ある初夏の朝。いつものように執務室に入り込んできた
一瞬、よもやストレスか病気かと思ったが何のことはない。時期的にはもう冬毛が抜ける頃合い――つまりは換毛期である。
「もうそんな時期か」
「もふ」
ここのところ忙しすぎてあまり長く構ってやれなかったからな……この分だとタヌキ小屋は大変なことになっているに違いない。
そう思いつつシュネをひと撫ですると、やはりごっそりと手に毛がついてきた。
……まあ、なんだ。以前から言ってる通り、この抜け毛を使って特産品を作ることができるのだし、よしとしよう。うん。
それとなく作っておいた毛玉入れに抜けた毛を入れてから、俺はシュネを抱え上げてタヌキ小屋に向かうことにした。
「あの、レスター様。全身毛まみれですが大丈夫ですか……?」
「問題ない」
そうして部屋を出たところで、警備にあたっていたクリスから困惑されてしまった。
気まぐれにシュネが身を捩ったり腕から抜け出して肩やら首やらを移動したりするので、どうしても全身に毛が貼り付いてしまうのだった。
……それだけ懐かれていると考えると嬉しいことだが、ちょっと動きづらいし鼻もむずむずするのは勘弁してほしい。
ともあれ、どうにかこうにかクリスと二人で小屋に向かったところ、いつものように盛大に歓迎を受けることになった。
「あわあわわわわ」
なでますか? ごはんですか? とばかりにわちゃわちゃと駆け寄ってくる毛玉たち。そして換毛期ゆえに舞い散る毛、毛、毛。俺はこのままでは毛玉になってしまう気がする。
クリスは悪意ゼロのタヌキたちにどう対処するべきかと珍しくあわあわしていた。それでも無双の能力は健在である。じゃれついてくるタヌキたちを適度にひょいひょいと手でいなしていた。
「へぶしっ」
「ふも」
流石に我慢しきれずに小さなくしゃみが出てしまい、シュネが腕の中から抜け出した。
二人で来たのは失敗だったかな……と思わなくもないが、朝早い時間帯で他の面々に迷惑をかけるわけにもいかない。
とりあえず当のシュネからブラッシングと毛の採取を……と思ったところで、その視線がまるで別の場所に向かっていることに気がついた。
「どうした?」
「ぐぅ」
見れば、珍しくこちらに飛びついてくる様子のない雨タヌキが一頭いる。よもや病気かケガでもしてしまったのだろうか? と不安を抱きながら近付いてみると、なんとなく他の雨タヌキたちよりもふっくらしているような印象がある。
太ましいというか……しかし、太ってしまってるだけなら大した問題でもないだろう。雨タヌキたちは基本、そういうのは気にせずにお気楽なタチだ。食べ物だって、俺からおやつをもらったのにギルドの食堂に行ってもう一度おやつを貰うくらい食欲旺盛だ。ちょっと太るくらいは御愛嬌である。
しかし動けないというのは珍しい。そう思って全身を撫でてみたところ、俺はそこではじめて違和感の正体に気がついた。
「クリス?」
「あ、はい、何でしょう」
恐る恐る問いかけると、クリスはどうやら正気を取り戻したらしく、他の雨タヌキたちを捕まえてブラッシングと毛の採取を始めていた。
始めたばかりで頼み事するのも正直気が引けるが、しかしこればっかりはなぁ……。
「すまない。早めにパトリシアさんを呼んできてくれるか。清潔な布と水を持ってくるよう言ってくれれば多分伝わる」
「はい。しかし急になぜ?」
「えっと……この子、多分妊娠してる」
「……は!?」
タヌキの繁殖期はだいたい春から初夏。ふた月ほどの妊娠期間を経て、数頭を一度に生む。
魔獣化しているとはいえ根幹はやはりタヌキだ。雨タヌキの生態もそれを踏襲していると考えてまず間違いないだろうし……ちょうど今、そういうシーズンだからなぁ……。
「……胎動を感じる。下手したら数日中に生まれるかも」
「えぇぇ!?」
百戦錬磨、一騎当千のクリスも動物の妊娠出産に立ち会ったことは無いらしい。普段なら絶対に聞くことは無いだろうパニックの声が小屋に響いた。
思わぬ人物が思わぬ声を上げたことで、雨タヌキたちもちょっと驚いている様子だ。クリスは……なんというか普段、いつも冷静で寡黙なところばかり見せているからな。
俺もちょっとビックリしてる。
「慌てなくていい。生まれるとしても今すぐじゃないだろうから」
「あ、ああ、それは……そうですね。そうですよね?」
「……多分」
苦しそうにしているわけでもないし、動きづらそうにはしているがまだ出産の兆候は無い……はず。
そこまで具体的に知識が無いから何とも言えないが、確か犬だったら床を引っ掻いたり落ち着き無く動き回ったりするはずだ。
問題は雨タヌキという種がのんびり屋の気質が強く、出産間際でも慌てたりしないという可能性が否定できない部分で……。
まあ、いずれにせよお産のためにはそれ用のシェルターのようなものが必要になったはずだ。言えば多分パトリシアさんなら分かってくれるだろう。
「というわけだから、頼む」
「お、お任せください」
クリスが屋敷に駆けていくのを見送ると、俺は再び妊娠している雨タヌキの様子を観察することにした。
体の調子が悪いようには見えないが、これは魔獣としての頑丈さゆえのことだろうか。
「ぼふ」
並外れてのんきなだけかもしれない。
まるで表情が変わらないし態度も変わらない。どうしよう。普通の動物なら通じるはずの常識がほとんど通じない。流石魔獣と言うべきだろうか。
しかし、だとしても……だ。これ一匹で済む話か?
「整列」
「ふぼ」
「もふ」
号令をかけて整列させると、目に見えて分かる程度に何匹かの足取りが重い。腹を庇っているような、重たそうにしているようなそんな雰囲気を感じる。
時期的に……ありえなくはないんだよな。そもそも1頭が既に出産目前の状態ってことは、別に出産目前でなくとも妊娠はしている状態だってありうる。
考えてみると俺、特に気にせずにオスメス分けずに小屋に入れてたからその辺は野放図なんだよな……。
「失礼致します」
そうして頭を悩ませていると、少し変わった作りの木箱を持ってきたパトリシアさんがクリスと共に入室してきた。
「産箱をお持ちしました。どのような状態ですか?」
「ありがとう。まだそんなに差し迫った状態じゃないよ。ただ……」
「はい」
「見る限り、他にも妊娠していそうな雨タヌキが何匹かいる。産箱もひと箱じゃ足りないかもしれない」
「時期でございますからね」
繁殖期だからな。
産箱。一般的には犬や猫が安心して出産できるようにするためのシェルターだ。巣穴の環境を模すために暗く、狭めに作られている。
パトリシアさんの持ってきてくれたものは内側には窪みがあり、赤ん坊が収まるようにできている。これがあることで寝返りなどで赤ん坊を押しつぶしてしまうような事故を防ぐ役割も期待できるだろう。
雨タヌキは犬や猫とは違うが、生態としては似通った部分がある。これもきっと役立ってくれるはずだ。
「では、工房にお願いして増産していただきましょう」
「頼む。俺たちは妊娠してる雨タヌキを特定しよう。クリス」
「はっ」
さっきは少しパニックになってしまったが、いざやることが定まれば切り替えは早い。クリスはその場で整列した雨タヌキたちをパパッと分別して見せた。
雨タヌキたちの数はおおよそ30頭。メスはその半分で、その中から探していく形になるのでそれほど難しいことはないだろう。
で、結果を言えばシュネを除く14頭中7頭が妊娠中ということが分かった。思えば1年間安全な場所で過ごして腹も満ちれば、ちゃんとそこに根付いていこうという意欲も湧くものか。
「……現状は7頭か」
「思ったよりも少ないようですね」
「少ない? 多いではなく、か?」
「ええ。これだけ安定した環境下であれば、気付いたら全員つがいになっていたということもありえないとは言い切れませんので」
「それは確かに……」
パトリシアさんの推測は若干行きすぎな気もするが、あるいはと俺も考えてた未来の一つではある。
ただ、いずれは似たようなことは危惧しておかないといけないのは事実だ。雨タヌキだけじゃなく、花フクロウだって繁殖期がある。去年までなら生活に慣れるまでは……という言い訳もきいたが、今年からはバンバン増えていって……あまり増えすぎても困るところなんだよなぁ……。
まあ、そういう危惧は今はしないでおくとしよう。将来的にどうこうなる可能性があるにしても、まずは子供の誕生を祝う方が先だ。
そう思って一息ついていると、外からまるで列車の如き勢いで走ってくるピンク色の影があった。
「妊娠出産と聞いて!!」
「雨タヌキたちの話だから帰っていいぞ」
「――それはそれで!!」
「見境なしかよ」
今日も俺たちの妹分は平常運行である。