被害者Xたちの献身   作:paruco

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第五話

 

 

いくら息を吸っても全身への酸素共有がままならず、視界が白に染まり始めたころ、漸く景光は立花紗夜が話していた路地裏へと辿り着いた。狭くて暗い袋小路だ。

そんな場所で件の立花紗夜は──転がる男の背に、堂々と片足を乗せていた。

その手には凶器らしきナイフを人差し指と中指で器用に挟んでいる。それはまるで、獲物を無力化した猛獣が奪った牙を品定めしているかのようだった。

 

「よォ」

 

立花紗夜の目が景光と零を捉えると鋭利な刃物のような目がゆるゆると細められ、口元もチェシャ猫のように吊り上がる。

そのまま紗夜はナイフを持った手をひょいと上げた。

そんな彼女の背後には怖いくらいに整った顔をした濡羽色の長い髪の女子高生の姿があった。

 

──これが、混沌というやつか。

 

正しく、そうとしか思えない状況だった。

空気は至って平凡といったようなのんびりとしたものなのに、ナイフや踏み潰されている男が非凡を演出している。

 

一先ず、景光がどういう状況なのかと問えば、紗夜と女子生徒は互いに顔を見合わせた後、どちらともなく「現行犯逮捕……?」と首を傾げながら言った。

どうして疑問系なんだろう、という疑問を景光は言葉にすることができなかった。

出来た事といえば「そ、そっかぁ……」と返事をしたこと。そして頬を引き攣らせながらも笑みを浮かべることだった。

 

「そ、それで、ええっと……」

 

何をどうすべきか、と景光が悩んでいると、同じくこの現状に呆然としていた零が頭痛が痛いと言いたげな顔をしたまま、掌を前に突き出してストップのハンドサインを出した。

 

「……とりあえず、その、立花が踏み付けているソイツが犯人ってことでいいんだよな……?」

 

「おん。ナイフの持ち手に駄犬(コレ)の指紋もあるし、なんなら犯行時の録画記録も残ってるからなァ」

 

「……君、いま人のことを犬呼ばわりしなかったか?」

 

「犬ちゃうよ、コレやって」

 

そんな言い合いはさておき、こんな薄暗い路地裏に監視カメラといった記録媒体なんてあっただろうか。

そう思い、景光はざっと周囲を見回したがそれらしいものは見つからなかった。

そんな景光の様子を見てか、紗夜は「あァ」と納得した顔で声を零した。

 

「ポッド〜、すまんがここに来た時からコレを制圧した所までの録画を再生したってェ」

 

「了解! 録画を再生します」

 

どこからともなく少年の声が聞こえたかと思えば、唐突に何もない場所から四角い箱のような形をしたロボットが現れた。

それはふよふよと空中を音もなく移動すると、ビルの壁面をスクリーンにして録画を再生し始めた。

 

そこには確かに男が件の女子生徒に襲い掛かる一部始終が映っていた。

だがそれよりも目を引いたのは、その後の紗夜の動きである。

的確にナイフだけを蹴り上げる動作。綺麗に決まった回し蹴り。そして手元を見ることなく落ちてきたナイフを二本の指だけで掴むという、スクリーン越しでもひしひしと伝わってくる圧倒的な強者感に、景光は思わず心の中で拍手を贈った。

 

こんなカッコいいことを目の前でやられてみろ。絶対に惚れる。

──そんな確信があった。

 

(……って、何を考えているんだオレ!!)

 

ハッと景光が我に返った時にはどうやら既に話は先に進んでいたようで、零がしきりに紗夜へ「あの動きは一朝一夕で身につくようなものではない!」だとか、「何か格闘技でも習っているのか!?」と身を乗り出して質問をしていた。

 

零はボクシングを習っているので、もしかしたら趣味が合うかもしれないと考えたのかもしれない。 

ただ、質問攻めに遭っている当の本人は普段と変わらないどこか飄々とした態度でのらりくらりと躱しているけれども。

 

「……どうかされましたか? 随分と難しい顔をしてらっしゃいますね」

 

「あ、いや……ちょっと驚いたというか、その、色々と……」

 

景光はしどろもどろになりながらも答えた。

嘘は言っていない。確かに紗夜の身のこなしには驚いたし、零が紗夜に興味を持ち始めたことも予想外ではあった。

しかし景光が狼狽えた一番の理由は、まさか自分が被害者の女子生徒に声を掛けられるとは思わなかったからだ。

それに、彼女に見つめられると何故だか背中がぞわりとした。

 

「ああ、紗夜のことですか?……大丈夫ですよ。あの子、あれでも随分と手加減してますから」

 

「……手加減……って、あれで?」

 

景光はつい聞き返していた。

確かに紗夜の動きは非常に軽やかではあった。しかし、蹴りが入った時の重たい一撃らしい衝撃音や、男がのたうち回る様からは到底手加減されていたようには思えなかった。

 

「ええ。あの子が本気を出すと“壊れちゃう”ので。だからいつも必要最低限に抑えているんですよ」

 

女子生徒は穏やかに微笑んだ。

 

「……まぁでも、壊したところであの子は何も思わないでしょうけどね」

 

女子生徒の声音はまるで悪意など欠片もないように、やさしかった。

 

──景光は何も言えなかった。

 

「それでも、その力を“人助け“に向けているうちはあの子もまだ正義側だと言えるでしょう──そう思いませんか? 諸伏景光君」

 

(……そうか。やっぱり、あのときオレが感じたのは“間違い”じゃなかったんだ)

 

彼女の言葉はどこまでも穏やかだった。

しかしその分、景光の背筋を冷たいものが這い上がっていくような気がした。

それに──

 

「どうして、オレの名前を……?」

 

「君と彼──降谷零君は学校の()()()ですから。寧ろ、知らない方が珍しいぐらいですよ」

 

と、女子生徒はさらりと返した。

だが、その声音にはどこか“それだけじゃない”と告げるような色がにじんでいる。

 

「……そ、そう……? えっと、それで……君は?」

 

景光が訊ねれば、女子生徒は優雅に一歩進み出て静かに胸元へ手を添える。

その美しいほどに洗礼された動きはどこかの貴族を連想させた。

 

「私は立花雪乃と申します。以後、お見知り置きを」

「立花、雪乃……さん」

 

よく噛み砕くように景光はその名前を呟く。

そして思い出した。この名前をごく最近聞いた覚えがあったのだ。

 

──……雪乃チャンが何もやらかさんかったら、やけどなァ

 

「……あぁ!」

 

反射的に声が漏れた。

女子生徒──雪乃が怪訝そうに眉を顰めたのを見て、景光は慌てたように言葉を続けた。

 

「あっ、えっと、その……立花さん……あの、紗夜、ちゃんが……っていうか、紗夜、さん……? いや、その、あの……」

 

……沈黙。

 

言ってから気づいた。

“紗夜ちゃん”と──彼女の名前を呼んでしまったことに。

 

立花、という名字で両方を呼べない状況に追い詰められ、無意識に二人を“区別するため”に口から出たその名前。

そこにそれ以上の意味なんてない。

けれど、それは景光にとって想像以上に照れくさい響きだった。

 

「…………」

 

耳が熱い。顔が熱い。

うっかり鏡でも見たら茹でタコみたいな顔をしてそうだ。

まるで火でも噴いたかのように赤くなっていくのが分かる。

 

(やばっ……オレ、今……立花さんのことを“名前”で……)

 

「……ふふ」

 

不意に、雪乃がふっと目元を細めて意味深に笑った。

 

「その様子から察するに、どうやら初めて紗夜の名前を呼んだみたいですね」

 

「えええええ!?」

 

景光は慌てて首を振る。

 

「ち、ちが、いや違わないけど?! その、立花って苗字が被ったから! 便宜上というか、状況的なやつというか……と、とにかく深い意味とかはないから!!」

 

「大丈夫ですよ、そんなに否定しなくても。……きっとあの子、喜びますよ?」

 

雪乃の口調は相変わらず穏やかだったが、どこか悪戯っぽさを帯びていた。

なんなら最後の言葉はウインク混じりに言われたぐらいである。

 

(くそっ……なんでこの人、こんなに余裕なんだ……!)

 

じわじわと羞恥が全身を焼く中で、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

どうやら既にどちらかが通報していたらしい。

 

それから直ぐに二人の警察官がやってきた。

景光にとっては初めて見る刑事たちであったが、雪乃はそうではないらしく少しだけ驚いたような顔をして警察官を見ていた。

 

「毛利さん、ご無沙汰しております」

 

「うん……? もしかして、雪乃ちゃんか!? いやぁ、大きくなったなぁ!」

 

毛利、と呼ばれた警察官はどこか懐かしげに言った。

 

「ふふ、毛利さんもお元気そうでなによりです。それに、いつも紗夜がお世話になっております」

 

「いやいや、寧ろ紗夜ちゃんにはこっちが世話になってるよ。まあでも、俺としてはあんまり無茶なことはしてほしくはないんだがなぁ……」

 

「それは是非とも本人に言ってやってください。きっと善処はしますよ」

 

「つまり、変わらないっつーことだな」と、毛利刑事は苦笑した。

どうやら雪乃だけではなく、紗夜ともそれなりに付き合いがあるようだ。

 

「あっ! 毛利サンに鮫谷サンやないですかァ。どうもどうも、お世話になっとります」

 

そこに紗夜の明るい声が入ってきた。

 

(この状況で“どうもどうも”って……)

 

景光が内心で頭を抱えるのと同時、彼女はいつもの調子で制圧していた通り魔犯を足先で転がすようにして一歩後ろへと下がった。

男は情けない呻き声を漏らしたが、紗夜は一瞥すらくれていない。

 

「とりあえず、足元のコレがいま噂になってる通り魔事件の犯人で間違いないと思いますわァ。んで、凶器はこのナイフ。持ち手の方に指紋がバッチリ残ってるんと、血痕分析したら被害者と一致する思うんで、その辺お願いしてもええですかァ?」

 

「色々とツッコミたいことは多いが……ま、紗夜のことだ。ちゃんと確信も証拠もあるんだろ」

 

──やっぱり、この人たちにとっては“これ”が日常なんだ。

 

そう思うと、途端に自分だけが別の世界に足を踏み入れてしまったような錯覚がした。

 

(……本当に、彼女たちは何者なんだ?)

 

景光の中に未だ解決されない疑問が浮かんだのと同時に、鮫谷刑事が深いため息をひとつ溢した。

それから、制圧されていた犯人の体を手慣れた手つきで転がし、ポケットの中を確認し始める。

 

「……身分証、あったな。名前は──乙黒(おとぐろ)誠一。凶器は折りたたみ式ナイフ……一応、通り魔の手口とも一致してるな」

 

「ほんなら、あとは任せますわァ。私らはここらで退散しますんで」

 

「ちょっと待て、紗夜。念のため、犯行時の映像を俺のスマホに送っておいてくれるか? 後で本庁にも提出するから」

 

「了解〜。ポッド〜、ちょっと犯行時のデータを送信しといたってェ」

 

「了解! 犯行時の記録データを鮫谷刑事のスマートフォンへ転送します」

 

またしてもどこからともなく飛び出してきた四角いロボット──ポッドが嬉々とした声で反応し、鮫谷のスマホと通信を開始する。

 

(……どんな仕組みなんだろう、あれ)

 

景光はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

此処にいるはずなのに現実(ここ)に居ないような不思議な感覚がした。

なにもかもがまるでテレビ越しに見ているかのような、非現実的な感覚。

 

街中の暗い路地裏で人ひとりを制圧し、証拠を揃えて、当たり前のように警察に引き渡す女子高生──。

 

こんな現実を、いったいどんな顔をして受け止めればいいというのだろうか。

 

「ふぅ……っと。あ、紗夜ちゃん、指とか切ってないか?」

 

現場の保存のために色々と動いていた毛利刑事が凶器であろうナイフを受け取る際に気遣うように訊ねれば、紗夜はパッと胸の前で両手を広げて笑った。

 

「平気ですわァ。あの程度で怪我するようなヘマはしませんて」

 

その動きはあまりにも自然で、まるで犯人を“落とし物”でも拾ったかのような気安さがあった。

 

初めて紗夜を目にしたあの日、景光は彼女を犬のように例えた。

今の雰囲気は正しく、飼い犬が取ってきた獲物を飼い主に見せて褒めてくれというように尻尾を振っているようだった。

 

──カチッ

 

静寂を裂く小さな音。

 

景光が音のした方へ振り返ると、拘束を解いた乙黒がどこからか拳銃を取り出し、震える手で雪乃に向けて構えていた。

 

(あ──)

 

思考が追いつくより早く、引き金が引かれる。

 

乾いた破裂音。鋭い閃光。

 

だが──その弾は、標的には届かなかった。

 

「──っ!」

 

景光の目に映ったのは、雪乃の前に飛び出した紗夜の姿だった。

 

右手を突き出し、その手の平には弾丸がめり込んでいる。

血が、ぽたり、ぽたりと地面を赤く彩る。

 

「……あ?」

 

乙黒の目が見開かれる。

それもそのはず。まさか生身の人間が素手で銃弾を"掴み止める"だなんて誰が想像しただろうか。

 

キュッと、紗夜の瞳孔が鋭く尖った。

 

「──こんの、あほんだらァ!!!」

 

怒鳴り声とともに、一歩踏み出す。ピシッと足元のコンクリートが軋んだ。

 

「素人が扱ったこともない武器に手ェ出すなボケがッッ!!」

 

右手から血を滴らせながら、紗夜の足が地を蹴る。

景光が認識できたのはここまでだった。

次の瞬間には鈍い音と共に乙黒が吹き飛んでいたのだ。

膝蹴りが顎に直撃し、乙黒の首がガクンと跳ね、白目を剥いたままその場に沈む。

 

「ってか、この距離で標的(ターゲット)から外すなやこの駄犬(カス)ッッ!!!!」

 

「……紗夜」

 

「こんだけ近けりゃ子犬(ガキ)でもちゃァんと当てるでなァ!? ハーーーー、これやから素人は!!」

 

「紗夜、紗夜」

 

「ほんま、お前が俺の子犬(部下)やったら今頃──……あ? ああ、雪乃チャンどないしたん?」

 

「彼、君の一撃で既に気を失っているよ」

 

紗夜はパチパチと何度か瞬きをした後、乙黒を見た。

 

「……あー……マジかァ……」

 

紗夜は肩を竦めた。

それからくるりと後ろを振り返ると、左手でポケットからハンカチを取り出して血まみれの右手を乱雑に拭う。

 

「んー……骨まではいってないから及第点やなァ。あっ、雪乃チャン、絆創膏持ってない?」

 

けろりとした顔でそんなことを言う彼女に、誰もすぐに言葉を返せなかった。

あまりにも現実離れしているのに、疑問に思う余地もないほど日常に馴染んでいたから。

景光には、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

(……この子は、いったい何者なんだ?)

 

その問いに誰も答えをくれないまま、路地裏に吹く風がやけに生ぬるくて、景光はじっとりと額に滲んだ汗を拭うのも忘れていた。

 

「……君、本当にイカれてるねぇ」

 

雪乃が呆れたように零した声に、思わず視線が引き戻される。

 

イカれてる。まったくだ。

 

誰かが撃たれそうになって、平然とそこに割って入って、素手で弾丸を受け止めて。

挙句、血まみれになった手を振り上げて怒鳴り散らすような女子高生なんて、普通じゃない。

 

──普通じゃ、ないのに。

 

『平気ですわァ。あの程度で怪我するようなヘマはしませんて』

 

そう言って、胸の前で両手をぱっと広げてみせた紗夜の笑顔が、やけに目に焼きついた。

 

(……笑ってる)

 

いつもと変わらない、ふざけたような口調でけろっとしていて。

血が流れているのに。撃たれたのに。あんなに危ないことをしていたのに。

 

笑っている。

笑って、いつもの調子で人を助けて、それが当然のような顔をしている。

 

──バカみたいだ。

──でも……。

 

(……怖かった)

 

無敵みたいな顔をして、全部一人でどうにかしてしまうその背中が。

撃たれたのだと理解した瞬間、心臓がぎゅっと縮こまったのを景光はまだ誤魔化せずにいた。

 

ドクン、と胸が鳴った。

その音があまりにもうるさくて、思わず耳を塞ぎたくなる。

 

今までに何度も彼女を見てきた。

誰よりも異質で、誰よりも浮世離れしていて、それなのにいつも誰かのために動いていた。

ずっと、目で追っていた。気になって、気づいたら探していて……。

 

(……ああ、)

 

どうして今まで気が付かなかったのだろう。

 

名前を呼んだとき。雪乃に揶揄われたとき。

胸が焼けるように熱くなったのは、照れたからなんかじゃない。

 

(オレは──)

 

こんなにも彼女が怪我をしたことが、怖くて、悔しくて、苦しくて。

 

(……最初から、ずっと、)

 

惚れていたんじゃないか。

 

……いや、本当はもっと前から気がついていたのかもしれない。

目を逸らしていただけだ。この気持ちに名前が付くのが怖かった。

気づいてしまえばもう逃げられないから。

だから心のどこかで──わざと気がつかないふりをしていた。

 

そう気がついた瞬間、景光は思わず俯いた。

顔が熱い。心臓がうるさくて、バレてしまうんじゃないかとさえ思う。

 

自分でも呆れるほど今更な答えだった。

だけど気がついてしまえば道は一つだ。もう見失わない。

 

そんなふうに景光が心の中でこっそりと決意した丁度そのときだった。

 

「……おん?」

 

ぽつりと、紗夜が声を漏らした。

その一言はあまりにも小さかったが、けれど確かに空気を変えたのを肌で感じる。

いつの間にか、犯人は警察に連行され、現場は少しずつ撤収作業に向かっていた。

 

──終わった、はずだった。

 

でも。

 

何かがおかしい。

そう言いたげに紗夜がじっと“なにか”を見つめている。

 

視線の先は、犯人──乙黒誠一の背中。

だが、彼女の眼差しはそれだけを見ていたわけではなかった。

 

まるで空気の匂いを探るように。

沈黙の中に紛れた“違和感”を嗅ぎ取るように。

 

──そうして、次の瞬間。

 

「……なぁ、鮫谷サン」

 

紗夜が、ひとつの疑問を口にした。

 

「今回の被害者の数って、何人か聞いてもええ?」

 

 

 

 


 

 

 

 

 

あのメールを見て最初に感じたのは、興味。

そして次に胸に広がったのは──“確信に近い予感”だった。

 

紗夜の性格や性能から、彼女が何かを“嗅ぎ付けた“のだろうとはすぐに分かった。

そしてそれは、見過ごすにはあまりにも惜しい気配を纏っていた。

だから雪乃は先回りすることにしたのだ。

 

少しばかりの苦労の結果、随分と愉快なものを見学することができた。

思い出すのは、チラチラと紗夜の様子を伺っていた諸伏景光の姿。

面白半分で声を掛けてみれば、顔を赤くし、目の焦点も定まらないし、挙げ句の果てに紗夜の名前を口にしただけで狼狽える始末。

そして、紗夜が怪我をした瞬間に景光が見せたあの反応は……。

 

──あれが、恋というものなのだろう。

 

人が誰かに恋をする瞬間なんて、前世も含めても生まれて初めて見たかもしれない。

なるほど、これが俗にいう青春というものか。

納得すると同時に何故だか無性に──赤ワインが飲みたくなった。

 

「……おん?」

 

不意に聞こえてきたのは、そんな小さな呟きだった。

 

それはまるで、遠くに沈んだ鐘の音のように、空気を一度ゆるやかに振動させて──次の波を運んできた。

 

思わず肩を揺らして笑ってしまいそうになる。

やはり、あの子は見逃さない。あれだけの騒動の後でも、隠された違和感をしっかり拾う。

 

(──うん、いいね。実に紗夜らしい)

 

「……なぁ、鮫谷サン。今回の被害者の数って、何人か聞いてもええ?」

 

ああ、やっぱり訊いた。

それはもう確信を持ってる声だった。

確認などではない。あの子にとって、その問いはただの“答え合わせ”に過ぎない。

 

「被害者の数? 確か四人……だったか。なぁ、小五郎」

 

「ああ。全員、命に別状はねえけどな。……ああでも、今回の雪乃ちゃんを含めるなら、五人になるな」

 

「四人、なァ……」

 

けれどその意味がまだ場に伝わっていないことに、私は少しだけ悦に浸る。

目を向ければ、零は眉間に皺を寄せていて、景光は怪訝そうに紗夜を見つめていた。

 

とてもいい反応だ。

もう終わったと思っていたものが、実は終わっていなかった──この絶望の入り口でしか見れないその表情が好きだ。

特に、“頭が切れるタイプ”ほど顔を歪める瞬間に色がつく。

 

そして何より。

彼女が“嗅ぎ取った”何かを雪乃は既に知っていた。

 

(彼と対峙した時に開心術を掛けてみたが……まさかこの世界にもあんなものが存在するとはね)

 

彼──乙黒誠一に開心術を掛けて分かったことは三つ。

 

一つ目は、彼は過去に妹を不慮の事故で亡くしているということ。

二つ目は、この騒動は彼にとっての復讐であること。

そして三つ目は、彼は亡くなった妹を生き返らせようとしているということだ。

 

死者の復活に必要なものとなれば、大抵は死者に連なる者の骨と肉と血、それと本人の魂だ。

それはいうなれば、器と魂があればいいということ。

 

「……ふぅ」

 

雪乃は息を吐いて、少しだけ視線を彷徨わせる。

わざと、周囲を見渡すようにしてから──すっと紗夜に目を戻した。

 

彼女は既に“目”で訴えていた。

時間にすればほんの一瞬の出来事。けれど確実に、話し掛けてきていた。

 

──なァ、分かるよな?

 

勿論だとも、と心の中で返す。

だって私たちは“共犯者”だ。運命に抗い、たった一つの望みの為に来る原作(未来)を破壊し、未知へと挑む者。

予定調和を甘受するだなんて、そんな面白くないことはしたくない。

 

「毛利サン、鮫谷サン、事情聴取って別日でもええやろ?」

 

「ん? ああ、いいぞ。なんなら、病院まで連れてってやるよ」

 

「……いや、病院はええですわァ」

 

しかし、紗夜はへらりと笑って否定した。

面食らった顔をする鮫谷と毛利を気にすることなく、彼女は続ける。

 

「それよか、気になることがあるんですよねぇ」

 

「気になることぉ?」

 

訝しむ毛利に紗夜はコクリと頷いた。

 

「ニオイの数が合わんのですわ」

 

それは静かな、けれど空気を切り裂くような声だった。

 

「……ニオイって……?」

 

零が訝しげに問い返す。

 

「さっきからずっと気になっとったんやけど……乙黒の身体に付いとる女の子のニオイ、"雪乃チャンを除いて"五人分なんよなァ」

 

「立花さんを除いて、五人分……?」

 

景光の声がかすかに震えた。

確かに警察が把握している被害者は五人──うち一人が雪乃だ。

だが、紗夜の言葉はその“数えられた安全圏”を突き破った。

 

「おい、まさか……」

 

「そのまさかやろうなァ。もう一人、助けを待ってる子がおる」

 

紗夜がそう断言した瞬間、今度は雪乃がそっと視線を伏せて口元を歪める。

 

「成程、だから彼が未だに"諦めていない"のか……」

 

「……雪乃チャン、私が言うのもなんやけど……ホンマそういうの良くないで」

 

「ハハッ、それこそ"今更"だろう?」

 

雪乃は笑った。

二人の会話の内容はあまりにも唐突で、他の者には理解できないものだった。

けれど、紗夜が少しだけ目を細めて言った一言だけは、誰の耳にもはっきりと届いた。

 

「──人が"生き埋め"になっとるかもしれんのを、『俺』が見過ごすわけないやろ」

 

その場の温度が数度下がったような気がした。

やはり、『彼』からしてもこの案件は看過できないものらしい。

 

「な……なに?」

 

「生きたまま土に埋められている可能性がある、ってことですよ。今この瞬間も──酸素が減っているかもしれない」

 

雪乃の言葉に、毛利が思わず息を飲むのがわかった。

景光も、零も。誰もが目を見開いていた。

 

「紗夜、場所は分かるかい?」

 

「……おん、大丈夫」

 

紗夜の声はどこまでも静かだったが、全身に纏う殺気が地を這うように広がる。

彼女の怒りは何に向いているのだろう。

人が死にそうになっているという状況か。それとも生者を死者のように扱っていることか。

 

(いや、彼女の怒りの矛先は恐らく……)

 

『死』への冒涜、だろう。

 

「アイツのニオイは覚えた。あと付いてた土のニオイにも覚えがあるから、ある程度目星はつきそうやわ」

 

「おい待て! まさか今から行くのか!?」

 

鮫谷の声に、紗夜は軽く身体をほぐしながら頷いた。

 

「当たり前ですやん。生き埋めの場合、一般人なら持って二日か三日が限度。今日が何日目かは知りませんけど……何事も早いに越したことはないでしょ」

 

「でも、お前怪我が──」

 

「そんなんよりも、“息してる”かどうかの方が大事でしょ」

 

その言葉に、周囲の誰もが言葉を詰まらせた。

 

(……これで決まり、だな)

 

そもそもこの状況で紗夜を説得することは不可能だ。

彼女の中で最も優先すべき事柄が『例の約束』であるかぎり、紗夜を止めることは誰にもできないだろう。

それこそ、魔法を掛けるぐらいしか方法はない。

ならば、やることは──

 

「お二人とも、何かあればすぐにポッドから連絡を入れますから」

 

「いや、だが流石に二人だけで行くのは──」

 

「ワニ、待ってくれ」

 

渋る鮫谷を止めたのは意外なことに毛利だった。

相棒を手で制した後、彼は真剣な眼差しを紗夜と雪乃へと向けた。

 

「……雪乃ちゃん、紗夜ちゃん、危ないことは絶対にしないと約束できるか?」

 

「ええ、約束します」

 

「おん」

 

紗夜が一歩前に出て、制服を正す。その顔には自信がみなぎっていた。

雪乃は思う。

 

(……この子、自分基準で危険の判断をするつもりだな)

 

毛利は暫く黙って二人を見つめていたが、やがて「……わかった」と頷く。

 

「何かあれば、俺かワニに絶対に連絡すること。それが守れるなら、行ってこい」

 

「……まっ、これまでもなんだかんだ協力してもらったからな。でも、無茶だけはすんなよ。お前さんたちはまだ子供なんだからよ」

 

鮫谷と毛利が渋々ながらも了承したそのとき、ふと静寂が訪れた。

誰もが言葉を失ったまま、二人の背中を見送るしかできなかった。

 

「……ほんじゃ、行こっか。雪乃チャン」

 

紗夜に声を掛けられて、雪乃は無言のまま小さく頷いた。

 

「ポッドはいつでも毛利サンか鮫谷サンに連絡を入れられる状態でおったってなァ」

 

紗夜の指示を受けたポッドは「了解!」と明るく返事を返した後、再びステルスモードを発動した。

これは水魔法と光魔法を応用した技術だ。

周囲の光を反射させて実体が消えたように見せている。勿論、ステルスモード中は映像にも映らない。

 

ふと、気配を感じて振り返った。

 

ほんの僅か──いや、一瞬の迷いだった。

景光が紗夜に向かって手を伸ばしかけていた。名前を呼ぶ声が、喉まで上がっていた。

 

でも、やめた。

彼はその手を、言葉ごと呑み込んだ。

 

(……言えばいいのに)

 

雪乃は静かに彼を見つめる。

けれど、決して声は掛けない。

いまそれを言ってしまうのは、きっと彼のプライドに関わる。

 

紗夜はもう前を向いていた。

振り返ることもなく、ただ一歩、また一歩と夜が近づく路地を進んでいく。

 

雪乃はもう一度だけ、肩越しに彼の姿を見た。

伸ばしかけたその手は、まだ僅かに空を掴んだままだった。

それはまるで、掴むことのできない灯に触れようとしているようで──

 

(やれやれ。恋とは、随分と罪深いものだ)

 

誰にも聞こえないように、そっと小さく笑う。

そして、二人の少女は夕闇に溶けるように消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

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