まずいことになった。
何がまずいってクリスのことだ。
いや別にクリスが何か悪いことをしたわけではない。しいて言えば俺の認識の問題だ。
クリスは情緒の未発達具合に反して、肉体的な発育がすこぶる良い。道行く村人が思わず振り返り、リンデが「でっ……」と言いかけてしまうほどだ。
だというのにあのセラフィマさんに匹敵しかねないほどに無垢な上に忠実。俺も貴族としての責務を念頭に置いていなければガン見していたかもしれない。
普段はクリスも軍装風の服をしっかり着込んでいるからあまり目立たないようになっているんだが……水着である。
俺の本能よ。頼むから大人しくしていてくれ。
普段から我慢我慢の連続だしいつまで経っても我慢の連続だし……あれ、解放できる瞬間が無いな……。
……ともかく、重要なのは変に情けないところを見せないことだ。クリスの忠誠を疑うわけではないが、主君の情けない姿なんてなるべく見たくないだろう。
夕刻。普段はこのくらいの時間からプールは立入禁止にしているのだが、今日は特例的に一部だけ開放してクリスを待っていた。
俺は……まあごく普通のトランクスタイプの水着だ。古傷は適当に上着を羽織って隠している。
「お待たせしました……」
微妙に心の準備ができるかできないかという頃合いで、準備ができたらしいクリスがこっそりとやってきた。
その服は……やっぱり普段と違い、水着のようだ。いつもよりも肌面積が大きい。
「いや、別に待ってない」
「リンデがどうしてもと言って着せてくるので……」
唯一幸いなのは、水着の上部がハイネックタイプになっていて胸が露出していないことだろうか。
リンデのことだからもっと露出度の高いエグめのやつ着せてきそうだと思ったんだが……選び方が絶妙だな。本人が嫌がらない範囲、かつ露出度は低くなく、それでいて絶妙に……こう、強調されて……。
「ふん゛!」
「何故ご自分の頬を張ったのですか!?」
「ぐぉ……気にしないでくれ」
去れ煩悩。俺の矜持はそれほど安くないぞ。信頼に報いるのに邪念は要らない。
頑張れ俺の頬。頑張れ俺の脳。あと何回衝撃が行くか分からないぞ。
「お、お見苦しいものを見せたかもしれません……」
「いや、問題ない。どこに出しても恥ずかしくない自慢の従者だ」
「そ、そうですか?」
いや、この言い方も言い方で少し変じゃないか?
……言っちゃったもんはしょうがない。納得してるようだしとりあえずこれでよしとしておこう。
「時間もあまり無いし早速始めよう。準備はいいか?」
「はい。お願いします」
「じゃあ手を引いてるから、まずは顔を水につけて……」
「……流石に水に顔をつけるくらいはできます」
「それもそうか」
じゃないと風呂に入ることも難しくなるだろうしな。
というかそこに関してはリンデだってできているし、問題はそこではないのだろう。
「どこまでできるんだ?」
「泳ぐことだけできません」
「……?」
どういうこっちゃ。
いや、クリスの説明が拙いのはいつものことか。状況を確認するには聞き取りよりも実践だな。
「すまない。ちょっとうまく飲み込めないから試しにやってみよう」
「承知しました。では――」
軽く息を吸い込み、水に顔をつける。そして体を投げ出すと――俺が握っている手以外の全身がそのまま沈んでいった。
足をばたつかせるが本人が浮いてくる様子がない。息を吐き出す時の泡ばかりが浮いてくる。
何で……?
「ぷはっ!」
「ど、どういうことだ……? 何で浮いてこないんだ……?」
「はあ、それが浮かないのではなく……浮けないのです。どういうわけか」
「浮けない?」
たまにいる、鍛えすぎて体脂肪がほとんど無くなってしまったせいで沈んでしまう人……みたいな?
いや、しかし脂肪はその……あるんだ。流石にアレ全部大胸筋というわけじゃないだろ。ないよな?
「説明しよう!」
「!?」
そんな風に首をひねっていると、突如としてマリーの声が響き、バシャリと水柱が立った。
それから数秒ほどが経ち、俺とクリスの間から顔を出したマリーはまさに疲労困憊という様子だった。
「う……腕の力だけで泳ぐもんじゃないやこれ……助けて……」
「いきなり割り込んできた上に何をしているんだあなたは!?」
「あと眼鏡吹き飛んじゃった……」
「クリス、マリーを支えてやってくれ」
「は……」
釈然としない様子ながらも頷いたクリスにマリーを任せ、俺はひと潜りして眼鏡を回収してきた。
流石に足の動かないマリーをずっと水中にいさせるわけにもいかない。とりあえずプールサイドに座らせることで、そこでようやくひと息ついた。
「さて、とりあえずレスターはボクに何か言うことがあるんじゃないかな? ん?」
「俺たちがいたからいいようなものの、急に飛び込むような危ない真似はやめろ」
「え、あ、ごめん」
こればっかりは若干マジである。
今でもマリーは足が動かない。その辺は魔法である程度カバーできるとはいえ、溺れている時のような混乱した状況でとっさにやれるかは別の話だ。
実際にマリーが言ってほしいことはこれじゃないことは分かっているが、先にこれだけは注意しておかなければならない。
「いやホラ他にもっとさ」
「はいはい似合ってる似合ってる」
「もっと真面目に言って!」
「ならもっとマトモな状況で言わせてくれよ」
何が悲しくてノリで飛び込んで溺れかけた婚約者に水着似合ってるなんてマジなトーンで言わなきゃなんねえんだよ。
せめてもっと普通に登場してくれよ。
「……あの、説明は」
「ああ、そうだった。説明だったね」
こほんとわざとらしく咳払いをして、マリーは指を一本立てた。
「密度の問題だよ」
「密度?」
「そ。人間の体は水より密度が小さいから浮くんだよ。水を1とすると人間が0.98くらいだったかな。正確な話をするともっと長くなるけど、今は置いとくね」
人体は肺に空気があるか無いかによっても密度が変わるそうだ。息を思い切り吐くと沈みやすくなるのはそのせいなのだとか。
もっとも、今はそこはあまり関係ない話だから触れないようだ。
「で、クリスは……っていうかキメラは基本、巨大な質量を凝縮してるからこの密度が10にも20にもなってるんだよ」
「……そういえば私はそうだったな」
どうやら今の今までそのことを忘れていたようだ。
ここのところ獣化する必要無かったから俺も大概忘れてるが、言われて考えてみるとそうだったな……。
「鉄の塊を水に投げ込んだら沈むでしょ。そんな感じ」
「しかし……船は鉄の塊なのに沈まないぞ」
「クリスのくせに小賢しいことを考えるね」
「くせにとか言うな」
せめて目の付け所が良いとか言え。
……とはいえ世の中そういうもん、で済ませる人も多いからな。ここのところを理屈で理解させられると納得しやすいことだろう。
じゃあ、とマリーはまず手元で小さな鉄の塊を生成した。
「これを水に入れるとどうなると思う?」
「沈む」
「だよね。じゃ、形を変えてみようか。これを船の形にすると……」
「……浮かんだな」
目の前で実践される光景に、クリスは首を傾げた。
質量は変わらず、ただ形が変わっただけだというのに水に浮かぶ――そのことが不思議でならないようだ。
……こういうこと学ぶ前に亡くなったんだろうなぁと思うと少し悲しくなるが、ともあれこれは簡単だ。
「実はこれ、中身スカスカでほとんど空気なんだよね。だから水の上に浮くんだよ。この『中身』の有無が密度。で、クリスは船みたいに体の形変えられる?」
「それは……無理だ」
「だからどうしたって沈んじゃうわけ。これはクリスもリンちゃんも同じだよ」
リンデは巨竜のキメラだからクリスよりも密度は相当大きいだろうな。となると確実に沈んでしまうだろう。
……そう考えると少し不憫だな。あいつ海に行くの色々と楽しみにしていただろうに。
いや、水着の男女を見て妄想に耽るだけなら別に泳げる必要は無いのか……?
「だとすると、レスター様にお願いしたのは……」
「努力の方向を間違ってたね」
「うぅ……も、申し訳ありません……」
「いいさ。たまには頼られて少し嬉しかったし」
「ボクにもフォローちょうだい」
「俺たちだけじゃいつまでも堂々巡りになるだけだっただろうから説明してくれて助かった」
「ぬふん」
しかしなぁ……こうなるとどうしたものか。
結局のところ、クリスが泳げるようになるというのは単純な努力でどうにかなることじゃないし、俺にもしてやれることは大して無い。
それこそ本当に水上を走ってもらうくらいしか……あ、いや待てよ。努力の方向が違う、ということは……。
「で……それは魔法でどうにかなることって考えで合ってるか?」
「お、流石鋭いねレスター」
「……え?」
「さっき言ったでしょ、努力の方向を間違ったって。物理でどうにかならないことなら魔法だよ」
「なるほど」
「それこそクリスって風の魔法とか得意でしょ。体の周りに空気の層を重ねたら行けるんじゃないかな?」
「それなら私にもできそうだ。やってみよう」
「そんなに簡単にできるものなのか?」
「……うーん」
まあできてもいいんじゃない? と若干の諦観と共にマリーは苦笑いで流した。
クリスは氷と毒の魔力適性以外に、風の魔法を得意としている。恐らくは生前、本来の魔力適性が風のそれだったのだろう。
……というところまで推測はしても言葉にはしない。まだ触れられたがらないだろうしな。
ともあれ、クリスはその場でいくつかの術式を刻んで再びプールに入った。先ほどと異なり、重量感はあまり感じられない……が。
「……! 今度は浮きました!」
「あ、ああ、うん。浮いたな……」
「……う、うん」
……浮いて……はいるんだが……空気の層がドチャクソに反応して水を弾き飛ばしてるから、結局空気の層を使って浮いているような状態になってるんだよな……。
力技という意味では水に沈む前に足を上げて走ってるのとそう変わらないような気がするんだが……。
「やりましたレスター様! これでちゃんと泳げます!」
「……あ、ああ、そうだな……」
「ちゃんと?」
「…………」
……まあ、本人が喜んでるならこれでいい……のか……?
指摘するとしても今すぐ水を差すような真似はしない方がいいか。動き自体は様になってるし、あんなに無邪気に喜ばれると……なぁ……。