入院してから三日後。
「今日で退院となりますが、記憶障害は……どうなってますかね?」
「それがうんともすんとも。結局、他にはなんの問題もないんですけどね〜」
三日間様々な検査をしてみたが、体に異常は見つからなかった。
ストレス性の記憶障害なのかもしれない。
それか、その女の子が嘘を言っているのかもしれない。
医者にそう言われたヒラタイは「今は彼女を信じてみようと思います」と答えて、退院の日の夕方を迎える。
「俺の貯金が……。バイト増やしたいなぁ、休んでる間に未鳩さんに代わってもらったお礼もしなきゃ。大学の講義も一日休んじゃったし……」
「師匠、ゲッソリしてますけど……大丈夫ですか?」
荷物を持って隣を歩くマツリが、ヒラタイの顔を覗き込んだ。それを見て彼は、首を横に何度か振ってから、両手で自分の頬を叩く。
「大丈夫。というか、マツリちゃんも本当にありがとうね……。いろいろお世話してくれて」
マツリは入院している間、荷物を持ってきてくれたり、細かな頼み事を聞いてくれたりと、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
こんな優しい女の子が、自分なんかの弟子だったなんて、どうしても信じ切ることが出来ない。
それでもヒラタイが彼女の事を受け入れているのは、自分を騙しても彼女に利点がないと思っているからだろう。
自分は特にお金を持っている訳でもなく、騙してでも弟子になろうとされる程に著名な人間でもない。
マツリが嘘をついていたとして、彼女にメリットがあるとは思えないからだ。
何か事情があるのだろう。今はそう思う事にしていた。
「いえいえ、師匠の頼みならなんでも聞きますよ! 私は、師匠の弟子ですから!」
「あはは……ありがとうね。あー、でも……その……年頃の女の子が男の部屋を漁るのは……やめた方が良いよ?」
「どうしてですか? 何か見られて困る物があったのでしょうか?」
「……下着とか、さ」
「見られて困るんですか?」
「いやぁ……やっぱなんでもないや」
マツリについて少しだけ分かった事がある。
彼女の貞操観念はどうも子供染みているというか、見た目の年相応ではないように思えた。
着替えを持ってきて欲しいと言えば平気で男の下着を手で掴んで持ってくるし、すぐに抱き付いてくるくらいにはスキンシップが多い。
こうなると
親戚の妹みたいな、そういう存在だと思って平常心を保とう。ヒラタイは明鏡止水を心に刻んだ。
「さて、今日からどうするか……」
ライブが金曜日の夜で、今は火曜日の夕方。学校とバイトを休んでしまった分を取り返さないといけないが、とりあえず今日は家でゆっくりしよう。
そう思いながら、数日ぶりに自分の部屋の鍵を開けた。マツリはちゃんと鍵をかけたようである。
「ここで倒れたんだよな……俺。え、なにコレ」
そう思いながら扉を開けた。何故か、部屋が
「あれ? なんかめっちゃ綺麗じゃない?」
特別部屋が汚いという訳ではなかったが、初めてのライブでゴタゴタしていて部屋の中は結構な惨事になっていたのだ。
故に、女の子のマツリに部屋を見られたくなかったというのもあるのだが──
「──もしかして、片付けてくれたの?」
「はい。……あれ? えーと……もしかして、余計でしたか?」
「い、いやいや、そんな。ありがとうありがとう」
どうやら荷物を取ってくるついでに掃除までしてくれたらしい。
冷蔵庫を開けると、賞味期限の近い食材が集められて手前に置いてある。
「本当は
「何故かキッチンの油汚れまで綺麗にされている……恐ろしい。こ、ここまでしなくても良かったんだよ? いや、本当にありがたいんだけど」
「ご迷惑……でしたか?」
「そんな訳なくて」
「なら良かったです! あ、私、料理は出来ませんが……これは作れます!」
そう言って、マツリは緑色のカップ蕎麦を取り出した。ヒラタイが部屋に常備している非常食である。
「師匠は退院したばかりなので、コレを食べるべきです!」
「でも、それ確か一個しかなかったような」
「私は大丈夫ですよ! 二、三日くらいなら、なにも食べなくても生きていけます!」
「どういう生活をしてるの???」
もしかしてこの子は孤児なんじゃないだろうか。そう言えば、家族の話とかを聞いた事がなかった。
なんて事を考えていると、マツリの腹の虫が凄い音を立てて部屋に響かせる。
マツリは目を丸くして、ヒラタイから目を逸らした。
「お腹……減ってる?」
「……ぇ、えと、いえ! 私は大丈夫です! それよりも!」
「夕飯時だし、俺も腹減ったし、何か作るよ。一緒に食べようか」
「えぇ!? そ、そんな! 師匠は座っていてください!」
「世話してくれたお礼させてよ」
両手を上げるマツリを他所に、ヒラタイは冷蔵庫の中から適当に食材を取り出す。
しまってあった親戚にもらったお蕎麦と、冷蔵庫のネギ。お蕎麦を茹でている間に冷凍の天ぷらを温めて、簡単だしを器に注げば、すぐにでも完成。
「はい、雑蕎麦。緑のカップ蕎麦の方が美味しいかもしれないけど……。お口に合わなかったらごめんね」
高校卒業と同時に家を出て約半年。ある程度自炊をしてきたので、ヒラタイもミヒロ程とは言わずとも料理が出来るのだ。
「凄い……師匠、料理まで出来てしまうなんて」
「俺……弟子の君に料理を一切振る舞わなかったんだ」
「……っ、ぁ、えっと! そういえば! 何度か──」
「まぁ、良いや。これからはちゃんと振る舞うようにするよ。ほら、冷めないうちに食べちゃおう」
慌てて目を泳がせているマツリを他所に、ヒラタイは「いただきます」と言っててを合わせる。
「うーん、我ながら良い。……食べて良いよ?」
固まっているマツリを見て、ヒラタイはお蕎麦を啜りながらそう言った。マツリも、少し呆気に取られた顔をしてから、お蕎麦を口に運ぶ。
「美味しい……! 天ぷらも……! 美味しい!」
そうとだけ言って、彼女は無言でお蕎麦を口の中に放り込んだ。余程にお腹が空いていたのだろうか、お蕎麦はあっという間に彼女のお腹の中。
適当に、いつも通り作ったつもりだし、いつもと味が違う訳でもない。
それでも、ここまで美味しそうに食べてもらえると流石に頬が緩む。才能があるのだと勘違いしてしまいそうだ。
「よかったよかった」
「あの……師匠!」
食べ終えて、何かを決心したかのように、彼女はヒラタイの目をまっすぐに見る。
その目はあの日──記憶上は彼女に初めて会った、ライブ終わりの夜道での目と同じだった。
「私に……歌を教えてください」
「この流れで料理じゃないんだもんなぁ……」
「あぇ!? あ、えっと、私は! 師匠の歌に、ですね!」
「良いよ」
「ぇ……」
マツリがまた素っ頓狂な顔になる。表情がコロコロ変わる、とても分かりやすい子だと感じた。
「俺の弟子だったんでしょ? それじゃ、教えるのが普通だし。断る理由ないよ。記憶にはないけど……」
「師匠……!」
本気で喜んでいる。そんな表情に見えた。
「ありがとうございます……!」
「明鏡止水……!」
「師匠……?」
「あ、いや。俺はこの通り明鏡止水の使い手だから良いんだけどさ。女の子がそうやって男に抱きつくのはね、良くないとされているよ」
「そ、そうなんですか……! すみません……!」
「まぁ、俺は明鏡止水の使い手だからね。うん。まぁ、うん……」
多分、自分が記憶喪失だというのは嘘なのだろう。
この女の子とは間違いなく、あの夜に初めて出会った。
けれど、それでも、この子が──マツリが、何か悪意があって自分を騙しているようには見えない。
だから、騙されても良い。今は、そう思う事にする。