こちら山海経情報統制部。当方に叛意なし。 作:息抜きのもなか
エデン条約調印式の後処理が一段落し、山海経に部員たちと共に戻ってきたシラセは、以前よりも精力的に業務に取り組むようになっていた。
トリニティで見てきたものは被害状況だけではない。
ミレニアムの最新技術に頼らない方式での近代化、あるいは伝統的な街並みや文化的価値のある景観を維持した状態での最新技術の導入など、実際の運用という意味合いではこれ以上ないお手本であった。
無論、問題点もいくらか顔を出していたが、それも実際に運用して初めて見えてくるものだ。自身が懸念していなかった部分で課題が隠れていることに気が付いたり、逆にシラセの懸念していた材料が思ったよりも容易に解決できる手法が使われていたり、山海経で吸収できそうな要素が随所に認められた今回の訪問は当初予定していた以上の収穫があったと言えるだろう。
「シラセ、トリニティに行っていたって聞いたけど、大丈夫だった?」
「うん、実はエデン条約の件で視察に行っててね。ついでにいろいろ見てきたんだ。そこで玄武商会にお願いがあって――」
シラセがトリニティで感心したのは、ネットワークの安定性だ。
山海経も建物内に設置された有線とルーターからのWi-fiを使えば問題ない状態ではあるのだが、街中での電波状況があまりよろしくない。それは観光に来た生徒たちが調べ物をしたり道を調べたりする際に大きく影響し、旅の楽しみを阻害する可能性がある。
どんなに店がよかろうと、どんなに歴史的価値が高かろうと、行くまでが面倒だった、辿り着くのに苦労した、そういった負の記憶というのはリピート率に直結してしまうものだ。電波が悪いからあんまり行きたくない、なんてことになったら目も当てられない。
トリニティはその点のストレスはほとんど感じられなかった。位置情報も正確だし、どこにいても検索がすぐに動く。決済も心なしか早く感じたものだ。
「キサキ先輩も多分、もう少し山海経を開いて行こうとしてるところがあるからさ、それに先立って環境の整備はしておこうかなって」
「なるほど、それを情報統制部でやると角が立つから、うちが矢面に立ってほしいってことだね」
「流石ルミ先輩、話が早いね」
玄龍門と対立構造があるのは情報統制部も玄武商会も変わらないのだが、情報統制部は外部的には玄龍門の下部組織として見られているのである。玄龍門の意向から離れた行動をするのには限度があるのだ。
その点、対立構造が極まっている玄武商会であればトップ同士が友人同士とはいえ無茶が効く。
それに加えて山海経内でも電波問題は困っている生徒がいるので、そこを詰めればゴリ押せないこともないのだ。玄龍門がちゃんと整備しないから自分たちがやっているんだ、というカードにもなる。
そこをルミも理解しているのか、シラセに対してメリットが何かを問うような真似はしない。
しかし彼女は思うところがあったのか、シラセに対して一つ問いを投げる。
「ねえシラセ、別にこれって情報統制部でやってもいいんじゃないの?」
「……と言うと?」
「いや、キサキ相手ならシラセでもちゃんと理由詰めれば大丈夫じゃないんかなって思ってさ。確かにちょっと玄龍門の不興は買うかもしれないけど、あたしたちに頼むほどのことでもない気がするんだよ」
ルミの言うことはもっともだった。
玄武商会が理論武装して通用するのであれば、それは情報統制部とて同じこと。ましてや通信分野のことであるならば尚のことである。
シラセは悪戯がバレたときのように頬を緩め、その計画を口にする。
「僕はさ、ミレニアムとの技術交換会をやろうと思ってるんだよ」
「ミレニアムと? 今だって結構ミレニアムの技術は使ってるでしょ?」
「そ、でも簡単には納得してくれないから、説得材料が欲しいんだ」
そこまで聞いて、ルミも今回の依頼がその材料にあたる話になるのだと気が付いた。
まずはお祭りや外の生徒が観光に使いそうな部分のみに限定して玄武商会に整備してもらい、このままだと広報部の権威に傷がつくと声を上げて全地域に導入するための技術交換会を行う。これは言わばそのための布石なのである。
「なるほど。その場合は技術交換会の内容はあたしたちにも共有してもらえるってことでいいんだよね?」
「そこはもちろん。玄龍門と
「驚いた。そんな大規模なものにするつもりなのかい?」
「玄龍門の言質を取るんだよ。わざわざ面倒なことをするんだから、観光案内なんかも加えて大規模な交流会にしてしまうつもりさ」
ついでに私のガジェット類も隠さなくて良くなるようにガジェット販売会もやってもらうかな。
そんなことを宣いながら笑うシラセの表情が随分と以前とは違う色を宿していたのを見て、ルミはその耳をピンと立て瞠目する。
ルミの思い違いではなければ、それは以前のシラセにはなかったものが混じっている。それは以前の彼女ならば絶対に認めようとしなかったもの。頑なだった彼女はいつの間にその認識を改めたのか、その理由に荒療治以外の答えを見つけられず、ルミは彼女が経験したであろう何かに対して身震いする。
それぐらい、代情シラセが山海経の生徒の可能性を認めるというのはあり得ないことなのだ。
「んー、わかった。ちょっと弱いけど、可愛い後輩の頼みだしね。納得してあげようかな。実際に山海経の電波状況が改善したら嬉しいのは間違いないしね」
それは彼女の近くで一度でも彼女の地雷を踏んだことがある人間ならば誰しもが知ることで。
だからこそ、ルミは受け入れるしかない。
聞けるわけがない。代情シラセという存在の根幹を揺るがす何かがあったことは間違いないのに、それを聞くこと自体が彼女を深く傷つける可能性を有しているのだから。
しかしシラセとて伊達に山海経で組織の頭として生きてきた訳ではない。対面している人間の所作を見咎めることなど造作もないことで、ルミが何かを感じ取ったことを悟った彼女は持参した鞄から一つのリーフレットを取り出した。
「これ、前にミレニアムに行ったときに向こうの料理研究部が出していたものなんだけどさ」
そう言ってルミに対してずいっと押し付けたのは、いつかシラセがミレニアムEXPOに行ったときに貰ってきた担々麺のレシピである。
ミレニアムの生徒向けに調整された辛さ控えめの味付け。
それは現状も観光客向けの少し控えめに調整した料理を提供しながらも、なかなか思うような調整ができていない玄武商会にとって模範解答のような代物である。それは観光の生徒向けでもあるが、山海経内にも少なからず存在している辛さに弱い生徒たちへの救済切符でもある。
ミレニアムEXPOに行った話は、ルミとシラセの仲であるが故に
それにも拘らずそんなものを今このタイミングで出してくるということは、それはどこかで自分との交渉に有用だと判断して温存していたということに他ならない。それは少なくとも辛いもの好きであるシラセが認めた味ということで、彼女が玄武商会でも出せると判断したということ。
「多分、隠し味が肝だと思うんだよね」
シラセはリーフレットに挟まれた自分の筆跡のメモを指さしているというのに、ルミはシラセの顔から目が離せない。
その表情はどこまでもいつも通りに見えるのに。
聞くな、と言われている。口外もするなと。このレシピは口止め料だから、と言外に示されている。そう、感じた。
恐らくそれは代情シラセを知る者には彼女が変わったことを悟るに十分な要素であるから。それは山海経では、明確な弱みになってしまうから。
「ありがとう。これを貰えるなら、玄武商会も喜んで協力するよ」
「そう? 良かった。渡し忘れてたから、ちょうど良かったよ」
今までルミは、キサキの言うシラセの恐ろしさを実感する機会に恵まれなかった。
自身の要求を通すためにどんな手段でも用いてしまう。自身の都合の悪いことを隠すためにより大きな波を起こしてしまう。
それがシラセの悪癖であると聞いていたが、彼女が関わった事件を又聞きすることはあれど当事者になったことはなかった。
それが良かったのか悪かったのか、彼女は判断することが叶わない。
だって、こんなにも不安だから。キサキもこんな気持ちを抱いているのだろうかと思わずにはいられない。
玄武商会を出ていくその背中を見送って、ルミはひとりごつ。
消えてしまいそうだ、と。
回線改善要求。ミレニアムとの技術交換会を検討。
独自で通信回線を改良した玄武商会に対抗するため、山海経全土に無線環境の整備を行うためのミレニアムとの大規模交流会兼技術交換会を実施する予定。
玄武商会がどこから無線技術を仕入れたかは不明だが、トリニティ市街と同様の技術を転用している模様。
難産でした。文量は諦めたので短い。
それは次回、「キヴォトス崩壊論。例外的対応の必要性あり」でお会いしましょう。