消毒液の匂いに鉄の味。
それぞれが鼻腔の奥で冷たく混ざり合う。ゆっくりと瞬きをして、手がシーツの上に投げ出されているのを確認した。手首に巻かれた包帯の白が、天井の光を受けてやけに眩しい。
「起きましたか」
声の主はすぐ近くにいた。逆光で顔が見えない。しかし、見えなくてもはっきりとわかることがある。怒っている。静かな怒りがひしひしと肌を刺す。
「お姉ちゃん」
「言いたいことは山ほどあります。ですが、その前になのはさん達に謝罪をしてください」
「……わかってる」
沈黙が落ちる。何も発しない。何かを口にしてしまえば、言葉は堰を切って止まらなくなる。そういう予感があった。キリエは唇を噛み、目を閉じる。アミティエも視線を合わせることはしなかった。
――重い。
あらゆる感情が、二人の間で渦巻いていた。
やはり言葉は発しない。その代わりに――。
アミティエが膝に置いていた手を上げ、そっと、包帯の巻かれた手を握った。
少しだけ、空気が軽くなっていた。
自動ドアの開く音が、部屋に響いた。
「大丈夫そう?」
そこにはなのはがいた。
キリエが一瞬だけ腰を浮かせる。思わず武器を取ろうとしていた。
「はい。おかげさまで」
代わりにアミティエが答えた。穏やかで、愛想の良い声だった。
なのはがベッドに近づく。その間に念話を飛ばし、キリエが起きたことをジェイルに伝えた。
「何人かここに来る。その後で俺たちを攻撃した理由を話してくれるか?」
「う、うん」
二人の目が合わない。どうもキリエはなのはに苦手意識を持っているようだった。
理由は二つ。
一つ目は居心地の悪さだ。自分が傷つけた相手が、自分の手当てをしてくれたという負い目。
二つ目は恐怖である。キリエにとって初めての経験だった。戦闘とは、死と隣り合わせであり、敗者は生殺与奪権を一方的に握られてしまう。それを骨の髄まで教え込まれていた。
キリエの手が震える。
その様子になのはが気付く。
「り、りんごでも食べる?」
気まずさをどけるようにサイドテーブルの皿を持ち上げた。皮をむき、半月に切り分ける。切り口は瑞々しく、蛍光灯の光を受けて皿の上で小さな光を弾かせていた。りんごの甘い香りが、消毒液の匂いを一時だけ追いやる。
「ありがとう」
受け取る声は小さかった。キリエが一切れを口に運ぶ。咀嚼の音がやけに大きく聞こえる。未だ壁はある。この様子だともう少し時間が必要になりそうだ。なのはもベッドサイドの椅子に腰かけ、一切れ口に運んだ。
「待たせたね」
ぞろぞろと人が入ってくる。ジェイルにユーノ、それに八神家とテスタロッサ一家。病室が一気に狭くなる。空気が人の熱と呼吸で満ちていく。
白衣をまとった男がキリエの前に立つ。柔和な笑みを浮かべているが、その目の奥には解剖学者のような観察の光があった。
「気分はどうかね? 治療を施したが、それほど手を加える必要がなかったよ。いやはや素晴らしい肉体だね。骨密度も心肺機能も我々の何倍と優れている。実に興味深い」
「あ、えっと」
「それと腹部に風穴が開いていたのでね、塞ぐついでに骨を少し削って頂戴したよ。それから血液と骨髄液、脳せき髄液も抽出させてもらった。何、心配はいらない。後遺症は残らないさ」
「え? え? え??」
キリエは見て取れるほどに困惑していた。目が泳ぎ、口が半開きになる。何か言おうとして、言葉が見つからない。
「ちょっと待って。今なんて」
「血液と骨髄液、それから脳せき髄液を頂戴した」
「な、何でそんなこと」
「研究のためだよ。君たちの肉体は非常に興味深い。特に免疫力と細胞分裂速度は目を見張るものがあった。どこまで耐えられるか試したいのだが……」
「パパ」
アリシアが短く制した。ジェイルは口を止め、大げさに両手を広げて見せた。白衣の裾がふわりと揺れる。
「失礼。つい騒いでしまったね。では本題に移ろうか」
先ほどまであった熱意が失せ視線が冷たくなる。温度の消えた眼差しが、キリエの上に落ちる。
「なぜ、八神はやてを襲撃したのかね?」
ユーノが端末を構える。記録を取るつもりだ。
包帯の巻かれた手でシーツを握る。布がきゅっと皺を寄せた。
「故郷を救って、パパの願いを叶えたかった」
声は掠れていた。喉の奥から絞り出すような乾いた響き。フェイトが水差しからコップへ注いで手渡す。キリエはそれを受け、一口だけ飲む。
「パパは頑張ってる。けど、星はどんどん死に近づいてる。パパの体調も年々悪くなっていってる。このままだと、いつか取り返しのつかないことになる。そんなときイリスが言ったの。夜天の書があれば、どうにかできるって」
キリエは俯いたまま、それきり口を閉じた。アミティエの手がそっと妹の背に添えられる。温かくて、優しい手つきだった。
誰も、何も言わなかった。ただ聞いていた。裁くためではなく、理解するために。その沈黙は責めるためのものではなく、言葉を受け止めるための器だった。
「質問をいいかね」
ジェイルが静寂を破りキリエが顔を上げる。
「君は夜天の書は持っていないようだが、今はどちらに?」
「えと、多分、イリスが……て、あれ? イリス?」
キリエの声が宙に浮いた。首を巡らせ、白い壁と医療機器の並ぶ室内を見渡す。イリスの姿はどこにもない。それに対し、すぐそばに立つフェイトが静かに首を振った。
「この部屋にはいないよ。保護した時から、彼女の姿は確認されていない」
事実だけを置くような口調。感情を削ぎ落とした、平坦な響き。だがその目はキリエの様子を伺うかのようだった。何かを見つけようと、あるいは何かを見落とさないように。これは執務官であったときの癖でもあった。金色の瞳が、静かにキリエの表情をなぞる。
キリエの表情に変化はない。喜んでもいなければ、悲しんでもいない。その無表情が、かえって雄弁だった。
計画は継続されている。イリス一人でも動いてくれている。キリエはそのように考えている。フェイトもその変化のない表情から、彼女の心境を読み切っていた。言葉にされない思考が、室内の空気に静かに溶けていく。
「ではもう一つ。夜天の書を手に入れて、どうするつもりだったのかね?」
「それは、夜天の書に記録された魔法で……」
「どのような?」
「それは……」
質問を中断する。キリエは詳しいことは教えられていない。
それを疑問なく信頼できるほど、イリスとキリエの間に信頼関係があったのだろう。
だがジェイルはそう思わない。友情は美しいものであり、非常に利用価値の高い感情であることを知っているからだ。
「失礼」
ジェイルがキリエのおでこに手をかざす。手で熱を測るときのようだった。ひんやりとした指先が、肌に触れるか触れないかの距離で止まる。
「ふむ」
一瞬だけ、魔法を発動する。
それから同じ質問をした。
「キリエ・フローリアン。夜天の書を手に入れて、どうするつもりだったのかね?」
「……あたしは」
父の病気が治る。エルトリアを救うことができる。何も根拠のない話である。突拍子もない話に、キリエが疑問を抱けるようになっていた。
「何で、あたしは」
キリエが頭を抱えていた。指が髪に絡み、くしゃりと握られる。
「洗脳かしら?」
プレシアがジェイルの横に立つ。
「それよりも強力な部類だろうね。プログラムの条件式みたいに思考を制御している。ただ、その分洗脳より解除は簡単だね。コードを破壊してあげればいい」
人の苦悩をよそに、科学者談義に花を咲かせる。
場が混沌とし始めた頃合いにて、ジェイルに通信が入った。
『ドクター、よろしいでしょうか』
お相手はウーノである。
『なんだい』
『フィル・マクスウェルと名乗る方からご連絡が入っています』
『ほう? 繋いでくれるかい』
『かしこまりました』
部屋にある大きめのモニターに男性が映し出される。
『聞こえていますか』
声は穏やかだった。講義をする教授のような、あるいは子を見守る親のような、柔らかな抑揚だ。
『お初にお目にかかる。フィル・マクスウェルと申します。失礼ですがお名前を頂戴しても?』
「ジェイル・スカリエッティ。しがない研究者さ」
『おお! やはり貴方でしたか。こうして話す機会が得られるとは、何とも光栄なことです』
画面の向こうで男が微笑む。顔には知性と穏やかさが同居していた。
「して、フィル・マクスウェル。この通信の要件は」
ジェイルに警戒心はない。むしろ楽しんでいることを悟られないように感情を抑えようとしていた。その口元には薄い笑みの気配さえある。
『私と取引をしていただけませんか』
ジェイルの口角が上がりそうになる。それを寸前で留め、彼は軽く顎を引いた。
「続けてくれたまえ」
『この星をいただきたい。つきましては、この星より退去していただけないかと』
二人の視線が交差する。
「何のために?」
『私はこの星を実験場にしたい。資源が豊富にあり、ここは研究を行うには最適な場所です。どうにかお譲りいただけないでしょうか』
「知っているとは思うが、地球に関して私に所有権があるわけではない」
『もちろん知っています』
「ならば好きにすればよいのでは?」
『またまた――貴方ほどの人が私の懸念点に気付いていないわけがない』
マクスウェルが視線をずらし、なのはを見る。
『そこの彼を説得して欲しいのです。彼がいてはこの星の侵攻を行えない』
「なるほど、では彼と直接交渉するといい。それと一つ、君は勘違いしていることがある」
言葉を切る。一拍の間。
ジェイルは振り返りなのはを見た。少年らしい瞳が、きょとんと瞬いている。
「こちら側の最終決定権は私にはない。決めるのは我らがリーダー。高町なのは君だ」
なのはが目を丸くし、口を大きく開ける。鳩が豆鉄砲を食ったような、という比喩がこれほど似合う表情もない。
「……は?」
何を言っているのだと言わんばかりに、ジェイルを凝視する。その視線は明確に抗議の色を帯びていた。画面の向こうで、男の目の色が微かに変わる。値踏みするような、あるいは興味を覚えたような様子だ。
「交渉するのであれば、彼にするといい。私はあくまでなのは君の相談役に過ぎないからね」
『なるほど。では改めて。高町なのは君。私の侵攻に関して、手出しをしないと約束していただけませんか』
なのはは一瞬ジェイルを見て、それから画面を見た。小さくため息をつく。こればかりは年相応とは言えず、苦労人としての貫禄があった。
「無理だな」
短い拒絶。迷いのない声。
ここで、マクスウェルが取引材料のカードを切る。
『応じていただければ、それ相応のお礼はします。地球では兵器の実験をする予定ですが、開発が完了しましたら優先的に特別価格にて取引もさせていただきます。もちろん貴方の家族や友人、大切な人は丁重に扱います。決して不利益を与えないと約束しましょう』
営業マンさながらにメリットを提示する。しかし、なのはが喜ぶような内容ではない。元々ジェイル向けに用意された取引内容だ。
マクスウェルもジェイルが反応しないか確認するが、特にこれといった変化は見受けられない。
「答えは同じだ」
『……ドクタースカリエッティ。貴方も答えは同じですか?』
「もちろんだとも。私の家族がそう決めたのであれば、それに従うまでのことさ」
『そうですか。それでは心苦しい選択にはなりますが、戦争をするしかありませんね』
その言葉に動揺を見せるものはいなかった。
ここに覚悟を持ち合わせないものは誰一人いない。
何よりなのはがいる。それだけで負ける気がしなかった。
『ドクタースカリエッティ。貴方は研究のためであれば手段や倫理を問わない方かと思っていました』
「ほう?」
『少し残念に思います。研究以外のことを優先させるなど……二流もいいところです』
「そうかね? 失望させたのならば申し訳ない」
反論すらしないジェイルに、マクスウェルは不愉快な感情を抱いたようだった。眉間の皺が、ほんの僅かに深くなる。
『矜持はないのですか?』
「矜持? そんな大層なもの、この世に生を受けてから持ち合わせたことがない」
『では貴方は何のために研究者として生きているのですか』
「欲さ」
あまりにもあっさりとした答えだった。ジェイルは笑っている。心底愉快そうに。その笑みは、相手を嘲るものではなく自分の内側から湧き上がるものに抗いきれない、そんな種類の笑みだった。
「君は紙ヒコーキを作りたいと思うかい?」
『……話が見えないのですが』
「私は作りたい。今すぐ何万と折って、世界中に飛ばしてみたい。紙ヒコーキが空一面に飛んでいたら、さぞ美しいことだろう」
『それに何の意味があるのですか?』
「君が求めるような意味はないだろう。単に私がそうしたいからする。それだけさ」
マクスウェルは沈黙した。画面越しに彼の思考が伝わってくるようだった。理解できないという困惑と、偉大な研究者の言葉の続きに興味がある、といった感情が混ざりあっていた。
「意味を求めることは悪いことではない。君の考えも間違っていないし、私が否定する道理もない。しかしだ、私個人に限って言えば必ずしも合理的な意味は必要ないのだよ」
ジェイルの声が少しずつ熱を帯びていく。それはゆっくりと沸騰する湯のような、静かな昂りだった。
「研究者として二流? 矜持がない? そんなことどうだっていい。私はただ、全てが欲しい! 飽くなきこの欲望を! 渇くことのないこの情念を! それらが私を奴隷のように動かし、ひたすらに狂気へと導いていく」
『それが研究をする理由であると?』
「そうだとも。それに、私にとって研究が欲望の吐き出し先として都合が良かったという理由もある」
『わからないですね。そこまでひたむきなのであれば、尚のこと仲間を気遣う必要がない。むしろ邪魔なのでは』
「全てが欲しい。そう伝えたはずだ。私はなのは君が何で喜ぶのか知りたい。何で悲しむのか知りたい。どうして泣くのかを知りたい。何もかもを知りたいのだよ」
ジェイルの視線がマクスウェルを貫く。その瞳には、底の見えない渇望が揺れていた。それは狂気と紙一重の、純粋な欲望であった。
「もちろん君の実験にも興味がある。紙ヒコーキを作るのと同じくらいにね。おっと、気を悪くしたのなら申し訳ない。あらゆるすべてが私の欲望の対象だ。優劣をつけにくいことはご容赦いただきたい」
マクスウェルの表情に変化はない。だがわかりやすいほどに機嫌はよくなかった。
「どのような実験をするのだろうか。おそらくこの星の人間にとって良くないことなのだろう。一体どれだけの不幸が降り注ぐことになることか。だが知りたい。可能であれば手伝いたい。早く実験とやらを見せてくれないだろうか! いや駄目だ。それではなのは君の家族に被害が出る。大切な人が傷ついてしまう。そうなれば私はなのは君に嫌われてしまうだろう。二度と遊んでもらえないかもしれない。それは嫌だ。まだまだたくさん遊びたい。どうしたらいい。どうしたらいいのだ! 君の実験も見たい! なのは君とも遊びたい! この無限に溢れ出る欲望はどこにぶければいい! そうだ! いいことを思いついた! 皆で紙ヒコーキを作ろう! それがいい! いかがだろうか、ドクターマクスウェル!!」
狂っていた。
狂ってはいる。しかし彼は本気である。紙ヒコーキの話も、全てが欲しいという言葉も、全てが本気である。そして、その本気が狂気と隣り合わせであることを本人だけが気にしていなかった。
ハイになって意識が宇宙にトンでいるジェイル。
なのはは思った。また発作が出た。
アリシアは思った。やるなら人の見えないところでしてほしい。
なのはが小さくため息をついた。諦めにも似た、しかしどこか温かい響きを含んだため息だった。
「失礼。つい熱が入ってしまった。ドクターマクスウェル。互いの意思は確認できた。ということでよろしいかな?」
『そうですね。これ以上お聞きしたいこともありません』
「ふむ。では後ほど」
モニターが暗くなる。
部屋に残ったのは、しんと静まりかえった空気とそれぞれの胸の内に灯った小さな火だった。
それからもう一つ。
ヴィータがジェイルを指差して言った。
「おい、アイツヤベーぞ」
「しっ!」
シャマルがヴィータの口を閉じる。
指差された本人は全く気にすることなく、どこ吹く風であった。
次回:11月7日