけど」
レジ子と知り合いなら、ミヒロ達とも知り合いだろうか。
「あ、えーと。いえ……従兄弟の女の人だけです、私が知ってるのは」
歯切れ悪く、彼女はそう言った。続けて「師匠が! 内緒にしたいって!」と、言葉が続く。
「なるほど……?」
覚えていないが、なにか事情があったのかもしれない。
自分の事だから、揶揄われたくないとか、どうせそんな理由なのだ。なぜレジ子だけにはバレているのかが分からないが。
「あ、一達お見舞いに来てくれるって。あれ? レジ子もまた来るみたい」
「ふぁぁぁ!?」
「どうしたのマツリちゃん!?」
グループチャットを見て、友達が来る事を言うとマツリは飛び跳ねて頭を抱える。
どうもおかしな様子だが、レジ子以外とは知り合いではないなら、こんな反応もするのかもしれない。
何故秘密にしていたのか気になって来た。
「……大丈夫?」
「だ、だだ、だだだ、大丈夫です! あ、あっと! 師匠! 私、ちょっと飲み物を拾って来ますね! 直ぐに戻りますから!!」
慌てた様子で、マツリは部屋を出ていく。
「記憶がないから何も分からない……」
静かになった部屋で、ヒラタイは唖然として固まっていた。
その部屋の外で。
「や、ヤバいヤバい。何も考えていませんでした……本当にマズいです。どうしようどうしよう」
マツリは、頭を掻いて疼くまる。開いていた窓から吹いた風が、彼女の毛並みを揺さぶった。
「けど、やらなきゃ……。私にしか、出来ない事を、やるって決めたんです、自分で……!」
泳いでいた瞳が、真っ直ぐに前を見る。
「やり通すんです。私なら……出来る筈です!」
病院の廊下に、風で舞った葉っぱが一枚、舞い落ちた。