岡井佳は大企業、岡井グループの代表取締役である岡井沖の娘である。
故にだが、彼女の父親は滅多に家に帰ってこれない。
それでも無理をして、東京の住宅街にある素朴な家に少しだけでも戻って来る事があった。
「結局遅くなってしまったよ。ただいま、ミヒロ君」
深夜2時。
都内で仕事があり、早く終われば少しだけでも家でゆっくりできる。そんな希望を持って娘に連絡をしても、仕事が忙しくて帰宅が結局こんな時間──なんて事は良くある。
「おかえりなさい。佳はここで寝てます」
ソファーの上で、レジ子を膝枕で寝かしていたミヒロは沖の声に振り返ってそう返事をした。
「待たせちゃったみたいだね……」
「本当はベッドに連れて行こうとしたんですけど……。起きたら起きたで沖さんが帰って来るの待つって」
「困らせちゃったみたいだね。ごめんね、ミヒロ君」
「仕方がないですよ。……おい、起きろレジ子。沖さん帰ってきたぞ」
「ピーマン嫌い」
「熟睡したな……。明日の朝はピーマン出すか」
レジ子の頬を抓るミヒロ。レジ子は起きる気配もなく、夢でピーマンにうなされている。
「沖さん、明日の朝は?」
「五時には出ないといけないから……あと三時間か」
「寝て下さい……」
「いや、起きてるよ。コーヒーでも飲もうかな」
「入れますよ」
「佳ちゃんを起こしちゃ悪いよ」
「っす」
ミヒロの返事に笑いながら、自分のコーヒーを入れてからミヒロの分のホットミルクを持って、沖は向かいのソファーに座った。
「ありがとうございます」
「ライブの映像、見たよ。将来は大スターかな?」
「そんな訳ないでしょ……」
苦笑いを溢すミヒロ。親バカである。
「音楽事務所でも立ち上げてプロデュースしようかな」
「勘弁して下さい」
本気でやりかねないので、ミヒロは真顔で止めた。この人には冗談抜きでそれを簡単に決めてしまえる金がある。
「僕はね、佳ちゃんが幸せになる為ならなんでもするからね」
「なんでもの幅が洒落になってないです」
「でも、ライブ会場のお金くらいならどれだけでも出すんだけど」
「良くないですよ。……一達も、佳の事を金蔓にしたくないって思ってますから。だから、俺もバイトとかした方が良いのかなって」
ミヒロは訳あって、家を出てレジ子の家で暮らしていた。
バイトもしていない大学生の為、生活費は沖に出してもらっていて、少なくないお小遣いも貰ってしまっている。
「ミヒロ君が働いて佳ちゃんの事を頼める人が居なくなるのは困るなぁ」
「俺は家政婦ですか……。いや、確かに目を離すのは無理なんですけど……何をしでかすか分からんし」
「それで雇っているという事にしても良いしね」
「逆らえないんだよな……」
「それじゃ、バイトはなしで。勿論、ミヒロ君の気持ちは尊重するけどね」
コーヒーを飲んで、沖はミヒロの目を真っ直ぐに見た。ミヒロは、この人には逆らえない。逆らう理由もない。
「でも、だからこそ……困った時は相談してよ。どんな力にでもなれるように、僕はこんなクソみたいな生活をしてるんだから」
「本当に休んでください」
「休みたいねー」
屈託のない笑顔で沖は笑う。相当ストレスが溜まっているのかもしれない。
「……パパ?」
「佳ちゃんおはよう。夜更かしは良くないよ」
「でもパパに会えた〜」
「ごめんね、遅れちゃって」
寝起きでいつもよりふわふわしながら、父親に甘えにいく十九歳。それでも、こんな光景が微笑ましいとミヒロは笑った。
「あのね、えーとね、お話ししたい事沢山あるんだけど──あ、でもピーマンが今追いかけて来てるから、逃げなきゃダメなんだった……」
「うーん、寝ようか。やっぱり夜更かしは良くないね」
苦笑いをしながら、沖はレジ子を部屋に連れていく。
「ミヒロ君」
「はい」
「本当に、何か困った事があったら……ちゃんと相談するんだよ」
「……っす」
結局いつもこの人には頭が上がらない。
ちゃんと恩を返す為、レジ子の健康を考えてやはり明日の朝ごはんはピーマンを使おうと決心するミヒロなのであった。
☆ ☆ ☆
マツリは首を横に傾ける。
「バイト……ですか?」
「うん。結構サボっちゃったから頑張らないと。あ、でも、明日は休みで、カラオケの約束は忘れてないから!」
「いえいえ。師匠の私生活の邪魔はしませんよ! でもお仕事ですかぁ……」
「ご飯食べるにはお金が必要だからね……。働かないと生きていけないの……とほほ」
学校に行く前、ヒラタイはマツリに今日の予定を話していた。
授業が終わったらそのままバイト先のスーパーに向かい、帰宅は夜遅くなる。
その間にマツリには一人で過ごしてもらわないと行けないのだが、どうも彼女を一人にするのは心配になる。
「人間って生きるの大変ですよね……」
偶に野生児みたいな事を言うので余計に。
「とにかく、今日は家に居てね!」
「分かりました!」
本当に分かっているのか分からないくらいに元気な返事をするマツリ。
ただ、悪い事はしないと思うので彼女を信用して朝食を取った後に家を出た。
昼食と夜食も軽くだが用意しているので大丈夫だろう。それよりも、食費が倍になったので頑張って働かなければならない。
バイトを増やしたい所だが、それはそれで彼女の面倒を見る時間が減るのが問題だ。
嘘だが、本当に親戚の子供の面倒を見ているような気分にもなってくる。
「とりあえず働かねば……」
学業をそつなくこなし、ヒラタイは勤め先のスーパーに到着した。
入院で休んでいたのをバイトの仲間達も知っているが故に「無理しないで良いですよ」なんて優しい言葉を掛けては貰ったがそれどころではない。
「食費が増えたんだよ……この廃品もって帰りたいくらい。このキャベツとかまだ絶対食べられるよ〜」
「店長に怒られますよ……てかダイエットしたらどうですか……。そんなんだから玄関で転ぶんですよ」
「食べる量が増えた訳じゃないよ!!」
廃棄品を裏手のゴミ箱に捨てて後輩にいびられながら、次はレジの前に立つ。
時刻は夕方、学校や仕事終わりに人々がスーパーに寄ってくる時間だ。
「太地君〜レジにレジ子が来たよ〜。
「それ毎回やるの? あ、良いお肉買ってる」
「レジ子が今朝ピーマンを残さず食べたからご褒美にな」
「赤ちゃんかな?」
レジにレジ子とミヒロがやって来て、ヒラタイは普段通りに仕事をする。ちょと良いお肉の値段は、今の余裕のない彼には眩しい。
「そういえばね、さっき狸が居たんだよ〜。可愛かった。狸エピソードだ〜」
「あー、狸エピソード。可愛くて面白いよねー」
「ネットの流行りか……? 最近多いらしいし。まぁ、普通に廃棄のゴミとか漁ってたんだろ」
「マジかー、それはちょい困るな。あ、7900円ぴったりになりまーす」
「太地君お仕事頑張ってね〜」
ミヒロは電子決済で支払いを済ませ、レジ子と一緒にスーパーを後にした。
この後、家でちょっと良いお肉を食べるのだろう二人を想像すると涎が垂れる。
「狸にゴミ箱漁られてるなら掃除しなきゃなぁ……。帰り遅くなりそう」
廃棄のゴミ箱を荒らされると、翌日とかに匂いが大変な事になっていたりするのだ。しかし、狸も狸で生きていくのに必死なのだろう。
この時期になると狸を見かける事が増えて、SNSなんかでは可愛い小動物の動画やエピソードが多く流れてくるのだ。
しかし、基本的に狸は害獣である。ゴミを漁られたりするし、糞害も問題だ。
「店長に報告だけはしとこうかなぁ」
都会で暮らす狸も大変なのだろう。
けれど、自分も仕事はこなさないといけないので、どうか山に帰って欲しい。そう思うヒラタイなのであった。